なかなか眠れなくて、と、エリカは自分の隈にそういった言い訳をした。それもそうだろう、と、アグネスタキオンとマンハッタンカフェはそれなりに納得した。
住処に入った時は既に日は暮れており、住んでいる探掘家の面々は自室で寝ているか起きているか、あるいはアビスで夜をすごしているとかで、彼女たちは昨日、探掘家の姿を見ることは叶わなかった。北区を通った時、幾人かの探窟家らしき人とすれ違った(その大半は蒼笛であった)けれど、それらは全てこれから探窟に赴く、というより、きっと時刻も相まって、出かけに行くような様相で、つまり探窟のための装備であるとか、そういった類のものを全く持ち合わせていなかった。
「そういえば、朝食はどうしようかな」ひとまず毛布を片付けて、アグネスタキオンが思い出したように言った。「なくても、まぁ、困ったものではないけれど」
「困ったものでしょう、特にタキオンさんには」
「私は後悔してるのさ、後悔を」
自分をせせら笑っているようにおどけて、彼女は寝癖の髪をいじった。それに特段の意味はなかったけれど、他人を観察することに素晴らしく長けている、例えばエリカは、それを何かしらのサインであると受け取った。
「あ、あの、その、お二人で……食べに行かれますか」
「その手の話は少し、嫌かもしれないな」アグネスタキオンは実際に苦虫を噛み潰したような表情をした。
「す、すみません」
「その、探窟とやらがどれほどの稼ぎを出せるかは分からないが……死なすわけにもいくまい。あと」
「は、はい」
「君は君が思う以上に敬虔で勇敢になりつつある。ある種うつくしいと言ってもいい。私がこう言うのも、私の正当化な気がするがね」
エリカはマンハッタンカフェの方を見た。彼女は小さく、こくりとして、ドアに向かうアグネスタキオンに続いた。エリカはそれでも逡巡をしたけれど、早足で彼女たちに追いつこうと歩いていった。
防音などという設備が徹底されているはずもなく、隣の部屋のやや大きな足音であったりとか、もっと広い、建物全体の響きであったりをしっかりと感じ取ったために──それが彼女らの睡眠を妨げたかは、また別の話であるが──、ぞろぞろと出てきているというのが戸を開ける前からわかっていた。もっと深い、例えば
もっと近い場所は陽の光の影響を露骨に受けるために、みな殆ど同じ時間に起き出す。
扉を開けて、彼女たちが外に出てきて、そしてぞろぞろと出てきた探窟家たちの視線は彼女たちに集約した。かほそい声をあげてエリカは二人の後ろに隠れたけれど、しかし彼女の後ろにも部屋があるわけであって、故に後ろからの視線にも晒されて、やはりまた言葉に詰まってしまった。どうやら、彼──ごくごく若干名の彼女──は、彼女たちの服装、そして頭の上に興味があるらしかった。どこのどいつだ、という感情さえ乗りそうな、眼差しが構成する空気は、三人の思っていた探窟家とはあまりに離れていて、アグネスタキオンは一つ息を吐くと、未だ事を知らず動き続けている前方へ進んだ。
「笛は」
若そうな男性が三人に声をかけた。
「笛かい、今から貰いに行くところだが」
アグネスタキオンがそう返すと、男性は小さく、しかし聞こえるほどに舌打ちをした。そして彼は彼の装備を粗目で確認すると、そのままずかずかと歩き去ってしまった。やれやれと肩を竦めて、アグネスタキオンはまた歩いた。
「全く、色々と弁えてもらいたいものだね」
赤笛についた紐をくるりと回して、彼女は小さく笑い飛ばした。
翌日渡します、と言っただけのことはあり、朝に向かったにも拘らず赤笛はカウンターの前に差し出された。裏を見ると、そこには
「けっきょく、お金……三人分、足りそうにないですね」
協会の端の方の椅子に座り込んで、エリカは手に握った硬貨──これもオースと呼ばれる──ものをひとつ、ふたつ、と数えて、耳を垂らした。
「ふぅむ……そうだな。探窟に行く私たちが食糧を得て、日銭を稼ぐというのはあるにはあるが……」アグネスタキオンはそう言って、硬貨を一つつまむ。そして、エリカの手の中に戻した。
「カフェ。多分動くけれど、一日
「保たなくても構わない、でしょう」
「そのとおり」
エリカはそこで、しんとするような寂しさ、今にも割れ砕かれそうな、
否定の言葉ばっかりで、いやになるな。そう思った。
結局、はじめは何か違うことを考えていたような気がするけれど、エリカの考えは次第にアグネスタキオンとマンハッタンカフェの思考(彼女が思う二人の)に寄せられていって、気づけば部屋に戻って、彼女たちは着替え、エリカはまた扉を出ていく二人を送り出していた。
