よろしくお願いします。
太陽は丁度山の向こう側に沈黙していた。円形の山岳──精々五百メートルしか高さはないが──に囲まれたこの町は、帳が下りるように影が落ちていく。その鼻先が触れたのを感じたのか、マンハッタンカフェは目を開けた。身にしっとりと汗がまとわりついていて、それが少し気を顰めたのか、彼女は上体を起こして腕の前の方を手でふき取った。肌が触れた部屋の空気は太陽の恵みを失っており、記憶に残るその光景はマンハッタンカフェにぼぉっとした郷愁を与えたけれど、やはり居る心地が良いのは少し、こちらのように思われた。しかし当然のように左を見て、そこにあるはずの人影を認められなかったとき、ひときわ彼女の心臓は音を立てた。もう一度閉じ、あけてみても、どうやらここは夢見な心地をゆるさないようで、呼吸が、首を絞めていく。ふだん彼女はこの静けさに溶けていく中間、そういったどっちつかずを密かに集めていたのだが、自分の存在が失われていく……この失われていく、という心持になったのがいけない。やはりマンハッタンカフェは怒って、歯噛みして部屋を見回すけれど、矢張り居ないものは居ない。だが、幾度か息を繰り返すうちに、まだ取り残された、頑なに渡さない部分が安堵を示しているのをみつけて、一度ゆっくり目を閉じた。ようやっと取り戻した彼女の理性は未だ困惑の様相を呈していたが、こんな経験が心に幾つか当たったので、まだ数多心配の霧は疼いているけれども、彼女はひとつ落ち着いて、眼を開けた。マンハッタンカフェの心臓に、希望論的な確信が刻まれていた。
再び眠る前に摂った水分が功を奏してくれたか、彼女は寝床から、滑り落ちるようにではあるが這い出し、立つことができた。なんとなく彼女はアグネスタキオンの居ないこの空間が、自分を締め付けてくるような感覚を受け取って、彼女はそれに従って部屋の外に足を運んだ。木張りの部屋に対してあくまで石造りを貫いた廊下はやや磨きが粗く、ぺたぺたと進むマンハッタンカフェは奇妙な新鮮さを浴びていた。ひんやりとしていて、彼女は壁に触れてみた。一定の間隔で灯されるランタンには見たところ火ではないもの、電球が嵌っているようで、彼女は少し驚いた。ひとりでにこの文明を退化したものだととらえた精神を戻さねばならなかった。歯車をかちりと外してみてみると、成程天井の隅にはこの文明的な光を支えるものが走っていたし、そう思えばこの窓すらも、硝子を加工したもの……つまり、このオースなる未知な場所は硝子を加工できることになる──。
不思議な、不思議でないような感覚を覚えていた彼女の方に、足音が向かってきた。小さい、子供のような足音に彼女は聞き覚えが在った。やや暖かいにおいにも誘われて、その方を見た。
「あれ、起きてたのか」
少年は少し目を大きくして、問いかけた。あまり発達が済んでいないような体躯にしては、笑っているように捉えられた。
「……迷惑、でしたか」
「いやいや、全然。ほらこいつも、そろそろかな~なんて思ってたからさ」少年は手に持ったスープに視線を下した。「あぁ……でもここじゃ流石に、かな。戻るか?」
マンハッタンカフェは自分の歩いた廊下を見返した。確かにその部屋にはどこか後髪を引いてくるものがあり、心なしか明かりが灯されているような気すらしたが、仮初の残り物で満足できるはずがないことは彼女自身がよく理解していた。
「──いえ。どこか、食べるところはありますか」
「んー、じゃ、俺達の食堂でも行くか。一応患者は安静だけど……まぁ、歩けるし大丈夫だろ」
その少年は快活に笑むと、くるりと背を向けてまた歩き出した。その背丈の小さい姿を見て彼女が抱いたのは、まず人間である、という認識であり、その次にどこか表面的である、という不信だった。薄茶の髪の毛がざっくりと切られており、白い半袖、茶色の半ズボンはそれなりに使い込まれた跡が見られるものの、まだしっかりとした強さを残していた。アグネスタキオンと共に忽然と消えた、あのエリカという少女とは、かなりの違い様であった。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「なんだ?」
「ここには、ウマ娘の方はいらっしゃるんですか」
少年は振り向かなかった。「……あぁ、独りだけ。何時間か前に会っただろ? ここにいるのはそいつ……エリカだけだ」
「いいひと、そうですけれど」「色々あるんだよ。あんまり……関わらない方がいい。特に、他所のは」
やけに強い少年の声に、マンハッタンカフェは敏感に、内包される絡まった黒い紐のような感情を察知した。
「……代わりと言っては何ですけれど、貴方の名前をお聞きしても」
「ひとつじゃないけど……」少年は言葉遊びをした。そこにはもしやすると安堵があった。「まぁいいか。コレオ。……と、マンハッタンカフェさん……で、いいのかな」「はい、構いません」
食堂までは歩き続けて一分ほどの、二人が寝ていた部屋の対極にある場所であった。五メートル強の木製の長机を挟んで長椅子が設置され、そういったセットが四つ存在していた。
