ティナはおそらく、嫉妬に駆られていた。むしろ自分自身がそうであると、開き直るような冷静さで分析していた。自分が物語の一員で、精々が脇役で、あなたはこういう運命なのだから、こちらへゆきなさい、などと無機質に諭されているような気がして、それに一矢報いたくて仕方がなかった。ともかく医院の中へ引き込んで、院長の元にエリカを連れて行くという判断は、専らティナがティナ自身のことを考えた結果だと言っていい。双子の謎、つまりどう足掻いても同じ名前のペアリングになってしまうという、一見すさまじい確率としか断ぜられそうにない奇妙さは、さいきんようやっとそのひどさが分かってきて、協会側の実験試料としての価値を高めていた。やがて探窟家は、この双子を徹底的に解剖する側と、そうでない側に分類されて、末端の者、赤笛や蒼笛たちは隊に属するうちそういった勢力にほとんど巻き込まれていったけれど、当人はその秘密を知らない。看護の者の内、少なくない程の人手が、エリカへの院長の態度のありようを、ごく表面的に受け取り、解釈していて、故にエリカには触れなかったために、エリカが院長室にたどり着くまではほとんど話しかけられなかった。
「君は自らの意思で出ていったと記憶していたんだが」
その声は、彼女の記憶の中とほとんど違わない感情の無さ、関心の無さをを与えたので、どこかエリカを安心させた。エリカは久方ぶりに注視した院長を見て、少しだけ年を取ったな、そんなことが浮かんできた。彼に対する理由のない恐怖心が、少しだけ揺らいで、薄まっているのを見た。何をしようと思ったのか、その目的が崖から今にも墜ちようとしていたのだけれど、彼女はそれを掴み、引き上げることができた。
「あ……あの、その……少し、聞きたいことがあっ、て」
「笛を取ったのか」
「へっ?」
その質問は、彼のような、初老の男性にとって非常に重要であったけれど、エリカのような、幼気な少女にはほとんど重要でない問であった。彼女の、笛を協会から強奪してくるようなあれこれは院長の問いかけがもつ方向とほとんど内積を失わせていて、彼が再び同じ問いかけをしても、表面上はなにも成長がなかったかのように、ただしどろもどろとするだけであった。そのような彼女の姿を見て、院長はひとたび軽いめまいに襲われた。何故ここに来たのだろう……、それは明らかに、彼女の文言によって示されていたのに、この医院の腐敗具合がそれを覆い隠してしまっていた。
「……まぁ、構わない。私には関係ない」
椅子から立ち上がって、彼女には目を合わせないようにして、院長は部屋を出ていこうとした。この暖かい部屋が、彼には少し向かなかったのかもしれなかった。エリカは確かに成長していて、その性を、行動として昇華する力を持っていた。
「わたしが、シェルミだって知ってたんですか」
どのようにしてエリカがその、シェルミという言葉を知ったのか、彼にはてんで想像がつかない。多くの可能性が荒野のように広がっていて、彼はひとつを掴む勇気がない。全身を逆撫でしていく、不気味な悪寒のために、彼はドアノブから手を放し振り返った。頼んだ。そんな、少しハスキーがかった声の、自分の耳に届いた記憶が一瞬、時を逆行したように蘇ってきて、彼は拳を握らねばならなかった。
「どこから聞いたのだね」
「……たぶん、祈手の人、です」
そうか。彼はそれだけを言って、彼女に背を向けた。それが彼の精神の現れで、今更崩すことなどできる筈もなかった。自分の為してきたことは間違いだったのだろうか、彼のティナの居所に向かおうとする足の速度は、彼の認識のうちで至って通常通りで、多くの医師がそうするように片手をポケットに入れている。彼の、院内の人物からの評価は、実際のほぼ独裁的な仕切りに似合わず、高い。看護の者は大抵、多少頑固だけれど正当な評価を下しているという認識を共有しているし、子供に至っては医療の心得と患者の世話を教える他に関わりを持つ機会がないために、もともと評価という概念が存在しないのである。ただそれはティナの場合別で、彼女は明らかに悪意を向けていた。