死へと至る病   作:________

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年末に投稿を忘れていたようです、申し訳ありません。
よければ今後ともよろしくお願いします。


5:刻まれる時──深度2495m

 自分の、奈落へ赴くことへの憧れが、蠢く肉塊のようなリアルさを伴って四肢の中を這いまわっていた。コレオとの、滑落亭での一件があってから、自分が当然のように動かせると信じていた部分が、見えないものに吞み込まれて、吐き出された結果に思えてきて、エリカはそれからとにかく探窟へ赴いた。別種の噂、また気の狂ったようにアビスへ行って帰ってを繰り返しているウマ娘が現れた、というものが流れていた。無論エリカはそういったことを全く知らない──生来の人見知りと、他探窟家の忌避が合わさっているためである──から、不幸にも彼女は自分の中の問題にだけ集中を割いていた。これ以上ないほどに体を酷使して、それでやっと一般からやや下の成果を持って帰られるので、ぼろきれのような顔で帰ってきた割にはそこそこの量しかないリュックを見て、査定と換金を請け負っている人員たちは眉を顰めたり、何かしらの憐憫を見せたりした。そういったことすら認知できない程に、エリカは自分を願っていた。自分のまるごとすべてが、あの二人の下位互換であるという想像とか、そこから派生した無力感とかが、優しく彼女を包み込んで、数週間、彼女は息をしているという実感が無かった。深界一層の、確率の低い、しかし少なくない犠牲者の一部にならなかったのは、単純に運であるともいえた。何故死なないのだろう、とエリカは眠る最中に、一度思って、アビスが私を生かしているのだ、と結論付けてそこから考えることをやめる方が、余程今の生活にかなっていると結論付けた。

 

 自分が死ぬという実感はなかった。実際彼女が倒れて、死の淵を一度さまよったのは、単に過労からだった。熱を出してものがまともにたべられなくなり、水筒に残っていたわずかな水を飲み干した後、エリカの中でふつふつと、勇気がわいてきた。彼女は自分自身の勇気に恐怖した。いまたとえば、清潔か、清潔でないか判別のつけがたい医院で、ある程度の冷遇と引き換えに得られる安寧に甘んじるか否かという選択を求められたのなら、つゆほども迷わずに院長を、その辺の枝で突き刺すだろう。これは幻覚だからと、エリカは自分にいいきかせて、頑なに自分は床に引いた、薄布のような布団で寝続けた。誘惑にかられたことがなかったかと問われれば、彼女は恐らく否定できないだろう。その誘惑を、劇場的(ドラマチック)な精神の口上で拒絶できることが、彼女の強さなのだ。ただ、彼女の、その性格が、コレオの来訪を幻覚のうちに含めていた。

 

 院長に、誰よりもエリカ本人に悟られないように、こっそりと探窟を抜けだしたりするなどしてエリカについて聞きまわっていたので、彼女が熱を出した二日目あたりに、コレオはようやっと探し当てることが出来た。エリカが偶々高熱にうなされていたことは、コレオにとっては僥倖だったと言わざるを得ない。三歳のころに岸壁街から拾われてきて、エリカと顔をつきあわせつづけた末に育っていった感情を、好色と振り分けるにはあまりに醜いものであることを、彼は理解していた。夢のただなかに居るように譫言をつぶやくエリカを、時間の許す限り看病するなどして、コレオのもたらす探窟の成果は目に見えて下がっていった。探窟の装備を整える間、ふと自分が何の意味もない行動をしているという実感に襲われて、彼は発狂一歩手前まで進んだことがある。彼の精神にとって、変化は、とてつもなく重たい。齢十といくつかの体をすべて捨て去らねばならぬような使命感が手となって、彼の全身をくまなく触っているのである。

 

 おい、と声をかけたのは、探窟のグループを取り仕切っている月笛のティナと呼ばれる女性だった。医院上がりで右の腕から先が無い程で済んだために、この位置を任されている彼女は、全くもって月笛に相応しい頑強さと目配りの良さ、抜け目の無さを兼ね備えていた。彼女にとってコレオの動向は、全容を暴くことは叶わないけれど、ただそれだけのものであった。

 

