どうもお待たせいたしました、ボグダーノフ編の第二話がなんとか年内に間に合いました!
今回の話は、前回の話で宇宙世紀世界に転生したボグダーノフの幼少期を描いています。
(う、うーむ…)
アレクサンドルが再び目を覚ますと、彼はある女性に優しく抱き抱えられていた。
どうやら先ほどいた病院らしき施設の廊下を歩いているらしく、側では一人の男性がその女性と談笑しながら一緒に歩いていた。
(…まさかこんな、2度目の人生を歩むことになるとは…ロシアの辺境にいたような仏教徒たちの言うところの、”転生”とやらの概念はあながち間違いではなかったのか?だとすれば、仏教の始祖であるブッダを科学的な面でも再評価する必要性があるな…)
アレクサンドルは——現在自分の置かれている奇妙な状況を前にしても——相変わらずその好奇心を発揮すると同時に、その状況を科学的に分析しようと試みていた。
彼はロシア帝国という、様々な民族が入り混じる抑圧的な国——”諸民族の牢獄”ともあだ名されていた、前近代的な巨大帝国——で生まれ育った以上、少数民族の一部にいた仏教徒や彼らの守る教えにも一定の知識があった。
それ故に、彼は割と早期にこの状況を飲み込み、科学者としての前世を持つ者らしくそれを分析する余裕さえ確保することができた、と言えるだろう。
(しかしこの二人が話している言語、なにを話しているかまでは分からんが、その発音の仕方には聞き覚えがある…もしやこれは英語か?だとすれば、私はイギリスかアメリカに転生したのか?)
自身の今世における父親や母親の話す言葉の特徴から、それを英語だと勘付き、自分がイギリスかアメリカに生まれ変わったのではないかと考えるアレクサンドル。
しかしその予想は、彼がその数秒後にみる風景によって裏切られた。
彼を抱える新たな両親がたどり着いたのは、天井がガラス張りのドーム型になっている場所。
しかしその窓から見えたある物に、アレクサンドルは目を見開いた。
(あ、あれは…ち、地球!?ま、まさか私は地球外の場所に生まれ変わったのか!?)
彼が生まれた場所。
それは彼の前世では未だ人類に建造できないとされた月面都市、その中でもこの世界で最初に建てられた”フォン・ブラウン・ヴィレッジ”だった。
…この場所が我々のよく知る名前、”フォン・ブラウン・シティ”と呼ばれるようになるのは、まだまだ先の話、さらにこの都市が大規模になった後のことである。
西暦2160年、月面コロニー『フォン・ブラウン・ヴィレッジ』。
その数多くある建造物の一つ、その中のある小さな部屋に、4歳になったアレクサンドル・コルヤノフ——出生の際に”赤い洪水”の世界の”アレクサンドル・ボグダーノフ”の魂が乗り移った男の子——はいた。
彼は今、何度もページをめくりながら、子供向けの英語の絵本を見つめていた。
彼の幼い手がページをなぞり、口元でかすかに発音を繰り返す。
「B…book, T…tree…」
繰り返し読み続けるうちに、それぞれの単語が記憶の中に沈んでいく感覚があった。
幼児のような声でありながら、頭の中にはアレクサンドル・ボグダーノフとしての全生涯の鮮明な記憶が漂っている。
しかし、ここではその前世の存在を完全に隠すことが彼にとっては当たり前のことだった。
もし前世なんてものがあると知られたら、彼は間違いなく気味が悪い存在と思われてしまうだろう、そう思ってのことだった。
またもう一つの事情として、彼は純粋に英語に慣れていなかった。
彼は前世で英語を習得したことがなく、英語が公用語であるこのコロニーにおいて、そこら辺の壁面に書いてある案内の文字を読むのにも一苦労していた。
こう言った事情から、彼は前世で習得した物事一切を一旦脳内の奥底に封印して、英語の習得に全労力を割いていた。
(むう…英語というものは難儀だな…私の使い親しんだロシア語とは文法も単語も全然違う…)
アレクサンドルがそのように英語の習得に苦戦する一方、彼の近くでは彼の両親のヴィクトルとアンジェラが、彼の教育について話し合っていた。
「ヴィクトル、私たちの世代は基礎教育を地球で受けてきたけれど、アレクサンドルたちのような『月で生まれ育つ世代』には、違うアプローチが必要じゃないかと思うの」
