SHIN KAMEN RIDER ~The Re:Build~   作:フォレス・ノースウッド

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変異:ハチオーグ編③/執着

 エレベーターは、機械的な唸りを密閉された箱の中へ響かせながら上昇していた。

 ハチオーグの塔。

 一度は脱出した敵のアジトへ、本郷猛と緑川ルリ子は再び足を踏み入れている。

 この塔の頂上で、二人が来るのを待っている女――ヒロミと決着をつけるために。

 階数表示の数字が、一定の間隔で切り替わっていく。

 無機質な照明の下、本郷は隣に立つルリ子へ視線を向けた。

 彼女は正面を見据えたまま、無意識に片手を胸元へ当てている。

 正確にはコートの内側、そこには拳銃が隠されていた。

 装填されているのは、ハチオーグへ対抗するために用意された〝切り札〟。

 本郷は一度だけそこへ目を落とし、何も言わずに視線を戻した。

 ルリ子自身、手を添えていることに気づいていないのかもしれない。

 この先にいるのは、単なる敵ではない。

 幼い頃から互いを知る、かつての友。

 その命を自らの手で奪う可能性を、ルリ子は拳銃の冷たい重みとともに抱えている。

 本郷は既に、その罪を共に背負うと彼女へ告げた。ならば今さら覚悟を問い直すことは、ルリ子が必死に積み上げた決意へ水を差すだけだった。

 無論、最善は戦わずに終えることだ。

 ヒロミが投降し、これ以上の犠牲を生むことなく事態を収束させられるなら、それに越したことはない。

 だが――ヒロミが語った〝幸福〟。

 そして、ルリ子へ向けるあの笑顔。

 あれが本郷の推察どおりの意味を持つならば、説得へ応じる可能性は限りなく低い。

 それでも本郷は、その僅かな可能性を切り捨てられなかった。

 だからこそ、変身を解いている。

 仮面も、防護服も纏わず、人間の姿で会いに行く。

 最初から戦う意思しかないと示せば、言葉が届くかもしれない最後の道まで、自ら塞いでしまうからだ。

 やがて昇降機が減速した。

 微かな浮遊感の後、短い電子音が鳴る。

 扉が左右へ開き、閉ざされた箱の中へ、冬の夜風が一息に流れ込んでくる。

 冷気が二人の頬を打ち、ルリ子のコートと本郷の髪を揺らした。

 その先には、夜の摩天楼を望む屋上が広がっていた。

 空は暗く、都市の灯火だけが地上へ歪な星座を描いている。

 そして屋上の中央に、ヒロミはいた。

 複数の戦闘員を従え、その傍らには黒い背広を着た側近らしき男が控えている。

 だがヒロミの視線は、初めから一人にしか向けられていなかった。

 

「待っていたわ、ルリ子」

 

 再会を喜ぶ友人のような、明るい笑顔だった。

 だからこそ、本郷には不気味に映った。

 ヒロミの瞳はルリ子を見つめている。

 しかしそこにあるのは相手を思いやる温度ではない。

 逃がしたくない。壊れる瞬間まで見届けたい。そんな欲望が、親しみという薄皮の下で脈打っている。

 本郷は一歩、前へ出た。

 

「君の計画は、既に潰えた」

 

 可能な限り静かな声で告げる。

 威圧するためではなく、まだ引き返せると伝えるために。

 

「これ以上、戦う意味はない。ルリ子くんのためにも――投降してほしい」

 

 ヒロミの笑みが、一瞬止まった。

 

「あらら~~」

 

 堪えきれない愉悦が噴き出すように、唇の両端が吊り上がった。

 

「それ、むしろ逆効果よ。本郷猛さん」

 

 声音が甘くなる。

 ヒロミは本郷を見ているようで、その実、意識の全てを背後のルリ子へ注いでいた。

 

「私はね……」

 

 胸の内へ大切にしまい込んできた夢を告白するように、両手を重ねる。

 

