死へと至る病   作:________

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よろしくお願いします。


9:不動卿──深度0m

 千人楔(ヘルスジャンキー)と呼ばれる代物は、それ単体で間違いなく素晴らしい破壊力を有していた。絶望的な痛みの先に一つを刺すことで、ほとんど文字通り千人分の力を手にすることが叶う、つまり彼女の心臓はその楔の刺された瞬間から、文字通り千人分の鼓動を与えられたのである。ある種の不可逆的な熱機関として機能するそれは、千人分の鼓動回数のうち幾らかを使用して、刺した一点に熱量を与えるために、オーゼンの手足を引き換えに、不動の名を冠するようになったわけである。この遺物の、遺物たらしめている点のひとつは、まさにその代償にある。熱力を生み出したとしても、その熱に肉体が耐えられるか否かという問題は依然として残っている。遺体から回収されたいくつかの千人楔が殆ど左手に刺されていたのは、目録に覚えのない遺物を使用する際、利き腕でない手が喩え破壊されたとしても、右手が生きていれば探窟の幅を担保できるためであったのだ。最初に右手(・・)に刺した時、その遺物の何たるかを素早く感じ取ったオーゼンは、それから気を狂わせたかのように千人楔を収集した。いわばこれは千人分の命であった。彼女は概して十二万の命を持っていた。それら無限に思えるほどの願い、怨色、恋慕をもってして、彼女は不動たり得たと言っていい。

 

「──だけどねェ……力加減が面倒臭いったらありゃしないんだ」

 

 オーゼンが苛立たしげに右腕を軽く振ると、それだけで持っていた徳利に罅が入って、ぱらぱらと砕けてしまった。これを示すためだけに彼女はあらかじめ熱く燗しておいた酒を飲み干していた。

 

「あの、お師さま……もう、とっくりが無いんです……」

 

「おや、もうかね。ま、また買えばいいさ。いっそあの店の爺も地臥せり(私の隊)に引き込んじまえばいい」

 

 マルルクは半分、呆れるように笑っていた。ほとんど誰も来ない応対室で、オーゼンはしばしばこのように酒を飲んでいる。ここ二、三年で、その頻度は大いに増している。もう、酒自体に呑まれるといった域を超えていて、たまにやってくる協会からの任務の他には、飲酒をしない日の方が少ない。そこまで強く無いのにも拘らず、である。彼女にとっての酒が、何を示しているのか、その頻度の増えた二、三年で幾度となく聞いた千人楔の話で、マルルクはほとんど想像がついていた。それを隠して、いつもの服を身に纏って、飲めるようになった酒で相手をして(大抵先に、オーゼンの方が潰れてしまう)自分の主人と探窟をしたりしなかったりするのが、マルルクなりの生き方であった。

 

「じゃぁ寝て起きたら色々買いに行くとするかね。マルルク、十二時間後だよ」

 

「わかりました、お師さま」

 

 この深部で、あまり昼夜という概念は意味をなしていなかった。今から二十四時間後が明日であって、しかし、今は殲滅卿の訃報から二十四年が経過していた。一人称がボクから私に代わるには、聊か十分すぎる時間だった。マルルクとオーゼンの私室は思いの外に遠い場所にあって、一度オーゼンの方からもう少し広い部屋を割り当てようという話を持ちかけたけれど、今のままで良い、とマルルクがやんわりと断ったのであった。醜い、とも言える自尊心がそこにはあった。自分こそが、この部屋の歴史の正当な継承者であるという、矜持。寝床に転がって、時計を見る。

 

