彼女たちは西区の医院へと足を向けた。オースの西、東区にはそれぞれ控えめな大きさの時計塔が存在し、やや湾曲した長針、短針が
「直径が……ふむ、一キロといったところか」アグネスタキオンは軽く腕を組んで、アビスの方を見た。先のつむじ風の他にはただ肌をゆるくさすっていくものが吹いていて、そういった穏やかな雰囲気はアグネスタキオンをどこか安心させていた。
「そう言いますと、少し……小さくも思えますね」
「一周が三キロと百四十一メートルと表せば大きくも見えるけれど、周るのに徒歩で一時間半と言うとまた小さく思えるかもしれないね」
「……分からなくは、ないですけど」
マンハッタンカフェがなんとも言い難いような、微妙な、形容し難い表情をするので、アグネスタキオんはやや苦く笑う。患者服が少しばたついた。
「その、あの……戻られますか」マンハッタンカフェの右隣を歩いていたエリカが、やはり及び腰を見せた。
「……そう、ですね。来た時の服をまだいただいていませんし」
穏やかに彼女は返答したけれど、エリカは背筋から冷たいものがうなじまで素早く、そして知覚できるほど丁寧に這い上がっていくのを感じた。この人は笑うのだろうか、というシンプルな感想を抱かせる相手が、幼い自分に苦い顔をして付いてこいと告げた日のおもいでが胃の上部あたりを通過して、どんどんと喉にまで昇ってきた。酸のような喉奥の味に、チカチカと瞬く視界。慣れないこの感情は特段稀、というわけではなく、一週に二、三度は訪れる。只、彼女たちに対して隠していただけ。さすられる背中の感触は、こういった時不思議といつも居る少年──コレオという名を、エリカは医院の中で一番よく覚えている──のようであったけれど、やはり女性的なものであったので、彼女は戸惑った。わたしに、これほどの何か、わからないけれどすばらしいものが与えられていいのだろうか。彼女にとってこの匿われたものが暴かれたという事実は彼女に薄寒さをもたらしたけれど、アグネスタキオンとマンハッタンカフェは、彼女らはごく自然に行動しただけであったが、それはエリカの、壁の向こうへの憧憬を広げるに十分であった。
「すみ、ま、せん。だいじょ、ぶです、もう」
「くず箱、どこかから持ってきましょうか。楽にしたほうが」
「い、え」エリカは強い口調で言い切った。「吐いたら、だめ、なきがするんです」
それは決して、エリカの強がりで、ということではなかった。ほとんどの時、彼女は行き着くところまで行ってしまい、その後始末を苦笑いしながらするコレオを、安静にと座らされた椅子で見るだけであった。しかし出会って一ヶ月も経っていないような、ただウマ娘ということだけ共通しているこの二人が、彼女に何か、幾年も超えられなかった大きなものを打ち壊すに足るものをもたらせるとは思われない。
「……歩けますか」エリカの呼吸が平静を取り戻したのを見計らって、彼女は声をかけた。「もんだい、ないです。……す、すみません、私、その……ダメですね、お世話役、なのに」
マンハッタンカフェはそこから返す言葉を見失い、機を逸してしまった。アグネスタキオンの方をチラとみたが、自分と目があったので、そのまま前を向いた。言葉という、ひっそりとした有機体を持っているものでは、彼女の溝、ある種のふわふわした灰色の何か(アグネスタキオンとマンハッタンカフェはそれを間近で見てきたこともあるから、言語化することは叶わなくともそういった観念をよく咀嚼して、自分の中で腑を落としている)をほぐせないとわかっている。よって、彼女たちはすっと、帰路についた。足音を緩めることはなかった。
「ごめんなさい……入れるなって言われてるの」
そういったとある看護婦の声は、暖かさに彩られていたけれど、ただそれだけだった。
三十を過ぎているような、しかし人生を豊富に経験しているとは言い難そうな、それでも若干その肌に皺の見え隠れする……と言えそうなほどには、アグネスタキオンとマンハッタンカフェはこの女性を観察したけれど、
「は、入れない……ですか」
「そうなの、ごめんなさいね……今日、急に院長先生からそうことづけを頼まれたの。丁度良いからもう、って」
「ちょうどいい……」
エリカはそういったことに慣れていると自負していたけれど、彼女はただ、重力によって立たされている、といった風であった。彼女がなけなしの金で買ったアビスの植物図鑑だったり、書き留め帳であったりが、もうきっとどこかに置き去りにされているのだろうな、という確信があった。
