ここは、どこだ。
徐々に晴れ行く意識のもと、自分の置かれている状況を確認する。
自分は仰向けに倒れている──原因は不明。
視界が悪く、息苦しい──ガスマスクのせいだ。
何かが自分の上に覆いかぶさっている──邪魔だ。
背中の
どうやら長い間気を失っているようだった。戦闘時には真上にあった太陽が、地平線に沈みかけている。冷気が体に突き刺さり、体温が下がっていく。寒い。
毒ガスが消えている。何時間気を失っていたかは分からないが、ガスが霧散するには十分な時間だったようだ。鉄兜を脱ぎ、ガスマスクを取り外す。新鮮な空気が肺に吸収された。
なにかを忘れている。
なぜ自分はあそこで倒れていた?
なぜガスマスクを着けていた?
自分の上にあったものは──何だ?
「!」
脳に電流が走り記憶が戻る。ユーリさん、ハイネさん、シャーデンさん。
彼女たちはどうなった?
想像しうる限りで最悪の事態が起こっていないことを祈りながら、覚醒したときにどかした
「起きてください……起きてください! 起きてください!」
体を揺さぶりながら声をかけ続けるも、一向に目覚める気配がない。
仰向けになっている彼女の背中が目に入る。そこには、大量の細かい破片と──ひときわ大きい破片が、左胸の、ちょうど心臓のあるあたりに突き刺さっていた。
仰向けになっている体をひっくり返し、顔を確認する。自分と同じくガスマスクを着けていた。
鉄兜の留め具を緩め、頭部より取り去る。マスクの固定器具を外し、震える手でそれを剥ぐ。思い違いであってくれと、万に一つに賭けながら。
「あっ……」
ほんの数時間前に知り合った顔。口はぶっきらぼうだが、面倒見の良かった人。俺を助けてくれた人。
彼女は、血を吐いて、死んでいた。
「は……あ……? あ……?」
脳が現実を認識し、感情が状況の咀嚼を拒む。
眼前の現実を視覚に内包しないために、周囲を見渡す。映るのは戦車の残骸、味方の屍体。
いや、待て。
あそこで倒れている二人は。
「そんな」
駆け寄ろうとするが、足に違和感。
視線を移すと、ブーツが完全に破けているのが分かった。砲弾の破片が掠ったのかもしれない。これでは走ることができない。
いや、今はそのようなことを気にしている場合ではない。
もしかしたらと甘い期待を抱き、二人に駆け寄る。もしかしたら別人かもしれない、いやそうに決まっている。
期待は、冷たくあっさりと裏切られた。
三人が死んだ。
死にかけの共和国兵の放った砲弾にやられたのだ。
殺したのは敵か?
俺が、助けに行くなんて言い出さなければ。
シャーデンさんは死んだだろうが、少なくとも二人は死ななかった。
ごめんなさい。
いや、そんなことを考えるのはシャーデンさんによくない。
ごめんなさい。
でも三人も死んでしまった。
ごめんなさい。
数の問題じゃない。
ごめんなさい
なぜ敵兵が生きていた?
ごめんなさい。
もしかしたら、俺が殺していなかったんじゃないのか。
ごめんなさい。
無意識に、敵は戦闘不能だと勝手に決めつけて。
ごめんなさい。
殺したのは、俺だ。
「おエえエええエエエ……!」
喉の奥から吐き気がこみ上げ、吐しゃ物が胃から逆流する。
喉が焼けるように痛い。
たまらず腰の水筒に手を伸ばすが、その手は空を切る──投げ捨てたことを、思い出した。
ふと、ハイネさんの腰の水筒が目に映る。
帝国軍で支給される、フェルトに包まれたアルミ製の水筒。揺らすと、ちゃぷんと音が鳴った。
ごくりと自分の喉が唸る。胃酸がまとわりつき嫌悪感で満ち溢れる粘膜に、真新しい生唾が湧いた。
これはダメだ。倫理に反している。
倫理?
