「……なんだ、随分と早いな」
扉を開けたのは彼の、あまり交流のない同室の者ではなく、仕切り役のティナであった。カーテンを閉め切っている薄暗い室内に、彼女が鋭利な光をもたらしていた。探窟のための石灯メットや服、グローブをつけていたうえに、多少の土汚れがあったから、彼女も帰ってきたばかりなのだろう。じきついていっていた他の者たちも帰ってくるはずで、しかしそうなると、少なくとも一時間はこうしていたことになる。コレオは、その想像に、ただ目を閉じただけだった。平常であれば湧き上がってくるいくつかの疑問は彼の、ずっと、このままで、という願いに押しやられ、彼の、まさにその願いを達成せんとしていた。
「……っ」
「ほら起きろ、夜に後悔するのはお前だぞ」
石灯の光で明るく照らされた瞼に、彼は反射的に手をかざした。その手をティナはすかさず左の手で掴んで、引っ張り上げた。コレオはあからさまに機嫌を悪くした。内外の感覚を乖離させ続けることをコレオはすんなりと、なんとかエリカの前で為せたのだけれど、ティナのせめてもの反抗心はとても幼稚で、ただ手を引っぺがし、彼女の方を見ないという行動であった。やはり子供らしいな、と彼女はコレオの額を小さく弾いた。
「なんだお前、また抜け出したのか」
「……すみません」
「別にいいさ、お前みたいな奴がいないと張り合いがない」
掴んだ手をそのまま、強引に、彼女はコレオを部屋の外まで連れ出した。夕方になろうとしていて、斜陽が彼の右頬を激しく打った。彼の右にはティナがいるのに、である。とても眩しいと、彼はその光から目を背けた。それを悲しそうに、ティナは見つめていた。柔らかく触れてくる不可視の手をそつなく手で追い払うと、遠慮を示すようにそれらは身を引いた。そうすると部屋の中に滞留していた空気が、ゆっくりと動きはじめて、彼女たちを追い出すかのようである。皮肉な話だ、彼女の中で、そういった話言葉の立ち上がりが浮かんできた。無い右手を見つめて、彼女はコレオをどこか自分と重ねているのに気づいた。
「まぁ今更
口でグローブを外すと、手をコレオの頭に置いた。「……昨日のことを悪いとは思っている。が私はお前に何か謝ることをするつもりはない」
「はぁ」
「私は性格が悪いからな」
コレオは当惑といった表情を浮かべていた。一刻も早く、またあの無明のような時間を過ごさねばならない、と考えていた。恋情でないという確信だけがあって、なまじその
「なんだ、なりたくないのか」
「……いや、そういうわけじゃ」
「お前たちガキはな、隠し事が在ると大体そう言うものなんだな、これが」
L字に曲がった廊下の窪みに座っていた二人、ティナは、目の前の長く続く木板を眺めた。皮肉な話だ、という思い言葉が浮かんできた。普段変わらずに行っていること、生命を維持することに、こと岸壁街からやってきたぼろぼろの幼児を見ると、それらにすら資格が求められるのだと、彼女は認めている。いうなれば、魂を保つこと。肉体と精神との、あるいは離別、あるいは迎合を、唱えている。口が急に寂しくなって、彼女はポケットから木のかけらを取り出した。ところどころ腐敗が進んでいるものの、彼女はそれを見て、見たふりをして、ボタン付きのポケットにずっと所持している。これを横に咥えたことは、ただ一度きりである。以来彼女は縦に噛んで、偶にこぼれ出る繊維の欠片を飲み込んでいる。コレオは、何かを取り出して、咥えたものが、あまりに彼女にふさわしくて、つい少し見てしまった。あれを横に噛んだ彼女は、どんなにうつくしかったのだろう、と思ってしまって、そのまなざしを見られたものだから、空恐ろしくなって、反射的に人差し指を噛んだ。舌の先が皮に触れて、塩っぽい土の味がした。そこに感情の起伏は無かった。その、味を感じて、はじめて噛んだのを知った。