「俺らみたいな子供がそこそこいるから、結構飯作ってる人は働き甲斐あるらしいぜ」端の席に向かいながら、少年は元のような明朗さを取り戻し、喋りかけた。不思議な、だけれどいいひと。マンハッタンカフェは思った。へんに大人びている、というのがその理由であるのだが、無論マンハッタンカフェはそう言わず、座って一口スープをすすった。鳥の出汁をとって芋と端の肉を入れた簡素なもので、しかしながら温かいものは彼女にじんわりと浸透していった。「うまいか?」「ええ」「そりゃよかった」反対に座り身を乗り出した少年は、やはり明活に笑う。食堂の電球は消されており、よって彼女たちにある種の秘匿がもたらされた。
「……あなたのような人が、まだいると聞きましたが……もう、寝られたのですか」
少年はその口角を、寂し気なものに変えた。「もうじきさ。皆探窟に行ってる」
「タンクツ、というのは」
「ほら、ここ……あんまり立地が良くないんだ。広いからってさ。だから死ぬほどの怪我人しか運ばれねえ。長くいる分には良いんだけどな……人数が居ないんだ。死ぬほどケガする」
「……すみません、タンクツ、とは」
「ん?」少年は首を傾げた。「探窟がどうしたんだ?」
「……知りませんので」
「外にだって遺物の一つや二つ、あるだろ? ほら、姫乳房とか太陽玉とか……」
「いえ……」マンハッタンカフェがそう言い、ほどけた肉を飲み込む。少年は目を丸くして、それから少し迷ったように頭を掻いた。「……頭の方がまだ戻ってねーのかな……部屋に戻さなかったこと、怒られないと良いけど」
「私がついて行っただけ、ですから」
「……まぁ、いいや。よくないけどさ……で。探窟だっけ」
「はい」マンハッタンカフェは少年の目が、少し彩られるのを見た。
「この街……オースって言うんだけどさ。その真ん中にデカい穴が空いてるんだ。そん中に俺達は潜り込んで、遺物……あー、お宝、掘り出し物? をとって帰ってくる。外の方には結構な値段で売れるらしいって聞くから、知ってると思ったんだけどな」
「そう、ですか」
マンハッタンカフェは匙に手をかけたまま、もう一方の指を顎に当てていた。そういった奇怪な産物の話──彼女が経験し、浸っていたものとはまた別ベクトルのもの──を、彼女は聞き及んだことが無かった。各国の政府が秘密裏に取引をしているのではないか、などと思考してみるものの、つまりそこから得られるのは推測的な打算であるが故に、マンハッタンカフェは先を促した。
「というか、これ……今、上についてるの。これ外から持ち込まれた遺物だったはずだぜ。百五十年前くらいから、らしいけど」
「──え」
マンハッタンカフェは上を見た。しかしながら、そこにはありきたりな電球しか存在しなかった。「この電球が、ですか」「というより、電気かな。発電設備諸々。穴はもうここしかないって聞くけど、俺達の知らない間にまた穴が見つかったり、そうじゃないところで見つかってたりしてるんじゃないか?」
──彼女はあまり嘘を吐くことが好きではなかった。吐かなければいけない、例えば社交的な場が存在することも理解していたし、自分のために吐いてくれるもの……というものは一定の甘美な笑みをもたらしたけれど、そのあと自分に嫌気がさすから……。しかしながら。──これはきっと、そう、私の手に余るもの。ひどく分厚い、嘘と揶揄うことの憚られる歴史。
「そう、かもしれません……思い出せるかは、分かりませんけれど」それでも歯噛みしながら、マンハッタンカフェは曖昧に返した。少し冷めたスープはそれでも温かったけれど、彼女の絡まった糸はそう簡単に解けそうにない。マンハッタンカフェが少しずつスープを消費するのを、それから少年は黙って見つめていた。しかしながら彼にとって重要な、全く関係ない方向で隠すべきことが、彼の腹部が鳴ることによって暴かれた。
「……もしかして」
「──あー。まぁ、そういうことさ。気にすんな、気にすんな。俺まだ育ち盛りだからさ。ちょーっと食わなくたって死にゃしないぜ」
すみません。だから気にすんなって。彼女は今の大いなる考え事を一度そばにおいて(アグネスタキオンと共有しておかねばならない、とは結論付けたが)、与えられたこのスープをより丁寧に食べるよう心掛けた。薄暗闇の中で味わうスープは、様々な思惑があれどやはり現実としてそのままの味を伝える。
「──よし。俺が食器戻しとくよ。これから……そうだな、戻るか?」
口の端についた液体をぬぐって、彼女はありがたく食器を差し出した。珍しく彼女は打算的だった。興味もないとは、言えなかったが。「その、穴を見せていただけますか」
「……」
少年は黙って、思考した。エリカが草毟りに駆り出される一時間ほど前、彼女に不思議な言葉を託されたのだ。曰く、大穴──アビスについて、可能な限りのことを伝えること。無論、過度な敬語とせっつきが混じりに混じった懇願ではあったが。本当に不思議な感覚だった。まるで
「あんまりいい靴無いけど、それだけ断っとくぜ」
「構いません」
少年が食器を返した場所をしかと記憶して、マンハッタンカフェは先導する少年についていった。少しだけ、やはり彼女の心が、興味に傾いているのを認めて、彼女は苦笑した。しかしその先から微かに、子供ではない足音が聞こえるのを感じ取って、マンハッタンカフェは少し、口を結んだ。
続きます。
三話と四話は加筆修正予定です。予告なく行いますが、ご了承ください。