今後とも何卒よろしくお願いします。
医院の玄関には見窄らしいなりではあるが最低限の靴が二足置かれていた。ややくすんだ白色であるものの、それらの二足はアグネスタキオンとマンハッタンカフェにすっぽりと収まった。騒ぎを聞きつけた人が倉庫から引っ張り出してくれたんですよ、きっと……エリカはそう言って、さらに使い古された黒色の、爪先の底が剥がれているものに足を通した。そういうこと。そういったことに頭を回せぬほど鈍感な生涯を彼女たちが送ってきたかと言われれば、確かに否である。しかし、エリカの笑顔は、力のないものではあったけれど、それでも何か、彼女が守りたい現実を訴えかけていたので、二人は黙って、医院を出た。
「──よろしかったのですか、その、あの二人をこちらに抱えないで。彼女らならうまくやってくれると思いますが」
今日は快晴と言わぬまでも良い晴れの日であった。作業着に着替え、昨日の報告、今日の朝の患者の状態、今日の予定諸々を告げた看護婦長が遠慮がちに尋ねる。長と言っても、その役職には単に報告義務がくっついているだけで、彼女が特に統率に優れているからとかといった理由はない。
「……こんなことを申し上げるのは看護師失格かもしれませんけれど、足のつきようがありませんし」
「あの場所は我々の聖地なのだよ」
院長は簡素な椅子の小さな背もたれに腰を押し付けて、膝の上に両手を組んだ。彼の後ろからは陽光が刺していたが、そんな
彼女──エビネと呼ばれた人は、院長の発言の、人間、その二文字がことさら力強く発音されたことに、彼女の中の疑問、あるいは洞察、認めたくない理解による一種の怒りがちらちらと
「
「……でしたら、なぜエリカを受け入れたのですか」
返した言葉の球体に棘が生えていることに、エビネは言ってから気がついた。職業柄そういったことには習熟しているはずだったのに、とまた別の疑問が湧いてくるけれど、院長の眉間の皺が若干動いたことによって、その疑問は打ち切られた。これは癖だ、という反射が伝達されていた。
「度々の無目的歩行、異常発声、惰眠……彼女が
「全く気に入らない話だ。本当に気に入らない話だ。……君、そろそろ通常業務に戻る頃合いだと私は記憶しているがね」
それが矢鱈目鱈の出まかせであることを認識できる程には彼女も相応の年を生きてきた。そしてそれに乗っておくのが無難であることを、彼女は相応の年で学んで来た。
エリカについての身辺の規制のされ方は、もはや愛というまでの意識のしようであった。……無論、平穏を保つ範囲で、彼女(また、彼女を含めた彼彼女ら)の独断が含まれてはいるが。彼女に笛が渡されることは終ぞなかったし、彼女の世話する者は軽傷、故に院長の見回る必要のない人々ばかりであった。決して餓死はしないけれど満たされることは無い食事が最たる例であろう。意識的な無意識という意識をエリカは身に浴びていた。一礼して、彼女は院長室の扉を閉めた。
ひどいことをしている、という思いはあった。エリカは生きているけれど、ただそれだけであり、それ以上でもそれ以下でもあることを許容されなかった。エビネの為したことは、確かにエリカを押し上げていたけれど、それはあくまで超えられるべき壁の前で止まっていた。それは全てを失った放浪者へ、どこかに水辺があるとだけ伝えて颯爽と去るようなものであって、視覚を持たぬものに太陽の如何に明るいかを楽しく語りかけるようなものであって、つまりエビネはそういうことしかできなかった。生半可な命の終わりよりも惨たらしいものであった。ごめんなさい、とだけ心でつぶやいて、彼女はエリカが、せめてその断絶の壁に縄をかけられるようになれば、と願った。医院は皮肉なことに、エリカが居なくても当然のように循環し、一日を始めていく。
靴でも贈ってあげるべきだったか、と、エビネは思った。
「──それに、今日で十二才の筈だからな。そういう約束だ」
探窟を行い、発掘された鉱石や「遺物」を持って帰る。それを売却する、という単純な行為は、故にオースの縮小した経済を担っていた。地上でも農業、牧畜であったり、
「──二名様のご登録ですね。では、こちらの紙に必要事項をお書きになったうえで、再度こちらまでお越しください。右手にカウンターがございますので、そちらをご利用いただくことをお勧め致します」
腹部にそっと両手をあて一礼する女性に軽く頷いて、三人はカウンターへ向かった。指定の机に赴き改めて受け取った紙をみると、横長の長方形枠がひとつ、それに比べると小さい枠が存在するのみであった。それぞれに何か、例えばきっと名であるとか、生まれであったりを記すことはこれまでの経験で把握できたけれど、彼女たちの視線はその枠を意味づける為の文字に向いていた。
「ふむ……見たことのない文字だ。表意文字……かな」「にしては、少し数が多いと思いますけれど」
「あ、えっと……すみません、見せていただいてもいいですか」
アグネスタキオンは紙を横に滑らせて、エリカの前に置いた。
「あ、ありがとう、ございます。……
「いや、問題ない。感謝するよ」
「や、そんな……」
彼女はその先を紡ぐ術を持ち合わせていなかった。
東区に存在する探窟組合は西区と文字通り反対に存在するため、彼女たちは凡そ一時間弱歩いて、オースを半周した。スラムを通るのはなかなかに危険が過ぎる(だからこそ行くのだ、金持ち連中の面など見たくもない、とアグネスタキオンは声をわずかに弾ませた)ということで、北区の端の方、ほぼアビスを囲むような道路を通って、彼女たちは向かった。それでも数少ない(本当に、数少ない)所謂金持ち連中であるとか、遺物を売り払い、これからの想像に血眼な探窟家であるとかとすれ違うことは避けられない。エリカは服を着ているものの北区の者と比較してあまりに見劣りするし、二人に至っては結局漂流生活の時の衣服は手に戻らず、患者服のままである。おまけに三人の、耳と尻尾。西区の市場にいた者たちと違って、わずかなブルジョアと数多の探窟家はどこか、眉を寄せたり目を細めて嘲笑ったりしていた。そういう人々を見るたびに、三人はこれから向かう場所への高揚をすり減らしていくのであった。
