死へと至る病   作:________

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よろしくお願いします。


2:水面──深度0m

 くらい。それだけがみえる。うごかない。やっぱりうごける、かも。え、うえ、どこ。わたし、どっち。なに。くらいのがうごいてる。うでが、おもい。した、おちて。じぶんがはがされて、もっときれいに。まぁるくなってく。

 

 あ、。あれ、あそこ。うえ、かな。した、かな。ちいさい。あかり。

 

 くらくない、ところ。もっと、もっと。

 

 ──わたし、いきてる?

 

 ──わたし、いきてる!

 

 

 

 

 ──瞼を開けたのは、マンハッタンカフェが先だった。瞼を開けられることに、彼女はまず驚いた。重力がひしひしとのしかかっている。それを押しのけられる程の力は、まだない。嗅いだことのない匂いが彼女を包んでいた。穏やかな、ありきたりな木で組まれた天井。東京の喧騒とはやけに違う、くにくにと曲がるあたたかさ。手を動かそうとしてみる。神経が動かそうとしてくれているのを彼女ははっきりと感じ取った。ぴくりと動いただけであったが、足指も同じく、赤子のように動いてくれた。

 

 あっ。

 

 横あたりから声が降り掛かってきた。彼女はどうにか首を傾けた。幾日かもわからない暗夜の中で、彼女はアグネスタキオン以外のひとと会った。少なくとも、ぼんやりとしたシルエットがそう告げていた。

 

 ──目、覚めました……か? 声が聞こえていたら、瞬きしてもらえますか?

 

 何と耳に染み透る声だろう。ハスキー加減が丁度いい。瞬きというより、安心感という快楽に目を瞑ってしまう。潮の香りに毒されきった体が幸福を訴えかけている。

 

 ──大丈夫、ですか? もう一度、目……その、開けられますか?

 

 このままこのひだまりを胸に抱いて死んでしまおうではないか。彼女がその誘惑に辛うじて打ち勝ち得たのは、まだ慣れきっていない嗅覚と、切望してやまない存在の不知覚に起因する。

 

「よかった……あ、えっと……起きられますか? 起こしましょうか? 起こして欲しければ、瞬きしていただけると……」

 

 夢だろうか。夢ではなかろうか。彼女はまどろみつつ、適切な水溶きの片栗粉じみた思考に手を入れる。硬くて、それでいて滑らかに吸い込まれていく。自らでも気付かぬうちに目を閉じ、開けていたらしく。背中に感触がかけられたと覚えたその次、彼女は窓の光景を見ていた。そっと離れていく手。追従して背が落ちていく。

 

「あっ……すみません、その……あ、水、持ってきてもらいますね。……あのー! すみませーん!……あ、大声……すみません」

 

 やけにあたふたしているらしい。しかしながら再び支えられる手の温度は変わらず、そのことがマンハッタンカフェに静かな信頼を生み出した。心という器官で、どこか似たような信号をも感じ取った。やがてどこからか大きくなる足音はかなり近くで止まった。恐らく彼女が死んでいないことに安堵して、それからドタバタと駆けて行った。

 

「口、動きますか? 打撲とか、そういった外傷はほぼ無いと思うんですけど……」

 

 声に返事を返さなければ、そう思って彼女は口をあける。あけようとして、思い通りに動かない。途端に胸を()いてくる衝動、気味の悪い(あつ)さ。

 

「……ぁ、ぁ……ん゛」

 

 心地が夢から現へ引き上げられる途中だった。彼女は三割がたダイラタンシーから起き上がっていた。喉が辛い。マンハッタンカフェは少し顔を顰めた。ゆっくりと触れて、骨を二、三度動かす。生まれ出た小さな咳は彼女の掛け布団を僅かに淡黄に染めた。

 

「ぁ、そうだ、水まだ来てないのに……だ、大丈夫です、無理に喋ろうとなさらなくても、その、すみません……」

 

 背中の手が優しく動く。彼女はやや明瞭な視界を取り戻しつつあった。窓の外に惹かれつつも見渡すのは回り。マンハッタンカフェは少し、怒った。粘り気のある黒が彼女の胸の中枢にぽたりと垂れていた。魂が、まだ受け入れ切っていないのだ。彼女を。それでも果たしてアグネスタキオンは存在した。眠るように(実際意識はそこにないのだが、ともかく彼女は眠っていた)薄布団をかけられて、ものすごく綺麗。理論を一度吹っ飛ばして、シンプルかつ致命的な推論がマンハッタンカフェを貫く。皮肉にもそれは彼女の意識を完全に掬い上げるに至った。

