ヤゲノスルカを出立したアベルとエミリアは、一時間程車を走らせ、エミリアの故郷であるブレスコウへと到着していた。
「ここが君の故郷か」
車を降り、アベルは周囲を警戒する。
どうやら異常は無さそうだとエミリアの方を振り向くと、彼女は感極まった様に涙を流していた。
「.....」
エミリアが落ち着くまでアベルは黙って周囲を観察しながら待ち、彼女が泣き止んだのを確認すると、エミリアに家の場所を尋ねた。
「少し進んだ先です」
そう言ってエミリアは、街の中心部ではなく、真っ直ぐ、街の外側へ向かって歩き出す。
「街外れなのか?」
「...はい」
「ゲットーではないんだな」
「....街外れだったので、難を逃れてたんです」
エミリアの妙な間に気付きつつも、アベルはそれに対して何も言わず、彼女の後を付いていく。
「向こうの通りにある家です」
10分程歩き、寂れたカフェの様な店の前で立ち止まったエミリアは、少し先の坂道の下に広がる住宅地にある赤い屋根の周りの住宅と同じ造り、同じ様な大きさの家を指差した。
「そうか。なら俺はこの店で待ってるよ。水入らずの方がいいだろ?」
アベルは、そう言って後ろにある店を指差す。
「ありがとうございます...直ぐに戻りますので..」
「二時間ぐらいなら構わないよ。じゃあ、また後で」
アベルは手を上げると、エミリアは会釈し、自身のかつての家へと向かい始めた。
エミリアを見送ったアベルは反転し、カフェらしき店へと向かう。
アベルがカフェの扉に手をかけた、その時、背後に突然何者かの気配を感じ取った。
アベルと別れたエミリアは、彼を、彼らを騙し続けている罪悪感を抱えながら、懐かしい我が家の扉に手をかけていた。
全て、家族を守るためにやるしかないんだと言い聞かせてきた彼女にとっては、帝国の監視があるとは言え、久しぶりに会えることは楽しみであり、罪悪感を覆い隠す義務感を強める為にも必要なことであった。
深く深呼吸した彼女はドアノブを捻り、ゆっくりと、家族に心配されないようにするため、笑顔を作りながら、扉を開いた。
ジャキ、というおよそこの場には不似合いな、かつて帝国にゲットーへと追放された時や、工場に連れ出される時、最近ではナジェルノスクでの任務中に聞いた音が自身の「ただいま」という声を上書きする様に彼女の耳に響いた。
エミリアの目には、家族の姿は映っておらず、そこには三つの銃口と三人の黒い制服、親衛隊員が映っているだけだった。
「え..?」
エミリアは何が起きているのか理解出来ていなかった。
「エミリア=ギャズダだな?貴様を処分する」
隊員の一人が冷たく言いはなったその言葉も、エミリアに届いてはいなかった。
時は少し遡り、帝国最高評議会が終了してから一週間が経った頃のこと。
ヤゲノ総督府でルドルフ総督の秘書官を務めていたフリッツ=ワシンスキーは、苛立ち、溜め息を付きながら総督執務室へと向かっていた。
総督に呼び出されることがこれほど憂鬱になったのはごく最近のことだ。
前までならば、何の苦も感じなかったし、むしろ彼に信頼されている証の様に感じ、嬉しささえあった。
「失礼します」
ワシンスキーが執務室に入るや否や、椅子に偉そうにふんぞり返った男、ワシンスキーにとっての頭痛の種であり、憎悪すべき相手、新総督のギルベルト=ハスリックが彼目掛けて書類の束を投げつけてきた。
この小太りの、無能で、派閥意識の塊、頭の固さだけは超一流な男がワシンスキーの敬愛していたルドルフを追い落とし、総督の座に着いたおかげで、この執務室はワシンスキーにとってストレスを感じる場所となっていたのだ。
「ワシンスキーくん、これはどういうことかね?」
ギルベルトは苛立ちを隠さず口を開き、ワシンスキーに投げつけた書類の束を指差した。
「と、申しますと..?」
ワシンスキーは投げつけられた書類を拾い集めつつ、中身を確認する。