自分を嫌っているのと、同様に。世話をしている幼児の幾らかを、その後の用途を察しながら「見習い」として黎明卿に引き渡すこと、それを認めているためであった。ティナは自室、つまり物置に居て、彼がノックもなしに大きな扉を開けると、丁度酒のグラスを傾けるところで、彼女は特に驚いた様子を見せなかった。彼女は多くのことを知っていたけれど、彼女自身も雇われの身である限り、何か自分もどこかで利用されているのだろう、という達観があった。彼に視線を向けたとき、ティナの中で、この人のほんとうの姿が、もしかしてこれかもしれない、そんな予感があった。
「だいぶ急いでるみたいだけど、何か」
「……私は、どうすればいい」
シェルミ、メナエ。いくつかのこの二人が、何かアビスの深い場所に関係していることが白笛の電報船と黎明卿の言葉によって導かれてから、この後の双子は例外を問わず、密かに協会に囚われ、学者連中の好奇心を満たすことを強いられている。中でどのような扱いを受けているかは定かでないものの、彼ら協会の者たちが信奉するものが奈落そのものであることを考えると、腐敗させた上層部が何を画策するかはするかは知れたようなものである。それでも、最も恐るべきは、真なる狂気をもつ黎明卿なのである。
「どうもこうも、私に何かできるのを超えてる。私は金が欲しいし、院長は私の知らないあの子をどうにかしたい。私達は大人なもんだからさ、あいつら
「じき黎明卿に見つかってしまう」
「この穴ん中ならじきもなく出会うだろうさ、あの子が笛を持ってる限り」
足を机の上に置いたままで、ティナは一度院長の方を見たきり、自分の片手に持ったロックグラスを見つめるばかりである。十数年頑なに保ち続けた意思を、すんなりと捨て去って、ティナ自身も口をつけた後に、自分が酒を飲んでいると気づいた。この、横の男と、自分とが、その年月を遡行して、今また人生が始まるのだろうか、と考察したけれど、それは少し酩酊が入ったからこそできる暴挙で、彼女は自分の酒の強さをよく知っていた。
「そんなにあの子が大切なんだな、私に知らせてないくらいだから」
「……」
あぁ。彼はそう答えた。ここで最も不運なことは、エリカが、このあたりの彼らの掛け合い、そのほとんどを耳にしていたことだ。居た堪れなくなった彼女が院長室を飛び出して、微かに見えた院長の足音を追ってたどり着いたのは、ティナが本来住居としている場所であった。彼女の本来の居場所はもう鍵をかけることの方が少なくなって、加えてもぬけの殻だったから、彼女はそこを空室だと思い込んで、院長と再び対峙するために扉を開けたのである。壁の向こうから聞こえてきた二人の会話を聞いてしまって、彼女は耳をつけたまま、動けなかった。エリカの身辺の規制のされようは、もはや愛すら感じられるほどで、彼女はその正反対の愛を、一身に浴びて生活してきた。
「あんたのことは嫌いだけど、もう長いからな。少しくらい教えてくれたっていいだろ」
特別、彼女は彼と同じ地位に登りたいとか、そういった感情を持ち合わせていない。けれど、何故ここに居るのか、その訳が幾日も過ごすうちに薄くなって、
「……私の娘、それだけのことだ」
その声が、やはり意思を含んでいて、ティナは少し、うらやましい、そう思った。彼はまだ子供らしさを秘めていた。壁の向こうで慌ただしく走っていく音が、次第に小さくなっていって聞こえなくなる前に一度転倒したのを、二人は聞き取った。
「あの子、来てたみたいだけど」
「……」
すべてが良くないことに向かっている、彼はそんな言葉にとり憑かれて無残に立ち尽くしていた。表情を、かろうじて保っているのが彼の最後の自尊心で、崩れた先に
「彼女を、守らねばならなかった……」
「あんたに守れるほど小さくはないと思うがね。初めてみたけどさ」
「それでもだ。……死んだメナエの為でもある」
「よくその言葉が素面で吐けるな、元
彼は唇を薄く噛んだ。
「……双子は向こうにとっちゃ今でも重要な資源だからな。私が協会嫌いで良かったぐらいに、まぁ思ってくれ」
