あらすじにも申し上げましたが不定期に修正等行ってまいります、ご承知ください。
よろしくお願いします。
エリカとアグネスタキオンが出て行った窓を忍び足で乗り越え元居た病室に戻ったのは、日も落ち、夜鳥が静かに
「あぁ……靴を忘れていたな」板を踏んでも滑らかさを感じられなかったことで、彼女は今さらに気づいた。ベッドに腰を下ろして砂を落とそうとしたが、そうすることは彼女にあまりよい光景を想像させなかった。「すまない、濡れたタオルとかいうものは有ったりするかい」窓をおっかなびっくり乗り越えた後、おどおどと立ち往生していたエリカは、やはり体を跳ねさせるようにうなずいたあと、ともすればつまづきそうな勢いで扉の外へと去っていった。
一人になる。孤独を、アグネスタキオンは飽きるほど患っていたけれど、彼女はこの襲い来る無言に対し、努めて表情を変えないことがやっとであった。大きく息を吐いて天井を見つめる。──ふしぎだ。アグネスタキオンはそう思う。自分は間違いなく、ずっとやわらかい、強固な安全に囲まれているはずなのに。あの洋上での幾日、幾十日が在り得ぬ甘美さをもって、語り掛けてくる。ひた隠しにされていた呵責、彼女が負わねばならぬと定めた責任であるとか、そういったどうしようもない胸部の痒み。それは海面に糸を垂らしながら背中を合わせていた時分にも同じように彼女を苛んでいたが、例えば背徳的にイエス像に膝をつき許しを請うような敬虔な信徒のような、些細な幸福感と口の端が歪みそうな苦みが、アグネスタキオンが見る彼女の過去に生み出されていた。やや暗い静かさの中に、若干の音が在ることが、空間の大きさを強調するようで、彼女はひとり胸の間の皮膚から手を入れて、血飛沫を噴き上げながらこの痒みの靄を取り出し、握り潰し噛み砕くなどといった妄想をする。カフェが居てくれたなら、少しはましになったのだろうけど。そう彼女は思う。いつか戻ってくるとは分かっていても、それはつまるところ彼女の第六感(そういったものも一度含めて彼女は有機的に思考を形成する)にまかせっきりであるので、奥底の部分は不安を返してくる。
「……はっ、はっ……すみません、これでだいじょうぶで、すか」
あわただしい足音を引っ提げて、裸足のエリカが扉を突っ切ってきた。これこそが濡れ布巾、とでも言いたげなその物体は悔しいが確かに拭かれるために作られたようなもので、アグネスタキオンは苦笑して受け取り、柔らかな足の裏をぬぐっていく。そう。彼女は思った。下に降りている間、私は確かにある程度、満たされていた。そんな気がした。
「あれ……カフェさん、その、居ませんね……大丈夫、でしょうか」エリカは下を向いた。
「じき帰るさ。そういうひとだ」
「そう、でしょうか」
「そうさ」
エリカの想像とは裏腹に返された言葉。このひとは、あのひと、あんまり気にしていないのかも。彼女は一歩落胆して、扉の方を見た。しかしそれは、今気づけることはないけれど──。
「その、休まれますか? 食事とか、簡単なスープとかなら一応持ってくることは、できますけど」
「──そう、だな。いや、そのスープ、だけいただきたいな……そういうところ、此処にあるかね」
「あ、いえ、持ってきますよ。その、少しだけ待っててください」
よく言えば方向外れの節介であったが、エリカは意識的に一人になりたかったし、あまりアグネスタキオンに現実を知らせたくなかった。いつもより早めに歩いて食堂へと向かう。今日はどんなものが出てくるかとか、せめて減らされる分が十口分くらいだといいな、とかそういった思考をもって、他の皆と少しだけずれた時間に行っている彼女は、
──わたしの、あこがれのままで。抽象的な議論が、彼女は並一辺より好きだった。あるいは使命感に服従しておくことに安心していた。申し訳なさそうな顔をする厨房の老婆に気にしないでくださいと笑うのもいい加減慣れてきて、得た液体をもって彼女は部屋へと戻った。そうして見たアグネスタキオンの姿が、二人でいた時よりも遥かにネガティヴな儚さを持っていたために、エリカは無意識に脳にひっかけていた落胆を消し去ることができた。定型的な感謝と、恐らくは食べたことのない味に苦笑するアグネスタキオンに、エリカは久しぶりに笑えたような気がした。
──きっと、そうね。エリカ……奈落は、信徒なんていらないのよ。
母の声が聞こえる。人のものではない耳が、頭にふたつ。やさしい。けれどその優しさは、きっと別のところにまなざしを向けている。わたしの頭をなでる手、それは慈愛を纏い、あたたかい。
──しんと?