なんだ、お前これが欲しいのか。ティナの言葉は、まったく核を射ていない。唾液のついた右の人差しを適当に拭くと、別に、という言葉が彼から漏れてきた。それが意地張りでないことを彼女は察していた。今、この少年は自分の方向を一度だけ見た。それも自分の、最もうつくしかった時を向いていた。
「ほかに大事な感情だってある」
「はぁ……たとえば」
「うまい飯食いたいとか、なんだか分からんやつとかだ。まぁなんだか分からんってのは大体重要なんだ」
私には
何も声をかけることができなかったという、それもまた名前のつきづらい痛みが、彼女を取り囲んでいて、木製の椅子に腰をかけるとすぐに抗いがたい疲労感がやってきた。電球の光がとても気に触る
だからこそ、私は不適格なんだ……。ティナはそう思って、栓を開け、中の匂いをひとつかいだ。つんとくるアルコールに苦笑して、指の間のコルクを弄んでいると、噛もう、という欲望があるのを見つける。それが実をもち、腐敗して地に落つ前に元に戻す。そこでノックがあった。傾けていた椅子を戻すと、どうやら彼女が住んでいる
一ヶ月間、晴れの日が続いた。これは驚くべき事態で、ただでさえ不足気味な栽培物に深刻な打撃を与えた。軒並み下がった自給率が輸入の増加に影響を与え、増えた輸入量を勘付かれ、結果原材料の価格が高騰するのまでに時間は掛からなかった。オースの上層部はこぞって北区の高官と金持ちに資源を分配するので、締め切られていない蛇口のように街民の感情は蓄積していた。何かの前触れであるとか、そういったことが明け透けに騒がれると、瞬く間に燃え広がった民衆の図柄が完成した。
一層に堕ちる階段を下った先には小広い空間と、左右に降りていく二つの階段があって、エリカが誰もいない深夜に一つ目の階段を降りきると、今にも左の階段を降りていきそうな人影が見えて、それが人影と認めただけで、判断できるような、生来からの記憶であったので、彼女は声をかけるのを躊躇った。ただ、その足音が人影にも聞かれていて、人影にも心当たりがあった。人影にも、振り向く、振り向かないがあった。ひどく空気が冷えていて、オースは人の少ないのに拍車をかけて、古代ローマの廃墟都市の様相を呈していた。
「……おはよう、ございます」
「……ああ」
「その、ほんとに、その……ほんとに、はやいですね」
「まぁ、日も昇ってないっつーか、落ちて時間が経ったって感じだもんな」
そうですね。二人の間、周囲に揺れている雑草の揺れ方ひとつひとつに意味が込められているような風の吹き方で、努めてエリカはアビスの方を向いていた。彼女の行動はただシンプルなものであった、が、彼女の心の
「随分、変わったなぁ」
「……そう、でしょうか」
「案外俺が変わってるだけだったりしてな」
彼は明朗に発言していた。残酷なことだ、エリカはそう受け取らなければならなかった。彼女だから気づくことのできる、彼が意識した時に形づいた発音のくせ、イントネーション。ほんの微細な振動が奇遇な周波数となって、重なり、大きくなって、やがて彼女たちの橋を崩させてゆく。わたしも、かわってるかも、しれません。ようやっと飲み込み終わったエリカが、ひとりごつように呟いた。
「コレオさんも、かわってますよ。きっと」
「……だといいな」
「はい」
だんだんと視野が狭くなっていくのを、エリカは感じ取った。自分は成れ果てなのだろうかという疑問、この自分の中に格納されている、確かな目の前の穴への輝きは、帰巣本能であるのか……泡沫のような夢、儚い
「いくのか」
コレオはそう聞いた。
「──はい」
今、じゃないですけど。彼女は苦くはにかんだ。やはり奈落は、信徒を求めてなどいない。エリカはそう考えるに至っていた。同時に、これは想像だにしない、きっと一人の呪いで、だからこそ惹きつけられるのだと、
「前にも言ったけどさ、俺はお前が好きだからさ」