倫理がなんの役に立つ?
ここに来て以来、それが役立ったことなんて一度もない。
あの人もその人もこの人も、みんな逝ってしまった。
俺が中途半端だったから。
前世での考えに引きずられ、この世界に適応できなかったから。
俺なんかに他人の命がかかっているはずもないのに。
勝手に責任感を感じて、勝手に行動して、結果はこのざま。
最初から、自分のために生きていれば。
こんなことにはならなかったのに。
あらためて、水筒が視界に映る。
死人は喉を乾かさない。
水筒の蓋を開ける。
喉の不快感が消え、乾いた粘膜が潤った。
濃さを増してきた闇の中、一人考える。
周囲に敵は見当たらない。近くに潜んでいるという可能性もあるが、既にこちらの防衛線を突破した以上とどまっているとは思えない。おそらく味方塹壕を襲撃に向かったのだろう。
だがその方向から戦闘音らしきものは聞こえない。既に突破されたのか、それとも防衛に成功し敵が退いただけなのか。場合によっては、敵の敗残兵がうろついているかもしれない。
いずれにせよ、味方と合流しなければどうにもならない話だった。
そのためにはここを移動する必要がある。両陣営の塹壕に挟まれるエリア──無人地帯を。
だが、それを行うにあたって問題があった。
ヘルメット──銃弾の掠り跡に加え、砲弾の破片かなにかが原因で所々がへこんでいる。頭を守るには些か心許ない。
銃──自分の小銃は投げ捨てた。今持っているのはユーリさんの銃。探そうにもこう暗くなっては探しようがない。万が一接敵すれば、まともな抵抗をせずに死ぬことになる。
ブーツ──走るどころか歩けるかどうかもあやしい。交換は必須。
水・食糧──何日さまようかも分からない以上、保有は必須。
彼女たちの遺体を見る。
ハイネさんは、ヘルメットが無事だった。
シャーデンさんは、ブーツが無事だった。
ユーリさんは、銃が無事だった。
食糧や水は、全員が無事だった。
──少しの間、逡巡する。
やるしかないのか?
ほかにもっと方法があるんじゃないのか?
死んだほうがいいんじゃないのか?
いや。
そんなこと、どうでもいい。
今は生きることだけを考えよう。
それに、もう一度やったことだ。
死人が歩くことはない。
認識票の半分と、ブーツを一対、剥ぎ取った。
「ごめんなさい」
死人は頭を守らない。
認識票の半分と、ヘルメットをひとつ、拝借した。
「ごめんなさい」
死人は物を口にしない。
認識票の半分と、食糧と水をポーチに詰めた。
「ごめんなさい」
死人が銃を使うことはない。
弾と銃を奪い取った。
「ごめんなさい」
「ごめん……ごめん……!
すいません……!
申し訳ありません……! すいません……!」
ごめんなさい。
帝都・帝国軍総司令部。
そのとある一室に、多くの将校たちが一堂に会していた。
「戦線が膠着し早二年。兵たちは疲弊し、国民はうなだれている」
その中で口火を切ったのは、帝国軍参謀総長ヴァルケンハイン。皺のある顔を歪ませながら、彼女は続けた。
「先週だけで一万の兵が死んだ。にもかかわらず戦線はほとんど前進していない。これではいかん!」
ドン、と机が叩かれた。
「だからこそ、この作戦は帝国の勝利の要! この作戦なくして勝利はありえない!」
将校たちに檄を飛ばすヴァルケンハイン。その表情は興奮からか、真っ赤に染まっていた。
「それでもまだ反論があるのなら聞こう。なにか代案を出してみるがいい」
反対するものは出なかった。
「第五軍に通達。予定通り、攻撃目標は『デルダン』。繰り返す、攻撃目標は『デルダン』」
新たな殺戮の地獄が、一つの無線で開かれた。