「か、書きましょうか。おっしゃっていただければ……その」
「心強いねぇ、なぁ、カフェ」「ええ、本当に」
羽ペンにインクを吸わせて、エリカは二人の声を聞く。エリカは途轍もない、麻薬のような高揚感に襲われていた。アグネスタキオンとマンハッタンカフェが、自分を必要としていることが、たとえそれが誰にでもできることであろうと嬉しかった。
「──家族の有無、というと……まぁ、オースにはいない訳だから無しで構わないか。書き終えたかい、何か聞き漏らしたことは」
「ない、と思います。こちらがマンハッタンカフェさんの、で、これがアグネスタキオンさんの、です」
紙を受け取った二人は出してくる旨を伝え、カウンターを後にした。
「随分と簡素だねぇ」
「ならず者でも構わない、ということらしいですから」
「まぁ、ね」
紙をひらつかせるアグネスタキオンに、マンハッタンカフェは苦笑する。組合の中は、石造りということもあってかそこそこの涼しさが担保されているようであった。カンテラはやはり蝋燭などではなく、電球が走っているようで、白熱の優しい灯りが、内部の淡白さと不釣り合いに光っていた。その空間に集まるものはやはり不釣り合いなものであって、まばらに佇む探窟家たちは自然でない沈黙を発生させているように見えた。ともあれ二人は窓口へと向かい、声をかけて受付を呼んだ。今度はある程度賢しそうな、老いを適切に重ねたであろう男性が現れた。
「大変お待たせいたしました、赤笛の適性検査申請ですね。御受け取りさせていただきま……おや」老人はそこまで話して、二人の頭頂部、そして脚の隙間から見える毛に目を向けた。「もしや、ウマ娘の方でいらっしゃいますか」
「……ええ、そうですけれど」
「そうですか、そうですか……いやはや、運がよろしい、と申し上げるべきなんでしょうね」老人は苦笑した。「というと」アグネスタキオンが切り返す。
「実を申し上げますと、ウマ娘の方には笛を差し上げられなかったんです。つい数年ほど前までは」老人は紙を受け取って、
「私個人としては、そういったことはあまり好ましい考えではないとしていたのですが……新たな風を受け入れるべきだ、という白笛の方の声で、そういった取り組みが加速しているんです。いやはや、運がよろしい」
紙を一通り見終わった老人は顔を綻ばせるけれど、彼女たちは反対に、この街が自身を刺してくるような気配に包まれた。
「……と、失礼致しました。はい、確かに承りました、アグネスタキオン様とマンハッタンカフェ様ですね。あまり聞かない種類の名ですが、もしや……いえ、よしましょう。挑む者を送り出すのが、我々ですから」
老人は意味ありげに微笑んだ。「本来ならばこの後、適性検査が存在します。……が、お二方は必要ございません。励起段階の政策として、そういう措置を取っているのです。差し支えなければ明日、もう一度こちらにいらしてください。基本的に二十四時間扉は開いておりますし、誰か一人は受付に居るはずです。お申し付けいただければ、あなた方の名を刻印した赤笛をお渡しいたします。その時に諸々の説明をさせていただきたく存じます」
二人は老人の爽やかな圧力に若干気圧された。彼女らは侮蔑、嫌悪、そして羨望といったものを求めてなどいなかった。彼女らは仲間が欲しかった。自分を思い切り殴って、その後に抱き締め殺してくれるような。老人ではあまりに優し過ぎるだろうな、と、マンハッタンカフェは考えた。できることなら、私も。と、思うけれど、それは無理な話である。罪人に罪人は裁けない。
「帰ろうか。また明日来てくれ、とのことらしい」
カウンターでこちらの様子を不安げに見つめていたエリカは、二人の近づいてくる様子をじっと見ていて、それでも話しかけられたことに対しびくりと肩を跳ねさせた。「は、はい!」「……とって食う訳じゃ、ないんですから」マンハッタンカフェが少し笑った。エリカはそれで十分救われたような気がした。
組合の窓ガラスから差し込む光の色がだんだんと温かみを増していたことで察した通り、もう日の入りも近そうであった。目にみえる全てが狐色に染まっているけれど、時折舞い散ってくるトコシエコウの
「にしても、少し待遇が嬉し過ぎるね。検査までパスとは」
「え……後日とか、そ、その、そういった感じじゃ……なかったんですか」エリカは食い気味に質問した。「ああ、もう笛はもらえることになったらしい」
「そ、そうですか」エリカはそう答えるなり、俯いた。それは、彼女の中にある一つの、欲望を拒絶され、抗う意思をも否定された彼女にとっての、火種であった。彼女が吐こうと画策したのは、嘘。しかしながら、それは日常に繰り出されていた、保身のための嘘ではない。自らの本能のための嘘である。その本能がどのような形であれ、彼女を止めることはできないのかもしれない。君もなれるさ、きっとね。アグネスタキオンは賢しかった。エリカは、はい、と返すことしかできなかった。
一際大きな風が舞って、トコシエコウが鳥の群れのように飛び去っていった。三人は医院への帰路についた。
続きます。
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