 地臥せり(ハイドギヴァー)の構成員は既にオーゼンと、マルルクのみであった。元々一人で監視基地(シーカーキャンプ)を回していた彼女にとって、物理的にはさしたる支障はなかった。死亡率の低さで知られる当該隊の多くは、老衰によりその生涯を終える隊員ばかりであって、たとえば腕、手を不運にも捥ぎ取られた際に、有無を言わさずオースへ叩き送り返してしまうためである。マルルクはただ幸運であるだけに過ぎなかった。月笛にまで成ったけれど、ほとんどオーゼンの探窟にぴったり同行していたからに過ぎない。そういった部分が、マルルクはとても好かなかった。ベッドの下を弄って、もう着ることのなくなった華奢な服、小さな日傘を見つめて、すぐ元の場所に押し返す。これもオーゼンが当然のように(実際に当然である)薪の燃料にせんと引き取りかけたところを、強く願い出てそのままにしておいたのである。

 

 自分の日々が、とてもゆっくりと加速して、感覚が鈍くなっていくのを、マルルクは悲壮的に感じ、捉えていた。リコとレグ(あのふたり)を送り出してから、この加速が始まったのだ、と結論づけた。己の身に、これ以上の快楽がないと言い聞かせてなお、彼彼女の颯爽とした通過の仕方は、マルルクの方をチラと見ただけで、何とも扇状的であった。自分の都合の良いように解釈するという、おとなの特権を、マルルクはこの時持ち合わせていなかった。リコの顔も、レグの声も、もはや記憶の中に溶けてしまって、曖昧にふやけている。意識に靡かされて、もう一度体を横たえると、慣れてきた酒の吐き気(これは一気に吐いてしまう方が後々得である)を、既に愛おしく撫でている。これは一種の証明なのだ。自分と、オーゼンが存在したことの。

 

 翌日、つまり十二時間後、彼女たちはいとも簡単に(オース)へと舞い戻っていた。マルルクの日の弱いのは、いくら経っても変わらなくて、次第にオーゼンが装備の、遍路の傘をぶっきらぼうに貸すのが常となっていた。マルルクが月笛となったのは特に最近のことであったので、交流のあった者、元地臥せりの隊員などはしきりにマルルクのことを目にかけた。特に三度の降格を経験した者などは、なかなかに複雑そうな顔を浮かべて、彼の住居の壁にかかっている笛を見つめたものである。地上へ戻った際に、オーゼンがすることといえば、大抵はこの、昔馴染みの隊員との語らいだけだった。最近うまくやっているかとか、食い扶持の云々であるとか、他愛のないことを背を曲げて。枯れた手足の白笛と、右腕を失った隊員が。マルルクはその間、何も知らずに諸々の買い物を済ませる、という了見だった。生まれてきて、両親よりも長く世界を過ごしてきたマルルクにとって、その提言はあまりにも虚しいものだった。自分が振りまいた虚栄の結果見えたものは、ただ単なる優しさだけであった。

 

 持ちきれないほどの酒と器とを持って帰ろう。何回でも。自分にできることは、ただそれだけなのだから。

 

 

 

 次の瞬間、マルルクはオーゼンと、もう幾度目になるか数えるのを諦めた酒の席に座っていた。それはマルルクにとって、致命的で、自分の存在が、受け入れていた停滞から動き出さねばならないほどに、脳髄の前頭葉を咀嚼されるようなインパクトを持っていたので、嫌なのに記憶に残っている。

 

「あぁ、そうだ、たぶん、そろそろだねェ」

 

「寝ますか、お師さま。部屋まで一緒に行きますよ」

 

 この時、オーゼンはひどく深酒をしていた。酩酊々々とでも形容するしかなく、空いた様々の酒が無惨に卓上へ転がっていた。明日の宿酔(ふつかよい)はひどいだろうな、と、まるでこれから私室まで行くことを確定づけるかのような思考をしていたのだった。ほんの少し足取りのおぼつかないマルルクと対照的に、オーゼンはひどく澄んでいた。そういうことじゃないさ。彼女はわずかに口角を上げた。

 

「寿命さ、私の」

 

 それを聞いた後の、自分の返答……きっと小さな、短いものが、全く思い出せない。その原因を、マルルクはほとんど一ヶ月間考えて、ここが最後の、戻れる場所だったから、という文言を生み出した。そう信じることで、マルルクは少しでも、自分が動いていくのを堰き止めようとしていた。だからこの瞬間、マルルクの記憶の中で、マルルクは存在していない。暖かな応接室、オーゼンの表情、少しだけ瞬いたガス灯の光、それらがマルルクのかけた空間を外から埋めていって、自分の存在が、追い詰められるように許されているのである。

