よろしくお願いします。
「は、はい」彼女は神妙に答えた。アグネスタキオンは微笑していたが、彼女はどことなくすぅっとした、タイミングを認識した。こういうの、まとめてフレイルっていうんだったかな。身体から離れたエリカの一部分が、俯瞰的にそう思った。
「あ、えっと……その、き、規則でして。色々と確認しないといけないんです。あっ……、頭、とか」
「構わないさ、好きなだけやればいい。規則なんだろう」
「……はい、規則、ですので」
エリカは少し上目気味にアグネスタキオンを見た。ある種の確認を受け取ったアグネスタキオンは軽く頷き、エリカがすごすごと体に触れる。先刻マンハッタンカフェに問うたありきたりなものを繰り返す。澱みなく降る返答。得られる快楽も似るはずなのに、やはり振動の数は異なる。エリカは少し不思議に思った。
「先ほどの件だが」間が空いた頃。エリカは動かしている腕をゆっくりと止めて、アグネスタキオンを見た。「すまなかったね、通常の意味で君には感謝しているさ。気後れすることはない」
いえ、お構いなく……。軽く頭を下げたりして、彼女は今度、脚に触れた。エリカの心中で、少し気味悪く浮いていた水球体が一定の速度を持って落ち、微かに人肌の温度を奏でた。久方ぶりにエリカは、二度も続けて大きく息を吐いた。
「──っ」
つまり大きく吐く息はエリカに不可逆な水球体の破裂をもたらした。そのためアグネスタキオンは小さくうめいた。
「ぁっ、だ、大丈夫ですか、すみません、すみません……」
「……そんなに気にすることじゃない、眠る前から痛かったさ。何せ長旅だったからね」
「いえ、そんな……少し、その……まっててください、タオル、水で冷やしてきますから」
エリカは、少し、という言葉と反対に、おおよそ焦りの域を上方向に脱しつつあった。ふとモナ・リザの唇に口付けしてしまったような、一定の語に収まらないもの。模造品であったなら、まだ取り返しもついただろうに。彼女はすみっこでモヤを掻き立てたが、彼女自身がそんなことの無意味さを芯まで食べ尽くしているために、ドタバタと音を鳴らして彼女は駆けていった。
においが入ってこない。アグネスタキオンは揺らいだ。こんなにも穏やかな調度、光、空気の色までもが視界に見て取れるのに。頭のうしろがわに引っ張られて、そのまま倒れ込んでしまいそう。何かを考えるのも億劫でたまらない。
「大丈夫ですか」そういった雰囲気を、やはりマンハッタンカフェは心的な色で感じ取る。マゼンタであるとか、シアン、偶には透明だとか。今のアグネスタキオンの色は、今のマンハッタンカフェにしかわかり得ない。
「……大丈夫、ではないね」アグネスタキオンは振り向いて、苦笑した。溜め息がつき出て、彼女のため息が笑っていた。「節々が痛いね。……機械にでも、なってしまったのかな」
「その方が、少し楽かもしれませんね」マンハッタンカフェも笑った。少し腕を曲げ伸ばして、彼女は遠慮なく眉を顰めた。愚鈍であった感覚のもと、あの時痛みはかなり角を削られて、まるでアルコールに沈んだかのような、心地よさを滲み出していた。周期を描いて頭を殴りつける今の振動、彼女にとってそれはまさに救済であったと言える。身の回り全て、ありうべからざる清潔なシーツ、そして穏やかな木材。そのままでいれば、きっと危機感をそっと両腕に抱えたまま、誰に向けられるわけでもない赦しの中に留まっていただろう。マンハッタンカフェは自分に一枚分、嫌気のフィルタを載せた。このまま水を注いだとしたら、さぞかし苦味の強いものが出るだろうな、と、思った。
「あのひと……エリカさんには、少し悪いことをしてしまいました」
「まぁ、……ね」
気を抜けばすぐにでも窓の外の、揺れる雑草の一員になってしまいそうな気がして、アグネスタキオンは頭痛を抱きしめた。例えば狂声をあげてじたバタと這いずり回ることも彼女の思考を掠めたけれど、それはどうしても許せなかった。愚かなお人好し、と彼女は
「何かたべたいな」
「動ければ、ですけれど」
「それはそうだ」
やはり彼女たちは笑いあった。しかしながらここ、病室に留まりながれる空気は思わず手を出して掴んでしまいたくなるくらいゆったりとしていて、どうしても触れる感覚全てが慈しむべきもののように思われる。二人は微かにニュアンスのずれた痛みを手放すまいとしたが、それを機械的に踏み越える誘惑、いわばイデアに瞼を閉じる。