「〝ルリ子を泣かせたい〟の」

 

 ルリ子の呼吸が僅かに詰まった。

 その音を聞いた瞬間、ヒロミの表情へさらなる歓喜が浮かぶ。

 本郷の中で、最後まで残していた疑念が確信へ変わった。

 ヒロミがルリ子へ抱いているものは、友情でも、単純な憎しみでもない。

 愛情と憎悪。

 羨望と侮蔑。

 執着と破壊衝動。

 相反する感情が絡み合い、もはや本人にも解けないほど歪んでいる。

 ヒロミにとって、幼馴染である自分と敵対しなければならないルリ子の苦悩は、どんな美酒よりも甘い。

 大切なものを守るため、かつて大切だった者を殺さねばならない。

 その矛盾に引き裂かれ、冷静な顔の奥で泣いているルリ子の姿こそ、ヒロミが何より見たかったものなのだ。

 

「だから――お断り♪」

 

 軽やかな声とともに、ヒロミが片手を上げた。

 戦闘員たちが一斉に武器を構える。

 本郷は反射的に腕を広げ、ルリ子の前へ立った。

 

「ケイの記録を見ていないのか?」

 

 戦闘員の配置を見渡しながら問う。

 

「彼らでは、僕の相手にはならない」

「ええ、拝見したわ」

 

 ヒロミはむしろ楽しそうに頷いた。

 

「だからこそよ。本人の了解をすっ飛ばして、弘おじさんに勝手に改造されちゃった本郷さん」

「なに……?」

 

 胸の奥へ、不意に細い針を差し込まれたようだった。

 本郷は恩師(せんせい)の緑川博士を恨んではいない。博士が命を懸け、SHOCKERへ抗う力と意志を託したことも理解している。

 だが、自分の意思を確かめることなく、その肉体をオーグメントへ変えた。

 行為そのものが、倫理を大きく逸脱していたことまで否定するつもりはなかった。

 

「あらら、やっぱりね」

 

 本郷の僅かな動揺を、ヒロミは見逃さない。

 

「弘おじさんって、昔からそうなのよ。相手の事情なんて完全に無視。勝手に話を進めて、周りを巻き込んで、最後に事後承諾を押しつける」

 

 懐かしい思い出を語る口調でありながら、そこには棘があった。

 

「息子のイチローさんも、散々苦労させられてきたでしょうね」

 本郷の脳裏に、クモオーグ――マサから受け取ったプラーナの記憶が蘇る。

 ライダーの防護服、その原型と思しきスーツ。

 まだ少年だったイチローが仮面を纏い、緑川弘へ向かって怒声を上げる。

 ――騙したな! クソ親父ッ!

 あれは、他人から見せられた過去の断片に過ぎない。

 それでも少年の声に込められていた怨嗟は、生々しい熱を伴って本郷の内側へ残っていた。

 

「その様子だと、本郷さんの件をルリ子が知ったのも、全部が終わった後だったみたいね」

 

 ヒロミの視線が、再びルリ子へ戻る。

 

「死んだ後まで面倒ばかり押しつける、はた迷惑なお父様だこと」

「ルリ子くん……」

 

 本郷は振り返らなかった。

 ただ、背後にいる彼女の名を呼んだ。

 ルリ子は答えない、だがその沈黙こそが雄弁だった。

 本郷を巻き込み、戦わせている。

 彼女が密かに抱いてきた罪悪感を、ヒロミは正確に抉り出している。

 

「それなら――」

 

 ヒロミが戦闘員たちへ目配せした。

 

「私の可愛い戦闘員《はたらきバチ》でも、十分に遊んでくれるかしら。本郷さん」

 

 指を鳴らす。

 乾いた音が、開戦の合図となった。

 

     ◇

 

