初恋の相手は、幼稚園の先生だった気がする。みんなの輪の中に入れなかった私の手を繋いで、遊びを教えてくれた。お弁当の中身を交換してくれた。お母さんが作ったタコさんウィンナーよりもしょっぱい唐揚げは大人の味がして、小さな私にとってはあんまり美味しくはなかったけど、それでも誰かと楽しく遊べた数少ない記憶になったと思う。
それから12年、後藤ひとり16歳。
未だ先生と家族以外とは、手を繋いだことも、遊んだこともないのであった。
というわけで、私の好きな人は多分今も幼稚園の先生である。
だいぶ前から顔を思い出せないけど、それ以外に知ってる人がいないのだから、仕方がない。
眠たい頭を抱えながら、高校に入る。即、周りを警戒。変な不良に絡まれないよう体を隠しながら、教室に向かう。誰も私を知っている人がいない場所ということで入った高校ではあるが、登校初日にせっかく目立たないように着ていったジャージを不良たちにからかわれたあの日から、ひとりはこの高校に入ったことを心底後悔していた。
(やっぱりジャージだと地味すぎるのかな…もっとかっこいいシャツとかを中に着ていって、ちゃんと一目置かれる存在にならないとまたいじめられる…)と考える後藤ひとりの頭の中に、制服を着るという選択肢はない。
ただ、今日の登校は久しぶりに少しだけ気が軽かった。高校入学以来初めて…いや10年以上にわたる学校生活史上初めて、会いたい人がいたからだ。幼稚園の先生と別れて12年、久しぶりに後藤ひとりの名前を覚え、手を握ってくれた存在。絡んできた不良をかっこよく追い出してくれたあの子に後藤ひとりは夢中になっていた。知り合いと呼べる人すらいないひとりにとっては、初めてできた知り合い、いや友達、いや友達になるかもしれない人にも思えたのだった。あんな強くてかっこいい子と友達だとかイキってすみません…。
そのためにギターも持ってきた。前に一度ギターを持ってきたときはせっかくバンドTも着てきたのに全く不良にビビってもらえずギターに変な落書きされたりと大変だったが、今回は全身ゴテゴテのバンドグッズで武装してきたから大丈夫なはずだ。バンドガールアピールも兼ねており、この一石二鳥のアイデアで話題を作ることもできるし知り合いを更に増やすことだってできるかもしれない。不良ばかりの高校とは言え、彼女は友達を作り本当はすごい自分に気づいてもらい、学校の人気者になる夢をまだ抱き続けていたのだ。妄想は広がり、後藤ひとりの心は踊りに踊る。
そして教室に入るとき
どん!
「おい、痛えんだけど」
「えっあっその、あっご、ごめ」
「は?ぶつかってきたくせにごめんなさいもなしか?舐めてんじゃねえぞ!」
「あ、あっあぁぅあ、あぁーーーー!!!」
振りかざされたこぶしを前に後藤ひとりは絶叫し、人気者の夢を捨てて逃げ出した。
この女、徒競走は堂々の学校最下位だが、逃げ足の早さは恐らくトップである。
「調子に乗って学校きて~調子に乗ってギターも持って~調子に乗って不良にぶつかり~今の調子は…最悪で~す…」
後藤ひとりは階段下の謎スペースに逃げ込んでいた。現時点で、不良がここに現れたことはない。後藤ひとりにとっては学校内で唯一安心できる場所だった。そんなひとりの癖は黒歴史を作り出してしまったときにその思いを歌にすることである。本人は気づいていないが、即興で弾き語りをするのは結構な才能である。
ピックで弦を流麗に弾き、自在にコードを組み合わせ美しい音を奏でる。ひとりはこれくらいのことはほとんど意識しなくてもできる。こうしているのが、ひとりにとって一番落ち着くのだ。
(ああ変な不良に目をつけられたしもう教室入れない…やっぱり今日はもう帰ろうかな…せっかく持ってきたギターも無駄になっちゃうけど、でもただでさえ成績悪いのに授業さぼったらついに留年だ…どうせならついでに退学できたりもしないかな。でもせっかく意気込んできたんだから、ちゃんと今日はお礼をしたかったな…)
そんなとりとめもない思考は
「おー、後藤ってギター上手いんだな!」
突然の声で破られた。
不良がここに現れたことはない…現時点までは。
突然のことに奇声を上げたひとりの前にいたのは、今一番会いたかったあの子だった。
「なんでやめるんだ?もっと引いてくれよ」
何十かの衝撃に石像と化した私に顔を近づけ、突然現れた喜多は陰キャに無理な要求をする。自慢じゃないが後藤ひとりはオーチューブのギターチャンネルで3万人の登録者を持っている程度にはギターがうまい。やっぱり自慢したい。私再生数100万超えた動画が五個くらいある!しかしこれまでまともに直接ギターを披露したことがある相手は妹とジミヘンしかいない。
「あっあのこんな無駄な音聞かなくても喜多さんの権力ならトップミュージシャン誘拐してきてヤンキー会議BGM伴奏させることができますよ私に頼らなくても…。」
「お前私を何だと思っているんだ?」
頭にデコピンされた弾みに石像化も解除されて口以外も動くようになった。怖いわりに意外と仕草がかわいい、と後藤は無意識に思った。
「別にそんな難しいこと頼んでねえだろ。音楽は普通に好きなんだよ、悪いか。それにお前のギターめっちゃうまかったじゃねえか」
「あっ弾かせていただきます…」
めっちゃ褒めてくれる人に後藤は弱い。弱すぎる。だらけ切った顔で一気にピックを走らせ、とっておきのソロ用メロディを無意識に弾き鳴らす。本来ひとりは家族を除く人前でギターを弾いたことはない。これが世間様への初のお披露目であるが、それにも関わらず後藤は自在にピックを操り、その全力を出す。