 

「っと……あ、あまり無理なさらないでください、急に動かれると体に悪いです……よ」

 

 彼女は現実へと戻ってきた。故に彼女には聞き入れる、聞き入れないという選択が与えられた。ある意味の人間らしさを、彼女は遠慮なく行使した。代償としての鋭く、鈍い痛みをもどことなく甘ったるくさせる。手を伸ばす。立てない、つまり届かない。

 

「大丈夫ですから、生きてますから……」諭すように看病の者は身を乗り出して彼女の手を取る。振り払おうと睨め付けて、それだけの精神が残されていないことを悟った。か細い声を出して看病の者は離れようとするが、しかし背中に当てた手は震えながらもそのまま。すみませんと掠れ声で絞りだし、ゆっくりと元の姿勢に戻る。

 

「や、全然大丈夫です。……優しい方なんですね」

 

「……?」

 

「いえ、その……ここは一応医療の場所ですから、患者さんも傷ついてる訳じゃないですか。そういう場合、心もどこか崩れてしまっていることが多くて……こういう場合、強い……って言ったほうがいいんですかね」

 

 やさしい、つよい……そうだろうか。マンハッタンカフェは問いらしくない問いに答えず、アグネスタキオンを見る。自分と同じ木枠の寝床に眠っている。生きていると支える者は言ったが、本当にそうなのだろうか。精巧な偽物ではないのか。私を安心させるための、そういった舞台装置の一環──

 

「すみません、変なことを聞いてしまって……あ、私、一応エリカと言います。お名前を、よければ……」

 

 あ、手、離しても大丈夫ですか。微かに頷いた。

 

「……マンハッタン、カフェ、です」

 

「カフェさん、ですね。……もしかして、ここの方では」

 

「ここ、と……言いますと」

 

「オース、穴の街です……聞いたこと、ありますか」

 

「……いえ」

 

 辿々しく会話が途切れて、繋がっていく。曖昧な空気。エリカは椅子を後ろ手に持って、マンハッタンカフェの前に座った。その様相、正確に言えば大方の見てくれに、彼女は心当たりがあった。「ウマ娘……の方ですか」「はい、そうなります」エリカは少し照れくさそうに頭を掻いた。

 

 小さい、と、マンハッタンカフェは奥深くで処理した。四十はあるにしろ、百五十をかなり自然に切っている。淡紫の髪は肩までのショートヘアに切り揃えられ、体のラインもタイトに揃っている。短距離向きなのだろうか。マンハッタンカフェは経験として推察した。例外もあるにはあるが、と一言添えて。

 

「医者、なのですか」

 

「まだ見習いなんですけどね」エリカはまた頭を掻いた。彼女も彼女で、マンハッタンカフェを観察していた。通り一辺倒、成り行き、たとえば自分みたいな人生を送ってきてはいないのだろう、そういう薄氷のような直感があった。浅い川に足だけをつける人生、ちゃぷちゃぷと音を立てる私……対等か対等でないのか、そういった考察が頭に顔を出してくる。恐怖が悦楽と同値になって染み渡っている。

 

「おおい、水、いつものとこでいいか」

 

 先刻の足音がまたやってきた。少し低音の、少年らしい声だった。

 

「あっ……えと、大丈夫です、はい」

 

「シャキッとしろよ、腕あんだからさ」少年らしい声はエリカの背を快活に叩いた。応答をしたもののそれは弱々しく、彼女は少し指どうしを弄っていた。「すみません、お騒がせして……」お構いなく、とマンハッタンカフェは答えて、思い出したように手を、足指を握った。どこか曖昧になっていた体の所有権が彼女に帰属した。少し軽くなったような気がする、と思った。

 

 これはきっとすごく、残酷なことになる。エリカは水彩画のような予感が内側を滲ませていくのを摘みとった。情けない紙が藍色に滲んで、沈んでいった。美しいと思ってしまった。それは彼女に一通りの切なさを与えるとともに、快楽も惜しまなかった。

 

「飲みますか、水」

 

「いただきます」

 

 木製のピッチャーから木製のコップに注がれた水をマンハッタンカフェは滑らかに受け取って、少し舐めた。ひりひりしない、おそらくは硬水。……タキオンさん、お腹、こわさないといいですけれど。そういったことを考えながら彼女は目を閉じて啜った。