──かみさまに仕える人のことよ。……きっとね。なかまが欲しいだけなの。私の想像だけど、ね。だって、私たちはかみさまになんてなれないじゃない。
──なれるよ。おかあさんなら。
──嫌よ、なれたってなりたくないわ、かみさまなんて。
母は頭の上で笑った。見上げるけれど、その顔は靄がかっていて、けれど違和感を抱かぬよう絶妙に施されている。いつからか見えなくなった。自分とおなじ淡紫の髪が長く伸びていて、しなやかに揺れている。
現実に起こったことかは分からない。ただそれが、母と過ごした幾年かの最後の記憶として、思い起こされる。
それから数週間、アグネスタキオンとマンハッタンカフェはまるで当然の原理かのように恢復した。相変わらず彼女らの出会うひとはエリカと、あの少年のみではあったが、時たま聞こえる幼なげ、無邪気な足音たちが、それなりの人数がいることを認識させた。医院とは名を銘打っているものの、ここに来るのはアビスに向かい派手な傷──手首を噛みちぎられるだとか、足を捥がれるだとか、四肢が歪に歪んでいるだとか──をいただいてきた者がほとんどである。熱を出しただとかそういった人のための施設は西区に点在するため、こういう人里離れた場所に重傷の患者は寄越されるのだ。つまりここにやってくる(大抵は運搬の車両や動物に積み込まれてくる)人はそれなりで、しかもそれなりの期間を治療に要するので、世話役が入り用である。そこで渋々院長の考えた、岸壁街から適当に子供をひっ捕まえて働いてもらうという考えは、体のいい問題を解き明かした後の、解き明かせなかった自分を呪うが如き明快さでシステムに嵌り込んだ。食費も嵩むようになるので、完治した中でまだ動ける元探窟家を誘致し、週に一度、引き取った子供を交代制で探窟に向かわせる。組合での適性検査、身体検査、基本的な筆記試験といったものを通して子供らに支給された探窟家の印は「笛」と呼ばれ、彼彼女らの付けた「赤笛」はアビスのほんのつま先にしか入ることを許されないが、それでも十二分に稼ぎは循環を見せた。
「……みんながつけてるのが、見習いの赤笛。十五歳を超えるとその、蒼笛になるための試験があって、それが受けられるようになって。受かると、一人前と言われます。そこからは功績に応じて紫色の月笛、黒色の黒笛、そして、ですね……」
「そして?」
「白笛です。今のところ、これより上は──」
「ない、と」
「はい」
アグネスタキオンが促して、エリカは申し訳なさそうに答えた。
「笛で等級を分けるのかい、また偉く凝った仕組みを作るもんだ」
「……えっと、笛っていうのは、もともとその、白笛が先にあったらしいんです」
「ほう」
「なんだか、その笛は特別らしくて。それを元にして、白なら黒、黒なら紫、紫なら蒼、蒼なら赤……って、順ぐりに。あと、ほんとに危ない時になったら笛を吹いて知らせるんです……ここに来るなって、自分はここにいたんだって」
「つまり……」
「、断末魔代わりです。悪く、言ってしまいますけれど」
三人の間に、しんと張った空気が敷き詰められた。エリカはそこからなんとかしようと、いつかと同じように動作を始めようとするけれど、その挙手投足を
「……あまり、穏やかなところじゃないんですね」少し俯き加減であったマンハッタンカフェが、ベッドの裾を軽く握った。「例えば……生物が棲みついている、とか」
「はい」エリカは、自分の心臓が性急さを増すのを感じ取った。現金な自分を隠し通そうと、彼女も抑えるように座った椅子を掴んだ。
「たくさんいます。食料になる程大人しいものだったり、遭遇が死を意味するものまで、いろいろ」
そう、ですか。
お世辞にも安全とは程遠い口述とは裏腹に、明かされていく大穴の情報に、アグネスタキオンは頭中で思い浮かべた仮想なるアビスが重力源を持っているように働いて、自らを惹き込まんとする感覚を咀嚼していた。しかしそこで自身の空間座標を固定しようとする、謂わば釣り合いを保とうとする試み。そういったものを成さんとする力は、彼女に身につけられた、贖罪の精神、彼女が仮初に生み出した遺体の手であった。アグネスタキオンは歯噛みした。アグネスタキオンが擲てるものが、アグネスタキオンだけであることを受け入れなければならなかった。
──先ず初めに私が海へ入るべきだった。
笛を鳴らすとき、探窟家はどういった景色を見ているのだろうか。憧憬し、唯ならぬ胸の高鳴りを伴って首にかけた筈の笛を、自らの人生の最後、自らよりも他の者を顧み、しかし確かに自分は奈落の信徒であったのだと、高らかに鳴らす。そういった気分は……。
