生まれ変わったら
窓から見る風景は彼にとって“自由”そのものだった。
道を見ていると色んな人が見られる。くたびれた様子のサラリーマン、デートをしている男女、散歩しているのだろう老人、買い物帰りで袋を提げて歩く家族。
何より、友達と一緒にボールを持って駆けていく子供たち。公園か、河川敷か、それとも学校のグラウンドだろうか。きっとどこかで遊ぶのだろうなと想像する。
通りかかる度に思わず目が向いて、笑い声が届くことは珍しくない。その度に楽しそうだなと羨望を抱いて、どうやって遊んでいるのだろうと想像を巡らせる。
叶うならば参加してみたいというのが昔からの欲求だった。しかし叶わないから時折見かけるだけで満足することにして、結局はいつも諦めている。
その部屋から出たくないわけではない。
ただ出るのは自分のためにならないとわかっているわけでわがままは言えない。
自分はここに居なければならないのだと彼は理解していた。
生まれた頃から体が弱く、病気しがちな自分に嫌気が差しつつ、病院を離れては生きていけないために病室で暮らすのが当たり前だった。
珍しいことではない。周囲には同じく体の弱い子供はたくさん居た。入院生活の中で、環境が同じであるが故に共感を覚えて友達ができる一方、ふとした拍子に突然居なくなることもある。理由は言われずともわかってしまう、そんな生活。
大抵の人が当たり前にできることに憧れを持っている。
実行はできない。体力がないからだ。
彼は本を読むことやゲームをすることで紛らわせようとしていて、それもまたそれなりの満足感はあったのだが、当たり前のように体を動かすことへの羨望は消えなかった。
サッカーに対する憧れを抱いたのはたまたまだ。
近くにクラブでもあるのだろうか、それとも見かける子供たちがハマっているだけなのか。手元にサッカーゲームがあったのもあって、そのスポーツに対する興味を抱く。
暇な時間はサッカーの勉強やゲームをする時間が多くなる。
義務教育の勉強をほどほどに終えて、それでも一日は長くて使える時間は多かった。
いずれ自分が、とは思わない。きっと自分がこの体でサッカーをプレーすることなどないのだろうと察している。ならばなぜ学ぼうとするのかと言えば、ただ単なる興味と好奇心。プレーできないからこそせめて知っていたいと様々な知識を吸収する。
ネットで調べて、本を読んで、友達と話し合って、ゲームで実践。実際にプレーしている選手を動かすことはできなかったが、文明の利器ありがとうと思う瞬間。彼はそれで満足していた。
やることがないからなんとなく手を出した。その程度の衝動だった。
周囲に居る人たちは彼を評価していた。
看護師や医者は大人しくて聞き分けのいい彼を心配こそすれ、叱責することなどなく、彼よりも小さい子供たちの面倒を見てくれることに感謝していた。
達観した様子でふとした瞬間に生きる気力を感じさせず、自らの行く末を受け入れている様子が悲しい顔をさせてしまうものの、なんとかしてあげたいと愛情を注いでいただろう。
小さな子供たちは彼と遊ぶことが好きだったようだ。
話す時の声色は優しく、絵本を読み聞かせたりゲームを貸してくれたり、一緒にテレビを見る時間が好まれていた。
友達も年上も年下も、時間が経てば増えたり減ったりする。
そうした環境に慣れようと努めていたが、それも簡単なことではなくて、だからこそ彼は苦しみながらも他者に優しくしようと心掛けていたのだろう。
そうした状況の中で成長していった。
自分にできることをやって、それなりの満足感を得ていたつもりだ。
容体が変化したのは、中学生の頃だった。
両親との仲は良くなかったようで医者や看護師にこそ励まされた。
いよいよという時、彼はぽつりと呟く。
「生まれ変わったら普通に生きたいなぁ」
そうして、奇跡は起きた。