驚くほどの手足の軽さ、そして香り。アグネスタキオンは目を覚ました。ずるりと気持ちの悪い感触で、常温のタオルが床に滑り落ちる。目脂が眼球にツゥと触れて、彼女はつい目を擦った。目脂は左人差しの腹にじっとりとこびりついて、彼女はそれを親の爪の先でぴんと弾こうと考えるのだけれども、やはりと右の親で拭って、払い落とした脂の行方を感じとっている。空気の味が感じられた。甘くて涼しい匂いだった。ゆっくりと体を起こすと、目の前の窓からは陽の光が傾いて、幾分かの郷愁さも差し込んでいる。若干の快活さを孕んでいた木版は抵抗も虚しくその包容力を露わにされていた。そしてやはりアグネスタキオンは、自分に少し怒った。歯噛みした。私は結局、私が好きなんだろうか。だとすれば一度自分と死んでしまえばいいじゃないか。自分が好きな自分、いじ汚いわたし。甘ったるい空気。……実際は、エリカがそっと端に置いておいた
一夕だと彼女は思った。 自分を認めるかのようにチラとマンハッタンカフェを見ると、どうやらまだはっきりとはしていないらしい。しかし幾時間か前よりかずっとそのその濃さを増して、世界に対して抗っているように彼女には思われた。置き机に置き放されたままのカップには、持ち上げてみると満足できそうな量の水がためられており、彼女は二息にそれを嚥下した。
歩ける。という愛別らしい意識が彼女にはあった。彼女の後ろから山吹色の手が風となって呼び起こされて、彼女をどんどんと支え動かすようであった。夢見を出きれないまま、アグネスタキオンは地面に降り立つ。丁寧に磨かれた木材のつめたさは、その軋みと相まって彼女を身震いさせた。よろけて、倒れるように腰掛けた。あくまで隣人を起こさないように、アグネスタキオンは高らかに、無音で声を上げた。少しだけ。笑い声、泣き声、叫び声、狂い声のように見えた。鈍い音、一度倒れきってから彼女は地面へと立った。ふらつきは治らなかったけれど、窓へとやはり手が彼女を押し進めた。吶々と窓に進み、手をかける。外開きの扉は真中から開くもので、簡素な関式の金属鍵を抜いて開け放った。滞留していた空気がかき乱されて、アグネスタキオンは少し目を細めた。髪が流れていくのを左手で押さえると、その手に突き刺す風は無遠慮に穏やかに吹いていく。生きている。私は生きている。彼女は奇妙な確信があった。ベッドから窓までは都合三メートルもないのだが、それは彼女にとって心理的に、とてつもなく長い距離であった。窓越しではなく、真に自らの水晶体、網膜、視神経で自然を見る。生き生きと脈動していて、しかし自然を貫いている。アグネスタキオンは小さく口を開けて、目の前を数秒、何の思考もなく見つめた。頬の両側をぞくぞくと、快感が這い回っていた。
不意に音が途切れるのを聞いた。アグネスタキオンは不審に感じ取って、それは彼女の思考の歯車をより細かくするに至った。それは不規則であったが、瞼を閉じて俯瞰してみると意外に一定なようでもあった。少しの間、そうしていた。彼女は窓枠に手をかけて、乗り出してみた。左をみると、エリカと名乗ったウマ娘がしゃがみ込んで雑草を引きちぎっていた。
アグネスタキオンは先の脈動が寸秒にして冷汗へと向かうのを必死に否定した。あまりにエリカの目が、温度を持っていなかったから。摂氏零度などという中間値ではなく、温度そのものがエリカの目を測るに不適切なのである。プチ、ぷち、ぶつ。一本一本丁寧に、無慈悲にエリカは草を抜いていた。小さな草の塊が永遠と続いていて、なぜだかひどく効率的にも思えてしまって、アグネスタキオンは一瞬、彼女を恐れた。狂っている。そう思った。そう、ポジティブに恐れていた。
訪れた衝動に身を任せる前に、アグネスタキオンは踵を返した。未だ思考の深海、奈落から浮き上がっていないマンハッタンカフェに、布団をかけなおした。彼女は満足そうでだった。そして身を乗り出した。窓枠の下部に足をかけ外に出ようとしたが、命令通りに動かない体は彼女の体をむやみに操作し、転倒へと導いた。土色の地面と激しくぶつかり合って、淡青色の服が汚れてしまった。エリカはその音で臆病に振り向いたようで、その主人がアグネスタキオンであるとみると、手に持っていた草を全て放りさって駆け寄ってきた。