 戦闘員たちが、四方から本郷へ殺到した。

 黄色と黒を基調とした装備。両腕の籠手から伸びているのは、細く鋭利な針だった。

 突き出された一撃を、本郷は上体を傾けて躱す。

 背後から迫った別の針は、振り返ることなく半歩ずれて避けた。

 視界には入っていない。

 だが、超常的に研ぎ澄まされた感覚が、空気の変化を捉えている。

 戦闘員が踏み込んだ振動。

 布が風を切る音。

 動く肉体によって大気中のプラーナへ生じる、ごく微細な乱れ。

 見るより先に感じ、届くより前に退く。本郷の身体を中心として、鋭い毒針が幾度も交差する。だが、その全てが紙一重で虚空を貫いた。

 以前戦ったクモオーグ配下の戦闘員ならば、武器を奪って反撃に転じることもできた。

 しかし今回は事情が違う。

 彼らの得物は、籠手と一体化した針。働き蜂を模した戦闘員ならば、それが単なる刃であるはずがない。毒性を備えていると考えるのが自然だった。

 そして、もう一つ。

 本郷はヒロミの狙いを理解していた。

 彼女は、戦闘員たちが自分を倒せるなどとは思っていない。

 差し向けた者たちを、本郷が殴り殺す。

 その光景をルリ子へ見せつける。

 また自分のために命が失われたと、彼女の良心を責め苛む。

 それこそが目的だ。

 ならば、その筋書きへ従うつもりはなかった。

 とはいえ、この後にはヒロミとの戦いが控えている。

 際限なく攻撃を回避し続け、プラーナを浪費する気もない。

 本郷は両手を開いた。拳を握れば、強化された肉体そのものが致命的な凶器となる。

 だから、握らない。一人目の懐へ踏み込む。

 針が肩口を掠めるより早く、開いた指先を揃え、喉元へ手刀を打ち込んだ。

 潰さない。

 砕かない。

 意識だけを断つ。

 戦闘員の身体から力が抜ける。

 倒れ込む身体を壁として、横から迫った針の軌道を塞ぐ。本郷は身を沈め、その腕を掻い潜りながら、掌底を顎へ軽く突き上げた。

 二人目が崩れる。

 三人目の突きを前腕で流す。

 肘を鳩尾へ。

 振り向きざまの張り手を側頭部へ。

 背後の一人には足を掛け、地面へ倒すと同時に首筋へ指を当てた。

 どれも殺すための攻撃ではない。

 それでいて、立ち上がる力だけは確実に奪う。

 肉体の強化へ頼るのではなく、相手の重心と勢い、急所の位置を正確に見切った技術だった。

 最後の一人が振り下ろした毒針を半身で避け、本郷は脇を通り過ぎざまに手刀を後頭部へ添えるように打ち込んだ。

 戦闘員の膝が折れる。

 重い身体が屋上へ倒れた。

 静寂が戻った。

 本郷は周囲を見渡す。

 全員、呼吸している。

 意識を失っているだけだ。

 

「スーツも仮面《マスク》も使わず、その戦闘能力」

 

 ヒロミが感心したように拍手する。

 

「大したものね。弘おじさんだけでなく、どの派閥もあなたへ目をつけていたのが分かるわ」

 また指が鳴った。

 本郷は咄嗟に身構える。倒れていた戦闘員たちが、ほぼ同時に起き上がった。

 

「……!」

 

 確かに意識を断った。

 それほど早く回復できるはずがない。

 しかし戦闘員たちの動きに、生気はなかった。

 立ち上がったというより、外部から肉体だけを操作されているように見える。

 本郷は戦闘の再開を警戒した。

 ヒロミは、彼らを殺すまで何度でも差し向けるつもりなのか。

 だが予想に反し、戦闘員たちは本郷へ背を向けた。覚束ない、夢遊病者のような足取りで歩き、開いたエレベーターへ順番に乗り込んでいく。

 

 最後の一人まで収まると、扉は静かに閉じた。

 

「刀を」

「はい」

 