 

「落ち着き、ましたか? えっと、よければ状態の説明とか確認とか、させていただきたいんですけれど」

 

「はい……大丈夫、だと思います」

 

 マンハッタンカフェが返答すると、エリカは一度自らの両頬を叩いた。柔らかに赤く染まったが、些か目元はすごすごと真剣みを帯びた。

 

 ──もう一度、お名前を聞いても良いですか。はい、マンハッタンカフェです。

 

 ──誕生日は分かりますか。三月の五日です。

 

 ──好きなもの、お聞きしてもいいですか。……珈琲です。……食べ物、ですか? 飲物です。そうなんですね、すみません。

 

 ──えっと、三十九足す二十四、分かりますか。……六十三です。……はい、合ってます。

 

 ──ええと、昨日の夕食、覚えてますか。……覚えている限りでしたら、口には何も。……すみません。お構いなく。

 

 ──眩暈、吐き気とか頭痛とか、体に変なこと、ありますか。ない、と思います。

 

「──頭のほうは、たぶん大丈夫です」簡易机に置かれていた紙に印をつけて、次のものを持ってくる。「体、一応確認させていただきますね……痛かったら、知らせてください」「はい」

 

 マンハッタンカフェがこくりと首を縦に振る。エリカはそれを確認して滑らかに動き、マンハッタンカフェの手首に手を添えて、少しだけ曲げ伸ばす。差す日の光の角が柔らかみを帯びている。マンハッタンカフェは少し関節を遊ばせながら、木の家にありがちなうすいクリーム色の空気、そういった緩やかな流れがはっきりと指の先に感ぜられるのに、なぜか程よく張った糸が撓むような心地に引き込まれ、空中にふわふわしたほこりをすっと見て、日の差すほうを見た。透明のガラスで区切られた先に雑多な石畳が広がっている。合間からその存在をしきりに主張している雑な草の群れはゆるやかな風に為されるがままで、やはり彼女は少しだけ落胆する。なびいていく私たち、私──。

 

「見習いが後で刈らないといけないんです、ここの土地は雑草の生えが良いらしくて……今はちょっとだけましですけれど」

 

「そうなんですか」

 

 曖昧なうけ答えを聞いて、エリカはつられ窓を見た。ぽつぽつと湧いている薄広い雲の青空をちらり、すぐ体の確認に精を戻した。このひとの内にある致命的なやさしさ、美しさ。そういった(すい)が滲み出ているのだろう。エリカは表情に漏らさないよう真剣に陶酔した。彼女は少し劇場的(ドラマチック)な性だった。ここの医院の院長がエリカは苦手だったからである。エリカの正面に立ってことを話すときの青色の眼──実際に院長の目は黒である──、一帯の彩度が失われていく(これもエリカの幻覚に留まるのだが)ことへの、慣れない怯え。彼女は委縮することに慣れていた。

 

「……はい、痛くないですか? さっき起きたときとかも、大丈夫……でしたか?」

 

「問題ない、と思います」

 

 エリカは手を離すと椅子に座り直して、五指の上に五指をおき、膝に添えた。そこからしばらく二人は黙ったままでいた。貧しさを思わせる衣の擦れと微かな吐息、寝息、鋭敏になった感覚が伝える煩雑な感覚……。

 

「あ、あの──」ドアが開いた。エリカは反射的にドアを向いて、反射的に身を竦めた。マンハッタンカフェも首を後ろに向け、視認する。現れた男性は少し人生を折り返したように見えた。

 

「──君には物置の空室を使えと言ってあった筈だが。今は部屋に余裕が無いとも」

 

「えっと……院長先生、でもその、あの……お、お客様を物置というのは、その……ちょっと……その……」

 

「これから外に出る。帰るまでにやりたまえ。さもなくば正面の草刈りは全て君に一任する」

 