 

「私のことくらい分かるさ。このまま千人楔(こいつ)を打ち込まなけりゃあと一年くらいさね」

 

「……なら、探しましょう。まだ残っているはずです、どこかに」

 

「無いよ」

 

 自分でない精神が体を乗っ取っていることを見透かしているのか、定かではないけれど、オーゼンの双眸はひどく鋭く、マルルクを射抜いていた。この目に、久しく撃ち抜かれたことがなかったマルルクは、一瞬、大きく心臓を撥ね飛ばして、どこかへ追いやってしまった。

 

「というより、見つけてももう殆ど意味がないのさ」

 

 この千人楔を遺物たらしめている点、その二つ目は、与えられた命を自らで切り売りしている点にある。十二万人の命、祈りを託されたひとりの人間は、そのひとりひとりの鼓動を力に変えて集約し、発揮する。不動卿としての装備(彼女自身がつけた不知拍(ペースメーカー)という名前をよく気に入っている)がもたらす、気化熱を利用した冷却法とそれに伴うエネルギーの増大を掛け合わせて、四肢が枯れ木と化すまで戦い続ける。だんだんと減っていく鼓動回数の、正確な残量を知らされぬまま、である。何時か分からない死を防ぐ手段は、またひとつ新たな楔を刺す他にない。また千人分の感情の呼び起こす痛みに耐え、耐え続けなければならない。よしんば打ち込めたとして、それはただ曖昧な残量の、さらに曖昧になったのを示しているだけに過ぎない。それを理解していながら、生き永らえるために楔を刺すしかないのだ。

 

「私はもうボロボロだからねェ……まポックリ逝ける分マシな方だ」

 

 オーゼンは目を閉じて、目の前の清酒を口にした。マルルクの中で刹那的な、怒り一色の感覚が過ぎていた。目の前の主人は、きっと預かり受けた十二万の命の、十一万九千あたりをその手で殺害してきた、そんな責苦を負っているのだ。もう息絶えてしまった者たちの亡骸を砕いて、目の前の障害を破壊しなければならなかった。それをマルルクが否定することは、それが到底できるはずもなかった。この二十年間、己が身は一体誰の御蔭で存在し続けられたのだろう。自分ひとりの存在の保証のために、幾万人の祈りを使いつぶしてきたのだろう。

 

「……お師さまは」

 

「ン」

 

「どうして、私を生かしたんですか」

 

「それは出会った時のことかい、それとも?」

 

「両方、です」

 

 突き刺さった棘の崩れていくのを、見ているようだった。受け入れがたいような事実、意識がそれを拒んでいても、脳内の幻影が自らの主の輪郭を溶かしはじめていた。その主が、やはり無神論者のように笑った。

 

「今も昔も酔狂に変わりないねェ……一度限りの盗人さんには十分な理由だろ」

 

 それはオーゼンの、限りない優しさの表れだった。マルルクが、彼女の私室に置いてあった千人楔──総計百二十七本目で、その日の寝る前にに刺すことを決めていた──を手に取ったとき、久方ぶりにマルルクはオーゼンに平手を貰ったのだった。何もかもがすれ違っていた。マルルクは千人楔の、麻薬にも似た性質を露ほども知らなかったうえに、子供らしい罪悪感、庇護されることへの焦燥が募っていた。マルルクは涙が出るほどの痛みと、もう何だったか分からない り言を受けて、いま真っ当に月笛になっているのである。

 

「別に悪く思っちゃいないさ。ただ──少し、疲れた」

 

 疲れた、その文言がマルルクの心情に、深くしみこんでいた。

 