「エビネさん、その、……その」
彼女のこころがようやっと形を保っていられたのは、外圧が彼女の主張を押し詰めて、奇しくも彼女の形を決定していたからだった。あのひとさえ、あのひとさえ、と思うことで、彼女は現状を受け入れて、いつしかそうとすら思わなくなってしまった。
「──一晩だけ、でもだめですか」
マンハッタンカフェは穏やかに質問を返したけれど、エビネは緩やかに首を振った。ごめんなさいね。そのことばは短かったけれど、重みを失っていた。
「……私たちが、ウマ娘だからか」
アグネスタキオンがつぶやいた。それは質問の体を成していたけれど、しかしそのつぶやきに看護婦は答えずに、曖昧な笑みであったり仕草を返すばかりであった。
これだ、と彼女は確信した。この、医院を包む、恐れにも似た雰囲気。じっとりと腐っていくような臭いが、やはり纏わりついていたのだ。たぶん、目の前のこの女性も、何かが変わることを望んでいる。でも、それが変わるはずなどないと決め切ってしまって、それが結局その絶対王政をより強固なものにしている。例えば政治に絡んだキリシタンは免罪符などというものを売り捌き始めたし、だからこそプロテスタントを生み出す。きっとプロテスタントもいつか腐敗して、その先に何があるのか、そもそもプロテスタントこそが金なのかはわからないけれど、確実に今、カトリックは崩れつつある肌を繕って、虚栄を張っていた。
目配せして、二人は驚くほどあっさりと背を向けた。エリカはそれにつられ一拍遅れて同じ方向を向いたけれど、エリカの視界には後ろにあるはずの医院が実物よりずっと大きく、こころの中に迫ってきているように映っていたので、次第に次第にエリカは二人に遅れだし、それに追いつこうとするけれど、二人はどんどんと離れていくように見えた。弱い心臓が血液を必死に送り出して、でもなぜか頭の芯から冷えていく。霧散していく……
「ほら」二人は立ち止まって、アグネスタキオンが手を出していた。「私たちはここの文字が読めないから」
この一言が致命傷であった。エリカは真の視界を取り戻して、ゆっくりと彼女の手を取った。彼女が描いていた、救世主そのものであった、というのが、事態に拍車をかけてしまった。
「世話になった」
「……」
看護婦は寂しそうに、頷いた。とくに何事も起こりそうになく、彼女たちは歩いていくけれど、看護婦は何かをしなければいけない、と思った。
自分が碌を外れた人間であることはわかっていたけれど、エビネはエリカを気にかけていた。そう、例えば己の身を削らずして他者に何かを与えられるだろうか。我々は神ではなく、故に行動には対価がつきまとう。
「これから、どこにいくの」
「……今日の宿は知らないさ。明日明後日明明後日はまぁ……死ぬなら、それでもいい」
エリカがびくりと震えて、振り返らないアグネスタキオンとマンハッタンカフェを交互にみた。
「……そう。笛、もらえるのよね。単独の探窟家は最低限の道具を保証してくれるから、組合に相談してみなさいな」
「詳しいのだね」
「ここは色々とまずい人達が集まってくるの。
「ふゥン」アグネスタキオンはあの無愛想な院長を思い浮かべた。
「──頑張って。ここはあなたたちの居場所じゃない。こんなとこは」
「ご丁寧な命令形をどうも」
アグネスタキオンは手をふった。マンハッタンカフェは少しだけ振り向いて、会釈をした。エリカは振り向いて、しかしすぐ前を向いて、しかしそれでもチラリとみて、
「あ、あの」
「コレオっていう男のひとがいるんですけど、その、そのひとに、伝えてくれませんか」
「──いってきます」
エビネはそれに何か、言葉を出して応えることができた。しかし現実には、エリカの目を見て、ゆっくりと医院の扉を開けて、中へと戻っていった。
空気の密度がすっと戻っていって、そこで甘ったるかった空気の正体があの建物であることを、改めて思った。坂を降りていくごとに何もかもが澄んでいくような気がして、走り出したいような心持が二人の背からこつこつと音を立てていたけれど、結局そういうことにはならなかった。依然として二人は患者服のままであったし、エリカはあまりに着古された服を着ていた。駄賃ほどの金は持っていたけれど、それはエリカの小さな手でもすっぽりと覆える程度のものであって、とても明日からの食事を支えてくれるほどの信頼を与えるような力に満ちているとは思えなかった。