 ヒロミが告げる。

 残った背広姿の男が、恭しく長刀を差し出した。

 ヒロミは羽織を肩から滑らせる。

 布が足元へ落ち、片肌が露わになった。その右肩から胸元へかけて、蜂の巣を思わせる六角形の紋様が連なるインナースーツが覗いている。

 受け取った刀の柄へ手を掛けた。

 

「本郷さん」

 

 笑みの中から、戦意だけが鋭く研ぎ澄まされていく。

 

「スズメバチは、バッタの〝天敵〟よ」

 

 側近の男も刀を抜く。

 二人が並んで腰を落とした。

 互いに視線を交わすことすらない。

 それでも重心の位置も、呼吸の周期も、完全に一致していた。

 長年にわたり磨き上げた、主従の連携。

 今度は二人で本郷を傷つけ、追い詰め、その姿をルリ子へ見せるつもりなのだ。

 

「〝変身〟せずに、どこまで私たちとやり合えるか――」

 

 ヒロミの目が細くなる。

 

「見せて頂戴!」

 

 二人が同時に地面を蹴った。

 黒と黄の残像が、夜を切り裂く。

 

     ◇

 

 速い――本郷がそう認識した時には、二本の刃が既に間合いへ入っていた。

 ヒロミの刀が、首筋へ横薙ぎに走る。

 身を仰け反らせて回避。

 その動きを読んでいた側近の刃が、下方から脇腹を狙って斬り上げる。

 本郷は床を蹴り、身体を捻った。

 コートの裾を刃先が掠める。

 着地するより先に、ヒロミの二撃目が迫った。

 二人が振るう刀は、僅かな隙間さえ残さず本郷を包囲する。

 たった二人。しかしその斬撃は、スズメバチの大群が四方から殺到するような密度を持っていた。

 片方を警戒すれば、もう一方が死角へ入る。

 側近へ意識を向ければ、ヒロミの刃が急所を狙う。

 攻撃を止めるため一方へ反撃しようにも、踏み込んだ瞬間、残る一人が本郷の首を断つ。

 双方へ、完全に均等な意識を配り続けなければならない。

 僅かでも均衡が崩れれば、どちらかの凶刃が必ず肉体を捉える。

 本郷の額から冷や汗が散った。

 ヒロミが踏み込み、片手で鋭い刺突を放つ。

 身体をずらす。躱した先へ、側近の刃が振り下ろされた。

 本郷は後方へ跳んだ。床面を滑りながら距離を取る。

 だが、ヒロミは既に追いついていた。

 刃が、斜めに閃く。

 

(間に合わない……!)

 

 直感が告げた。

 肉体だけでは、躱し切れない。

 本郷の意志へ、体内のナノマシンが即座に応じた。

 右腕の表面を黒い物質が走る。

 皮膚とコートの間から急速に形成された防護服が、前腕部を籠手のように覆う。

 そこへ毒刃が衝突した。

 甲高い金属音。

 火花が、暗い屋上へ飛び散る。

 本郷は腕で刃を弾きながら、大きく後退した。

 切断は免れた。

 だが、防護服の表面には深い斬傷が刻まれている。

 これまで通常の刃物では傷一つつかなかったはずの装甲が、確かに裂かれていた。

 

「この〝毒刃〟は特別製なの」

 

 ヒロミは刃先を夜の光へ翳した。

 

「弘おじさん特製の防護服も、すぱっと斬れるわよ」

「……らしいな」

 

 本郷は傷ついた籠手を一瞥した。

 毒刃。触れるだけで装甲を侵食する特殊な物質が、刀身へ仕込まれているのだろう。

 まともに受け続ければ、防護服を完全に展開しても安全ではない。

 短い膠着。夜風が三人の間を抜ける。

 ヒロミたちにとっては、次の攻撃へ移るための一呼吸に過ぎない。

 だが、本郷にとっては十分だった。

 慎ましく息を吐く。

 強張っていた肩から力を抜く。

 腕、指、腰、膝。

 全身へ無意識に込めていた緊張を、一つずつ解いていく。

 相手は速い。連携も正確。目で全てを追おうとすれば、意識は必ずどちらかへ偏る。

 ならば――見なければいい。

 本郷は構えを解いた。両腕を自然に下ろし、足も前後へ開かない。攻撃にも防御にも見えない、無防備な立ち姿。

 無形の位。

 どこにも力を置かないからこそ、どの方向へも動ける。

 そして、本郷はゆっくりと瞼を閉じた。

 