 私室に送り届けた後、マルルクは自らの吐き気に寝床の上でほとんど昏倒していた。自分の命もあと一年で、前触れなく消失してしまえばいいとさえ考えた。それが叶わぬのなら今を切り取って永遠に保存しておきたかった。今以上に美しい停滞を想像することができなかった。アビスの真相が、残りの命をぼんやりと認識するしかない主よりも、重要なのだろうか。毎日でなくともいい、ただ、たまに酒をのんで、大人びたイェルメに会って小突かれて、そういったことが続くだけでいいのに。

 

 ──そうだ、その停滞にすら、お師さまは痛みがないと……

 

 結局マルルクは屑箱に胃の中身を吐き出した。すべてには変化のベクトルがあって、それをどこか遠い処で受け入れているのを認めなければならなかった。一人になった監視基地(シーカーキャンプ)を、想像してみる。あまりに大きく、掃除のほとんどを自分が行っていたことがまるで信じられない。酒の消費量は明らかに目減りし、破損した物品修理も、破損させるひとがいないのだからほとんどせずに済むだろう。自分は少食だから、総じて金回りはほとんど心配ない、寧ろ蓄えを鑑みればシーカーキャンプ内から出ずに生の終わりを迎えることすら不可能ではない。

 

 ……へんなひと、だからなぁ。

 

 マルルクはそこで眠りについてしまった。握る手を放し、意識を底に落とす寸前、眼からひとつだけ涙が、シーツを濡らした。

 

「あぁ、オーゼンさん……そうねぇ、そろそろかな、って思ってたけど、やっぱりか」

 

 ひと月あと、買い出しの関係でマルルクはイェルメの住処を訪ねていた。金ならばほとほとにあるのに、こっちの方が落ち着く、などと云って南区の近くに居所を構えるものだから、南区の中では突出した環境の良さに、凡そ月二、三の頻度で窃盗、または物乞いの(たぐい)が来訪してくるらしい。右腕を失った彼はそれでも二十年前の陽気さを失っておらず、さらにはそれを昇華させている。彼も、マルルクの告げた事実をよく噛みしめて、少し身を震わせたようであった。

 

「まったく人が好過ぎるよな、オーゼンさんはさ」

 

「……はい」

 

 あ、さてはあんまり分かってないだろ。俺そういうの、すげぇ分かりやすいから。寝床の上で胡坐をかく彼は、まるで少年のように笑っている。ここで、彼に怒りをぶつける選択肢は確かにあった。実際にマルルクは嫉妬を覚えていた。だけれど、その言葉を発することで、きっとイェルメとの決別は現実となって、ほかの二人とも同じく、自分は真にひとりになってしまう。それが怖くて、しかしながら蠱惑的に語りかけてくるので、なりふり構わず逃げ出していた。

 

「──わっかり易いなぁ、マルルクちゃんは」

 

 不意に伸びてきた左手が、マルルクの頭を不器用に撫でた。未だにどっち(・・・)か分かんなくなる時あるもん。マルルクよりも一回り年上の彼は、つまりほぼ五十を迎えようとしていて、自分もいつかザポ──隊員きっての老人のようになることをある種の達観をもって受け入れていた。次第に顔つきが変わって、それに悩んだり笑ったりする皆から、マルルクはそっと目をそらしていた。

 

「分かりません……でも、お師さまには死んでほしくない……です」

 

「あの人が本当じゃないこと言ったの、リコちゃんとレグをあれこれした時くらいだろ。嫌でも本当になるし、無理やりにでも本当にするさ」

 