「劣等による反乱組織にスパイを送り込んでいるらしいな?」
「はあ、それが何か」
ワシンスキーはギルベルトが何に怒っているのか分からなかった。
「それが何かだと!?貴様、何故、劣等を!このような重要任務に就けておるのだ!?」
「....は?」
「劣等を、単純労働、若しくは燃料以外での使用するなどあり得ん!」
ワシンスキーは呆れ果てていた。
この男は、国益なんかよりも、自身のイデオロギー的満足感の方が重要なのだろうか。
「劣等の組織へ潜入させるわけですから、同じ劣等を送る方が怪しまれませんし、何より優秀です。とても突貫で知識を付けたとは思えない程には」
ワシンスキーは努めて理性的に反論した。
しかし、彼の論理的な説明は、ギルベルトの怒りに油を注いだだけであった。
「優秀?貴様!我が帝国の諜報機関を差し置いて、劣等を優秀と言うか!?」
「そうは言っておりません。この事例に置いては予想外に優秀である、と申したのです」
「黙れ!劣等を使用することは認められん!」
「前総督の考案した作戦です。政令第196号に基づけば、総督等の高級幹部が承認した場合は劣等を例外的に使用することが認められて..」
「ならば、私が承認を撤回する!」
ついにギルベルトはワシンスキーの言葉を途中で遮り、叫んだ。
「何故、それ程までに劣等の使用を忌避されるのですか!国益の為に使えるのですよ!?」
ワシンスキーも我慢の限界が近付いていた。
「奴らは信用できん!奴らなどが帝国に忠誠を誓うはずがないだろう」
「それも書類に書いてあるでしょう。家族を人質にしているから使えると」
「その家族は今どうしておると書いてある?」
「総督府が例外的に保護しています」
「それもだ!」
再びギルベルトは叫ぶ。
「何故!劣等ごときを総督府の予算を使って、この建物で保護してやらねばならんのだ!」
「たった三人分の食費程度ですよ!?」
「黙れ!ルドルフのやったことは全て間違いなのだ!正しいことなどない!」
それが本音か。
ワシンスキーはギルベルトの言葉で、ルドルフの全てを否定し、ルドルフの権威を喪失させることで、自身の総督府での権威を相対的に確立しようとしているのだなと悟った。
自分自身の政策で認められようとするのではなく、他者を落とすことで権威を獲得しようとするとは、派閥争いに全てを捧げてきたとまで言われる男らしいな。
そう、ワシンスキーは心中でギルベルトを見下しつつ、説得を続ける。
だが、彼の意見は変わることはなかった。
それどころか、ついに、彼はワシンスキーにこう言い放ったのだ。
「もういい。これ以上何か文句を言うようなら、貴様もここから去って貰うだけだ。大好きなルドルフと同じ末路を辿らせてやろうか?」
その言葉でワシンスキーの頭にカッと血が昇る。
だが、すんでのところで、思い出す。
帝国最高評議会に出発する前、ルドルフに頼まれたことを。
「総督府を頼んだ」
私の留守の間という意味だったのだろうが、結果的に彼は帰らぬ人となってしまった。
なら、ルドルフの命令を守るならば、自分は、無為に命を散らす訳にはいかない。
ワシンスキーはそう考え、一度大きく息を吸い込み、ギルベルトを見据え、頭を下げた。
「出過ぎた真似をしてしまい、申し訳ありませんでした」
「分かれば良い」
まだ怒気の籠った声でギルベルトはそう言い、手で追い払うような仕草をし、ワシンスキーに退室を促す。
彼が退室する時、ギルベルトは嫌味っぽい言い方で、命令を下した。
総督府で保護しているギャズダ一家を処分せよ、と。
ワシンスキーは扉を閉めようとしていた手を止め、ギルベルトの方を向く。
「なんだ?やはり、ここから去りたいのかね?」
下品な笑みを浮かべながらそう言うギルベルトの顔面を殴り付けたい衝動を押さえ付けながら、彼は小さく「いえ、了解致しました」と呟き、今度こそ扉を閉め、執務室を後にするのだった。