 冷静に初老の男性は吐き捨てた。マンハッタンカフェは男性に対しほんの小さな、薔薇に内包された棘のような物体を心境の中で射出した。その痛みに顔を顰め、男性はマンハッタンカフェと目を合わせた。印象とは裏腹に、ひどく真面目そうな医者だろう、とマンハッタンカフェは思った。色素の抜けかかった髪は丁度手入れと乱雑の合間を行き来しながら止まっており、しかし肉体は服越しにもその相応の健康さが努力によって維持されているものだと窺わせる。エリカはとにかく言葉を現実に持ってこようとあやふやに手足をきっかけにしようとしたが、それはやはり小さなオレンジを生むだけで、初老の男性が薄霧のように漂わせる色を中和するにはあまりに切ないものであった。「……はい」些細な返答であったが、男性は頷くでもなく首を振るでもない。しかしそこでひとつ、ふらついた。急に動いたもので、少し立ちくらんだようであった。妙だ、とマンハッタンカフェは疑ったけれど、男性は無理矢理に頭を振ると、只背を向けて一定の拍動のもと扉へと去っていった。白衣の後ろ側はぽつぽつと薄汚れていて、しかし洗濯の行き届いたものであった。マンハッタンカフェは少しだけ、胸骨の内側に舞い込んできた霧……慣れ、しかし慣れない黒色と別に、固形の疑問を持った。このひとは、そういう選択を為してきたはずなのに──。そういった具合である。

 

「……えっ…と」

 

 何ともかわいげのない、教師の板書間違いを指摘する学生のような音色にマンハッタンカフェは目線をエリカに戻した。分針が音を立てた。「その、ぁーっと……そ、そのままて……大丈夫、です……あんまり、今日はえっと、草、そこまで生えていないですから……」

 

 

「──物置如きが……私達にはお似合い、とでも言いたいのだろうね」

 

 それはマンハッタンカフェには全く嫌でもなく聞き覚えのある声で、エリカにとっては心臓をまた狭窄させる理由のひとつとなった。マンハッタンカフェの隣でつい先刻まで息をするだけであった少女が、今何事もなく体を起こしている。エリカは何よりも先に彼女の動態を確認しようと椅子を立ちかけた。そういう訓練に習熟していた。

 

「まるでこちらの幾十日、を知っているような口ぶりだ」

 

 声帯からやっとのことで絞り出しているような音だった。エリカの目には少女が、震えるほど儚く思われた。粒子のように飛び散る木板の煩雑な香りに彼女が戦い、そして劣勢を強いられているとも思われた。他でもない自分が整えた髪は幾分かの乱雑が織りこまれ、今なお浮かべた隈が、少しばかり薄くなったもののまだ彼女をどこかに引き留めているようである。この街に硝子は普及して久しいが、彼女の居姿は危うく光をも通しかねなかった。エリカは手を伸ばしたまま幾秒か止まって、座り直した。大袈裟に見積もっても自分より二つか三つあたりしか差がないであろうに、エリカから見た二人はひどく大人びていた。子供を濃縮して大人へと昇華させていた。

 

「あ、あの。体、痛みますか」

 

「……君は」

 

「ぁ、えと……え、エリカです……はい、一応、ここ……病院、の見習いを」

 

  目を戻したアグネスタキオンはマンハッタンカフェがそうしたと同じように、手を見つめて握った。エリカの目には、それが一滴の悲しみをも滑り落とさないかのように思われた。エリカは衝動に突かれて半ば走り寄り、彼女の手を取った。アグネスタキオンは今し方彼女の存在を含めた世界を認めたようで、エリカの手、そして顔を、その不規則な視界で捉えた。

 

「……生きている、のか」彼女は奥歯を強く噛んだ。本人はそのつもりだったが、彼女の内実、挙げるならば悪魔の旋律によって、かちかち、が木室(もくしつ)に薄く満たされた。「そうなります、ね、はい」「それは良かった」「はい」

 

「生きてしまったみたいですね、わたしたち」マンハッタンカフェはゆっくりとアグネスタキオンの方を向いて、反対に目を逸らした。「まぼろし、なんでしょうか」「私たち、とでも言われたほうが納得がいくね」アグネスタキオンは神妙に嘲笑した。二人がそれを当然と受け入れた。

 

 マンハッタンカフェは開け放たれたドアをみつめた。そこには微かに、霜のような、ちいさく冷たい柱のかけらが地面から生え出ていて、冬でもなかろうに薄氷までもが張られている。心の悪い温度、心身の震える残香(ざんか)

 

 二人が空気を咀嚼し、残されたエリカがはっと手を退ける。このふたりを今、このとき殺してしまえば、どんなにうつくしいだろうか。エリカは己の掌を見た。今なら実現し得そうにも見えた。全てが終わった後、わたしも何かすっと消えてしまえばいい。この絵画は誰にだって渡したくない……。しかし彼女は怯えることに慣れていた。そんなことをすれば、きっと彼女たちに好かれはしないだろう。エリカは腕を下ろして、目を殺した。