ティナは流麗な、簡潔な動作で椅子から立ち上がると、扉の前に立つ院長を鬱陶しげに手でどかして、すんなりと開けてしまった。彼女らしくない動きだ、彼がそう思ってぶつけた疑問に、彼女は手を振って答えるだけであった。扉が一度閉まって、追うように再び開けたとき、ティナは忽然と姿を消していて、ふと、もう戻ってこないかもしれないという予感がよぎった。
自分の手から、多くのものがこぼれ落ちてしまっている確信があるのに、それをただ見ていることしかできないもどかしさの、どれほど虚しいことか。一度手を動かせば途端に、水の床に落ちる厭な音が響くはずで、今滴っている水滴の、まだ幾分かましな音に耳を傾けざるを得ない。エリカに対する彼の決断は、そのほとんどが苦渋のもので、彼女を手放しに保護することも、可能だった。けれどそうすれば、いずれは彼女が探窟について知り、憧れに近い狂気を抱いてしまうに違いない──何故なら自分がそうだったのだから──と、彼女にはほとんど、探窟で何かを失った者の世話に徹底させていた。
そうだ、ならなぜギャリケーは、エリカを十二歳で医院から追い出すように指示したのだろう。その問いに対する答えに、彼女はきっと、憧れだ、とだけ答えるのだろう。おそらくは、その辺りで、何かが起こることを感じたのだ。ひどく残酷なことが起こると。どのみち邂逅してしまう運命なら、せめて冒険を与えたかった……。
エリカを責めることは、もとよりできない。自らも、一度憧れという麻薬に取り憑かれてしまったからである。この薬品の悪どいところは、本人がさながら幸福の最中にいるように死んでいく点にある。いかなる時でも涙を流すのは、そうで無い者たちで、よろこびと、もしかしたらかなしみとを求めて自らも憧れの中に飛び込んでいくのだ。
「……白笛の中に存在している、本人の魂はさ、この街が笛を作ってから何百年か研究してるらしいけどまだ分からないのさ。魂が年を取るのかすらも、学者連中がピーチクパーチク言ってまだ固まっていやしない。本筋からズレたところで迷走してるようなもんさ、こっちから言わせてもらうなら」
涙の形をした白笛、その表面を手に持って、「彼女」として生きることを決めたひとは語り終えた。目の前の人が、アグネスタキオンをまがりなりにも終えようとしていたことをすっかり忘れて、彼女の話を聞いていた。言葉だけでしか記憶を継ぐ手段を持たないというのは、彼女にとってもはや罰以外の何物でもなかった。近似された多くの感情がダイレクトに彼女たちの脳を揺さぶって、共感していた。
「この楔、刺す時すごい痛かったんだ。もしかしたら今も痛いのかもしれないけど。どっちみち痛覚がイカれちまってるから関係ないけどね」
樹木のような枝を見せて、彼女は自嘲気味な表情を見せた。なるほどそれは確かに、神を恨みこそすれ信じてなどいない表情だった。彼彼女ら白笛はもとより、奈落を神などと思っていなかった。それほどまでに彼女たちにとって首からさげる笛は重く、それを背負ってなお、何か、きっと探窟を、冒険を、より良い生き様、死に様のために選び取り続ける過程の最中が、白笛という探窟家なのだ。
「じゃぁ、あなたは」
「ボクと名乗っていた時期がまぁ、有ったね」
オーゼンが滑らかに答えていなければ、彼女はうっかりと、眼前のひとのことをマルルクと呼んでしまうところだった。捨て去ったものだと信じたかった、何か、無惨な可能性らしきもの。それを掘り起こす、その行為の、どれだけ残酷なことか。彼女は少ない、けれどひとつひとつの、味の濃い飴玉のために、多くのものを失って、自分を存在させている。甘く、そして苦い。二人は事の顛末を理解して、自分なりのふるまいを見つけようとしたけれど、この監視基地の中で自分たちは、ただお互いを呪いあっていただけだと気づいてからは、彼女が、もはや涙を枯らしてしまった生命体にしか見えなくなっていた。なぜ自分たちに、彼女の、歴史とも言うべき人生のたったひとつの出来事を語ることになったのか。発されなかった質問に、オーゼンは唯の気分だと、ひとりでに答えた。