つまり、彼女は一人になった。無論、それは久しいことではなかった。医院で世話をしていたとは言っても、それはあくまで通常の……エビネ、看護婦長の独断で通常になるよう業務がエリカに割り振られていたが、その程度に収まっていて、即ち彼女は多くの時を過ごしたのだ。
あこがれ、とも言えた。彼女は彼女たちにあこがれていた。一気に、自分がひどく頼りないような、全身の寒い震えが一息にやってくるような感覚で、それはオーバーフローして、
目の光はいつの間にか消えていて、そこから二時間、彼女はそうしていた。たまに顔をあげて、うつらふらりするけれど、それは指向性も思考性も持たず、彼女の頭は突如現れた、ずんと重いかたまりに置き換わっていて、彼女が俯いた顔を本当にあげたのは、耐えかねて悲鳴をあげた生存本能がそうさせたからであった。そういえば、ごはんを食べていなかった。彼女はちょっとだけ嬉しくなって、扉をあけた。朝の、自分の視界がきゅうっと狭まるような感覚とは打って変わって、かなり人の気配はなかった。入り込んだ夜よりは確かに幾分か、人のいる時特有の、何かそれらしいものがあったけれども、廊下はその名残を残しているばかりで、彼女の精神が通常を引き戻すことはなく、ただ足を交互に前に出して、ポケットのメモ書きに記された場所へと向かっていく。下り坂、平面、少しの上り、また平面。彼女が望んでいたはずの外は、そういった感想しか与えなかった。
その店は、言ってしまえば周辺でその店だけが、活力に満ちていた。歪な石の作り……まるで気の遠くなるような大きさの石を切り出して作ったかのような形をしていて、歩みが遅まりながら扉をチラリと開けると、昼時のその飯屋はわんさかと笛を提げた者たちで溢れかえっていて、マグに入った液体らしきもの(それを持った大男はほんのり赤い顔をしている)をぐいぐいと呑んでいる者であるとか、何やら顔を顰めて小難しそうな相談をし、届いた飯が泡やそっちのけになりそうな三人組であるとか、それらの注文を取るためにてんやわんやな青年少女たちであるとかが混在して、一体となって音楽らしきものを奏でているようであった。
「笛のない方は
彼女は咄嗟に声を出そうとしたけれど、今朝のあの言葉のない言葉、あの空気がこんどは自分一人に向けられると考えると、閉じ込めていたものが蓋を破りそうであったので、彼女は
「……おや、ウマ娘の方ですか。珍しいですね」青年が注文票を手に持ってやってきた。端正な顔立ちでそれほど筋力のありそうに見えない彼は、それでも十五を超えているらしく、蒼い笛を首元にさげていた。彼女にとっては年上だし、つまり、差というものがあったとしてそれは誇張でもなく、単なる事実──それ以上でも、それ以下でもないもの──なのだけれど、エリカは、湧き立った何かの処理に戸惑った。
「ぁ、はい……えっと、そう、です」
「注文は決まりましたか?」
「ぅぁ、っと……」エリカは慌てて周りを見渡した。その焦りと、先の混沌とが混ざって、それらは混ざりきらなくてマーブル模様を描いた。品目はどうやらエリカの後ろにかけられている大小様々の木札が担っているらしく、エリカはそれをみて、やはり迷った。彼女が触れてきた食料、それは雑用で外にでた際の数少ない市場で見た原材料と、辛うじて味のするスープ、やや固まった麦入り飯とか、そういったものばかりであったので、彼女はまず丼が何を意味するのか分からなかった。彼女はふだの下に横文字で書かれている値段だけを見て、ギリギリ二回分食べられそうな食事を見つけた。
「あ、あの……この、がんきますの塩焼き定食、というのは」
「……そのままの意味ですね、はい。ガンキマスを塩で焼いて、後は汁物と米と、水が付いてきます」
「その、がんきますというのは」
「? 魚ですよ、魚。見たこと、あるでしょ?」
「ぇと、あ、はい、すみません……じゃ、それをお願いします」
怪訝な表情をしたけれど、青年は注文を取ると去っていった。ガンキ定食ひとつ、入りまぁす。その声は談義談笑の最中であってもよく響いて、厨房からは応答の声がこれまたよく届いた。青年はそのまま厨房へ紙を引き渡しにいって、エリカはその後を見失った。