「確かに、今の教育内容が彼らの生活に適しているかどうか…」
アンジェラがそのように話を切り出すと、ヴィクトルも深く頷きながら、天井を見上げた。
かつて教育学者として地球で名の知られていたアンジェラからすれば、これは喫緊の課題であった。
「僕の意見を言わせて貰えば、地球と異なる環境下での科学教育は、もっと月に根ざした実践的なものにするべきだ。彼らには酸素の生産、都市の管理、食料の生産の重要性を感じ取ってもらいたい」
「ええ、確かにそうね。でも、彼らの柔軟な発想力も大切にしていきたいわ。地球の伝統に縛られず、私たちがまだ思いついていないような発見や発想をしてくれるかもしれない」
「ああ、確かにそうだね」
機械工学を専門とするヴィクトルの考えに賛同を示しつつ、宇宙で生まれ育ったならではの思考も重視したいとするアンジェラ。
その言葉に、ヴィクトルの表情が少し和らぐ。
こうして、アレクサンドルが英語の学習を続ける一方で、彼を初めとした月で生まれ育つ世代の教育の要綱が、少しずつ作られていくのであった…。
西暦2163年、フォン・ブラウン・ビレッジのある区画。
そこにいたアレクサンドル・コルヤノフは、図書室の扉を押し開けた。この月面都市の一角にあるこの部屋は、彼のような子供から研究者まで、多くの人々が利用する知識の宝庫だった。光を柔らかく反射する金属の棚が整然と並び、その間を重力の1/6という環境に合わせた低い音を立ててサービスドローンが巡回している。
「7歳の誕生日に図書室を選ぶなんて、少し変わってるね」
「勉強したいから」
そう言って微笑む母親に対し、一言だけ述べるアレクサンドル。
「行ってきます」
そう軽くアンジェラに手を振り、一人で奥へと進んでいく。
しかし、本当の目的は別にあった。
彼は前世の記憶を持つ。そしてその記憶が、彼を突き動かしていた。
(この世界は、自分が知るあの世界の未来に位置しているのか?それともまったく別の世界なのか?)
それを確かめるには、まず歴史を知る必要がある。
自分が生きた時代から、どれほどの変遷を経た世界なのかを。
アレクサンドルは、広い図書室の中を歩きながら目を光らせていた。
そして、歴史書のコーナーにたどり着くと、彼の目は自然と「近代・現代史」と書かれたセクションに吸い寄せられた。
そこにはひときわ分厚い、いくつもの本が並んでいた。
『人類の近代・現代史』
彼はその題名の本を手に取り、慎重に最初のページを開いた。
薄く仕上げられた紙をめくるたび、古い地球の歴史が彼の目に飛び込んでくる。
アメリカ独立革命、フランス革命、産業革命——見覚えのある年号と出来事の記録が続く。
前世の記憶と一致している箇所が多く、彼は心の中で安堵を覚えると同時に、疑問を抱き始める。
(これが違う世界の歴史だとしたら、どこで変わったのか……)
彼の視線がページを追う中、やがて日露戦争について書かれた章にたどり着いた。
そこには、1905年における日本の勝利について詳述されていた。
「……日本が勝った?」
その言葉を小さくつぶやいた瞬間、彼の手は本を握る力を強めた。
前世の記憶では、日露戦争はロシアの辛勝に終わり、それが後の革命のきっかけの一つとなった。
だが、この本では状況が逆だ。日本はロシアのバルチック艦隊を撃破し、ポーツマス条約を締結している。
(ここが転換点だ。この世界は……私の知っているものとは違う!)
アレクサンドルはさらにページを繰る。日露戦争後の国際秩序の変遷が詳述されている。
その後のストルイピンによるロシア帝国の改革は頓挫し彼は暗殺された。
そして何よりも彼の目を引いていたのは、第一次世界大戦後の世界。
ドイツ革命の最中にスパルタクス団は壊滅し革命自体は自由主義者に乗っ取られる一方、ロシアはかつてボグダーノフが前世でボリシェヴィキから追放したはずであった、あのレーニンがよりによって革命を主導し、そして成功を収めていた。
ボグダーノフが前世に築いたフペリョート主義についての記述は、どこにもなかった。
(つまり、この世界では……僕は失敗したのか…?)
