その時が、まさに朝だという直感が、アグネスタキオンを静かに包んで、呼びかけていた。いつもそうして、何か物事の節目、その良悪に係わらない区切りに、アグネスタキオンは先に目を覚ます。マンハッタンカフェの、生きているのを確認する。そこには決定的な間違い、しまったというものなどなくて、薄く粘っこいもの、幾重にも重なり続ける皮のような、取り返せないものがある。そう考えるたびに、やはり襲ってくる寒気、フラッシュバックする夢見は、変わらず改善の兆しを見せない。彼女たちの思い、向き、それらが変わることはあるのやもしれないけれど、それら全ては事実に基づいている。数歩遅れて彼女の存在についてくるように、マンハッタンカフェが眠たそうに目を擦る。外に出てみると、なるほど素晴らしい気候だった。霧がかっている部分も少なく、風は悪くないうえに、何よりとてもきれいだ。あまりに出立に相応しい気分だった。
「聞いておいて損はあるまい」
あれから彼女らがかけた青笛は、初めてその重みを実感した時と、ほとんど変わらない重さをしていたけれど、苦しくはなかった。オーゼンもそれを理解していて、彼女たちに、最後のあれこれとして、ロールプレイを遂行した。それは彼女らのもつ疑念を取り払うのに、いささか十分すぎた。
この空間が、いくつかの政治的な思惑のうちに不可侵として定められていることだけを理由に、彼女たちの客船は無慈悲な攻撃に遭った。明らかに何かを避けるルートに僅かな疑問を抱いていた操舵士が、進行ルート上の海流の乱れを考慮して少しばかり方向を変えたためである。そこは先進国の会合により定められた、オースの住民からも近隣の島の住民からも発見できないような距離にある、オースをぐるりと囲んでいる防衛線で、二人の搭乗した船は不幸な事故として処理されている。運よく脱出できた人々の処遇、つまりそこまで殺害してしまうか否かという点について、議論は白熱した。むざむざと奇妙な事故を知って帰られては困るというもの、無辜なる一般市民の命数百を定期的に奪ってでも秘匿すべき秘密は存在するのかというもの、二つが対立して、落とし所として防衛海域内に侵入した者に手出しをしないというアイディアが出現したのだ。それを採択するにあたって、致命的なこと、いずれそうして不定期に得た人々が、一千年二千年、運が悪ければ数百年で抑制し得ないほどの国力をオースにもたらし、世界に牙を向くこと、それを皆がわかっていて、しかしこの折衷案を採択するほかなかった。今はまだ、彼らの科学技術を遺物と言い張って等価交換の糧としてオースを利用している、利用できているという意識が、彼らをそういう中途半端な意思に押し込んでいたのだ。ここから遺物の出続ける限りは彼らも手を出してくることはないから、協会の上層部は遺物の、もっというならアビスの秘密を外界の者より先に解き明かそうと躍起になって、そうして今がある。世界の市民に知らされることなく使用される遺物の数々、そして対価として発展する不可侵の、小さな島国……。
その中にウマ娘が入ってきたのは、全くの偶然というほかない。順当な法律に則った契約で、クルーとして雇用されていたと、オーゼンは実際当人と会話をしていた。彼女は一人目の、ウマ娘の探窟家として、白笛にはならなかったものの多くの功績を──大抵は食料関係の事情なのだが──もたらした。マイノリティとしての弾圧、それを防ぐためのオーゼンによる圧力。黎明卿の進言によって、制度上は殆ど人と変わらない生を認められたウマ娘は、世代を経て、いまはまだ五十人にも満たないけれど、いずれ遠くない未来において彼女らが普遍的に存在することはもはや避けられない。
「──君らは意図的に排除されかけたんだよ、
その他、今地上が須くじりじりと沈んでいって、あと千年もすれば深界に沈むこと、六層へ進むためには、五層の最深部にある祭壇を起動せねばならないこと、それを回避し六層へ降る何かがある
