死へと至る病   作:________

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加筆修正は適宜行います。その際、若干、または少し大幅に物語が変化することがあります。ご了承ください。
よろしくお願いします。


4:邂逅──深度0m

 

 医院はオースの中でもより山側の、やや高めの坂の上に構えられていた。老朽化して、蔓が石造りの壁面に這っている。陽が傾いて橙に染まった道は当たり前のように土色で、むしろ自然の中に取り残されているように感じられた。山を削り取っている形で、おそらくはその石を加工して半ば無理やりに建設された医院は、外観を見たアグネスタキオンに奇妙な違和感を覚えさせた。雑に畑を耕して、医院の種を植えて一日経った感覚であった。きっと双子葉類ではないだろうな、と彼女は思った。音……ひゅうひゅうとしたもの。彼女の髪がなびいた。風の向く先には下り坂があり、その向こうには人の営みが見られた。

 

「中々に、広い街なんだね」

 

「……私は、その……ここを出たことが無いので、大きさがどうとかはその、分かりませんが……小さくはない、と思います」

 

 アグネスタキオンはわずかに口角をあげてエリカを見た。直って、息を吸い込んだ。頭を上に向けるほどに冷酷な空気が脳へと伝わっていき、彼女はひとつ、ふたつと瞬いた。呼ばなければ、と彼女は抜け出した方の窓を見たが、自分の中に、ゆっくりと滲み出てくるような胸の高鳴りはやはり、人の営みの中心部。欠落したかのような大穴に向いていた。矛盾だ。アグネスタキオンは少し戸惑った。

 

「──良いことだ」

 

「へ?」

 

「……いや。さぁ、行こう。どこか名所の一つくらいあるんじゃないかい」

 

 風はやや落ち着きつつあった。風に照らされてエリカも坂道を見る。彼女はこの坂道がそこまで好きではなかった。今も、好きであるかと問われて頷きはしないかもしれない。彼女の内側にあるものはきっと、アグネスタキオンと同じ染み。藍色に染まるこころの景色。今このひとの手をとってこの坂を下ってしまえば、いったい何が起こるのだろう……。

 

 エリカは自分の頬を軽くたたいた。「はい、えっと、そうですね……わたし、ここで生まれたので、あ……あまり、どこが珍しいかとか、知らないんですけど。ふるい建物とか、みんながよく行くところ、なら……」

 

「頼むよ」アグネスタキオンはエリカの肩に優しく触れた。エリカは驚いた。手にかかる力以外のものを感じない。ただただこのひとは、私の肩に触れている。実のところ、彼女は期待に鈍感だった。二人は歩き出した。裸足とぺらぺらの靴。患者服と、安い布切れ。歪なふたりは歩調すら揃わない。

 

「広いね、あの穴は」つぶやき声が漏れた。小さい塊がアグネスタキオンの足裏にあたって、彼女は足を揺すった。

 

「はい、おおきい……と思います」

 

「人工的に?」

 

「いえ……その、もともとあるんです。この周りに、わたしたちは」

 

「……ほう。深さはどのくらいまで」

 

「わからないんです」エリカは食い気味にせっついた。

 

「何人も下まで探しに行って、それで帰ってきていないんです。今分かっているところまでで、一万と……七千くらい、です」

 

「深いね。暑さとか何かで、抑もその前にくたばりそうだが」

 

「あつさ、ですか……? すみません、そういったことは、伝え聞いてないです……ね」

 

 すみません、と彼女は消え入るように言った。特にそれには答えずに、アグネスタキオンが足裏の石を払った。

 

 人が行き交うほどの道が見えてくるまでに、二人はそれなりの時間を使った。それはアドレナリン、エンドルフィン辺りで空腹と疲労にさよならを告げていたアグネスタキオンが、ついに抑えきれなくなったことが大きい。幾度かエリカは声をかけようかと考えた。だがそれだけであった。歩速が変わったわけでもないのに、エリカはじんじんと心の裏面が鳴っているのを感じた。医院に向かう丘は二三度S字にまがりくねっていて、挟まれた地形は木々に覆われていた。

 

「……すまない、少し、休んでもいいかな」

 

 アグネスタキオンがエリカの肩をつかんだ。脚が小刻みに震えていて、それでも前に進もうとするのだけれど、どうしても体は聞き入れてくれなかった。「あ、はい……! すみません、速過ぎましたか……?」

 