「だ、大丈夫ですか!? どう、してこんな無茶を……いえ、その……動けるようになられたのは、あ……う、すごくいいと思うんですけれど」
「む……すまない、問題ない」
アグネスタキオンの頬に嫌な痛み、鋭い不気味さが走っていた。右手でその辺りをなぞってみると、にチャリと音がして指は離れ、血痕が付着していた。血相を変えて恐らくは救急箱を取りに行こうとするエリカを、アグネスタキオンは言葉で呼び止める。
「草毟りかい」
「へ……?あ、はい……少し、ミスをしてしまいまして。その、お二人のこととは関係ありませんから」
「ふゥン……」
エリカはひどく自分を責めていた。「ほら、せ、先生も人間ですし。感情の起伏だったり、あると思いませんか。あ、そうです、院長は一週間に一回、その、どこかに出て行かれるんですけれど、決まってちょっと気が立ってるんです」
アグネスタキオンは優しく頷いて、先を促した。エリカはあちこち手を動かして、声にならない音をいくつか出した。
「えっと……消毒の液を作って、補充しないといけないんですけれど、えっと……棚です、薬室の棚に。手前の、上から二つ目。それをその、忘れてしまいまして……それで、です。だいじでしょう、消毒」
まぁ、そうだろうね。アグネスタキオンは指を顎にあてて、しゃがみこんだ。柔らかな雑草がエリカの前には群生していて、アグネスタキオンはそれを丁寧にひとつむしり取った。
「……トコシエコウって言うんです、此の花」墓標をじっと見つめて、エリカは草の塊、既に毟り取られた不屈の形をつかんだ。「不屈……不屈の花と、呼ばれてます」「良い花じゃないか」
──はい。エリカはアグネスタキオンから顔をそむけた。次の花の花びらを丁寧に一枚ずつ剥いで、むき出しになった雌蕊を思い切り引き抜いた。アグネスタキオンも、踏みしめるようにトコシエコウを引き抜いた。建物と地面、人工と自然の間に咲いた花。彼女はせめて殺される前の花をそっと撫でてやった。誰一人として、声だけ捉えたあの男子でさえエリカと共に従事していることはなかった。
「私は」エリカは花びらをやや乱暴にちぎった。「あまり、す、好きじゃないです」
「ほう」
「……ごめんなさい」
「言ったろう、謝ることはないさ、私は君じゃない。君も私ではないんだ」
「そう、ですか」
「そうさ」
エリカは左隣にしゃがみ込むアグネスタキオンを見た。彼女は怯えることに慣れていた。ちぎった花びらの先を反対の指で擦っていると、本当は自分、この花が好きなんじゃないだろうか──、と考えて、エリカは益々乱雑に、でも手づかみで取り扱うのに足るこころがなく、結局としてため息が出てくる。
「……嘘を吐いていた」アグネスタキオンは花弁を割いた。「え?」エリカはもう一度振り向いたが、アグネスタキオンは割れた花弁を見つめていた。
「君が四肢を動かしてくれているあいだ。痛くてたまらなかった。君があまりにやさしく動かすものだから、私もそれに応えたかった……」
「……そう、ですか」
それでひとつ、おはなしの区切りがついた。アグネスタキオンは割れた花びらを上に放り投げた。二人が見つめる先でふたつの花弁は不規則に舞って、同じ場所に重なって地面へと落ちた。まとまった二つを拾ったアグネスタキオンの指には、わずかに乾いた土がついていた。
「──私も」
「私も、その、嘘を」
アグネスタキオンは頷いた。
「お二人が今も、その……同じ部屋にいらっしゃるので、あ……そ、その、察していただける、かと……」
エリカの声は少しずつ尻すぼみになっていった。口にしながら、何を言っているのか自分でも理解ができない。学んできた無関係な知識繊維の奔流がとめどなく彼女の頭に浮かんでは消えていって、混乱の最中彼女は自分で自分を抱く。一つ足を踏み出せない彼女が、そこで永遠に
「そうか」アグネスタキオンは立ち上がって、膝に擦りついた土をニ、三度払った。足に触れた土の小さな塊。こうでなくては。やはりこうでなくては。アグネスタキオンはわざとらしく伸びをした。二つ、みっつ、足で踏みしめた。安寧に依らず、彼女は彼女自身で、その痛みを快楽として受け取った。
「エリカ、といったか」
「え、あ、はい……そうです、けど」
「出掛けないかい」
続きます。