何卒よろしくお願いします。
エリカの、彼女を構成しているひとつひとつが崩れていた。自分の与り知らぬところで、また大きなことが進んでいる、そのことに、エリカは自分の手を見た。あまりに小さい手、自分の手を見て、己の矮小さに、真に気づいた。気づくことが、腹部を貫通せしめんとする槍を伴っていることを、彼女は知らなければならなかった。一人しかいなくなった居室で行われていた思考の中で、己の無力さは、その後の逆説をより良い快楽に変換するための材料であった。自分を認識できなくなって、彼女は今、どのように思考を繋げるのだろう。彼女は自分の名前を、母親からつけられた筈の識別を愛していた。ギャリケーと名乗る祈手にそれを揺らがされていなければ、あの夜明けの刹那、コレオに別れを告げることで、ある種自分を昇華させることは十分に可能だった。これが私の人生なんだ、エリカは実際にそう思っていた。自分をエリカだと認識させようとする度に、自分がエリカでないと断ずる塊が大きくなって、指の間をすり抜けていくので、知らぬ間に彼女を窒息させるほどに満たされている。悦楽と恐怖がほとんど両極端になって彼女を刺激するもので、それを落ち着けるのにほとんど三日を要した。医院に行かなければならない、そう考えて、彼女は意識して朝食を食べた後、久しぶりに西区へと赴いた。燻っている彼女の中の薪はまだありうべからざる熱を持っていて、何であろうとも成し遂げられそうな全能感が、彼女に生まれていた。彼女は意気揚々と医院へ向かっていって、酒に酔ったかのような心持で正面の門をたたいた。至極当然に追い返されてしまったから、ゆうに一時間は扉の前に立ち尽くしていた。
どうしたんだ。彼女に語り掛けてきたのは、ティナであった。彼女がエリカを発見して、記憶にない、と考えたのは、むしろ当然であったと云わざるを得ない。探窟と、それに伴う給金、自らの稼ぎと目的とに多くの視線を割いていた彼女にとって、エリカは関心の薄い相手だったためである。しかし、風が吹いて、彼女はエリカの靡く髪を見た。そして耳を見た。
「お前、エリカというのか」
「え……ぁ、はい、そうです、けれど」
その返答の戸惑い方には、まだ彼女ならではの成分、臆病さが強かった。同様にエリカも、全くではないにしろティナのことを、コレオの聞きづてでしか知らなかった。彼女の身辺の規制のされよう──彼女がそれに気づいているか否か、は問題でなく──は、もはや愛すら感じられるほどであったから、この聞きづてでもコレオと、最小限以外の名前を知っていることが、須く想定でないことなのだった。医院の面々はすでに明るさを失っていて、当のコレオがまるで人形のように生活を送るものだから、ティナは奇妙な安心感を得ていた。皮肉なことに、それで安寧が保たれていた。
「……その、今って探窟、行かれてますか、みんな」
「いや、今日は休みだ。何たって私が此処に居るからな」
「そう、ですか」
彼女はあからさまに落胆したようだった。彼女は実際、どうやって会いにいくか、抑も誰に会いにいくかといったことを全く考えていなかった。狂気にすら思える直感がエリカに働きかけていた。
「その、私、本当はシェルミって言うらしいんですけれど」
「……なんだ、お前双子なのか」
「え」
自死を甘美に思わせる痛みを伴って埋め込んでいく楔の一つ一つが、自分の命を示していると考えると、これは幕切れを自分で決めることのできる、素晴らしい遺物であると思える。生きるために楔を刺し、中毒のようにまた次の楔を刺し、眼球にも手が伸びたとき、自分は遺物になってしまうに違いない。
触れられそうなほどに、空気が軽く、固形のような質量を帯びている。アメーバのように動き回る不定形の触手たちと会話をすると、少し怯えて、静観が投げ返されてくる。失われてしまった時を埋めるような部屋に彩られているために、うっすらと、布のかかった立方体のあたりだけ、流れのうごきらしさを感じ取ることができる。撫でることも不可能でなく、ただ、そこには独りだけがあった。
流れる冷たさがマンハッタンカフェの表皮をついていて、眉を顰めながら、目を開けた。涙のながれた跡が、主張するように痛みをもたらしてきて、指で根源を押し消そうとしたけれど、ぴくりと、動いただけだった。さむい、が、湧いてきて、きっと心からくるものだ、と思い至る。耳の先端から鋭利な痛みがやってきて、すぐ後に鈍い衝撃が加わった。
「覚めたかい」