「あらら?諦めたのかしら」

 

 本郷は答えない。

 視覚を閉ざすと、代わりに夜の全てが鮮明になった。

 風の流れ。

 靴底が床へ触れる音。

 衣服の擦れ。

 刀を握る指が僅かに動いた気配。

 そして――二人の呼吸。

 踏み込む直前、肺の奥で圧縮される空気。

 

「なら――」

 

 ヒロミと側近が同時に走った。

 

「そのまま斬られて頂戴!」

 

 左右から迫る。

 二本の刀が、それぞれ斜めに走った。

 交差すれば、本郷の身体へ大きな×字を刻む軌道。

 刃が届く寸前。

 本郷の両目は、まだ閉じたままだった。

 その手だけが動く。

 右手がヒロミの刀の柄を。

 左手が側近の刀の柄を。

 刃ではなく、斬撃の根元を正確に掴んだ。

 

「な――」

 

 二人の突進を止めない。

 むしろ、踏み込んできた勢いをそのまま受け入れる。

 本郷は腰を沈め、身体を回転させた。

 二人が自ら生み出した速度を、互いへ向かう円運動へ変える。

 ヒロミと側近の足が同時に床を離れた。

 

「っ!」

 

 二つの身体が、本郷の左右から宙へ投げ出される。

 側近は肩から屋上へ落ち、受け身を取って転がった。

 ヒロミも空中で身を翻し、片膝をついて着地する。

 本郷は二人の間へ立ち、静かに目を開いた。

 

「呼吸は、隠せない」

 ヒロミは驚いたように目を見開いていた。

 やがてその表情が、また笑みへ変わっていく。

「あらら」

 

 立ち上がり、乱れた髪を指で払う。

 

「負けないけど、勝てないわね」

 

 声音には悔しさより、愉悦があった。

 自分が追い詰められているというのに、ヒロミは新しい玩具を見つけた子供のように笑っている。

 

「仕方ないか……」

 

 手にした刀を、屋上の床へ突き刺した。

 硬い床材へ刃が深く食い込み、柄だけが直立する。

 ヒロミは側近へ向けて、掌を上にして差し出した。

 その仕草を見た瞬間、側近の男は全てを理解した。

 迷いはない。

 恐怖すらない。

「喜んで」

 

 穏やかに答え、男はヒロミの掌へ自らの手を重ねた。

 次の瞬間。

 空気が震えた。

 本郷は、二人の間を流れるプラーナを感じ取った。

 側近の肉体から、生命そのものを形作る光が引き出されていく。

 淡い緑色の奔流となり、重ねた掌を通じてヒロミへ流れ込む。

 

「プラーナを……奪っているのか……?」

「違うわ」

 

 ヒロミは本郷を見ながら答えた。

 

「この人が、私に捧げてくれているの」

 

 側近の頬から血の気が失われていく。

 目から光が消え、膝が折れた。

 それでも最後まで、自ら手を離そうとはしなかった。

 プラーナの流入が止まる。

 全てを渡し終えた男の身体が、糸を切られた人形のように倒れた。

 頭が床へ触れる寸前、ヒロミはその身体を片腕で抱き止めた。

 笑みが消えている。

 

「すまない」

 

 ほんの一瞬だけ、主としてではない声が漏れた。

 自分へ命を差し出した一人の人間に対する、偽りのない哀惜。

 

「仇は取る」

 

 男の身体を静かに床へ横たえ、ヒロミは立ち上がった。

 その瞳が、鮮烈な緑色へ染まっている。

 

「チェンジ」

 