コレオはだから、死ぬつもりでいた。彼の中で、その選択肢が、だんっだんっと、踏みしめながらも、淡々と、滑るように軽くなってきて、彼の視野も、狭窄していた。正しい選択でないことを、彼は敢えて見て、そこに、震えながら、笑って、中指を突き立てていた。誰かのために、など。それがいいのだ。
──そうだ、だから、そうでなくちゃいけない。
「──なんだ、生き死にの話とは。朝から物騒だな」
そのように発した、女のような声は、ハスキーがかっていて、どこか心地よい。広い空間に浸透して、奥の方で消えていく。階段を降りてくる陰を見るに、とても巨きく、しかし所作がとても軽いので、コレオはしばらく、頭の白いのを忘れて、彼女を見ていた。エリカがアビスのほうを向いていたのはある種幸運であった。彼女には振り返る、振り返らないの選択があったから。その、二つのレンズを携えた奇骨なヘルメット、一見不自由に見えるマントを見ずに済んだ。
「手前の君は私を知っているようだな」
「……有名、だから」
「ふむ、私は唯任務をこなしているだけなのだが」
ヘルメットを掻くという、無駄極まりない行為が、彼女が行うと無分別な童謡らしさを帯びて、歪に見えるから──だからこそ黎明卿は彼女を誘致したのだとも考えられる。普段の、
「──
彼女は確かに、エリカをそう呼んだ。
薄ら寒い風で、マンハッタンカフェは目を開けた。胎児のような姿勢が既に習慣となっていて、全身の感覚が指の先から戻ってくるのを、夢と現の狭間で感じ取っていた。酩酊したような感覚にその身を浸していて、いっそ夢のような物語で、今までの感触が全て自分の心の中で帰結していて、と、そういった夢想をいくつしたか、既に数えきれない。残酷に目は冴えて、はっきりとした触覚が全身を覆っていく。
彼女の、閉じた瞳の中で、ひとが作るものには、密度がある。さまざまに混ざり合って、くらい水彩画のような、美醜入り混ざった空間を、彼女は泳ぐように歩いている。海の中のように。まったく他のものが感じられないほどに、魂をもかき消すほどに大きな圧力、それも静かなものは、彼女を悪寒で包むに十分であった。部屋から出て、彼女は壁に手をついて歩いていく。左手にも、右手にも、アグネスタキオンの熱が、まだあるような気がした。彼女には、自分が眠っていた寝床で、また胎児のように夢に落ちていくことを、選択としてみなさなかった。せめて、自分の手で、目で、タキオンさんを見なくては。つまるところこれであった。そんな最中に背中を叩かれたものだから、マンハッタンカフェは嫌でも、先刻のオーゼンとの会話を思い出して、同じように動いた。動くことが叶った。
「うわっ! ……吃驚ってもんじゃないぜ、まったく」
「……テル、さん」
上昇していた心拍数を受け継ぐように乱れていた呼吸が、乾いた口腔だけを残して去っている。彼は、いいひとだ。それすらも揺らぎかけていたので、マンハッタンカフェは二、三歩離れた。テルは少しかなしそうな顔をして、丁度様子を見ようと思っていたところだ、といった要旨を告げた。彼の歩いてきたであろう道、その奥に目をやると、滲んでいるけれど、この黒い流動体が、薄い。彼女の視界は、彼女の知らないうちにずっと狭まっていた。背を向けて、歩き出そうとしたので、テルはその肩にまた触れて、彼女の顔を見た。体よりも、心が危ういことに、テルはすぐ気づいた。
「どこ、いくんだ」
「……オーゼンさんの、ところです」
うらやましい。テルは彼女に悟られないように右の拳を握った。彼にとって、今の彼女は、崇高なる魂そのものだった。いちども、本当の選択をしないままここまできたという負目。彼女が人間か、成れ果てかなどという議論は、テルの中で相当に滑稽ともとれる場所まで下がっていた。尤も彼は数少ない北区の生まれで、自分と違う人がいるということを、悪い意味で教えられてきたものだから、自分が興味のない趣味に没頭する人のいるように、自分の中で杭を打たれた問いに対し、杭を打つ以上のことをしようとするひとを何か、排斥しようなどとは思わなかった。けれどそれは、悪い意味をずっと保持し続けた両親への反抗であったから、彼のなかには、ずっと両親のかげが浮かんでいた。既にオーゼンはこのことを見抜いているのやもしれない、そして静観をしているのかもしれない……。ついてきなよ。そのあとにひとつふたつの言い訳をつけて、テルはマンハッタンカフェの先をゆっくり歩き出した。
