楔を抜いたのなら、そこに穴ができるのは当然の理屈であった。それでも彼女は、何か、それこそ遺物のふしぎな力で、目の前の肉体がせめて綺麗になって、人間として内包されたまま生命を終えることを許されてほしかった。枯れた腕をそっと握ると、血すら出なくなったそれが、突き動かされるように冷たくなっていく。
「つまるところ、私たちと成れ果てはそこまで関連性がない、というわけだ」
「……」
運ばれてきた食事が妙に美味しそうで、マンハッタンカフェは思考の相反するのに手間取った。諸々を煮込んだ具材が単に展開されているだけで、シンプルなもの、しかし作り手の感情が見えるものだった。彼女は端的に、少しだけ、口をきつく結んでいた。アグネスタキオンがきっと、二度と己の命を、自分のために使うことが無いと知っていても、彼女は起きた時からまるで生きた心地がしなかった。
「はっきりと外から来たらしいけれど、彼女ら白笛が口を揃えるには下手をすると成れ果てよりも度し難い生き物、らしい。彼女の私室にあった本にも記述はなかった……」
「……」
「けれどどうやら、
「……ごめんなさい」
彼女は匙の先を液体の中に沈めてしまった。木製の二つは大きな音を立てることはなく、その撃力は液体によってよりなだらかとなったけれど、重要なのはそのあと、彼女がアグネスタキオンの頬を小さく、優しく張ったことである。アグネスタキオンの、いつの間にかくぐもっていたものが、香りの感覚という部分で肉体的に解き放たれた。アグネスタキオンは彼女に、というよりも、自分自身を保つために自分へ話しかけていた。
「私たちが行ったことは、許されるものじゃありませんけれど」
彼女は座るマンハッタンカフェの、後ろからゆっくりと抱きしめるような精神を持っている。
「それでも私は……私は、私の目の前で死んでほしくないんです……あなたに」
呆けたようにアグネスタキオンは、自分の左頬を張った相手を見つめていた。気づかぬうち、彼女の手は生まれた時から温度を失ったかと考える程に、小さく震えていた。微かに暖かい左の頬に、冷たい物体が触れる。それは一体なんだろう。それはマンハッタンカフェの指だ。彼女も同様につめたい指先を持っていた。アグネスタキオンが一つの、大きさの判別のつかない事柄に気づくのに、あまりに致命的な時間が過ぎていた。幼気な少女が身を挺して、幼気な少女の心臓を握ったのである。
ごめんよ。それは二つの意味であった。彼女は再び、彼女を視界から外すことに、まだ恐怖を抱いていた。アグネスタキオンの匙もいつの間にか皿の中に落ちていて、持ち手までがスープの中に溺れてしまっていた。拾った匙の、二指で拭き取った後の、ついた雫を、彼女は恭しく舐めとった。それから彼女たちは何も言わずに、スープを空にした。彼女たちに涙という機能が残されていたのなら、どれほど塩味になったことか分かったものではなかった。それでも、彼女たちは空腹を満たすことを選んだ。前向きか後向きか、その定義が定かでないために、わからないけれど、彼女たちは生きることを、能動的に選んだ。味はほとんどわからなかった。
「……ごちそうさまでした」
「ごちそう、さまでした」
彼女たちは手を合わせた。
「食ったかね」
あまりに唐突にオーゼンが出現したので、彼女たちは却って普通の態度をとってしまった。開け放たれた扉から、後光のように彼女の背を光が叩いている。特筆すべきは、全く足音が立たなかったこと。オーゼンは眩しそうに、一度だけ目を瞑った。彼女の立ち振る舞いは何ら変わることのない、酸い甘いを繰り返し過ぎたあまりの姿。それなのに、常から漏れ出していたオーゼンの、色、空気が全くもって消失している。
「もう少し明るく食ったらどうだね、私の嫌いなひとの受け売りなんだけどさァ」
「……原因は貴方の方だろうに」
「好きに言うといいさ。食ったらさっさと片付けてきな。私の部屋で待ってるから」
オーゼンはそれだけを言い残して、今度は明確に足音を立てて去っていった。はっきりと、強固な音だ。マンハッタンカフェはしばらく瞳を閉じて、完全に足音の消え去って、世界が二人だけになってから、器を両手で抱えた。食洗の場所を教えられていなかった彼女は、それらしい記憶──目を開けていたときの探索を頼りに、彼女たちは手探りで同階の食洗場所を見つけた。水が流れ出てくる蛇口の正面に、小さな窓が備え付けられていて、その土台にはきれいな、トコシエコウの花が飾られていた。