「……まだ居たのか」
そういった緩やかな渦に沈んでいる場合、自分以外の変化には気づきにくい。
「あ、い、院長先生、お疲れ様です」
男性はエリカの挨拶をまるで無視した。そのまま彼は空間に独特の通路を作り出して、領域を主張しだした。「治ったか。ならばサッサと出て行きたまえ。金のない者に貸与する部屋はそう多くないのでね」
「あの、その、院長先生、それはあまりに……こ、この方達、外から来たばっかりで──」
「君には何も聞いていない」
あしらうような男性の視線はエリカの、彼女は気づいていないけれど、ようやくこぼれかかってきた観念をまたきつく縛り上げて、癒着させてしまった。小さく悪態を鳴らした男性は縮こまっているエリカと、ベッドに座る二人との間に立つと、顎をちょいと上に上げて見下ろした。燦然と屹立する彼女自身のしっかりとした柱は、また変容を拒んでしまった。
「どこから来たのか知らないが」数秒そのまま止まった後、男性はゆっくりと歩き出した。「早急に出て行くことだ。……三度同じことを語る生産性は分かるね」
「せ、先生……!」
「まぁそう言うものじゃない、実際我々には金銭がないんだ」
アグネスタキオンの貼り付けたような明朗さに、エリカは一瞬動揺した。これまでの十を少し下回る年月の中で、こんな表情をした院長が自分に有利益なことをもたらした試しはなかったからである。一度大きく止まった心臓が脈をうちはじめて、乱高下するものにエリカの許容値は一滴分だけ漏れ落とす。
「そこのエリカという子から、探窟に向かえば金を稼げると聞いたのだが……ここの探窟事業に組み込ませてもらう、というのは。宿代も込めて、それなりに動ける自信はあるが」
院長の仏頂面が、悪い意味である表情を帯びた。老いの証であるしわが流動的に動いて、それは本当に微細な塗り替えであったけれども、そこから一歩引いて、全体を見た時、そこには明らかな不快、ともすれば憤怒が現れていた。
「君らが行くような場所ではない。分かるはずもあるまいが、あの神秘を」
「その神秘を金蔓にしているのは貴方自身だろう」
「不躾なことを言うものじゃない」男性は意図的にこの場を支配しようと語気を荒げた。彼とて、そう、渋々でこの、身寄りのない者を探窟に向かわせると言う案を持ちかけたのだ。それは例えるならば、解法が見えているものの、その非エレガント性故に目を背けてしまうような、青い薄気味悪さであって、彼の顔はやがて苦虫を噛み潰した後になっていった。彼はどこか敬虔さ、強い芯すらも持ち合わせていたのかも知れなかった。彼自身が探窟に赴くということは、
「笛をもらってくれば認めてくれる、と解釈しても」
「勝手にすればいい。出て行くのならば君らがどう思おうが勝手だ」
言い残すと、男性はあくまで落ち着いた足音の中に、確かな苛立ちを持って去っていった。ねじ込まれた彼の存在は、それがこの場からいなくなった事により、彼が現実に占めた領域より大きな欠損を遺していった。その虚無に部屋の空気はいくらか吸い込まれて、僅かではあるけれども密度が白みを増しているように思われた。
「……その、笛をもらう試験は、私たちでも?」口を開かなかったマンハッタンカフェは、努めて穏やかに疑問を投げかけた。その声音がエリカの息苦しさを少しだけ、和らげた。
「あ、は……はい、基本的に誰でも、です。犯罪歴があるかとか、その、そういったものは一応聞かれますけれど……余所者という言い訳は、大体鉄板らしい、です。今はその、外国の探窟家と
「人手は多い方がいい……と」「はい」
「──まあ、行く当てもない。此処に死ぬまで居るわけにも、ねぇ」
エリカは何か、表しがたい焦燥を感じていた。二人が目を合わせて、若干苦笑する。それは確かにアレクサンドロスのミロのような芸術性を、エリカの脳裏に焼き付けたものの、幾週間か前の自分は確かにそれで満たされていたはずであったのに。エリカは新たな動揺を感じ取った。マーブル模様を描いた何種類かの動揺は決して混ざる事なく、しかしそれらが決断──それも、脱兎の如きもの──を望んで、動き、先端を針にして彼女を刺していた。
「……あ、あの」
エリカの、裏返った声。「その、組合までご一緒しても、構いませんでしょうか……あの、えと、ほ、ほら、色々と、手続きとかある、とおもい、ます、し……はい……」それはあまりにも弱々しい終端で終えられたが、密かなるアグネスタキオンとマンハッタンカフェの、微笑を引き出すのには些か十分であったと言えよう。
続きます。