「君らが私と同じだから……いや、私とは違うからね」
「……それは逆だ……私はきみより、きっとよわい」
「同じだったよ、君らが丸一日寝込む前は」
確かに私たちは同じ存在だった。オーゼンはそう言って、キューブから腰を浮かせ、地面に降り立ち、その側面に背を預け座り込んだ。彼女の髪が本当は青く、今の姿を作るまでにその心の蒼さを押し殺すことの苦痛……それらは確かに、洋上での二十三件と相違ない。はじまりはもっと違っていて、だから糸の紡ぎ方も、違っていたのに、三人は同じで、今、同じでない。オーゼンはここにいて、アグネスタキオンとマンハッタンカフェはここから、出ていく。迷ってはいるけれど、彼女たちは、巡礼を、冒険と等価交換にして、続けてしまうこと、正確には、続けないことを想定しなくなっている。次の瞬間にはどのような景色の見えるかを想像している。
「私は君らのようにはなれないさ」
息を吐き出すのと、その言葉を発するのとが一緒になって、オーゼンは頭を掻いた。彼女たちはその言葉を、安易に否定できなかった。誰かがこの、解かれない糸の絡まりの中から、送り出す必要があった。だから彼女の笛は響きこそすれ、何も生まなかったのだ。気づくまでに二百年が過ぎていた。
「本気で思ってたさ、君たちが手にかけてきたいくらかの人より、私の失った一人の方がはるかに重い、命に平等など無い……これは多分、正しいんだろうけど、そう思っていた。私らはしょせん人間だからさァ、こういう感傷にくらい浸りたくなるもんだ」
彼女は俯いていて、それにかける言葉を持っていなかった彼女たちは、オーゼンから漏れ出ていた黒い異物の正体について、ほぼほぼの考察がついていた。マルルクというひとが、人の一生より長い時間をオーゼンとして過ごしたために、きっと形のない、オーゼンそのものになってしまったのだ。──こんな真実なら、分かりたくなかった。アグネスタキオンはかぶりを振った。彼女を純粋に嫌うことができたときは、その感情にただあたまを空っぽにして向いていればよかった。アグネスタキオンも、マンハッタンカフェも、もうオーゼンを、オーゼンになることを決断した二百年前のマルルクを否定することなどできない。この奈落の中で、ちいさな人形劇がひとつ、幕を下ろそうとしていた。
「ここに来る途中、死体を見たことが在るかね」
「……ひとつだけ」
「そりゃ幸運だ。百メートル毎に転がってる場所もある。もっとも大抵は正規のルートを通ってこなかった奴らばっかりだけどね」
彼女らが見た死体は、どこか高貴な思念があるようにも思えた。アリシャという人物に、おそらくは家族があって、姉、妹がいて、それらのうちいくつかがいなくなっている。最後に煮詰まって、そうして水飴のようになった思念を用いて、世界をほんの少し動かすことができるとあの死体は考えていたに違いない。随分、マシな考えだ……オーゼンは苦しそうに呟いて、彼女たちは同意としての沈黙を返した。
「大層な書き口だったろう。でもそれはその子にとって大事ってだけでさ、ここじゃ営みのひとつなんだ。君らが望んでた命の終わりなんて掃いて捨てるほどある」
「……じゃぁ私たちの行いに、意味はあったのか」
「そりゃ知らないさ、君らが決めることだ」
死者の魂は私たちに何も言えないけど、君らが間違ってるかもしれないんだ。彼女の言葉には矛盾があるのを、マンハッタンカフェは気づいていた。部屋に滞留するものがしんとしていて、ただ渦巻いている。彼女の首に下げている笛は、単なる肩身以上の意味を持つはずで、実際にそこには見たことのない色の魂が動いているように見えた。 ほんとうのオーゼンはそこにいるのだと、今知ってしまった。それでも彼女の何を言わんとしているかは、見えない。ただ待っている、そんな奇妙な感触。
「……オーゼン、さん」
「なんだい」
「あなたの笛の中で、オーゼンさんは生きているんでしょう」
「──きっとね。多分私に怒っているだろうけれど」
