配属された分隊には、一人の知り合いがいた。
かつての大学で自分と同じ授業を履修していた彼女。優しい色合いの茶髪と柔らかな物腰が特徴的で、誰からも好かれる人気な存在だったのを覚えている。
彼女との会話は弾んだ。見知らぬ土地での知り合いというのもあったが、彼女の醸し出す温かい雰囲気が大きな一因だろう。
ふと気になって、聞いてみた。なぜ貴女のような人が、こんな戦場にいるのだろうと。
彼女は、恥ずかしそうにしながら答えた。
自分は孤児で、施設で育ったということ。
施設が、大学まで行かせてくれたということ。
そんな施設に、恩返しをしたいということ。
それを聞き、自分は素直に感心し率直に同感した。
話してくれた礼として、こちらも身の上を話すことにした。
この時代どこにでもありそうな、ありふれた陰気な話。しかし彼女は真剣に聞き、最後まで耳を傾けてくれていた。
同時に、夢を明かした。軍で出世し、父にさらに楽をさせるという夢。
男という性別の人間が抱いた夢を、彼女は嘲笑しなかった。それどころか感動し、純粋に応援までしてくれたのだ。
嗚呼、こんな時間が、ずっと続けばよい。
人を殺すために来た場所で、柄にもなく自分はそう思った。
前線に到着した翌日。
彼女は死んだ。
原因は、防毒マスクの不調。具体的には、固定用のベルトをきつく締めることができなかったのだ。
突如降り注いだ、毒ガスを放つタイプの敵砲弾。あっという間に周囲に拡散する、黄緑色の猛毒ガス。
マスクの固定がされないことに気づいた彼女は、周囲に助けを求めた。だが、マスクの予備を持っている人間など誰もいない。全員が冷たく突き放した。
ガスが迫る中、彼女は最後に俺に縋った。当然、俺に彼女を助けることはできない。ただただ狼狽えることしかできなかった。
なにもしてやれなかった。
ガスが辺りを包む中、彼女は苦しそうに咽ながら息絶えた。
後に、彼女の遺体が運ばれていくのを見た。
見るべきではなかったのに。
優しい表情を浮かべていた顔は絶望と苦痛に歪んでいた。涙と鼻水は滝のように垂れ、顔面をべちゃべちゃに濡らしていた。
狂っている。
帝国と共和国との国境に広がる、全長約千キロにも及ぶ西部戦線。
二年前の開戦に端を発して生じた戦線は、開戦後ほどなくして膠着。今日に至るまで、前線はほとんど変化を見せていない。
原因は単純。
何重にも張り巡らされた塹壕に、騎馬の足を絡めとる鉄条網。一丁で十人の働きをこなす機関銃。その全てが、防御側に圧倒的優位性を与えていた。
結果として、攻め側の苦戦は必至だった。
僅か数百メートルの陣地を得るために、数万の兵が死ぬことが当たり前となった。
今回の攻撃では、この中隊だけでも半分が既に死んだらしい。
狂っている。
「ねぇ」
声のする方へ顔を向ける。
占領した敵塹壕の壁を背に、一人の女性兵士が座り込んでいた。顔は鉄兜でよく見えない。
「君、男の子でしょ」
「……はい」
「だったらさ、抱きしめてくれない?」
返答は、ある程度予想していたものだった。
それに対し、いつも通りの答えを返す。
「申し訳ございませんが、男性兵士と女性兵士の交遊は禁止されています。ご要望に応えることはできません」
「っふふ、知ってるよそんなの……」
彼女が顔を上げる。
血と泥がこびりつき、空虚な笑みを浮かべる顔。疲れ切った雰囲気とは別に、眼だけが異様な輝きを放っていた。
「あたしの分隊さぁ、目の前で大砲で吹っ飛んでさぁ」
彼女が立ち上がる。そのコートにへばりつく、酸化した血痕が目に入った。
彼女が、歩みを進めてきた。
まずい。
「全員死んじゃったんだよね。これも全部、あいつらの血。ね、あたしってかわいそうだよね?」
「落ち着いてください」
歩みが速くなった。
逃げ道を背に、すり足で一定の距離を保つ。
「うん、そうだ、絶対かわいそう。──だから、男の子に抱きしめてもらったっていいじゃん! いい! いい! いいに決まってる! ご褒美だ!」
