ローベルトと別れたアベルは、そのまま直接V.Bの執務室へと来ていた。
「なんにせよ、大事がなくて良かった」
V.Bの社交辞令に、アベルも「おかげさまで」と返す。
「それで、だ。私としては自分の疑念が当たっていたわけだから、喜びたいところなのだが、どうにも事情が複雑なようでね」
V.Bは唐突に本題を話し始めた。
「疑っていた女がスパイだった。ここまではいい。しかし、だ。そのスパイが気を失った君を背負って帰ってきて、自らがスパイだと告白した。君を置いて逃げれば良いものを、そうせず正直に、だ。これをどう捉えるべきか。そこで、我々は当事者である君の話を聞くべきだと考えたわけだ」
知っていることを話してくれ。V.Bは、しっかりとアベルの目を見据えて、真剣そのものな表情で言った。
「分かりました」
頷き、アベルは、彼が見た事、そして、エミリアから聞いたことを話した。
「そうか...」
話を聞き終えたV.Bは、そう一言言ったきり、黙り込んでしまった。
額には青筋が浮かんでおり、相当頭にきているようだ。
やがて、彼は一度大きく深呼吸をして、口を開いた。
「エミリアの行動には納得がいった。だが、帝国の意図が読めないな」
「同感です」
「家族を人質にむりやり働かせる。など我々が言うことではないが、反政府組織のような非正規組織が取りそうな手段を敢えて取り、素人を潜入させたのは何故なのだろうか」
「それに、先日、借金の帳消しをエサに釣られた男がスパイとして潜入していた事例もありました」
アベルの補足に、V.Bも頷く。
「つまり、様々な背景を持つスパイを多数潜入させている。ということだろうか」
「恐らくそうなのでしょう」
「だが、それでも疑問は残る。同時多発的な裏切りに対する保険。情報の精度を上げる。そう言ったメリットはあるだろうが、帝国に忠誠を誓う人間を何人も送り込む方が確実なはずだ」
「ネイティブなヤゲノ人の方が信頼されやすいからでは?」
「それもあるかもしれん。だが、どうにも違和感がある」
V.Bにそう言われ、アベルは少し思考を巡らせる。
「...我々の不和を狙っている..?」
ボソッと言ったアベルの言葉に、V.Bはそれだ!と反応する。
「あえてバレやすい素人スパイを複数潜り込ませることで、我々の組織内に不和をもたらそうとしているのか!」
同じ頃
ーヤゲノ総督府庁舎ー
「はぁ..」
ワシンスキーは、書類を整理しながら、もう今日だけで何度目か分からない溜め息をついていた。
あれから、更にギルベルトによる前総督、ルドルフの否定が進み、ヤゲノスルカの再整備計画すらも書き直されてしまっていた。
「やはり、ルドルフ閣下は凄いな」
彼は、ルドルフが健在であった時期、帝国最高評議会の前、ヤゲノ解放軍に複数のスパイを送り込んだことを明かされた時の会話を思い出していた。
「そういうことだ。金で雇っている素人や家族を人質にしてるやつも訓練自体は最低限しかしてないからその辺りは半分囮のつもりだったんだがな」
「家族の絆というのは面白いな。まさか最も役に立つ情報を送ってきたのが、家族を使って潜り込ませた劣等だとは」
そう言ってひとしきり笑った彼は、再びワシンスキーに向き直った。
「ただ、本来の目的、主目的は別のところにある。今説明した計画の全貌は副次的なものだ。そして、これから言うことは、何があろうと、他者には漏らすな。書類にも残すな。分かったな?」
「は、はい」
突然のことに驚きつつも、ワシンスキーは、頷いた。
「うん。今、私は半分囮と言ったが、本当に囮でしかないんだよ。奴らは」
「と、仰いますと..?」
「恐らく、その内ヘマをやらかして捕まるだろう。何せ付け焼き刃の訓練しかしてないんだからな」
「それでは、解放軍の警戒心を高めるだけでは..?」
「その通り。だが、それと共に組織内で疑心暗鬼が高まる筈だ」
「なるほど..?」
「何人もスパイが見つかれば、誰を信用していいか、徐々に警戒が強くなるだろう。そこで、本職の、我が国の諜報機関の者に、幹部かそれに準ずる者を裏切り者に仕立ててもらう」
「...つまり..」
「そう、それが決定打になるはずだ。幹部にすらも裏切り者がいる、となれば、組織への忠誠なんて瓦解していくだろう。自主的に我々に協力する者も現れるかもな。そうなれば、そちらの、組織の維持に奴らは体力を割かれることになる。その隙に、本職の人間に悠々と仕事をしてもらう、というわけだ」
それに、とルドルフは付け足す。
「上手く行かなくても、スパイが組織の瓦解を狙っていると考え、其方に対処能力を割くだろうから、どちらにせよ隙は生まれる筈だ」
「何故、そこまで回りくどい方法を..?」
ワシンスキーの質問に、ルドルフは笑い、言った。
「尤もな疑問だ。だが、簡単なことさ。解放軍の組織力の弱体化と情報の抜き出し、その両方を一挙にやってしまおう。というだけだよ」
「しかし、これを何故、そこまで厳重に極秘とする必要があるのでしょうか?」
ワシンスキーは話を聞いている間に浮かんだ一番の疑問を口にする。
「それはな..」
そこまで思い返したところで、彼は、部屋の扉がノックされたことに気が付いた。
「はい」
扉を開けると、そこには、親衛隊の黒服に身を包んだ見慣れない男が立っていた。
「どなたでしょうか..?」
ワシンスキーの問いに、にこりともせず男は答える。
「明日からギルベルト=ハスリック閣下の副官となります。エリック=ハイドリヒです。引き継ぎ業務を明日から行うことを伝えに来ました」
エリックという男の自己紹介を聞いたワシンスキーはルドルフの言葉を思い出していた。
「我々オストレオンの高官は、明日の地位も不安定だ。いつ私が総督でなくなるか分からん。そして、帝国、特に親衛隊では、ライバルの功績は全て否定する傾向にある。万が一の時に、スパイを全員撤収させる。なんてことがないようにする必要がある」
とは言っても、と、ルドルフは笑みを浮かべて続けた。
「それなりに対策はしているし、周囲の動きも警戒している。まさか明日いきなり、なんてことはないだろうが、何せ長期スパンな計画だからな。一年後、二年後となると分からん。だから」
何処にも、誰にも漏らすなよ。
最後に真剣な顔になり、そう言ったルドルフは、そこから半年も経たない内に、失脚してしまった。
そして、ワシンスキー自身も、今、正に、彼の政治生命が断たれようとしている。
閣下の仰っていた通りだ。
全て、否定する気なのだ。
奴は、ルドルフ閣下の全てを、そう、この私すらも、否定の対象なのだ。
ワシンスキーは当時、差程深刻に捉えていなかったルドルフの言葉の意味を、ルドルフを失い、更に自らもその憂き目に合い、これでもかと言うほど、実感させられたのだった。