──私は。あまり、す、好きじゃないです。確かエリカが言っていた。アグネスタキオンはこの花が好きだった。流れてきた水は彼女たちの予想よりもやや冷たく、そこで自分の指がすこしだけ温まっていたのだと気づいた。実際に染まったことはないのに、血の風呂に手を入れた後のような幻影、それも次第に薄くなってきていた。
「生きる、ねぇ」
アグネスタキオンは奇麗になっていく器に視線を移して、呟いた。「生きる、かぁ」
不合理な、理不尽な状況であると疑うことを、既に彼女たちはあきらめていた。
「私たちはさ。誇りとか、夢とか、大切なひととか、そういったものを求めて走っていたじゃないか」
「ええ」
「間接的に、命を……自分以外の何か、たとえそれが自分自身の中にあったとしても、その為に燃やしてきたことになる。たのしかったり、くやしかったりする所為できっと、私たちはほんとうに命を燃やしていると思っていた。走ることから退いて、その後も、私たちは違うかたちで、生命を全うしていた……多分、その気になっていた。いや、私たちは使えるだけの生命を全うしていたんだ。ほんとうに、比喩じゃなく、生命を考えることがないから。死んでもいいとか、よしんば本当にそう思っていたとしても、幾らか
「──私には、分かりません」
けれど。
「自分の命を、蔑ろにしないでください。私がまた頬を張りますから」
彼女は傍にあった布巾で器を拭いた。ぴっと跳ねていった水滴が床面に落ちて、やがてしみになって消えていった。この事象すらもが、大きな意味を内包しているのではなかろうか、などと読み取れそうなほど、マンハッタンカフェの声は固く、それでいて優しい。それを思っているから、余計にアグネスタキオンの感情──彼女にとって、それが何であるかまだ定義しきれていないのに──が、嚙み砕かれるゼリー飲料の様相を呈している。
「わるいねぇ……きみはいいひとだなぁ」
アグネスタキオンは唯哀しく笑んだだけであった。そこからオーゼンの私室を目指す途中で、大きく変化したこと、それは、彼女たちが一度だけ、手を触れさせ握ったことである。あっけないほどに短く、するりと解かれた時間は、それでも二人に、かけがえのない掌紋の摩擦感、手のひらと手のひらが近づくことの小さな反発感、甲のささやかな傷を与えてくれた。魂に刻んでおかなければならない。この感覚から、自分のとなりのひと、全てを思い出せるように。つながった感覚の一切を認められるように。そう、媒介に肉体を使用しなければならない程に、彼女たちは不安だったのだ。ひどく脆弱で、だからこそ美しいのかも、しれない。
オーゼンの私室に進入するための扉は、アグネスタキオンが侵入したときと全く変わらぬ様子で、わずかに人一人が入れそうなほどの隙間だけを許していた。アグネスタキオンは奇妙な、疑問を覚えた。それは目の覚ます前に抱いた、オーゼン自身について、それ以上に、自身が、如何にして生きているのか、という点である。寝首を搔く程度のことをオーゼンが成し得ないとは思われなかった。種族の壁を越えて、彼女の怪力はほとんど無限に等しい。彼女たちの思惑を全て両の手と足で、踏まれる蟻にも憐憫を向けられるような、凄惨な有様にできるのである。彼女は逡巡した。きっとマンハッタンカフェの聞かされていない事柄が、折角自分の手で引っ張り上げた自分を涙ながらに手放すやもしれない。それならば、と考えることが、彼女の右手を呼び出し、この澄んだ、高山のような空気に乾いた音を、今度は高々と響かせるに違いない。
進むことだけを考えるのならば、このオーゼンの、待っているという言伝に答える必要は必要は全くなかったと言っていい。彼女たちにとって、いまだオーゼンは恐怖という型に押し込めても、彼女自身が恐怖となって出てくるようなひとであるがために、目の前の隙間をもう一度潜り抜けることは、自ら頭蓋を解剖されにいくと志願するようなものであった。またオーゼンも、必然に思える偶然として、同じ心境だったのだ。部屋の中で、長い間ヴェールをかけていた箱に腰をかけ、
「っ」
その音が、扉を開いていたために彼女たちに伝わった。耳元から直接流し込まれたような錯覚が二人を占めて、彼女たちは反射的に耳を塞いだ。体の奥底から核部分を定義されて、そこを震わされているような衝撃だった。薄氷然とした空気が薄暗い室内から漂っているのに気づいて、アグネスタキオンはその冷たさが、目を覚ました時に自分の累加し続けた温度の、とても似るのを、理論を跳躍させて理解した。するりと二人は部屋の中に入り込んだ。
「きたかね。なら響いたろ」
二人の足音が、空気を震わせて、詰められた本に吸収されている。乾いた音を進めて、改めて見るオーゼンという人物の巨きさ。だけれど、確かな、違いがある。マンハッタンカフェは、アグネスタキオンと全く違う、魂からのアプローチで、彼女と同じ感覚に至っていた。今、水をオーゼンに掛けたとしたら、締め殺される前に、皮膚の爛れ、その奥のほんとうの姿を見ることが叶うに違いない。