 首を振って、彼女は荒い息を整えた。もう丘を八分ほど下がったところで、虫の鈴音に混じって微かに人の声が漂ってきた。

 

「何か、食べるもの、と、水を」

 

「は、はい」ポケットの中で薄い硬貨がいくつか揃っているのを確かめて、彼女は小走りに駆けていった。道の端には踏みならされていない草たちが今これからと伸びようとしていて、アグネスタキオンは端に、体育的に座った。久しぶりに下を向いてみると、そこには肉のこそぎ落とされた、頼りない自分の脚が痙攣していた。彼女はそれを無感動に眺めた。

 

 自分は一体、何をしているのだろうか? 彼女は吐き出した問いを飲み込んだ。もっとネガティヴになるべきなのに、もっと苛まれなければならないはずなのに、目を閉じているのをいいことにカフェを置いてまできてしまった。なぜか丁寧に切り揃えられた爪で頬を掻いた。血は一滴も出なかった。舌を歯で潰してみたが、すぐさま意に反して口は開くばかり。自分の本性を、この時アグネスタキオンは手懐けられていなかった。紙で包み込んだ真っ黒な何か。あまりにその何かが早く行きすぎたもので、紙を突き破ってしまったのだ。

 

「……は、は……えっと、これ、で、いいですか」

 

 エリカの声にアグネスタキオンはゆっくりと頭を上げた。ワンテンポ遅れて彼女の持っている水、食べ物──簡素なもの、薄い肉をパンに挟んだもの──の香りが鼻腔を刺激し、今更のように彼女の腹が鳴った。うんだかすんだか言わないうちに彼女はその食料を掴み取り、胃の中に収める。固形物の味。私、生きてる。彼女は涙した。これほどまでにあたたかいあじを求めて彷徨っていたのか、と、俯瞰的な彼女の一部は力を抜いた。

 

「──ありがとう」胸を軽く叩いて、彼女は立ち上がった。幾分思考はクリアになっていた。いえ、お構いなく。エリカはそれだけ言って、再び歩き出したアグネスタキオンの少し先を進んだ。

 

 

 

 街はしかしながら、ほとんどの人が行き交っていなかった。粗い目の石で組まれた基盤の上に積まれた家が、(なり)振り構わずどこかしこに建っている。整然にマイナス一をかけたような並みに、アグネスタキオンは一瞬立ち止まった。どこからともなく皆が集まって、それぞれが自分の領域を主張しているのに、なぜかそれが調和してしまったかのような、奇妙な一体感を醸し出していた。平たい屋根、三角の屋根、全て石のもの、ほぼログハウスのようなものまで……アグネスタキオンは漏れるように笑ったけれど、アグネスタキオンの見るこの光景はどこか、空虚を受け入れつつも、それに抗っているようなものであった。

 

「こ、こっちです」

 

 エリカがおずおずと差し出した手に彼女は引かれ、大通り小通りを歩き、すり抜けていく。アグネスタキオンは確信を持った。すなわち、このエリカという少女は狂気を持っている、という直感。何かに魅せられている。間違いなく、何かに。

 

「……その、何か?」

 

「いや」

 

 患者服の袖を摘んで、アグネスタキオンは汚れを軽く払った。

 

 偶にすれ違う人を避けていく中、彼女は少なからず驚心(きょうしん)、奇心の目で見られていた。人々の目に何かネガティヴな思惑、排斥や嫌悪といったものが有るわけではなく、若干にアグネスタキオンと同じようなものを孕んでいた。素晴らしい場所じゃないか、ここは。アグネスタキオンはそう思った。少し、文明の速度は下がっているかもしれないが、と付け足して。しかしながら、そういった部分でこの人々たちを肯定、否定したりすることは、彼女においてあり得ない。彼女にとって重要なのは、構成するものの精神なのである。しかしながら、精神という言葉を思い出した時、アグネスタキオンは歯車一枚分、噛み間違えたような感覚を持った。

 

「今、居るのが……西区、です。普通の人は、ここに住んでるはず、です。お店とか、そういったものも、だ、大体はあるはず、です」

 

「ふむ」

 

 二人はやがて一際多い通りに出た。昼の間に設けられていた出店(でみせ)のいくつかがアグネスタキオンの読めない看板を仕舞い、それに伴ってどこからともなく現れた新たな店の主(大体が通常より痩せこけているか、強健な見た目である)が荒々しい看板を持ってきていた。この店主たちがこれから灯すであろうカンテラ──持ち運びやすさを優先しているのであろう、それはアグネスタキオンから見て昔ながらのランタン、火灯である──は、日を跨いでも消えることはないのだろう、と彼女に直感させた。