それも嘘だ、きっと間違いだ。彼女はその言葉を、適切に修飾して、吐き出すことができる権利を持っていた。ぶつけて、破裂させることで、その後何が起こるかは明白だった。まず間違いのない、彼女自身の崩壊から、マンハッタンカフェは、守らねばならないと思ってしまった。彼女の奥歯に挟まったものが痛みをもたらして、彼女自身が受け入れて続けて恒常となった
「さて。今一度聞くけれど、君らはこの先に進むのかね」
この問いが、もう自分たちの上部から、垂れるように話しかけられていないということに、二人は口を結んだ。そうだ、対等ですらなかった。問われてもいないうちから自然に進んでいく二人の後姿を見て、オーゼンが手を伸ばしているのだ。なぜ進んでいくのか、当の自分たちも分からずに、あるいはあるはずの何か、色のつかないものに触れたくなくて、それでも彼女らは進むと答えるしかない。もはや何かの殉教らしき言葉は、取り繕うための皮でしかない。
目の前のウマ娘二人、それよりも一回り小さい少年少女を送り出したことが、彼女にはあって、その時に、涙を流したことがあった。そうだ、あの二人に、自分は行ってほしくなかったのだ。それは一体なぜだろうか。こたえはもう、わかっていて、彼女はただ、あの二人を目の前にして、嵐のような劣等感を覚えていただけ。自分と同じように、命をかける旅を選んで、そのために何かを捨てることの、その恐怖心に挫けて欲しかっただけ。彼女らはもう死んでいるだろうか。そうでなければ、まだ生きているのだろうか。奈落の中で、いつ終わるともしれない冒険に心を躍らせて。
彼女の痛みは、物理的にはそれほど多くない。彼女自身が言ったように、千人楔のもたらす熱によって、もはや最後に残る痛みの神経すらも焼き切れて、ただ腐り落ちず繋がっているだけのようなものにすぎない。数えるのすら億劫になるほどのそれを一つ引き抜くと、たとえばどうなるのだろう。彼女に残された鼓動は、まだある。その感覚が彼女にははっきりとわかる。一つあいた穴を埋めるために、その他百六十余りの穴が均等に広がって、次々に抜け落ちていく……そんな想像に、彼女は本能的に震えて、それでも小さく息を吸って、左手の甲の楔に手をかける。そこから走ってきた感覚を痛みだと受け止めるのに、彼女には刹那の時間が必要だった。この痛みを形容する術を、オーゼンは持ち合わせていない。ただ声を出さないという
「……っ、一つ、渡しておこう」
彼女は床に落ちた一つの千人楔を右手で拾い上げて、アグネスタキオンに差し出した。彼女の手に収められて知る、そのあまりの小ささに、アグネスタキオンは恐怖をみた。遺物の真の姿、それが何か対等な等価交換で、それがこの矮小な楔一つでなされている、そんなことがまかり通っている……夥しい怨嗟と願いが湧き出てきているような、黒いものに、彼女は気圧されて、半ばせっつかれるようその楔を手に取った。たぶん、ずっとこうしたかった。彼女のさげた白笛が、少し、しかし確実に音を立てて、彼女たちの魂を揺らしたので、三人は直ぐに離れて、オーゼンの、ほんとうのオーゼンを見つめた。
「──ありがとう?」
マンハッタンカフェがつぶやいた言葉は、全く彼女自身にも分からない、謂わば直感であった。彼女はこの魂の色を、いくつか見たことがあった。不定形な、何か判ぜられないものが、もしかするとヴェールで、本当はただ一つ、マルルクという人の、この瞬間を待っていたのかもしれない。
マルルクには彼女の声が、二百年の間一度たりとも聞こえなかった。ただ鳴り響くだけで、何も答えてくれなかった、その声を、そんな嫉妬よりも先に、自分の主人が、その言葉を口にしたのか、そう問うていた。確信はないですけれど、マンハッタンカフェが目を開けて、答える、その、ほぼ認めるような驚き具合は、乾いた笑いをもたらした。あまりにも滑稽な種仕掛けだった。とうに自分は憧れの中に身を投じていたのだ。
マルルクの生きる意味、アグネスタキオンの生きる意味、マンハッタンカフェの生きる意味。それらは交錯して、言葉なしに、一つの、未来に向けて拍動していた。彼女は、さげ続けた白笛をとって、一つの選択をした。
続きます。