 コレオはその、ティナの話を聞いて、何とか受け答えをしたという記憶が、付け加えるように自分の著しい成果の低下や、偶の未確認報告についての懐疑、あとは失踪したウマ娘の少女……少女! 彼は立ち去り、角を曲がったはずのティナの見えない姿を見ようと、後ろを振り向いて、当然のように誰も居なかった。これは彼女からの警告であるとコレオは受け取った。彼は選択を迫られていた。ここで、選択をしなければならない、と考えた時点で、探掘家としてよくない。彼には憤怒があった。いくらかの悲しみと、そして大きな悔しさ。当然、ティナにも葛藤が在って、例えばこのままいけば順当に、アビスに挑むことができたのだろうという儚い、得られぬ未来への憧憬があった。だから彼女は、少し意地の悪い行動をした。それが少年に課した選択であった。彼女にも悔しさがあった。

 

 彼は続けてきたスタンスを貫いた。この選択をするのに三日三晩を要した。これで探窟家としての権利とか、不平等とか、地位名誉義務とかが、忽然と姿を消したような意味を、彼自身が与えてしまって、なんと彼の食事の消費は三割減ってしまったのだ。エリカへのあれこれを言い訳にして、自分自身に対して、不振を誤魔化していた。

 

 幻覚でないと、エリカは熱を出してから四日目、微熱の域まで下がってきて、ひとりで動けるようになってから気づいた。寝覚めが悪いから、と、自分の目の前でコレオは頬を掻いたので、エリカは何を言うべきかわからなくなってしまった。どのような形であれ、彼とまた会えたことは、彼女にとって嬉しさをもたらすはずだったけれど、その、どのような形、というのは紙風船ほどの質量しか持っていなかった。

 

「その、だいじょうぶ、なんですか」

 

「んー、そうだな。まぁ、大丈夫じゃないかな」

 

 相変わらず敬語なのな。コレオは笑った。彼女も釣られて、へんに笑った。まちょくちょく来るからさ……あぁ、嫌ってんなら全然いいんだけど。エリカはその並びに反射的に、否定の言葉を口にしていた。突き刺されたような声に、彼は少し震えた。

 

「いや、その、いやじゃないんですけど……えと、こ、怖くないんですか……私が」

 

 彼女が忌避の対象になっていることは知らねども、生来彼女は人の顔色を窺っていた。幻覚でないコレオが、様々な何かで構成されていることを、理解していた。これほどまでに複雑な彼を、エリカは見たことがなかった。その複雑さが、彼の痛み苦しみ、吐き気を呼び起こすにはあまりに十分すぎることも、理解していた。きっとそのうちのひとつかふたつを、私が作っているのだと思うと、それが悲しいほどに許せなかった。なにより、この質問は自分の決意からの、逃げだった。

 

「お前がか? んなこたねぇよ、これっぽっちも」コレオはわざとらしく手をふった。

 

「俺はウマ娘だかなんだか知らねぇけど、人とそんなに違わないって信じてる。アグネス……タキオンさん、そう、タキオンさんと、マンハッタンカフェさんもな。何より……俺はお前のことが好きだからな」

 

 信じている、という言葉は、たいそうに無責任で、それゆえのパワーがあった。体調は万全とは程遠く、かいた汗が悪寒を後引かせていて、アドレナリン、エンドルフィン云々で、理由なく気分は高揚している。彼女にとって、理由がないことは、一番の理由になったのだ。

 

「……その」

 

「ん」

 

「私、多分その、ひとりじゃなきゃいけないんです」

 

「……」

 

「あ……っと、いや、その、コレオさんがその、嫌いとかじゃなくて。私の、なんていうんでしょう、えと、んー……と」

 

「プライド?」

 

「そう、プライド、です」

 

 彼女は苦笑した。自分自身で、荒唐無稽なことを口走っている自信があった。泣いている自分が、泣いていない現実に驚いていて、声が震えている。じぶんの思っていることが、奈落の底にいる一人のひと、そのひとの、十の指に突き刺さっている糸、くまなく自分を貫いて操らんとしているものが、とても滑稽な芝居のように思われてきて、熱のせいにするということが、ぎりぎり叶わなかったのが彼女にとって幸いであった。いま、彼女に込み上げている吐き気は、いつもの、せりあがるようなものではなく、むしろ当然であると高らかに宣言できそうなもので、危険な状態だった。コレオは彼女のことを見てきたからこそ、今の彼女に、やはり危機感を覚えていた。しかしながら、他でもない彼女は自らを、自分の意思で切り離しているから、彼はエリカに近づけなかった。奇妙なことに、琥珀色の液体が流れている感触があった。彼はエリカの返答に泥酔していた。

 

「いいじゃん、プライド。白笛にはもってこいだろ」

 