頭を抱えながら絶叫する彼女。
その騒ぎを聞きつけたのか、何人かの兵士がやってきた。
助かった。
こういう手合いは何度か見たが、何をやらかすか分かったものではない。
錯乱の結果心中しようと迫ってきた兵もいた。
あの時ばかりは本気で死を覚悟したものだった。
「おいシャリル何をしてる!」
「なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで」
「クソッこいつもダメか……と、君は」
数人のうち小隊長と思わしき兵が、こちらを視認した。
「私の部下が無礼を犯してすまない……だが、どうか許してやってはくれないか。一時的におかしくなってるだけで、普段はもっとまともで」
「問題ありません」
「……そうか」
小隊長は申し訳なさそうな表情を浮かべるも、すぐさま部下に指示を出しシャリルと呼ばれた兵を連れて行った。
ふと視線を感じ、その方向へ目を向ける
兜を脱いだ兵士が、弾薬箱に腰をかけ携帯パンを齧りながらこちらを見つめていた。
「……なにか、御用が?」
「そのブーツ」
間髪入れず返された返事に、多少驚きながらも聞き返す。
「はい?」
「踵がすり減ってる。それに、ところどころ
……実は、そうなのだ。
元々大して品質のよいものではない。だというのに今日にいたるまで酷使してきたのだから、ガタが来るのは道理だった。
だが、ただの一兵卒、それも男に替えが支給されるはずもない。そういうわけで、仕方なく使い続けているということだった。
「……ええ、確かに、そうですね」
「やっぱりな。替えが欲しいだろう」
「それはそうですが……しかし自分に替えなんて」
「ついてこい」
残りの携帯パンを収納に突っ込み、突然どこかへと向かう彼女。その強引さに呆気にとられながらも、得られたら儲けものという精神で着いていく。
もちろん、自衛手段としてナイフの用意は忘れない。
彼女はキョロキョロと周囲を見回しながら塹壕内を歩き回っていた。その姿は、まるで何かを探しているようだった──なにを?
移動すること数分。忙しなく揺れていた彼女の視線がある一点に定まった。
その視線の先には、倒れている友軍の屍体があった。
まさか。
思わず立ち尽くす自分を尻目に、彼女は
「ほら」
呆然とする自分へ向けて、一対のブーツが差し出された。
「見たところサイズはそれぐらいだと思うが──個人差はあるからな、試しに履いてみてくれ」
履く。
なにを?
それを?
「──っ!」
差し出されたそれを反射的にとり、倒れ伏せる屍体へと向かう。
憤りで腹を満たしながら、靴下がむき出しになっている足にブーツを元のままに履かせた。
「そんなことをしても無駄だぞ」
「なぜですか」
義憤を込めて、彼女を睨んだ。
彼女は特にひるんではいないようだった。
「君もウワサぐらいは知っているだろう? 死人の装備が再利用されているというあれだ」
「あくまでウワサはウワサです」
「そうか」
彼女を睨みつける。
彼女は何の反応も示さない。
「私はタット。スタニラウス・タチェンスキー一等兵だ。その精神性を保ったまま君が生き残ることを、心から願おう」
「……ポール・ハインリヒ二等兵です。一等兵殿直々の応援のお言葉、誠にありがとうございます」
「ポール君か。
まぁ、そう固くなるな。何事もほどほどにやるのが人生の秘訣だ。その方が、楽だぞ」
彼女はそう言うと、俺の肩を叩きどこかへ歩いて行った。
……。
先のブーツが、目に入る。
状態は良好。ほつれもすり減りもなく、サイズも良さそうだ。
自分のブーツを見る。
踵はすり減りほつれだらけ。おまけにサイズが合っていない。
……。
……。
……。
……いいや、ダメだ。
こんなの、許されるはずがない。
逃げるように、元の持ち場へと戻る。
今ここは、占領して間もない。
敵は一時撤退したが、いつ増援を引き連れて戻ってきてもおかしくない。
今はただ、それに備えるだけだ。