「お前の名を呼ぶものはもういない。……お前はこれからカワキだ。我々"殻"の渇きを癒す、せめてその器となるがいい」
言葉の意味も分からないようなその童子が、コテンと首をかしげる。
「波風ミズチよ」
ミズチと呼ばれた少年の瞳は、彼が身に秘めた血染めの赤と薄暗い闇の紫紺の系譜を浮かべたような、昏い色を映していた。
────◇──◆──◇────
──20年程前。
寝ぼけた眼に、ふと暖色の光が刺す。
父親の背のぬくもりに、うつらうつらとしていた幼い少女、波風メシナはその肩越しに会話を聞いていた。
「僕たちの娘は天才だ! なんたって、アカデミーもまだ遠いっていうのに、もう飛雷神の術まで習得しちゃったんだよ!」
長めの金髪と涼やかな碧眼、そして爽やかな顔立ちが特徴の、青年と呼ぶには大人な若者、波風ミナトは玄関の戸をあけるや口を開いた。
その若さにも関わらず、次代の火影に推す声も大きい天才忍者であるミナトをしても、飛雷神の術を習得したのはアカデミー卒業後のことだ。
そもそもこの術を知らなかったというのもあるが、自身のアカデミー入学前を思い出しても取得できていたかは怪しい。
だいたい、大の大人でも飛雷神の術を習得している忍はほとんどいないのだ。この歳で習得したメシナは、親の贔屓目がなくとも天才の一端であることは間違いなかった。
一方、ミナトが話しかけた玄関に立っていた人物、ミナトの妻であるクシナの機嫌は、浮かれているミナトと対照的に悪かった。
「ミナト、その前に、何か言うことはないの?」
「ああ、ゴメンゴメン。ただいま、クシナ」
「おかえりなさい、ミナト。まったく……、こんな時間まで修行って、メシナにも忍以外の道だってあるのよ?」
「ん、そうだね……」
口ではそういいつつも、第三次忍界大戦の爪痕もまだ当分癒えず人手不足が深刻なこの里で、メシナほどの才能を持つ者が忍以外として生きていくことは難しいだろう。
二人の間にも、その共通の意識はある。
しかし、惨い戦争を経験した二人は、忍の子も忍という伝統を差し置いても、戦いから離れて生きてほしいとも願っているのだ。
「でもこの子は君の血が、うずまきの血が強い」
ミナトとクシナの娘であるメシナは、うずまき一族の特徴を色濃く持つクシナに似て、目が覚めるような赤い髪を持っていた。チャクラの性質もうずまきの力に近い部分があることがわかっている。
戦争も集結し、望むらくは、これから平和な時代になっていってほしい。
その思いとは裏腹に、いまはまだ国際情勢の緊張の糸は解れていない。ミナトと結婚してから忍としての任務からは離れているクシナとは違い、前線の任務に出ているミナトは、「まだ国々の争いの種は燻っている」と実感を持って口にした。
「だから例え戦いを望んでいなくても、狙われるかもしれない。かつての君と同じように」
クシナは一瞬、ポウッと赤くなったが、すぐに顔を引き締めた。
ミナトは気づいていないが、クシナにとってその事件は、彼女がミナトに好意を抱いた馴れ初めなのだ。
それを隠すように、クシナはミナトの今晩のふるまいを責めた。
「だからって、なにもここまで
「それは……」
「なによ。今更口ごもって」
「クシナ、ヘンなことを言ってもいいかい」
ミナトの目は、まっすぐと真剣にクシナを見つめていた。
「……嫌な予感がするんだ。自来也先生は、近く忍の世界に大きな変革が起きると言っていた。それがどんなものかはわからない。でもそれは、もしかしたら僕達が……メシナを残して居なくなるようなことなのかもしれない」
「ミナト!」
「もしもの話だ。でも、それまでに僕達ができることは、何でもやっておきたいんだ」
メシナが寝ているからか、ミナトの言葉はめずらしくネガティブなものだった。
今回の戦争は確かに終わった。しかし、それと引き換えに、各国はあまりに多くの血を流し過ぎた。その痛みはやがて再び大きな戦争を引き起こす火種となってしまうのではないか。そう想像するのは難しくない。
弟子を立て続けに失ってからか、彼の言葉はどこか影を増すようになったとクシナは感じていた。
それゆえか、クシナは暗くなりつつあった話の流れを断ち切るように口火を切った。
「わかったわ。今はごはんにしましょ。ほら、ミナトもメシナを起こして」
ミナトはその声に家へと上がると、手早く汚れた服を着替え、そのままミナトのそれよりも数倍は汚れているメシナの服を着替えさせた。そして、まだ眠気に首がふらふらとしているメシナをテーブルにつかせる。