こんどは手を置かれていたわけではなかった。それでも彼女の意識は、一息に目覚めて、そこから瞬きをして、彼女から体温が失われた。聞いたのは三度目だったけれど、ひとつひとつの出会いがあまりに強い
「まったく、私は唯の慈善家なんだけどねェ」
彼女からひとつ人間性が転がり落ちて、しかし次はそれをかろうじて拾い集める時間を持っていた。どこが──絞り出したその言葉は、オーゼンを笑ませるだけで、彼女は手を握った。爪が食い込んで、皮膚が軋んでいた。このひとに対して、どういった感情を抱けばいいのか。あまりに極端な二つが混ざってくれないので、彼女は確固たる理由のないままオーゼンをにらみつけていた。離れてくださいと、彼女は絞り出して、オーゼンはそれに応じるように、言葉なく、立方体の反対側に腰を掛けた。ここがオーゼンの、はじめて見せた、甘さであった。彼女が背中を見せたという事実は、マンハッタンカフェにとって、ひとまずオーゼンを背景に置くことを成功させる鍵で、彼女はしゃがんで、アグネスタキオンの手をとって、彼女が目を開くまでずっとそうしていた。何もできなかった自分を、ほとんど呪いに等しい攻撃で包んでいた。それはアグネスタキオンがまだ、生きていたからだということに、彼女はもう気づきすぎていて、あまりに大きいために、眼がそれに支配されて気づけていない。
ひとであって、ひとでない種族を生きている自分が、ひとと過ごしていて、ネガティブに違っていると思われることが、あるいは嘲笑的に違っていると口にされることは、当然のように愉快ではなかった。マンハッタンカフェも、アグネスタキオンも、ただ座っているオーゼンもそれなりに不愉快だった。そう否定されるひとの、その全てを消滅させたいという欲望があって、きっとそれを達成した暁の弁解として持ち出すためのジョーカーだった。この論理の素晴らしい点は程よい感情を含んだ正論であるというところで、正しい反駁を為すことが出来ない歪さでもあった。あの不躾な、非探窟家とも言うべき一層の輩たちが、存在していることで。自分は、そこからひとつ階段を上がった場所にいたと信じることが出来た。彼女たちは一段上がっていたかった。
「……ま、君たちの選択だから私には関係ないけどね」
オーゼンは二人に見えないように、親指と人差し指をこすり合わせた。「隠し事は嫌いだからさ」
「──君らは成れ果てじゃない。むしろもっと酷いものさ、度し難いくらい」
マンハッタンカフェは意識してオーゼンの話だけを聞いて、アグネスタキオンを見つめていた。
「さぁ、何だろうね」
ひとりの悲しさが、そこにあるような気がした。マンハッタンカフェの色は髪の色で、今包んでいるあたたかさは、当然にアグネスタキオンが与えたものだ。彼女は残酷に易しくアグネスタキオンを彫刻しようとしていた。目の前に居ないオーゼンが、目を瞑ると、自分と同じ、ともすれば自分よりも、少女のような気がしてならなかった。だとするのならば、彼女はいったいどれほどの嘘を吐いてきたのだろう。無神論者のようにくすくすと笑っているオーゼンの、それが張り付きであることすら忘れているのだろうか。若しくは、本当に、魂すらも騙していくことを選んだのだろうか。彼女には分からなかった。白笛であることは、そういったどこか刹那的な狂気、それを持続する術を備えていることなのだろうと納得するほかない。
「これかね」
つい、彼女はオーゼンをみた。マンハッタンカフェとオーゼンとの間には、一メートル半弱の立方体ひとつほどの距離しかないはずで、それなのに、真横で、頑なに自分を見ずに、語りかけているような感覚が、左から右に流れていった。左手に握られていた白い笛、その形状はまるで涙のようで、彼女の掌に収まるほどの大きさであったけれど、それを体の中央に戻して、しばらく撫でている。──だいじなものだ。私にとっての、目の前のひととおなじくらい。少女はそう思った。
中に人間が居る。
アグネスタキオンが意識を取り戻したのは、そこでだった。奇しくもこの、何か残酷なことが始まる予感。それらが湛えられた場所で、アグネスタキオンは目覚めた。生きていること、それ自体に彼女は、どうなのだろう。驚いたか否かで言えば、そうではない。やはりか、という言葉が胸中にあった。それがどちらであれ、彼女はやはりか、と唱えたであろう。自分の手が袖で隠れているような気がした。やけに汚れている裾、沈みきったもの……これは精神の汚れだろうな、と、彼女は目やにを擦った。マンハッタンカフェの掴んだ手からするりと抜けている。涙のながれた跡が、主張するように痛みをもたらしてきて、するりとなぞっていくと、頸動脈に辿り着く。二人にとって、自然なことだった。すると今までの鬱屈めいた頭蓋の、それを保持したまま、ふと他のことに目が行く。その頸動脈を、なぞるように押さえる。マンハッタンカフェが、その右手をきつく、掴んだ。少女のように首を小さく振る彼女を、黎明してはっきりしていく視界で