 これが最後の会話であった。また、とかその辺りの会話を、二人ともしたような感覚があったけれど、ふと思い返して、もうここまでしか思い出せなかった。ゆかにへたりこんで、エリカはしばらく立てなかった。コレオは対照的に、何も考えられなくなるように、あるだけの力を込めて走った。彼女は自分で選んだ未来を、朧げに見て、それが多分、高い確率で死に向かっているはずなのに(もしかすると、だからこそ)、そこには体の軽くなった自分がいた。走っているうちに、だんだんと、当然に、彼の体は重くなっていって、いくらか足をもつれさせ転倒して、自ら這々の体となって医院に戻った。看護婦長のエビネが、探窟にしては妙に早い帰投と積み重なった不審で呼び止めようとしたけれど、彼にとっては、ただ靴を脱ぐ時間が鬱陶しくて仕方がなかった。

 

 俺は、あいつに歯向かってほしかったんだ。共用の部屋、その扉を開けて、自分のベッドに倒れ込んで、そこからもう動けなかった。笑っている自分が、泣いている現実に声をかけていた。何もできずに、敗走しているようなものだった。決壊した何かが口から出ていて、壊れた声が自分の耳に届いている。つけられていない電灯、垂直に傾いた自分の視界は明かりのついていない、というより、グレイに塗りつぶされているようで、だけれどそこに、静かな、むき出しの想いが、傷ひとつなく横たわっているのを彼は見つけた。いちどだけ、エリカは自分の部屋に来たことがあって、それは他の同室の者が探窟に出払った後の、こういった電気のない時だった。その頃から彼はとても生真面目かつ不真面目で、要は抜け出しがちだった。そう、熱を出していた。そして人員が足りないからという理由で、自分が世話に回されたのだとその時から、今では少しましになったつけすぎな敬語で話していた。見違えるような彼女だった。自分より痛々しいひとが、心意気のみをたよりにしている。それを嬉しいと思うのは彼の理性で、彼は動かないまま、激しい戦いを行なっていた。ただ奥歯を噛み締めて、その結果を待つことしかできなかった。

 

 

 

「感心しないねェ、物漁りとは」

 

 僅かに開いたままの筈の扉の外、それが絶命時のような音を立てて顕著に開き、後ろから差し込む明かりに、オーゼンは照らされていた。アグネスタキオンの中で、既に得ていた大きすぎるほどの驚きと、今得た驚き、そして恐怖を、つい混ぜてしまった。手に取っていた辞書ほどの大きさの本を、自分の胸のあたりを守るようにして、彼女はオーゼンと対峙した。部屋の中は暗く、点在する明かりによって仄かに、何があるかを判断できる程度である。

 

「もっと大胆にやるべきさ、こういうもんは。コソコソやるってのは君の性にも合わないだろ」

 

 オーゼンが進んで、アグネスタキオンは部屋の奥に後ずさっていく。呼吸をすることの正しさを、彼女は疑った。彼女にとってオーゼンは具現化した恐怖とさほど変わらないほどにまで助長されていた。戦って勝てる相手でないことはもはや共通理念であるともいえた。逃げの一手、敗走の思考を、選択させられていた。

 

「君は視えないんだろ? 残念、今の君にはこれぽっちも興味が湧かない」

 

「ならさっさと我々を通してくれればいい」

 

「ついてきたのは君らだろう?」

 

 オーゼンは人外のように微笑んだ。五メートル以上は離れているのに、彼女はただ立ってアグネスタキオンの方にゆっくりと歩いているだけなのに、自分の胸部を貫通して、心臓を直接握られている感覚がアグネスタキオンから離れなかった。心拍数をコントロールされて、焦燥すらも生じさせられている、そんな蟲の這い回る不快に、彼女はなんと耐えていた。下がって、下がっていって、最奥にある、布のかかった立方体に足を救われ地に転がる。もういちど立てる気はしない。そうしようとする気がもう、かきあつめても灰でしかない。

 

「……成れ果ては、やはり私たちじゃない」

 

 オーゼンがはたと動きを止めたのをみて、アグネスタキオンは正しく怯えていた。自分の命が危うい、ということでなく、マンハッタンカフェの。自分の言ったことで、何か状況が変わることを、彼女は期待していなかった。いつかくる旅の終わりが今、もうすぐであるという覚悟は、まだ三日後ぐらいに遠く、だからこれは、彼女なりの無念であった。彼女は理性で自分の、何かを押さえつけるだけの術を持っていた。その振動で、声が。