食卓には、クシナの用意した料理が湯気をあげていた。
しかし、メシナは食器を動かさず、じっとお皿を見つめるだけだ。
メシナにはそこまで好き嫌いはないし、今日も別に嫌いな食材の克服メニューというわけではない。
にもかかわらず動かないメシナに対して、やがてクシナはいぶかしげに感じるようになった。
そうしているうちに、メシナが一言。
「……おなか、すいてない……」
その瞬間、アカデミーでは全くと言っていいほど良い座学の成績を残さなかったクシナの頭脳が、一瞬で、ある結論を導き出した。
「ミナト。まさか帰りに、何か、食べさせたりはしてないわよね?」
「い、いやぁ。まさか飛雷神の術を成功させてしまうなんて思ってなくて、つい……」
「ミナトはメシナに甘すぎるんだってばね!」
かつて赤い血潮のハバネロと呼ばれ恐れられた、その異名の由来と言える拳で、ミナトは思い切りはたかれた。
─◇─
飛雷神を習得した日も過去となったころ。
メシナは任務の合間を縫って時間を作ったミナトに修行を付けられていた。
「さあ、今度は飛雷神・一の段を練習しよう。これができたら、飛雷神を使った動きの基本は完成だよ」
ミナトの言う飛雷神・一の段とは、投げたクナイに跳ぶことで相手との間合いを詰めるという、飛雷神の術の実践運用の基本となる動きだった。
これまでのは、ミナト風に言うならば零の段と呼ぶべきだろうか。単純に、地面に固定したマーキングに跳ぶ技が、先ほどまでメシナの練習していた飛雷神の術である。
デモンストレーションとして、ミナトは的に向かって投げたクナイに跳ぶ様子を見せた。
投げたと思った瞬間には、目の前に立っていたミナトの姿がメシナの目の前で掻き消え、跳んだ先ではすでにミナトがクナイを掴み取っている。
忍界最速と謳われる、電光よりも速い木ノ葉の黄色い閃光の動きだ。初見どころか知っていても対処は難しいだろう。
身内としても感心するばかりだが、今度はメシナがそれに挑戦しなければならないのだ。今まさにミナトがやって見せた、クナイが的に刺さる前に手に戻すという動きまでは、さすがに要求されていないと思いたい。
だいたい、跳んだあとも平然としているのすら、メシナには信じがたいのだ。
いまだに瞬間移動するという現象には慣れず、メシナは移動した後、数瞬の間は跳んだ位置の状況確認をしてしまう。ミナトには毎度のごとく注意されるが、この癖は抜けない。
というより、これは本能に近いとメシナは感じている。周囲の光景が切り替わったら状況を見定めようとするのが人間なのだ。ミナトにこれを言ったら、忍とは耐え忍ぶものと返されそうではあるが。
グチグチと考えていても仕方がない。
メシナは、忍愛之剣と書かれた十字に似た形のクナイを構えた。
飛雷神の術は使い手の傾向から印を必要としない忍術と思われがちだが、実際は使用する都合上、印を省略しているだけだ。逆に言えば、印を省略できる技量がなければ実戦では使えないのである。
つまり、飛雷神の術は、ただでさえ高い難易度の忍術を印の補助なしに組み上げる技量と、時空間忍術への高い適正が求められる超高難易度の忍術なのだ。
その難易度は、まともな使い手が、伝説級の忍である二代目火影とミナトの二人しか歴史上にも存在しないという事実が示している。つい最近、メシナがその末席に加わったが、恐れ多いもいいところなのだ。
話を戻すと結局のところ、飛雷神の術には発動するまでのインターバルとも言える準備期間が必要となる。
その準備時間に、クナイを投げるという動作を加え、二足の草鞋を履くのが飛雷神・一の段だ。
「いきます!」
メシナは教本通りの構えでクナイを投げ、すぐさま飛雷神の準備にかかった。
果たしてメシナの初めての飛雷神・一の段の結果はというと。
ポスっと
「ちょっと遅かったね。次は飛雷神を準備してからクナイを投げてみようか」
先ほどのメシナの動きは、クナイの投擲と飛雷神の術を両立させるという、飛雷神・一の段の基本を踏まえていなかった。これでは、ただクナイを投げた後に飛雷神をしているだけだ。
その点を端的に指摘されたメシナは、しょんぼりと肩を落とした。
だが、メシナが勘違いするのも無理はなかった。
ミナトほどの使い手となると、クナイを投げて的に刺さるまでの間に飛雷神を準備できてしまう。むしろ普段のミナトはクナイを投げる精度などのために、率先してそうしているのだ。