──お師さま。マルルクは自分の笛に向かって、呼びかけてみた。彼女がそっぽを向いているように思われて、思い切って正面に回ってみると、彼女が自分の頬を引っ張ってくる。やはり力勝負で、ほんとうの不動卿に叶う筈がなかった。マルルクは苦笑して、オーゼンは少し無神論的に笑ったようだった。アグネスタキオンの首にかかったオーゼンの白笛は、まるで似合わなかったけれど、マンハッタンカフェの見るには、どうも吝かではない、程度の意味を持っているらしく。この先の旅の中で、彼女の持つこととなった白笛は、まず無事で済むことはない。致命的な破壊を享受するか、自然の中に放置されるか、それ以外か……しかしながら、マルルクは自分の首にかけつづけることを拒んだ。それが、自分に出来る、残されたことの全てだと信じていたから。
「実際何がほんとうかってのはもうどうでもいいんだよ。私は私の信じたいものを信じるだけさ」
「随分と開放的だね」
「別に。肩凝りが無くなって気分が良いだけだろうね……今のうちにさっさと行っちまいな、こんどは本当に蹴るよ」
「それはごめんだ」
アグネスタキオンは苦笑して、そしてマンハッタンカフェに手を差し出した。目の前には大断層が広がっていて、彼女たちは既にあらゆる準備を終えていた。命を託していった人たちの何か、それをアグネスタキオンはまだ、呪いとして受け取っている。その繁殖した意識は深く根を張り、やはり人一人との邂逅、少ない時間では取り去ることはできない。ただ彼女は、背負って生きること、マンハッタンカフェを死なすまいと生きることを決めただけに過ぎない。それについていくと、マンハッタンカフェは決めたに過ぎない。
「……あの」マンハッタンカフェが、遠慮がちにオーゼンへ告げたので、彼女は少しだけ訝しんだ。「テルさん、いますか」
「彼は君らに感謝してたよ」
その言葉は、多くを語っているように聞こえた。その言葉を深掘りして全ての意味を明らかにするのは、彼女に、そして彼にとって礼を欠くように思われた。それはもう、ネガティブな身引きではなく、ある種の笑みを保持した、そんな理解だった。ただ悲しそうにオーゼンが、見つめている。
「そろそろ、行かないと」
そう言って向き直った大断層からは、妖艶とも取れる紫色の光が淡く湧き出ていて、アグネスタキオンに何か、忘れていた感情を去来させていく。そうだ、彼女はもう、アビスに赴かなくてもいいのだ。今なら彼女たちはいくつか嘔吐を行うだけでオースへと戻ることができるだろうし、そこである程度の働き、もしかすると一層までの探窟を生業にすることで、存分に彼女たちの失ってきたものを認識し生きることが出来たはずだった。それでもそう、彼女は、自分がこのアビスに赴かないことを露ほども想像していなかった。これを形容するのならば、憧れが妥当になるのだろうか。
それでも足りない気がする。きっと、この行動が、彼女にとっての「生きる」なのだ。
「……アグネスタキオン、といったかな。きみ、ここが好きかね」
下から吹きつけてくる風に微塵も遮られず、オーゼンの問いは彼女の耳に届いた。奇妙な絶景、麗しき原生生物、正体不明の呪詛、真なる探窟家、それらの織りなす、小さな世界……今彼女に出会って、すぐここまで来たかのような、この、オーゼンすらも発したことに気づいていない言葉のために今までの瞬間が有ったのかもしれない、そう思える、形の決まらないパズル・ピース。アグネスタキオンの、その奥に向かって彼女は、あくまでオーゼンとして振る舞っている。
「──さぁ」
「君の魂はそう言ってないと思うけどね」
オーゼンへの返答は果たして自分を、何か正しい道へと向かわせてくれているのだろうか、彼女は少しだけ、訝しんだ。
今度はどちらからともなく、何も交わさず、飛び降りるようにして、彼女たちは大断層に消えていった。
「……」