「……タキオンさん」
「……なんだい」
マンハッタンカフェが、水面を求めて、やがて水を飲み込んで沈んでいくのを、止めることが何よりの不幸を招くように思われて、じっと見ていた。彼女の手が震えて、それは、温もりを感じていることに違いない。生命にいま、触れていて、喉の奥がいくら水で
奥の方で小さな、それでいて大きな質量を持つ音が立って、オーゼンがしっかりと、何かを確かめるように立っていた。その影響が、マンハッタンカフェに伝播してきて、彼女たちのかなしい、秘密、およそ比べるべくもないはずであった責務が、圧殺されるように割られている。一見して、振り向いたオーゼンの姿は、この薄暗い部屋、数多の書物と無機質であるものにひどく適合していて、彼女自身も受け入れているようだった。アグネスタキオンをあわや、というところまで押していた彼女が、その、アビス全てを満たさんとする魂の色をすっかり失わせて、今どんな色をしているのか、悉く明かそうとしない。ロボトミーとも言うべき凄惨な違和感がマンハッタンカフェを引き込んでいる。つらく、そして水を張った様に重たい。
「このまま二人で進める、なんて考えてるならさぁ、君らずっと此処にいる方がまだましだよ」
彼女の声は、むしろそうしろと願っているようにすら感じられてくる。
「……いかなきゃ、いけないんです」
──そうかい。彼女は悲しそうに、それだけを言った。
オーゼンの返答が合図にでもなっていたかのようにテルがやってきた後、行き詰っていた私室の空気は嘘のごとく霧散した。伝えねばならぬことがあったはずで、彼女はほとんどの苦しさを消失していた。二人のあれこれを心配する彼は、実のところこういったことになることを、微細に感じ取っていた。そのことに気づいたのは実際にそうなってからであって、全てが言い訳になってしまうけれど、しかしテルは心の中で提言するしかなかった。あまりにも二人が危うかったから。彼女たちに降ってきた、抽象的な啓蒙が、体内へ侵さんばかりに暴れているので、背骨が曲がり、やがて倒れ伏していくに違いない。たった一人の
「死ぬんじゃねぇかってさ、ぼんやり俺思ったんだよ。オーゼンさんのところに送る時」
でもそうはならなかった、と彼が伝えて、オーゼンはそれを鼻で笑ったようであった。「別にやったって構わないんだけどねェ」
「その子らの選択なんだろ、好きにさせてやるさ」
二人にとって、血の混じった吐瀉物のような時間だった。二人は今、半分抱きしめあって、お互いの存在を確認しなければならなかった。思った通りに冷たい体温。握りつぶされた思想。持ち寄せて、作り上げたはずの行動は、彼女たちが見上げるほど高く、反転して彼女たちが望むまで穿ってくれると疑わなかった。あるいはそうさせないものが現れないことを願っていた。その子ら、ま今度はせいぜい心でも介抱してやりな、と放った彼女の言い草は、ひどく丁寧で、やはりマンハッタンカフェには、小さく鋭い、疑問の生まれるのを無視できなかった。立てるか。テルがそう問いかけて、彼女は反射にはい、と答えてしまった。残り僅かに残ったプライドが、もう誰もアグネスタキオンに触れさせまいと彼女の手をとっていた。
「ごめんよ、カフェ」
彼女は驚いて、あわやかき集めた、泥水のような産物を、吐き出してしまうところであった。目を瞑って、ここで何か、わからないけれど、何かができたのなら。しかし彼女は、丁寧にアグネスタキオンを抱え起こして、テルが残念そうに、自分の後をついて部屋を出るのを拒まなかった。自室の記憶がほとんど途切れていた二人に、テルはおそるおそる案内を申し出て、主にマンハッタンカフェがそれを受諾した。オーゼンの言う通り、彼女たちは疲弊していて、休息が必要だった。勝手に殺されかけて、勝手に生かされて、勝手に慮られていた。自分たちは精々二分か三分、走ることが出来る。ここではそれが、それだけと見做される。生きている意味とは別の部分の、何か、支柱のような棒が撓んで、やがて折れていくような光景であった。外の階段を下りて、アグネスタキオンを支えながら彼女は温かい樹木の内部に格納されていく。テルが先導していて、彼の足音は独特だった。後ろをついてくる彼女たちの足音に合わせて、速度を加減していた。