 イェルメは感慨深そうな、郷愁の滲む小さな笑みを浮かべると、じっとしたままのマルルクを見据えて立ち上がった。そういえば茶も出さなかった、というので、反射的にマルルクは柔らかく断ろうとしたのだが、二人の間の友人関係は当たり前に短くなく、イェルメは出来るだけ素早く茶をつくるようにしていた。石造りの彼の家は、その色合いと裏腹に温かい内部の空気を備えていて、少しだけ肌寒くなってきたこの街の中、マルルクにとってほとんど唯一といっていい場所だった。相変わらず彼は茶をつくるのが下手で、今回のは特別に薄い。香りだけ幽かに漂っているけれど、ほとんど湯のようなものである。ふだん、この味の薄さ、濃さに関して、マルルクはただ少し笑っていたのだが、これすらもが、自分の、ないと断定していた不変のひとつのかたちなのかもやしれぬと考えてしまうと、もう神妙に飲むしかなくなった。この茶の味から展開されたかに見えた彼の論理は、端的に言えば、うらやましい、という、ただ一言に尽きる。彼はその一言を、多くの言葉で、なんと薄めずに伝える力を所持していた。あまねく甘言となってマルルクを襲ったそれら自分の行為を正当化する文言は、それがイェルメの願い、その正しい形でないことを伝えられたために、あっけなく命を終えた。

 

「俺はもう大人だからなー。もう探窟もしてないし、多分、色々考える頭ってのがもう無いんだ」

 

 案外俺の方が先に逝ったりして、な。薄い茶を飲みながら彼は笑った。節々が重くなって、じりじりと匙に重量が感じられてくる彼の体は、徐々に、彼のぎりぎり気づくことの出来る範疇を保って、記憶を溢れさせていた。身寄りが生まれる、ということはなく、このまま旧友(シムレド)と、次第にその旧友が誰だか分からなくなってひっそりとすべてが終わるのだろう、そういった確信があった。

 

「マルルクちゃんはあれだ、俺たちをできた奴らって思ってるだろ」

 

「……ちがうんですか」

 

「違う違う、全然違うよ。だってほら、おんなじ人間なんだからさ」

 

「──おんなじ人間だからさ、笑ったり泣いたりするんだよ、俺だって。オーゼンさんも、多分な」

 

 彼の提説はそこで一区切りを迎えた。ここ数年来のオーゼンの話しぶりで、何かと察しの良かった彼は多くのことを問いただした。元来そういう立ち回りが彼女に見出されて岸壁街から拾われてきたので、オーゼンはひどく参ったようであった(実際、オーゼンは口の端を少し曲げて、その後大きく仰け反っただけなのだが、それで十分だった)。不思議な因果だ。自分にはあまりにも眩しい人生を送っていた、そんな自覚が、彼をオーゼンの、願い事の使命者に導いたのやもしれなかった。それは彼女の尊厳とか、ほとんど彼女そのものを奪うようなやりかたで、だから彼は冗談でなく彼女に反抗した。それがオーゼンの、ただひとつ、たのむよ、その言葉だけで崩れてしまうから、きっとオーゼンは、あまりにいい人なのだ。

 

 

 

 齢が三十を回って幾つかが経った。死体を見るのは彼女にとって一度や二度の経験ではなかった。結局最後まで慣れることはなく、決まってその日の夜は嘔吐したのだが、目の前に横たわるひとの様は、悲しみよりも、先にうつくしさがやってくるような様子で、マルルクはオーゼンの頬に触れた。ひっそりと抱いていた最後の希望が音を失って、自分が涙を、まだ流せるということに気づくまで、大きな齟齬があった。つくづく遺物は、ただ単に遺物であった。オーゼンはつい、ほんの八時間、九時間前、自分と何変わらぬように清酒へ口をつけていたのだ。与えたものを返してもらうような単調さで、彼女は既に動かなくなっていた。彼女が描いてきた、主と比べあまりに薄い三十年に、オーゼンはまさに自身が楔となって、あまりに大きい密度を主張していた。

 

 マルルクは発狂した。それでも自分自身を傷つける衝動の、理性で抑えつけられる悲しみに、また自身を狂わせていく。喉の裂き切れんばかりの慟哭が、虚しい部屋を震わせていた。これから四十八時間の間にオーゼンの体は腐敗していき、原型を失っていくのだろう。彼女の遺体をホルマリン漬けにするか、またはドライフラワーにしてしまうか、マルルクはまず、丁重に埋葬するという考えを思いつかなかった。大いなる停滞だけが、望みだった。図ったかそうでないのか、その頃シーカーキャンプには誰一人いなかったために、一つの叫ぶ獣としてマルルクは、意識の途切れるまで、楔の周辺だけまだ暖かいオーゼンの手を握っていた。