しばらくして盆に乗せられ届いたその食物群に、彼女は自らの目を疑った。彼女にとって、これから口に運ぶものが熱量を帯びているという経験は文字通り一度もなく、彼女の当惑具合はさらに加速してゆく。ガンキマスというのはどうやら白身であるらしく、調理はメニュー通りのシンプルな塩焼きであったけれど、絶妙な焼き加減により光沢を帯びた表皮は魚独特の匂いの良い部分だけを都合よく抽出し、湯気をもたらすタイ米と合わさって、空腹にあるという、恒常となりもはや忘れかけていた感覚を思い起こさせた。木製のフォークで切り身の一部をとって、口に運んで、それからの記憶はエリカにはない。近くに他の客がいないこともあったであろうけれど、エリカはものの十分で孤独に、全ての食事を胃に収めた。食事を終えると途端に、全てが息づいたような気がして、今まで動く風景であった他人の視界、その中に自分が飛び込んで、そこで演者となることを許されたような思いすら得られた。考えることすら否定した頭のおもりが少しだけ引け腰になって、それを認識して、そこからだんだんとアグネスタキオンとマンハッタンカフェのことを考えはじめた。
「ぁ、あの……すみません、少しいいですか」
テーブルに座っている探窟家は大小様々であり、みなどこか似通った根底を持っていそうであったが、エリカに所謂大の方に話しかける勇気はなかった。「……何」三人組──小と小と大の組み合わせ──の一人、ごく普通の身なりをした青年はエリカが話のひと段落した頃合いを選んだにも拘らず、エリカを見て若干無愛想に返事をした。
「ぇ、と、その、赤笛って、最初はどこまで行けるんですか。すみません、よく知らないんです……」
青年の嫌そうな目つきはさらにその度合いを増した。「百五十メートル」そこでそっぽを向いて、彼はまたやや楽しそうに談笑へと戻っていった。エリカはそれが何を意味しているのか、不幸にも敏感に察知した。そう思うと、今この場を取り囲んでいるささやかな笑い、豪快な声の幾割かは自分の方に向いているのではないかと類推するのは避けられない。
「──異端だからだ」エリカはその、暗い声に振り向いた。そのテーブルには、近づかないと分からないほどに、しかし近づけば嫌でもわかるほどに薄暗い空気が敷き詰められていて、それは医院で腐敗するほど感じてきたあの空気よりも、より純粋なものであった。その三人の残り二人は、特に何も干渉する様子無く、しかし二人の空間を担保していた。「君はな」
「ぁの、わ、わたしが、ですか……」「何も君だけがそうなのではない」
「──君
与えられたその理由は、当然エリカを納得させ、内側に閉じ込めるものではなかった。自身は気づいていないが、彼女は確かに勇敢の芽を吹かせつつあった。
「わたし、その、べつに、なにかだめなことをしたわけじゃない、と思うんですけれど」
「名は」その女性はすぐには質問に答えなかった。「へ?」「名は」「え、エリカ……ですけれど」「成程」彼女は指を組んだ。
「無論、そうだ。君は何もしていない。何かしでかしたわけでもない。私もそうは思わない。
そうやって、話を一つ途切らせた女性は木製マグから水を一口飲んだ。「君は憧れを履き違えているように見える」
「……その、どうして」「眼差しが違う。期待していたが」
「お客さん、お皿は私たちがお下げしますよ」
先と違う店員(今度は赤笛であった)が、繕った事務的な仕草でエリカに声をかけ、手を出した。エリカは我に帰ったように慌てふためいて、盆を渡してしまった。スタスタと歩き去るその人を見て、そこにはエリカ以外の何物もいなくなってしまったように思われて、すぐ前にエリカを逆撫でした者も、そのまま興味なげに器へ盛られたものを食べている。喧騒が彼女を静かに圧迫して、一つの集合体として彼女を追いやっていく。そう、追いやられるように彼女は店を出た。
──まなざしが違う、なんて言われても。何処に行こうにも、彼女が知っているのは今しがた自分から追い出された店と、締め出された医院と、二人のいない宿だけである。部屋に戻る、その帰路に、彼女の頭は埋め尽くされていく。眼差し、とは、一体全体何をどう言いたかったんだろうか。……現実の眼差しでないことは、エリカにも理解できた。
アビスは、好きだ。残酷な原生生物、理を超えた遺物、あこがれを抱き挑む、探窟家たち。それらはエリカが失うことすら許されなかったもの。白笛。母が目指して、そしてついに捨てられた黒笛。持っておけとは言わなかった。どころか好きなところに捨てておけと言われたので、自分の心の中に捨てておいた。あの笛、やっぱり持っておけばよかったな、と、微かにエリカは微笑したけれど、問いはきっと筋を外れて、中心から遠ざかっている。
外は曇っていた。何か変化を見つけようとしたけれど、悪い方向にしか見えそうになかったから、いつものように床を見て帰ることにしようとして、せめて街並みでも焼き付けながら帰ろうと、その気持ちが期待外れでないことを祈って、少しだけ目線を上げた。
続きます。