 

「生きている、らしい。私たちは……どうやら、ね。……世話をしたのは君かい」

 

「っ、ぁ、えっと、その……あ、はい」

 

「悪いね」

 

「え、いや……私はその、対応しただけですから……」

 

「いや……そういうこと、じゃない」

 

「……その、どういうこと、なんでしょうか」

 

「私を殺してくれ」

 

 エリカの目は生き返った。わかりました。つき出そうになったそのフレーズ。エリカにはそれがまるで阿片のように彼女を誘った。膝で組んだはずの手が華奢な首を絞めようと震えている。目線こそ合わせないだけで、マンハッタンカフェも何も言わず瞼を閉じている。「だ、だめですよ。折角、その……せ、せっかく」「他人(ひと)を犠牲にして──」エリカの声は遮られた。。意思もなにもなく体が小さく跳ね上がり、その後に出す言葉がすっかり抜け落ちてしまった。そもそもなにかを伝えるつもりだったのかもわからなくなった。アグネスタキオンが喉を鳴らして咳き込んだのを見て、エリカは水を取りに動こうとしたが、エリカにはその咳すら例えば居ないはずの神が示した予定調和のように思われて、結局座り直してしまった。

 

 ──失礼。素晴らしい返答だ。感謝するよ……おかまい、なく。エリカは自分が加速度的に重くなっていくのを知った。彼女の魂が歯車一枚分、のけものにされているようであった。この崇高なる肉体に於いて、わたしは少しばかり役者としてのきれいさに劣っている──そして、俯いた。

 

「なまえを、聞いても?」

 

「……」

 

 エリカは顔を下げたまま動かない。「……おおい、……む゛、のどが……」

 

「……エリカさん、大丈夫ですか」

 

「──へ? あ、はい、大丈夫です。……あ、喉…! す、すぐ水を」

 

 時間に対してあまりにディープな被虐に陥っていた彼女にとって、自らの意思をそのままその肉体に置き換えることは難しい。立ち上がり踏み出した足は交錯し、やがて軸が存在意義を失い、彼女は二人の間に倒れ込んだ。「っ……ぃた……っ、す、すみません……みず、入れますね……っ」なおもエリカは至って通常に、すべきことを成そうとしたが、頭が左右に揺れる感覚、視界の端からモノトーンが迫ってくるあの感覚に、彼女は容易に阻まれた。いくつか頼りなく歩を進めて、マンハッタンカフェのいたベッドの木組みに寄りかかってしまった。

 

「……失礼、ですが……あまり、その、体が?」

 

「ぁ……う、……はい、私、そういったことは苦手なんです」エリカはへたり込んで、マンハッタンカフェの方を向いて少し笑った。その眉は少しだけ下に曲がっていて、マンハッタンカフェは、かけらその顔に自分と似たようなかたちを見た。いわばそれは、客船に乗り込んだときの自分、原石であった。

 

「……」幾分か、マンハッタンカフェの中には淡い生命が吹き込まれていた。余裕を持って幾つかを消費し、彼女はピッチャーから水を注いだ。「あまり、気にするほうではありません……よね」「へ?」エリカは首を傾げた。アグネスタキオンは眠るように頷いた。「……どうぞ。半分飲んだら、タキオンさん……向こうのひとに、渡してください」

 

 差し出されたコップへ神妙に触れる。エリカの指先が、マンハッタンカフェのそれと交錯した。なんてきれいな指だろう。エリカは思った。妖精とか、幽精とか、そのあたり。官能的。一口運び込む水は確かにこの世界に在って、きっとマンハッタンカフェの思惑通りエリカは少し現実に近づいた。「……ど、どうぞ」そうして触れるアグネスタキオンの手、ゆび。同じうつくしさと認識したはずの、ひと。いざ触れてみるとその指は多分にひどく敏感で、それこそ同じ(・・)ようにすら彼女は思った。ゆっくりとした動きとは裏腹に、アグネスタキオンは一息で残り全ての現実を飲み込んだ。ほう、と一息ついた頃には、アグネスタキオンはとてもはっきりとしていた。

 

「──エリカ、でいいかい」

 




続きます。
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