一方でミナトも、手本ではその工程を見せるために、クナイの投擲と飛雷神を両立していたし、そもそも投げてから飛雷神の準備が間に合わないほどの距離でクナイを投げていた。それにメシナが気づけなかっただけである。
刺さりが悪く半分抜けかけのクナイを引き抜いて、ミナトの位置まで戻ると、メシナは再びクナイを構えた。
今度は、飛雷神の術をチャクラで組み上げてから、クナイを投げる準備にかかる。
飛雷神が準備できて、教本を思い出しながらクナイを構えると、ポスンという腑抜けた音と共にチャクラだけが無為に消費されてしまった。
「あれ……?」
「術が乱れて不発に終わったみたいだね」
「……ごめんなさい」
「謝ることは何もないよ。さあ、もう一回やってみよう」
そんな父親の言葉に、再度、メシナは飛雷神のために集中する。
組みあがった術を乱さないように、ぎこちない動きでクナイを構え、いよいよ投げるという瞬間になって、飛雷神への集中がきれてしまった。
慌てて、飛雷神の方に集中すると。
次の瞬間、メシナの目の前には青空が広がっていた。
太陽の光が目に刺さり、まぶしさを覚えるのとほぼ同時に、腰から背中にかけての強い衝撃が走った。
今度は頭を打ち付けようかというその前に、メシナの首元をしっかりとした腕が支えていた。
ミナトが頭を打たないように、手を添えて防いでいたのだ。
「イタタっ……」
それでも節々を地面に打ち付けた事実は変わらない。
メシナが痛みを冷ましている間に、フッと姿を消していたミナトが現れていた。
手には特徴的なクナイ。メシナが明後日の方向に投げたクナイを拾ってきていたのだろう。
「大丈夫。落ち着いてやろう」
メシナの前には、クナイを握っていないミナトの手が差し伸べられていた。
「はい、父さん」
しかし、その後もメシナは2度3度と失敗を重ねていった。
やがて何度目かの挑戦に失敗して、しりもちをついたメシナに、ミナトは別の提案を用意していた。
「今度は、手順を分けてみようか」
ミナトが提案したのは、一段階難易度を下げた練習だった。
具体的には、投げたクナイに跳ぶのではなく、跳ぶ先は事前にマークをしておいた目標にし、クナイはただ投げるだけということになった。まずは、クナイを投げる動作と飛雷神の発動を両立させることを目的とした訓練だ。
もちろん、飛雷神でクナイを投げた方向に向かってしまえば、自分にクナイが刺さってしまうので、安全のため跳ぶ先は隣の的だ。
最初のミナトのデモンストレーションから、もう何段グレードダウンされたかわからない構成に、メシナはうつむきがちにうなづいた。
─◇─
クナイが風を切る鈍い音。
しかし、それが的に突き立つ音も地面に刺さる音も、聞こえてこない。
そして修練場には、瞬時に現れては消える赤い髪の少女の姿があった。
あれから数週間の時間が経ち、メシナは飛雷神・一の段を完全に習得していた。
メシナはクナイの投擲と飛雷神の組み合わせだけでなく。
今度は手裏剣術や簡単な体術など様々な動きに並行させて飛雷神を起動する。
同じ訓練を続けて、クナイと飛雷神がセットになって刷り込まれてしまえば、かえって敵に見せるスキとなってしまう。
そのため、メシナは、どのような動きをしていても、どのような態勢となっていても飛雷神を発動できるように、訓練を続けていた。
飛雷神の術は、攻撃に回避、フェイントまでをも一体とする万能の忍術だ。応用範囲は無限大に広く、使い手の想像力次第で大きな運用の差を生む。それは、これから様々な可能性を持つ子供にとっては、特に重要な事実でもある。
そうであるがゆえに、ミナトは飛雷神の術と他の基本的な動きを組み合わせることが最も肝要であると考え、この訓練をメシナに提案していた。
もっとも、当の本人であるミナトは、最近、メシナの修行に付き合うことができなくなっていた。
その理由。それは里の英雄と評されるミナトが次の火影へと推薦されていたからである。
無論、次期火影情報など、里のトップシークレットだ。
木ノ葉の里の住民たちにとっては、まだ、ようやく噂となりつつある程度の話である。
ミナトの娘であるメシナの耳にも、噂は聞こえていた。
なんでも、近々三代目が火影の地位から退くのだとのこと。必然、里の住民の話題は、次の火影は誰なのか、というもので持ち切りとなっていた。
現実に、波風家を訪れる人は増え、ミナトも不在の時間が増えている。
メシナはその噂がいよいよ現実になろうとしていることを、誰に言われるでもなく感じ取っていた。
そして数日後、メシナはクシナと共に、ミナトの火影就任決定の報を受け取ることとなる。