本の記述に目を走らせるアレクサンドルの胸中には、複雑な感情が渦巻いていた。
彼が前世で信じ、築こうとした理想社会のあるはずの国、ロシアが、この世界では完全に異なる軌跡を描いていたのだ。
「これが、僕の知らない、この世界の歴史…か…」
幼い彼の顔には、前世の革命家としての冷徹な思索と、現世の子供としての純粋な驚きが入り混じっていた。
気がつけば、すでに一時間以上が過ぎていた。
遠くから、サービスドローンが「読書時間終了間近」を知らせる音声を流している。
アレクサンドルは分厚い本を閉じ、静かに棚に戻した。
図書室を後にする足取りは、来たときよりも少し重く感じられた。
だが、その目には新たな決意の光が宿っている。
(世界の社会主義運動の殆どがレーニンの阿呆に乗っ取られ、そして一度は死んでしまったこの世界。こんな世界で私は何を成すべきなのか。やはり革命家としての使命は、ここでも全うせねばならんのか?それとも……)
彼は思索を胸に秘めたまま、両親が待つ出口へと向かった。
月面の低重力に足を軽く浮かせながら、彼の心はこの世界の歴史と新たな未来へと思いを巡らせていた。
西暦2166年、月面に建つフォン・ブラウン・ヴィレッジにて。
10歳のアレクサンドル・コルヤノフは、月面コロニーのメインドームを抜ける気密ゲートの前で、小さく震えていた。
宇宙服を着た自分の姿が、ガラス越しにぼんやり映っている。
その小柄なシルエットは、前世の記憶を持つ彼自身でさえ幼く思えた。
(これから私は、前世で想像もできなかったような経験をする…前世からの知識もあるし、覚悟は決めていたが、いざやるとなると少し怖いな…)
「準備はいいかい?」
父親のヴィクトルが手元のモニターを確認しながら尋ねる。
彼も宇宙服を着込み、ヘルメット越しに温かい眼差しを向けていた。
「…うん!」
少し緊張した声で返事をするアレクサンドルを見て、母親のアンジェラがそっと膝をついて目線を合わせる。
「初めて月の表面に出るんだから、少し緊張するのは当たり前よ。でも大丈夫、私たちが一緒だからね」
アンジェラの柔らかな声に、アレクサンドルは小さく頷いた。
そして、ゲートが開く音が響く。
ゆっくりと外の世界が目の前に広がった。
コロニーの外に足を踏み出すと、アレクサンドルは思わず息を呑んだ。
薄暗い灰色の地面がどこまでも広がり、遠くには地球が青い輝きを放って大きく浮かんでいる。
「これが月の地表…!」
その言葉をつぶやくや否や、彼は一歩を踏み出し、ふわりと宙に浮かんだ。
重力が地球の1/6しかない月の環境に、彼の体は軽々と反応する。
「す、すごい!」
アレクサンドルは地面に着地すると、今度は意識的に力を込めて跳び上がった。
驚くほど高く舞い上がると、ヘルメット越しに歓声を上げる。
「ほら、言っただろう?月の重力は地球とは全然違うって」
「こんなに高く跳べるなんて…お父さん、お母さん、見て!」
ヴィクトルが笑いながら声をかけたことにも気づかず、はしゃぐアレクサンドル。
彼の弾けるような喜びを見守るアンジェラとヴィクトルの顔にも、自然と微笑みが浮かんでいた。
「気をつけてね、アレクサンドル。宇宙服の酸素は無限じゃないんだからね」
「わかってるよ、お母さん!」
アンジェラが注意を促し、それに答えるアレクサンドル。
地球の青い輝きと広大な月面の静けさの中で、アレクサンドルは軽やかに跳ね回る。
そんな彼だが、上を見上げてふと立ち止まる。
どうしたのかと心配したアンジェラとヴィクトルが近寄り、彼の視界にあるものを見た。
暗い宇宙にぼんやりと小さく浮かぶ、赤い星があった。
「あれは、火星か?」
思わず前世の口調、しかもロシア語でそう小さく呟いたアレクサンドル。
彼の脳裏に蘇るは、かつて前世において、帝政時代ロシア政府に捕まった後に放り込まれた監獄の窓から眺めた、幾多もの星々の姿。
そしてそこから得た印象を元に、火星における架空のユートピアに招待された地球人の話の原稿を書いた監獄での日々。
結局その小説を出版できたのは釈放後であったが、その小説で描いたユートピア社会こそ、彼の生み出した社会主義の一大潮流の目指す先であった以上、彼はこの世界においての火星を見れたことにある種の感慨を覚えていた。
そんなアレクサンドルだが、ふと一つの疑問を覚える。
「父さん、母さん」
「どうしたんだい?」
「…いつか僕、あの火星に行けるようになるかな?」
「…どうだろうなあ、今ですらまだ月への植民事業が始まって十数年だからなあ…」
「そうね、しかも火星はこことは比べ物にならないほど過酷な環境でしょうし…」
(…確かにそうだ、火星は前世で書いたあの小説の設定と違う、人が住むにはとても過酷な場所だ。だけど)
そのようにそれぞれの見解を述べるヴィクトルとアンジェラ。
それらの懐疑的な見解にも関わらず、アレクサンドルは熱心に火星を見上げていた。
(…今世で叶う可能性が微かにでもあるのならば、絶対に行ってやる。きっとこの世界のあの星で、この世界の地球ではついに叶わなかった理想社会を作るために、私は生まれ変わったのだ)
…アレクサンドルの今世での夢は、こうして定まったのであった。
後書き:
と、いうわけで、今回は転生したボグダーノフが今世における目標・夢を定めた回でした。
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