 

「ほぅ」

 

「わるいが私は諦めが悪くてね、本棚を物色させてもらって少しばかり見てみた。……六層の上昇負荷、人間性を失った成れ果てと、その図解、何れも骨格の形成を大きく変容させている上に報告では言語の意思疎通が取れないとある。上昇負荷の原因はわからないが、成れ果ては我々とは明らかに異なる生態だ。しかも成れ果てたあとも上昇負荷を受けない道理は何処にもない。私たちは真にウマ娘だ、成れ果てなどでなく!」

 

「……など(・・)

 

 オーゼンは目の前にいた。アグネスタキオンの頸動脈に、そっと二指をあてて、軽く(・・)押していた。

 

「など、といったね、君」

 

「……っ」

 

「撤回したまえ」

 

「……失礼をした」

 

「……」

 

 及第点、という言葉を吐き捨てるように、オーゼンはあてていた右の手でアグネスタキオンを引っ張り上げた。明かりはもうほとんどついていなくて、オーゼンの表情は見て取れない。けれどたしかに、声に何か、怒りが確かに有った。彼女も感情を持ちうる人なのだということが、アグネスタキオンを、オーゼンの支えなしで立てなくしている原因の一つであった。

 

 それよりも大きかったのは、無意識に、命に不躾であったという、彼女自身の自覚であった。先刻心臓を、本当に貫いてくれていたのなら、どれほど贖罪になったか知れなかった。自分のまとっていたもの、その中に秘められたものまでもが崩れ落ちて、陶器の破片となって霧散して、何も残らない。指を咥えて、その指の皮が紙製で、空洞でないことを確かめるために、肉の一部を必要としなければならなかった。そう、ある意味で成れ果てとは一つの栄誉で、どこか神聖な存在であるが故に、愛か、もしくは涙か、その両方を以て、やがて生命の珠に楔を打ちこまれる運命なのだ。たとえば彼女が探窟隊を結成していて、アグネスタキオンと、マンハッタンカフェと、その他二十四人の隊員たち、それら一人一人が成れ果てになっていくような、そんな旅、それが存在していたら。個体と液体の間を彷徨うような、魂を囚われたような居姿を見て、震えながら、体を切断しなければならない時があったとしたら。

 

「……君はまだ、奥の方は読んでないだろ」

 

 そういった彼女の思考を、気にしないよう振る舞うことを、どこかオーゼンは許されていた。僅かばかり暗さに慣れた瞳孔で確認したオーゼンは、既に取り繕ったような仏頂面を有している。気の抜けた声で、あぁ、などと返事をした彼女は、何かを探すように梯子を登り、オーゼンがやがて古びたひとつの本を持ってくるのをぼぉっとみつめていた。

 

「二百年前のお宝ものさ。といっても、本自体は特に何ということのない遺物目録だけどねェ」

 

 ぱらぱらと捲られた、彼女の手の内の本。色褪せた紫色が、ところどころ剥げてしまっている。流暢な所作に美しさすら覚えて、アグネスタキオンはどこか怪訝さを感じた。彼女はもちろん、紛れもなくオーゼンである。当然、オーゼンである。それをひとまず休止させるとして、アグネスタキオンの中に浮かんできた、全てを一瞬忘れてしまうような疑問は、次のようなものである。

 

 もし、|この世の中でオーゼンと名乗るひとが一人しかいないのなら、その者はオーゼンとなるのではないか《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》?

 

「──ふむ」

 

 その中から取り出されてきたのは、変哲のなさそうなひとつの封書であった。アグネスタキオンは今し方オーゼンの取っていた本棚を見た。本棚の歯抜けが見当たらない。さらには丁寧に封が切られている。無造作に渡されたその封書を受け取って、オーゼンは顎を使って開けろと指図したようであった。そこには少女と、少年と、一人の……人形(ひとがた)の、生物が描かれていた。材質が経年で劣化しているけれど、それを保存しようとする努力が散見された。安置され、端以外がほとんど黄ばんでいないためである。

 

「この子らさぁ、私会ったことがあるんだよねェ」

 

「……だから、なんだと」

 

「リコ、レグ、ナナチ……ま名前はどうだって構いやしない、大事なのはこの子さ」

 

 オーゼンはナナチの絵を指差した。兎のような耳と、毛に覆われていそうな体躯……。

 

「この子成れ果てなんだ」

 

 

 

 マンハッタンカフェが、目を開けた。




続きます。
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