 

 目が覚めても、うつくしいままでオーゼンの死体が安置されていた。これが壮大な、自分を驚かすための仕掛けで、たとえばオーゼンに口付(くちづけ)をしようとした時、結ばれた唇の、またにやりと笑って、そうして久しく罰を受ける……そういったストーリーを、まだどこかで期待していた。流すことのできる雫の総量を意識の途切れる前に使い果たしていたマルルクは、それでもオーゼンのために、無為であるとしても何かがしたくて、手を胸の前で組ませた。形だけでも何かを祈りながら眠っていて欲しかっただけだった。

 

「……」

 

 マルルクの握らなかった手の方に敷かれて、小さな紙が残されていた。マルルクが手を握るとき、それは決まって右手の方だったから、きっとオーゼンは天邪鬼に左手を使ったのだった。小さな紙で、一見何も書かれていないように見えたけれど、裏返すとそこに小さな文字が刻まれていた。

 

 ¥かいぼうしな(かいぼうしな)

 

 これを書くとき、彼女にはたとえば、燃やせ、とか、そんな綺麗な方法を望む権利があった。それでもマルルクに伝えたいこと、課したいことは達成できると信じていた。しかしながら彼女がこの文言を記す表情はほとんど見せない柔和なもので、酒に酔っていたのもあるけれど、鋭く脆い芯があった。マルルクも、朧げながらに気づいていた。

 

 それは幻影だ! この心音と共に、浮かんでいた真実は突き刺され、死亡したかに見えた。物理的にまだオーゼンが存在していることが、マルルクの、人との境、揺れかかった針を弱々しく握っていた。自分自身の手で、主の尊厳を踏み躙るようなものだった。小手先の技術を用いて都合よく、千人楔(ヘルスジャンキー)の解明に用いる、そう解釈したい、自分の中で、オーゼンというひとをできるだけ良くして、昇華してあげたい。マルルクの欲望は既に利己的で、ほんとうのこと──仮にそれが存在するのなら──から目を背けている。それをオーゼンはまるで逐一見つめるかのように、マルルクはナイフの、枕の下に挟まれているのを発見するのである。こうなるともう、逃げることはない。自死を促していると誤解することもない。何度か自分に向かって、逆手にナイフを持ったけれど、完遂するための狂気が失せてしまっている。マルルクに残されているのは、オーゼンの遺した言付けに、何かを求める狂気のみであった。胸部から始めよう、という決意が、もしかするとそれすらもオーゼンは知っていのかもしれない、するりと解けるように浮かんできて、両手で持ったナイフを、それでも震えながら右手に持たせて、衣服を脱させマルルクはナイフを突き立てた。

 

 ぁ。

 

 開いた肋骨の下に、小さく固まった白い物体。人間が人間らしさを保つための臓器であったもの。滴った血に塗れて、マルルクはそれを取り出した。確かにオーゼンはそこにいた。弱々しく脈打っているようにすら感じられた。実際にオーゼンが生きているかどうか、という問題が一瞬瑣末なことと断じられるほどに、マルルクはその石を強く抱きしめた。全ての事柄が集約して、これをオーゼンである、そう導いていると信じるほかなかった。

 

 石の転がるような音。マルルクが、一つの結論を得ようとしたのを、それが阻んだ。自身が握っていた掌、そこに埋め込まれていた千人楔が抜け落ちていた。生え変わる乳歯のような呆気なさで、しかしその楔自体には微かな熱があった。最悪な想像があった。それは形を変えた現実であった。もはや役目を終えても、そこにあり続けた石を掬い上げてしまったためなのか、崩れるように千人楔が抜け落ちていった。マルルクは、どうにかしないと、という思いだけに駆られて、ずっとオーゼンを抱きしめたまま、千人楔の全て抜け落ちるのを見つめていた。楔を抜いたのなら、そこに穴ができるのは当然の理屈であった。それでも彼女は、何か、それこそ遺物のふしぎな力で、目の前の肉体がせめて綺麗になって、人間として内包されたまま生命を終えることを許されてほしかった。枯れた腕をそっと握ると、血すら出なくなったそれが、突き動かされるように冷たくなっていく。立体的な網になった腕を千切れる程掴んでいるのに、オーゼンの表情は動かない。もはや叫びすらも出ない。