パチパチパチ、と喜多が拍手、彼女の目が明らかにキラキラしだしている。後藤ひとりは大いに自分に満足していた。今や彼女に聞こえている拍手の音は一人のものではない。万雷の拍手の中で、彼女の目は無数の人でひしめく武道館を映している。最後にギターを鳴らしかっこつけて後藤ひとり武道館単独ライブを終えようとしたところで、ひとりの手が掴まれた。
「ヴェッ!?」
「この学校にこんなにギター上手いやつがいるなんて知らなかったぜ!軽音部のやつみんなダチだけどお前はいなかったよな、なんでいないんだ?それとも外で披露してるのか?また聞きたいから教えろ、うちのダチみんな連れて行くから!」
「え、えと実は披露とかそんなことしたのは初めてで、ていうか人前で人前で弾いたのも初めてで、でも嫌ってことではなくてずっとバンド組んで弾いてはみたかったんですけどバンド仲間とかも見つからなくて…」
「なんだって!?それならちょうどいいのを何人も知ってるぞ、軽音のダチを紹介してやろうか?」
ひとりの手を握ってブンブン腕を振る喜多。かつてないスピードで腕をブンブンすることになったひとりは気が遠くなりかけながらも、聞き捨てならない言葉を耳にする。喜多のダチ。あのとんでもなく顔が怖い不良達。朝怒鳴られたときの恐怖が一瞬で蘇る。とても無理だ、脳内に演奏ミスを制裁するためにひとりを屋上から逆さ吊りにしながらライブをする愉快な不良達の姿が思い浮かぶ。無意識にバンド仲間が欲しいなどと言ってしまったことをひとりは後悔する。
「あ、あ、いいえ実は高校の軽音部には入れない事情があって…」
「どうした、喧嘩になる奴でもいるのか?」
「いえ自分にはあんまり相応しくないというか…」
「あーお前が上手すぎて付いてこれる奴が少ないってことか!確かに正直ダチより後藤の方が上手いんだよな」
「そ、そうです私のレベルが高すぎてみんなが付いてこれなくて楽器やめちゃいないか心配で、そんなことになったら世界平和という私のポリシーに反するというか」
「へー、世界平和なんて考えたこともなかったわ、後藤ってすごいこと考えて音楽してるんだな」
なんとか乗り切ることができた。もう二度とあの不良達の前には出たくないし、喜多には気に入られたらしいから下手な演奏なんてしたらどうなるかわからない。そんな思いがひとりを支配していて、めちゃくちゃ軽音部に喧嘩売ったことにひとりは気づかない。
「あ、もうこんな時間か。そうだ、後藤来てほしいところがあるんだがいいか?」
そんなことを言いながら返事を聞く前に喜多はひとりの手を掴んで歩き出す。ちなみに、喜多郁代は不良の「魔王」と化して以来、断られるという経験をほとんどしていない。
「えっあっはい、あっ」
ちなみに、後藤ひとりは断るという経験をほとんどしていない。これは生まれつきである。
ギターを抱えながら、ひとりは近くの部屋までひっぱられていった。喜多の目はキラキラしたままだが行先を告げることはない。後藤ひとりもそんなことを聞く勇気を持たない。
「ここだ。ほら入って入って、はじめるよ!」
入ったというより無理やり連れ込まれたとき、後藤ひとりの目よりも耳が先に反応した。やたら騒がしい。とても嫌な予感がする。
そして喜多が叫んだ。
「おい、お前らそろそろ黙れ!会議始める前に今日はお前らに面白いものを見せに来たぞ、いつもよりは礼儀正しくしとけよ!ほら、1年の後藤ひとりさんだ、拍手!」
中にいたのは不良、不良、不良、不良の集まり。喜多の声を聴いて一斉に喜多―とまた石像と化したひとり―を見る。これは喜多の子分の集いである。
「おー喜多、またなんか面白い奴を捕まえてきたのか?なんか随分ジャラジャラした服着てんなあ、新しい子分?」
「違うけど、まあさっつーも見て見なって驚くから。ほら後藤、みんなにも見せてやれ」
こっちを見るキラキラした喜多の目、面白いものを期待するようなさっつーと呼ばれた女の子の目、そして訝しげだったり期待の色を浮かべていたりする不良の皆様
(えっこれ何をすればいいんだろう、面白いものって何かな、何か笑えるものかインパクトあるものをやれってこと?そもそもこの不良達誰?何したら喜ぶの?)
後藤ひとりは完全に混乱していた。もはや手に持つギターのことすら頭に無い。しかし通算して10秒ほどに渡った混乱の末、後藤ひとりの脳に雷が走り、何を喜多に求められているのかを唐突にひらめく。
何をすべきかはもうわかった。後藤ひとりは床を踏みしめた。仁王立ちして皆をまっすぐ見据え、一種異様な空気を漂わせる。皆にも緊張感が走る。固唾をのんで、授業で先生を見つめるよりは遥かに真剣な眼差しを向けてくる不良の前で、ひとりは覚悟を持って手に持つ黒いギターを高く振りかざした。
「風林火山!」
「……」
「……」
「……」
「……」
「…後藤、今日はもう帰っていいから」
今日一番、冷たい声で喜多は言った。誰の目からも光は消えていた。
その後、学校を去った後藤ひとりの姿を見たものは無い。H女史(5歳)は部屋の中でギターを使って切腹しようとする後藤ひとりを目撃したと証言するものの、真偽のほどは知れない。明らかなのは、ひとりのノートに「絶対に退学してやる」と殴り書きされていたことだけである。
次話「魔王と魔王 下北沢にて」