前の来訪と比べて、オーゼンの私室は、それ自体が終わりを迎えているのだろうかと錯覚するほどに小さく、オーゼン本人に至っては背を少し丸くしてしまいそうなほどである。彼女が背を曲げているために彼女の部屋が狭まっているのだろう、と推察させるほどの、彼女の精神的大きさは依然として、もはや燦然と質量を持っているのだけれど、それがだんだんと不思議になってくる。彼女たちはオーゼンの無言の指図で、ついこの間は確かに無かった筈の椅子に腰をかけた。丁寧に茶まで出てきたので、どういった風の吹き回しかと問うた、そのひとがどちらかを論ずるのは、もはや意味がない。
「聞きたいだけさ。いつかの答えってやつを」
オーゼンはオーゼンで、しっかりと立方体の上に座っていた。あくまで彼女はロールを崩さないようで、二者の前に審判者として着座していた。だけれど、二人にとって、先に進むか否か、この二択は、今しがた小さな指の引っ掛かり、皮膚を刺し、血を流すようなものを得たばかりで、彼女らはまだ、体重をかけられていない。今、決めないといけないですか、そんなマンハッタンカフェの質問に、オーゼンはあくまで姿勢を変えずに、死ぬまで此処に居ることの無力さを説いた。
「──私
「それは、きっと嘘です」
空洞の中に、かほそい声が反響した。オーゼンは沈黙し、目を瞑って、続きを促したけれど、それが分かっていながら彼女は何も続けることができなかった。ただ、それがきっと嘘だということだけが分かっていた。テルの中に、彼自身の魂の色を表現する術が、嫌いという言葉でしかなかったから。明確に寄せられていった区分分けに、マンハッタンカフェはよく翻弄されてきたから。
「へぇ……で」
「結論は、まだ出ていない……けれど、私たちは多分、行くことになると思う」
彼女たちは、まるでオースにいた時と変わらない結論を持っていた。そう、彼女たちは。言葉を発したのがどちらかということに、あまり意味はない。マンハッタンカフェはそう信じていた。この言葉の重要な部分は、きっと多分、で、彼女が苦笑しているのはそのためだ。体の中で、まだ、もう握ることのできない手、首、見ることのできない眼差し、表情が蠢いている。彼彼女らの魂は、もはや自分たちのことについて何も主張することはできない。己の罪悪感と、使命感とをもって、彼彼女らの魂を作り出し、徘徊させている。私たちは所詮エゴの塊だった。目の前のオーゼンはアグネスタキオンが洋上のゴムボートにて、一人、また一人と、もしや己の秤の範疇を超えた、皆が平等に生存できる未来があるのやもしれないと苛みながら歯を食いしばったことを、知らない。
「だから、出来れば、聞いておきたい」
「何を、だい」
「君のほんとうの言葉」
オーゼンは少しだけ目を見開いた。人一人分だけ開け放たれっぱなしの扉から、まるで彼女たちに賛同するかのような悲壮さが入ってきて、それが現実である筈がないのに、返答を詰まらせた。マンハッタンカフェ、アグネスタキオンと名乗ったウマ娘の少女たち──彼女にとっては──は、彼女から見て、未だ豊満な苦悩を抱えていて、だから彼女たちがどういった選択をしようとも、笛を奪い取るつもりでいた。彼女らとの、ほとんど言葉も、顔も交わさない一、二週間あまりの生活は、成程自分とひどく似ていて、有体に、ひどく残酷なことになると予想がついていた。
「……そうだなァ、ま、いいよ。ただ口外無用だ」
誰かを守りたかった気がして、それが何か、誰からの願いだったのか、自分が課した呪いであったのか、オーゼンは自分の枯れた腕を見た。彼女が
「しかし君ら、自分の出自とか遺物のあれこれとか、この
「そりゃ、知りたいさ。私が奪ってきたものの理由とか、潰された船の理由とか、私たちの居る理由とか……けれど、きっと私は、何がほんとうか、そんなことを考えるのに少し疲れただけさ」
「へェ……」
オーゼンには、マンハッタンカフェのように魂を、ふわりと見る力はないけれど、もう二百年も生を紡いでくると、それなりのアプローチの方法が自然と編み出されてくる。彼女にとってのそれは、目だった。だからオーゼンは、彼女たちの目を注視するのを、避けてきた。きっとひどく綺麗だから。なら、なら。自分もひどく綺麗な目の持ち主だと認めてしまう。
「……何がほんとうか、ほんとうじゃないかとか、もう私にとっちゃどうでもいいんだけど」
そう断って、オーゼンは話し始めた。
続きます。