 

 

 

「そっか」

 

 一週間後、誰にも分からないように遺体を埋葬したマルルクが地上へ戻って、イェルメに訃報を伝えると、彼は椅子に深く腰掛けて、そういった。シムレド(あいつ)にも伝えないとなぁ、と溢した彼は、少し声を震わせていたけれど、目の前に居るマルルクがあまりに哀しく笑っていたのを見ると、自分まで感情に駆られることを、なんとしても防がねばならなかった。埋葬という選択を取るのにさえ、大きな葛藤があったに違いない。マグカップを両手で包み込んだマルルクに、彼は声をかけた。これはオーゼンからの願い事の、さらに一つであった。

 

「抜けた千人楔はどうするんだ」

 

「……ぇ」

 

 マルルクはしばらく固まって、その後に、これがイェルメから出された質問ではなく、今懐に抱えている、居るはずのオーゼンから出されたものだと理解した。彼女は自分に問うてきていた。抜け落ちた千人楔を、共に土に埋めてしまうという選択肢が、マルルクの前に提示されていたことは、もはや薄く、当然のことであった。

 

「知ってたんですか、千人楔と石のこと」

 

「まぁ、な。命を響く石(ユアワース)って言うんだとさ、それ」

 

 齢がイェルメの記憶を食い潰しはじめていて、彼はそれに気づいていたから、なるたけ早くしなければならない、という思いがあって、しかし決して焦ってはないなかった。ある種の投げやりな、目の前の、マルルクがどういった選択をしても、それを見届けること……オーゼンが望んだその事柄を、ただやり遂げるだけだった。

 

「……もう、埋めてしまいました。石は、ここに」

 

 マルルクは努めて苦笑した。

 

「……そうか」

 

 自分の、薄汚い根性(だけれど彼はこれを愛している)が、嘘だといっていた。同時に、もうマルルクとは会えないだろうという確信があった。暖かい部屋の中で、二人はほとんど同じくして、マグカップの茶を飲んだ。保身とか、気まずさとかで、二人がどのようにして液体を嚥下したかは全く違ったけれど、この同じ時間が、多くを物語っていた。

 

「良い彫師が居るんだ。組合の息がかかってないとこだから、そうだな……どうだ、この後にでも行ってみたら」

 

 無い両手を組んで、イェルメは穏やかに進言した。それは、あまりに多くの感情の流れを受けたマルルクに、自身の矮小さを痛感させていた。彼との付き合いも、また短くない。他の人のものを見破ったのと同じように、自分の選択も、きっとわかっていて、それでも見ているに違いない。優しいですね。それでもマルルクは少しだけ、自分だって、と言いたくなって、ちくりと刺してみた。だろ。お互い最後には、背を向けていた。

 

 

 

 自死を甘美に思わせる痛みを伴って埋め込んでいく楔の一つ一つが、自分の命を示していると考えると、これは幕切れを自分で決めることのできる、素晴らしい遺物であると思える。生きるために楔を刺し、中毒のようにまた次の楔を刺し、眼球にも手が伸びたとき、自分は遺物になってしまうに違いない。

 

 であれば、行こう、下の下まで。背も伸ばして、髪も黒に染めて。そのあと歪に曲げてしまって、撫でつければいい。涙の形をした、どこか見覚えのある白笛を頸に下げて。

 

 あと、百二十六本。

 




続きます。
不定期に改訂を行う可能性が高いので、何卒ご承知ください。
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