「……
「はぁ」
無理矢理明るくしたような声だと彼女は理解していた。その言葉、いくらかましな色を作り出さんとする試みに手を乗せるほど彼女は正常ではなかった。彼女にまだ残っていた人間的な部分が、口から相槌を吐き出していた。
「俺が入った──まぁ、無理矢理みたいなもんだけど──そん時はもう、オーゼンさん以外に誰も居なかったんだ。洗濯も二人交代。適当に野垂れ死に欠けてたところを拾ってもらったから、多分気紛れなんだろうな。だから年も名前も分かんねぇ。俺のも、オーゼンさんのもな」
マンハッタンカフェが返答しなかったので、彼はちらと振り向いた。聞く気があるようであったけれど、自分の言葉が、より単純化された音声として届いているふうで、動く壁に当てているような気分、と形容するほかなかった。それが彼にとっては全くの好都合で、彼はマンハッタンカフェを、当たり前に人間と認めているからだった。人間だからこそ、もののように扱うことに、彼は云われない快感を覚えているのだ。
「んー、だから、何だろうな。ちょっと、羨ましいかも。いや、別に殺されたいとかじゃなくてさ、オーゼンさんが色々言うの、聞いたことなかったから」
これは彼なりの、呪縛からの解放と言えた。彼ばっかりが救われていた。この距離、私室から彼女たちの居所に向かうまでに配置された救いの量を、知らず知らずのうちに彼が独占していた。自分が微笑していることにすら彼は気づいていなかったのだ。心の臓腑の内側で蠢いているもの、奇妙にも新旧
「今、多分、そうだな。嫌い……なんだと思う。二人が」
「──そう、かい」
聞こえてきたのが、ダークでない、ある種の美しい掠れ声だったので、テルは刃物を背中に突きつけられたように振り返った。足音が途切れて、彼は吐き出して戻ってきた、これまでの言葉を一度口に入れてみた。たいそう酷い、手指の喉から溢れさせるような味がして、その手指に押されるような謝罪の言葉は表面だけをなぞったカラーコピーの域を出ていなかった。アグネスタキオンはその彼を見て、ひどく同情していた。また、羨ましいとも。彼女が許されなかったことを成し遂げている、そんなもっともらしい盾が、彼女の存在をより絡ませている。いいさ、別に。彼女はそれを言うのでやっとだった。
その日の夜はお互いが一つの寝床で睡眠をとった。誰かが語りかけてくることはなく、アビスにやってきてから一番に平穏な夜であったと言えた。アグネスタキオンの寝相はあまり良くなく、反対にマンハッタンカフェは胎児のようで、一度何が怒ったのか忘れてしまいそうな悪夢で目を覚ました時も、マンハッタンカフェは落ち着いた寝息を立てたまま、彼女に手を這わせていた。そのおかげで、寝汗の酷いのはそのままだったけれど、彼女は眠ることができた。自らの命、それを擲つためにアビスへと赴いたのは、もはや訂正のしようのない事実であったけれど、それでも、その、到達として、自らの終わりがあるのかと考えると、滲むように浮かんでくるのは、深界の、見たことのない景色に目をむける二人の姿であった。どうしようもなく、彼女は生きたくなくて、生きたかった。
微かな足音で目が覚めた。このまま何も変わらない朝が、朝というだけで来なければいいとさえ思えた。べたついていた皮膚が、かろうじて離そうとしないマンハッタンカフェの手と僅かに重なっていて、急いで彼女はそれを取り払った。世辞にも体調を偽ることはできなかった。少しずつ大きくなっていく足音が、妙に怯えているような、理由はないけれど、そういった、向かってくるのと反対の心持を、感じ取った彼女は、体を助け起こして、マンハッタンカフェにとって酷いことが起こらないように、そっと肩を押した。
結論として、足音の主人はオーゼンだった。彼女の存在は、その所作こそ全く変わらずに、どこか自分たちのことを離れた場所から見ているようなものだったけれど、彼女の、震え上がるような勢いがポツリと消えているので、オーゼンの皮を被った別人であることを、彼女は考えた。片手に盆を持っていて、飯を届けにきたということらしかった。テルについて、彼女はやけに行きたがらなかった、という以上の説明を頑なに拒んだ。頑なに拒んだ、それに大きな、悲しい理由が存在するのに、ふたりは気づけなかった。
続きます。