 

「あまり、倫理的に良くないものをこれから売りそうな気配だね」

 

「は、はは……えと、まぁ、あんまり、外れてはないですね。ここ、一応その、南区……岸壁街、あー……っ、と、貧民街、スラム? に、近いので……」

 

「法もお構いなし、というわけか」

 

「……ほう、ですか?」

 

「あー、ここでは違う呼び方を? 人を殺したらダメだとか、盗みは御法度だとか、そういったものをまとめた文書さ」 

 

「……えっと、すみません、そういったものはない、と思います。あ、もちろんそういったことはダメで、ちゃんとした場所で裁かれたりしますけれど」

 

「……成程」

 

 アグネスタキオンは少し驚いて、辺りを見渡した。所謂文章の形で成り立った法律が、ここには存在しない。イギリス近海の島まで流れ着いたのか、と、彼女は一つ思考してみるけれど、致命的に客船が揺れたのは、確かに大西洋ではあったものの、現在地を映すモニターではアメリカの近くだったはずである。波に揺られるうちに……とも推測を立てたはいいが、結局は何も分からないまま、どうでもいい思考の名を冠した麻酔が切れかかってきたので、結果的にエリカの心配そうな顔をさらに深刻にさせた。

 

「──いい街じゃないか。少なくとも、私がいた所よりずっといい」

 

「えっ……そ、そうですか?」

 

「そうさ。私は法律が嫌いだからね」

 

 そう、ですか。そうさ。アグネスタキオンは快活に言ってみせた。遠い場所で煙突から煙が吹き出していた。無関心にそれを眺めて、訥々と歩いていた。どこか鼻をつくようなものであるとか、まろやかな質量をも持っていそうなもの、そういった薄いものがゆっくりと混ざって、彼女を刺激したけれど、だんだんと、謂わば自らの穴に堕ちていく道程である彼女の前に、ただ呼吸し吐き出される原子群に成り下がる。

 

「その、外は……どういった感じ、なんですか」

 

 ──エリカにとって、それはとっておきであった。決して自分が横を歩く存在に何か、救済めいたことができるとは考えていなかったけれど、エリカの手はその先の方が冷え切って、自分が想像した未来に心臓が暴れ出し、それに苦しんでいた。

 

「……私が住んでいたところか」アグネスタキオンは穴から顔を覗かせた。「はい、その……物の売り買い以外に出て行った人は、みんな帰ってこないので」

 

「さぁ、どうだろうね。今頃レースでも始めてるんじゃないかな」

 

「レース、ですか」

 

「ああ。色々とまぁ、走るのさ。我々は元来それに魅せられているからね。君もそのクチから外れているわけではあるまい」

 

 言ってから、アグネスタキオンはあまり倫理的に(そう、倫理的に)良くないことをしたと認識した。──すまない。いえ、その、お構いなく。走れは、しますから。エリカは笑ったけれど、それはやはりどこか笑顔が担保するはずの雰囲気を失っていた。しかしアグネスタキオンには、それがどこか別の方向を向いているようにも見えた。聞くのは、これもやはり倫理的にふさわしくないと思ったけれど。

 

「……でも、はやく走れない、っのはちょっと……いや、ですね」

 

「無理に喋ろうとしなくてもいい」アグネスタキオンはエリカが言葉を選んでいるのを感じ取って、素早く手を口に、触れぬように被せた。「言葉には発されるべきタイミングがある。時期を違えればそれは指向性を失い、本来の意味をも奪ってしまう……そうだろう」

 

「は、はあ」エリカは淀んだように返した。確かにその言葉たちは筋張っていて、嚥下するには少し時間を要したけれど、エリカにはまるで話しかけていないような(実際エリカの想像より、アグネスタキオンは話しかけていたが)声音だったのだ。ただ、エリカが望んだアグネスタキオンの変化が、きっと現れているように思われた。

 

「……つまり、君は、あるいは君たち(・・)は走行よりも、この穴に惹かれた……と? 数百年営々と培われた本能すら凌ぐのかい」

 

 鐘が鳴った。あまり高い音とは言えず、寺の鐘にも似た、寂しげのある声。

 