 溢れ出したプラーナが、ヒロミの全身を駆け巡った。

 白い肌へ、血管とも回路ともつかない聖痕が走る。

 ツインテールを束ねていた髪留めの一部が分解され、無数の微細な機構へ変わった。ナノマシンが頭部を包み、黄と黒の異形の仮面を形成していく。

 露出していた肩からも装甲が広がる。

 蜂の巣を模した六角形の意匠。

 鋭利な輪郭。

 集約された二人分のプラーナが、夜の空気を押し退ける。

 本郷の前に立っていたヒロミは、もはや人間の姿ではなかった。

 ハチオーグ。

 幸福という名の巣へ人々を囲い込み、自らを女王として君臨する異形。

 本郷は、倒れた側近の男を見つめた。

 あれは強制ではなかった。

 自ら望んで命を差し出した。

 だから正しいとは言えない。

 忠誠という感情を利用し、死を美化して受け取ることまで肯定はできない。

 それでもヒロミが、一瞬だけ見せた悲しみまで偽物だとは思えなかった。

 だからこそ、彼女は止めなければならない。

 誰かを大切に思う感情さえ、相手を縛り、自分へ捧げさせる理由へ変えてしまう前に。

 本郷は腰へ手を伸ばした。

 

「変身」

 

 大気中のプラーナを取り込み、ベルトが起動する。

 体内のプラーナが激しく循環し、ナノマシンが応答した。

 赤い襟巻きが風を受けて翻る。

 黒い防護服が本郷の全身を覆い、筋肉と骨格を戦闘に適した形へ補強する。

 ベレー帽へ擬態していた装置が展開。

 複眼を備えた仮面となり、その顔を覆った。

 人間・本郷猛は仮面の奥へ入り、同時に、その意志だけは失わず前へ出る。

 仮面ライダー。

 ハチオーグは床へ刺した自らの刀を抜き、もう一本――側近が使っていた毒刃を拾い上げた。

 本郷は身構える。

 だがハチオーグは二刀を構えなかった。

 側近の刀を逆手に持ち替え、本郷へ放る。

 回転しながら飛んできた刀の柄を、仮面ライダーは右手で掴んだ。

 

「これで、基本性能は同じ」

 

 ハチオーグが告げる。

 

 側近から受け取ったプラーナにより、その力と速度は仮面ライダーへ並んでいる。

 彼女は、自らの刀をゆっくり持ち上げた。

 

「そして――得物も同じ」

 

 仮面ライダーは刀を正眼へ構えた。両足を安定させ、切っ先を相手の中心へ向ける。

 対するハチオーグは、刀を片手で水平に寝かせた。

 切っ先を本郷へ向ける、鋭い平突きの構え。

 風が二人の間を駆け抜ける。

 ルリ子は拳銃へ触れたまま、その光景を見つめていた。

 ヒロミが望んだとおり、既に胸は引き裂かれそうなほど痛んでいる。

 かつて知っていた少女と、目の前の怪物。

 どちらもヒロミであり、どちらか一方だけを偽物として切り捨てることはできなかった。

 だからこそ、コートの内側に隠した切り札が重い。

 この戦いの先で、自分がそれを使わなければならないかもしれない。

 本郷は振り返らなかった。

 けれど、その背中は変わらずルリ子の前にある。

 彼女一人へ罪を背負わせまいとする、無言の盾として。

 ハチオーグの複眼が緑色に輝いた。

 

「では――参る」

 

 一歩。踏み込んだ足元から、屋上の床が砕けた。

 同時に仮面ライダーも前へ出る。

 二本の毒刃が、冬の夜空の下で激突した。

 金属音と火花が、開戦を告げる鐘のように摩天楼へ響き渡った。

 怪人と仮面ライダー。

 幼馴染の涙を望む者と、その涙を一人で背負わせまいとする者。

 互いに譲れぬ執着を刃へ変えた、一騎打ちの火蓋が切られた。

 

つづく。

 

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