「手、取ろうか」
「いえ……それには」
まだ残っている、彼女がそう信じている右手の感触を失ったとき、アグネスタキオンは永遠に失われるような気がした。今にも途切れそうなそれが彼女の感じる、さいごのアグネスタキオンとなるのなら、何を思えば良いのだろう? テルは苦笑して、そうか、と小さく言った後、彼女が息を切らしてしまわないように、聞こえてくる足音の大きさを一定に保った。彼が感じているのは、いつもより寒い、そんなところであったが、視える、視えないあたりの話をオーゼンがしていたのを
「あそこの扉の中だな。……開いてるのは、ちょっと珍しいけど」
誰かでも居るのかね。その文章がマンハッタンカフェの耳を通じて、鼓膜、内耳を通って脳へと伝わり、テルの視界から彼女は消失していた。まぜ今まで走ることをしなかったのだろうか。矛盾した問いを当然のように頭の中に持ってきていた。一つの疑問文が、だんだんと削ぎ落とされていて、きれいになっていって、彼女の中に、やがて、なぜ、だけが残っている。なぜという、切り落とされた結果の疑問文が、繰り返されている。
「──だから、そうだなァ」
「──君がさァ、
彼女は呼吸を忘れた。魂の振動がひとつ、止まったような気がした。それが自分のものか、アグネスタキオンのものか、わからなかった。同時に彼女は大きく開いた扉の、灯りと非灯りとの境界線に立っていた。自分が勝負服を、かつて、もう幾年も前にクローゼットの奥に仕舞って、年に一、二度取り出すものを着ている感覚に陥った。ここには剥き出しの自分があった。冷えていて、くらい。奥に、今、自分が
「──ああ」
──。たきおんさんの、こえ?
オーゼンがゆっくりとふりむいた。彼女にはそれが、途方も無い一瞬のように思われた。彼女のなかで、言いようのない、言葉として表すにはあまりに不敬な、ものに。倒れ吐くように、崩れたクラウチングスタートの体勢をとった。
彼女の初速は十分であった。時速八十にも達さんとする動きに、肉体は多大な負荷を要され、いくつかの筋繊維がちぎれる感覚と幻聴をマンハッタンカフェに届け、それは完全に無視された。たとえいま下半身が分断されようとも、速度を保ち、オーゼンを、たとえ自らの拳が砕けようとも、殴り続ける
「……勢いのいいのは結構だけどねェ」
オーゼンはあくまで俊敏でなく、無駄のないことを確認するように左手を動かした。マンハッタンカフェの狭窄した視界の中で、オーゼンは確かに、的確に、打ち込んだ拳、その右腕をしっかりと捉え、掴み。そのままオーゼンの周囲をひとつ回らせた。角速度の二乗に比例し、半径に反比例し、マンハッタンカフェは口から空気を吐き出した。
「こうでもしないと君の手が砕けるもんだからさ」
限度いっぱいに優しく、彼女は背を打って、覚束なく立ち上がったそれでも拳を向けた。次第に血が滲むように見えた。自分の存在がオーゼンによって丁重に埋葬されているような気分だった。ひび割れていく。静かに、実体を失った私自身が、背中合わせに、アグネスタキオンに、熱を与えられる、そんな奇妙な心持。自らの中が、既に多種多様な実を取り込み、腐臭を放っているのに……。