結局、彼女らウマ娘の出自について、自分の口から何かを告げることはなかった。意図的に彼女はその存在を曖昧にして、だからわずかな逡巡があった。マルルクは、そこで自分の手を離れた白笛を想って、それ以降のことを考えるのをやめた。
もしこれが大きなストーリーの一部であるとして、自分の役は殆ど使い尽くされた。だからマルルクはただ、彼女たちが進む道に、何か彼女たちの生を、その意味をもたらす心の存在を、願うだけである。
彼女の投げた三つのトコシエコウが、ひらひらと舞って、大断層へ吸い込まれていく。儚く、白い願いに背を向けて、オーゼンは監視基地へと戻っていく。
今度こそ、誰も居ない夜明けの刻に自分は佇んでいると、エリカは確信していた。まるで逃走に耽っているかのような罪悪感と、何かから真に解放されたような充足感とが混ざり合って、彼女は一度得た、絶頂にも似た感覚に身を震わせて、アビスの外周、深界一層へ続く道の目の前で、澄んだ空気を胸に貯め、吐いた。不可思議な淡い光が底の方から見えてくるのは、恐らく幻影ではない。力場が屈折して、きっといい方向に、自分に向かって返しているのだ。この機を逃す
ひとつきれいな言葉でも考えてみようかと思い立って、彼女はいくつかの思考の果てに、きれいだ、このひとつしか浮かんでこなかったものだから、少し笑ってしまった。自分がここに飛び込んでいくことの是非、それをきっと、自分のきれいさのパラメータを比較して、卑屈になって、腕を曲げて怯えるような、はっきり言ってしまうと、今でもそうしたいと願う気持ちが否定できない。生来に染みついていたもの、それらが多くの価値を歪ませていたにすぎない。
──偶然、だな。二回も。
どことなく、きっともう一度だけ会うことになるのだろう、そんな、張り詰めた糸のような予感。それを実際に切って見せたコレオは、彼女の後ろから声をかけることに成功した。振り返った彼女の体が、アビスの内側から発生した、先刻エリカの目をしかと輝かせたものに支えられて、彼女を少し暗く、どこか大人びた雰囲気にしてしまった。今度こそ止められない、この確信は、止まらない、という文字として、エリカも共有していた。それは目の前の人物と、もう二度と会うことの出来ないのを示していた。ほとんど探窟家しか居なくなってしまった
「ごめんなさい、お先に、しつれいします」
そこそこの品質の石灯ヘルメットに、肩幅より少し大きいリュック。その中に詰め込まれた探窟用具に軽い調理器具と乾燥食材、幾日かを凌げる行動食。標準的な探窟服。首に巻きつくようにしてある、彼女の名前を彫った赤笛。どこにでも存在する、ただの探窟家。しかし彼女には意思が在る。これが金に目の眩む凡百と違うところである。だからこそアビスは迎え入れるように、彼女を照らしているのだろう。解き明かさんとすることもなく、唯向かおうとする彼女を。あぁ。コレオは呟いて、それでも彼女の姿の消えるまで見ていたくて、やはり誰か、彼女を引き戻してくるか、それか彼女の精神に働きかけて、やはり無理だと言ってくれたなら、どれだけ救われるだろうか──
コレオさん! 階段を下っていた足音が止まって、彼女は振り向いた。彼の心臓は一度、止まった。エリカはあろうことか、振り返って、少しだけ目の端に涙を浮かべて、告げたのだ。
大好きです。さよなら。
きっと、アグネスタキオンとマンハッタンカフェのとき、直接別れを告げることができなくて、自分はその代わりとして消費されたのだという予想が、コレオの中でついていた。大好きという言葉も、自分の中の、押し殺した複雑さと全くの反対に、笑顔で、澄んでいて、彼はようやっと泣かないだけのプライドをかき集められた。いまから、彼女に追いつくために何もかもを犠牲にしたとしても、
窓の外に、奇怪な仮面を被った人影が見えた。裏口で何かを話しているような、その人物の
それでも彼は、窓を乗り越えて、近づいていった。
二巻は一先ず完結です。三巻は順次更新いたしますとともに、夏コミ(当選していれば)で頒布する予定です。
有難うございました。