「一先ず、行ってみませんか」
若干風が揺れていて、アグネスタキオンは目を細めた。「まぁ、そうかな」
「ええ、はい……探窟家は、生業が生業ですから収入が不安定になりがちです。ですので経済的に自立が可能になるまで、具体的には赤笛から青笛の半数の方々──誰かの日雇いであったり、一人で探窟をされる方も居ます──が暮らせるよう、家を一箇所に集めているところがあります。笛の取得予定がある方からも住まいに入れますし、支援の一環で探窟道具の貸し出しも行っておりますよ。赤笛の方は孤児院や医院の孤児であったりが多いので、そういった面では赤笛より、青笛の方々の方が多いとも言えますが……」
やや老いた男性は何かを見通すように眼差しを三人に指すと、流暢に説明を始めた。組合の中は外界と隔絶されているような一定の涼しさを保っていて、排斥という面ではあの医院と同じ性質を保持していると言えたが、また種類の違う、まるで教会であるかのような感覚を二人に与えた。要は生活保護ということか、とアグネスタキオンは連想したが、そうと考えると急速に探窟家という、折角の言葉がそれこそ重みを失ってしまうような気がしたので、そこで打ち切った。打ち切ると、今まで押し留めていた後悔であるとか、後悔などという重みでは表せないような、もっと大きなものがのしかかってきて、アグネスタキオンはその選択を後悔した。
「如何せん、探窟家の方々は、こう申し上げますと色々とお叱りを頂戴しますが……アビスが家のようなものですから。月笛、黒笛の方々もごく普通にいらしています。赴いたきり何ヶ月も帰還しない方すら居ますし、最近は探窟家の方も減少してきておりますから、中部屋の一つ、ならばすぐに手配できるかと存じます」
「笛がなくても、そこには住めたりしませんか」
「……ふむ、そうですね。組合の方針を汲み取って考えますと、孤児院のような大所帯でなければ問題はないかと思いますが……」男性はエリカの方をチラとみた。「この際、笛を取得してはいかがでしょうか? こう申しますと差別的ですが、問題はないかと、存じますが」
「その、からだが、えっと……弱い、ので」
エリカはあわやマンハッタンカフェの患者服に隠れそうなほど体を隠して、もごもごと答えた。「そうですか。ご興味がありましたら、いつでもいらしてくださいね」男性は優しく微笑んだけれど、それはエリカにとってどこか得体の知れない残酷さを持ち合わせているようにみてとれた。
「……手続きであるとか、そういったことは」
少々お待ちくださいと言って裏側に消えた男性が持ってきたのは、またもや一枚の紙であった。三人が住める程の空間は彼女たちの想像より少し多く設けられており、なんと居住費用はかからないと男性は告げた。資金はあるのですよ、資金は。老人は少し儚く笑ったけれど、それ以上は何も言わなかった。結局その用紙に記入を済ませて、すんなりと三人は住居を手にした。そこは八畳ほどの、三人が寝泊まりするにはそこそこの不自由を迫られる不自由さであったが、自分の主張できる領域を得たという事実は、特にエリカを喜ばせると同時に、ある種の苦痛をもたらした。医院の病室と比べるといくらか造りの雑になった床であったが、それでもアグネスタキオンとマンハッタンカフェは、同じような臭いを拭い去ることができずにいた。
「一度、ううむ、寝るとするかい」
「結局、今日はお昼から食べていませんが」
「日雇いに行けば昼食くらいは出してくれるだろうさ。出してくれなくたって構いやしないがね」
ぶっきらぼうに答えたアグネスタキオンは備え付けの薄い毛布を一枚持ってくるなり、床に敷いてくるまり込んでしまった。マンハッタンカフェも思うところはあったけれど、結局同じように患者服のまま、眠りを選択した。エリカも外見上、そっと毛布にくるまったけれど、彼女たちが寝静まった二時間ほど後に、音を立てないよう慎重に、震えながらドアを開けた。これが彼女の初めての、いけない夜ふかしであった。彼女には彼女の中の、大義と名分があった。軋みたがるドアをたっぷり十分かけてから閉めて、彼女は探窟組合へ向かった。初老の男性の代わりに、淑やかそうな女性が少し怪訝そうな、嫌煙そうな目つきで彼女に応じた。
続きます。