左手の、何度目かわからない拳が、他の手によって止まった。そのまま抱きしめられて、マンハッタンカフェは全く優しくなく、背中から地面に倒れた。ふたつの腕が、彼女の背中にきつく回されていて、特徴的な髪の匂いがした。鈍色の、木の天井が、じっと自分を見つめている……二人は何も言わなかった。かすかな嗚咽がひとつだけ流れていた。マンハッタンカフェはそれが、自分のものでない確証が持てなかった。指も、手も腕も損傷なく、動く。この有様では、オーゼンに傷の一つもついていないに違いない。
「その子君に死なれると困るんだとさ。ま関係ないけど」
どっちも始末するから。彼女はまるで無神論者のようで、強い力を秘めていた。縋る神を持たないが故に、全てを自分で完結させる、そういった強さである。自分が変わっていってしまって、それでも変わったことを認められなくて、このひとは今ここに立っている。無慈悲で、大きな轍に銃弾を受けたように、オーゼンというひとは、とても暗い魂を持っている。アグネスタキオンの背を摘んで、引っ張り上げると、今はじめてひとを扱うようなぞんざいさで彼女の背を布で覆われた立方体に預けさせた。加減が分からん、そう言ってオーゼンはマンハッタンカフェを、正面を向いて覗く。屈んで、頭を掴み、心すらも現実の握力で掌握せんとしている。
「命の価値は不平等さ。君ならわかるだろ?」
マンハッタンカフェは、両足を投げ出して、立方体に支えられているだけのアグネスタキオンが、ゆっくりと片膝を曲げたのを見た。意識はまだあるようだった。
「……否定は、できません」
「及第点だね、ま、無理矢理殴りはせずに済みそうだ」
物惜しげに、彼女はマンハッタンカフェから手を離し、左の手袋を外した。マンハッタンカフェは、ときたま、現実の動作と心象が食い違うことを、ヴェールとして理解している。ただそれは、ひとの魂を覆うカーテンが一枚透けるということで、通常、もっと痛いもの、もっと、触れてはいけないいたいけな、
「千人楔って言うんだ。百六十七箇所きっかり私の体に入ってる。いい仕掛けだろ?」
「──あなたは」
「ン?」
「あなたは、誰ですか」
彼女が見たのは、さらなる深い、もう一枚のヴェールであった。
「……いやァ、視える子の世界は素晴らしいんだろうねぇ。ほら、話のつながりが切れてる」オーゼンが何かを手刀で切る真似をして、マンハッタンカフェは昏倒した。首に当たって、倒れてはいないけれど、鈍い痛みと、軽い脳震盪。自分の世界を保つので自らの精神を使い切っていた。彼女に、恐怖の花が生まれていた。知らないという恐怖。
「私は単なる慈善家さ、君は信じないだろうけど。これから目の前のその子を送るのだってそうさ」
鈍色の地面の上に座っている。空気が病的なまでに薄い。オーバーフローして、重い。目の前のアグネスタキオンにオーゼンが、まるで跪くように座り込んだ。彼女は必死に動こうとして、縫い付けられたように地面を這っていた。だめ、ころさないで。オーゼンはなんと皮肉なことに、アグネスタキオンの首に手をあてがった。彼女はオーゼンの手を
アグネスタキオンと、目が合った。彼女に似合わない瞳の表情をしていた。私でなければ、なぜ、いけないのだろう。私には寂しさしかのこらないのに。息ができなくなることの意味すらも知らされないまま、わたしは、たったひとつの望みもかなえられないまま……。遅れてくる、胃酸のせり上がってくるのを受け止めて、冷たい地面に隔たれた、あまりにも長い距離を越えんとする。やはり彼女は無自覚に、勝負服をまとっている。アグネスタキオンは。目を閉じられる死した後の体のように、あの裾の長い白衣を地面に擦らせている。声が出なかった。一ミリずつ食い込んでいくオーゼンの指が、マンハッタンカフェの時間感覚をやがて喪失させていく。目の前のパノラマが引き延ばされている──。
わたしの。
わたしの、殉教の邪魔を。
しないで。
「──お願いだから、とでも言う気かね?」
オーゼンは彼女の方を見ようともしなかった。
「君らは些か、適格が過ぎる」
彼女は最後まで、目を開いていた。
「私は──」
続きます。