 塔か、とアグネスタキオンは小さくつぶやいた。かえらなきゃ、と、エリカは引き寄せられるように。黙祷のような響きに、ここは一日を終える度死ぬのだろうか、と勘繰ったけれど、先の言葉に反して、エリカが穴の方向に向いて手を組み(穴自体は見えなかったけれど)、十数秒祈ったので、これは真に黙祷の意味を持っているのだと、アグネスタキオンは悟った。この穴に命を捧げたひとがいるのだと、知った。見れば、かたちは様々でも、強面で獰猛そうな屋台の主までもが大穴に意識を向けているようであって、焼かれている肉がじゅうじゅうと悲鳴をあげていた。

 

「……すみません、その、習慣で」「自殺者でもいるのかね」「ゃ、ぁ、そういうことでは、なく」

 

 エリカはしばらく、考えていた。アグネスタキオンが、今しがた自分がみていたもの、それに意識を向けている。しかし、どこか性急さをもって。自分の勝手な想像が、このひとを何か、何とも言えないけれど、くらい、そういう場所に連れていっているんじゃないだろうか。わたしが眩しく思っている場所は、果たして本当にただ眩しいのだろうか……。

  

「……えっと。すみません。ごめんなさい……ちょっとだけ、いいですか」

 

 アグネスタキオンは答えなかった。彼女たちは歩き続けた。ただ、その方向は変わった。帰る気は、少しだけなくなった。

 

 止める権利はない、というのが、エリカの結論だった。死ぬのかもしれない、と思い、きっとそうだろうと残酷に思考して、それでも、と彼女は歯を短く食いしばった。

 

「私、孤児なんです。私の母──ウマ娘、なんですけれど──はさっき申し上げた穴に飛び込んで、もう戻ってこないらしい、です。遺品も、何もなくて。組合──えっと、あーっ……組織のひとからの連絡、だけ。元から居なかったんじゃないかって思うくらい、きれいさっぱり居なくなったんです。……孤児院も行かせていただいたんですけれど、その、ほら、私……体が弱いじゃないですか。わたし、一応ウマ娘、なんですけれど……だから、ぜんぜん探窟なんてできなくて。それでその、あそこの人……水、届けてくれたひとが連れて行ってくれたんです」

 

 あれ、わたし、なんでこんなこと。エリカの口から漏れ出た声。アグネスタキオンは歩調を緩めた。

 

「あまり、その……私みたいな孤児を、多分院長先生は好きじゃないんです。これでも一応、生きてますから……自分がどういう身なりくらいかは、わかってるつもり、です。逆に私が先生でも、あまりいい顔、しないんじゃないでしょうか。……えっと、なので、その、帰ったら私、その、た、ただじゃ済まないと思うんです。多分、あ……っと、吊られたりとか、それ以上」

 

 喧騒がやがて遠ざかって、裏路地の一つを抜けた。

 

「──ぁー、ぅ……えっと、ですから、タキオンさん……は何も、悪くないです。私が勝手に、ついて行っただけ。勝手に、ついていっただけですから。でも、その、脈絡ない話になるんですけれど。わたし、多分、この街に空いてる穴が好きなんです。深淵──アビスって、言うんですけれど」

 

 開けた通りに出た。中心部に向かっているだろう、とアグネスタキオンは見繕っていたが、実際にその通りであった。

 

「そろそろ、ですね」

 

 二人は淵を歩き始めた。アビス、深淵……アグネスタキオンは穴を見つめる。アビスから一歩離れたところの道は、すぐそばと違って一段高い。故に少しだけ、アビスを望むことができる。

 

「……なんて言うんでしょう。っ……と、わかるんです。きっと、すごい、残酷なことになるって。わたし、このままじゃ、きっと、だめなんです」

 

 歩いた先に、小さな広場があった。遊具も何もない、ただ単に腰掛けと植木があるだけ。しかしながら、アグネスタキオンにはそれが何か、神秘的な何かを湛えているように思われた。入って、端まで進むと、転落注意の看板の向こうに、見窄らしい展望台があった。エリカは手を離して、踏みしめるようにそこへ一段、登り、振り向いた。

 

「……ですから、えっと。これだけ、言わせていただいてもいいですか」

 

 アグネスタキオンは首を傾げた。震えながら、彼女は笑った。

 

「──ようこそ、穴の街オースへ。そして──」

 

「──ようこそ、アビスへ!」




続きます。
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