先生は突然その女の子を連れて圭太のアパートにやって来た。
呼び鈴を聴いた圭太がドアを開けると先生は枯れ木を思わせる
「どうしたんですか、急に」
圭太の問いに先生は「ああ」と答えるとベージュの
「ちょっとな」
圭太は
用があるなら明日学校で言えばいいのにどうしてわざわざ生徒のアパートまで訪ねて来たのだろう。
顔色を窺うと先生は口を真一文字に結んだまま老眼鏡越しに玄関の外を眺めていた。
視線の先、開け放たれたドアの傍には小さな少女が立っていた。
「何をしている。
早く入りなさい」
少し苛立ちの混じった声で先生は促す。
少女は無感興な目でしばし先生を見つめていたが、やがてゆっくりと部屋に入ってきた。
どこかの小学校の制服のようなものを着たその子は、10歳ほどに見えた。
色白ながらも血色の良い頬をした黒目がちの女の子で可憐と言ってよい顔立ちだったが、そこには表情と呼べるようなものは存在していなかった。
「君、しばらくこの子の面倒を見てくれないか」
先生は急にそんな言葉を口にした。
よく意味が飲み込めず圭太が困惑していると、
「名前は
親戚の子でね。大人しい子だから……」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ」
ようやく頭が追いついてきた圭太が相手の言葉を遮る。
「面倒を見るって預かるってことですか。
急に、なんでそんな」
「仕方ないだろう。
こっちも急に預かることになったんだから」
「預かるって、どのくらいですか。
何時間くらい」
「当面だ」
「当面って」
「当面は当面だ。
一週間かもしれんし一ヶ月かもしれん」
圭太はたまらず叫んだ。
「無理ですってそんなの」
先生は眉間に皺を作ると面倒くさそうに答えた。
「そんなことは無いだろう。
ここの広さならこの子一人くらい増えても問題無いはずだ」
先生は間違ったことは言っていなかった。
親の仕事の都合で部屋を借りて一人暮らしをしているが、もとより物を貯めこむ癖のない圭太には広すぎるくらいのアパートだった。
だが問題はそういうことでは無い。
「知らない人の子どもを預かれる訳ないじゃないですか。
なんで先生が面倒を見てあげないんですか」
「私のような独身者が小さな女の子を預かっていたら不審に思われるだろう」
「僕みたいな学生が預かってたら不審に思われないとでも言うんですか」
「いや、それは」
相手が少し怯んだのを見て圭太は続けた。
「先生が預かったなら先生が責任もって面倒見てください」
先生は顔を
「正論を言われても困る」
拗ねたようにそう呟いた。
いい歳をして困るなどと言われてもこっちが困る。
圭太は美々面の様子が気になった。
不安がっているだろうと思いきや、彼女は我関せずといった風でもの珍しそうに部屋を見回していた。
癖なのかしきりに鼻をすんすんと鳴らしている。
先生は圭太の説得が難しいと見るや矛先を変える。
美々面の肩に手を置くと、
「お前は今日からここで暮らすんだぞ」
まるで買ってきた犬にでも語りかけるようにそう言った。
美々面は返事はせず、ただ眠たげな目で先生を見つめていた。
圭太にはその態度が肯定を意味しているようには見えなかったが先生はかまわず、
「そうか、いい子にするんだぞ」
とこのときばかりは優しい声色だった。
「ちょっと勝手に……」
圭太が抗議しようとすると先生は五十も近い人間とは思えぬ機敏な動きでするりと玄関を抜け出し、
「じゃあ頼んだから」
そう言い残して足早に立ち去った。
制止する暇も無かった。
部屋には美々面と圭太だけが残された。
圭太は自分の部屋を歩き回りながらぶつける相手のいない怒りを持て余していた。
前々から強引な先生だとは思っていたが、ここまでとは思っていなかった。
それに強引なだけではなくあんまりにも無責任だ。
親戚の幼い子どもを、当人も子どもである教え子に無理やり押し付ける。
まともな教師、というよりまともな大人のやることとも思えない。
先生への不満が次々と湧き上がり頭の中で循環し続ける。
圭太はぶつぶつ言いながら水槽の魚みたいに部屋の中をいつまでも周回していた。
だがやがてそれにもうんざりしてくる。
長いため息を一つ吐くと自分に言い聞かせた。
先生がとんでもない人間であることは間違いないが、いつまでも怒っていても仕方が無い。
現実問題としてこの部屋には女の子が存在しているのだ。
美々面の方を見てみると彼女は眠たそうな目でテレビをぼーっと眺めていた。
知らない人間の家に置き去りにされたというのに自分の境遇を悲観したり絶望したりしているようには見えない。
まるで誰の家で誰と一緒に暮らそうが自分にとってはどうでもよいことだとでもいうかのようだった。
そんな美々面の様子を見ていると圭太の怒りも少し和らいできた。
不当ではあるがこの状況は事実なのだから受け入れるほかないではないか。
そんな先生にとって都合の良い考えも浮かんでくる。
圭太は受け身な自分の性格を苦々しく思ったが、意を決して美々面に話しかけた。
「美々面ちゃん、だったっけ」
美々面は返事をしなかった。
視線すら圭太に向けようとしなかった。
彼女が返した反応は、鼻をすんと鳴らしたことだけだった。
それだって本当に圭太の言葉に対するリアクションなのか怪しかった。
「えーっと……」
継ぐ言葉が見つからない。
妹もおらず身近に年下の女の子がいた経験も無い圭太にとっては、どんな風に声をかけたらよいのか見等もつかないのだった。
気まずい沈黙が続く。
ソファーは美々面が占拠している。
身の置き場の無い圭太はその場に立ち尽くすしかなかった。
そのまま5分程も経ったころだろうか、突然、何の前触れも無く美々面が立ち上がった。
そして驚く圭太の目の前にずいと進み出る。
「ど、どうしたの」
彼女はそれには答えず肩を怒らせながら、ううと唸った。
圭太が困惑していると今度は足で床を踏み鳴らし始めた。
何を考えてるのかさっぱり分からない。
「お腹空いたの?」
美々面は圭太の問いかけには答えない。
頬は紅潮し、肩は小刻みに震えていた。
「何か言ってくれないとこっちも分からないって」
美々面は顔を上げて圭太を睨みつけた。
だが次の瞬間、その表情がふっと弛緩して吐息が漏れた。
肩ががくんと落ち、糸でも切られたかのように脱力した。
急な変化を
やがてある臭気が鼻をつく。
圭太はすぐにそれがアンモニア臭であることに気付いた。
見れば大量の生温かい液体が美々面の足を伝って床を濡らし始めていた。
圭太は先ほどまでの美々面の不可解な態度の意味にようやく気付いた。
そしてパニックに陥った。
慌ててティッシュを取ってくると床に大量に敷く。
しかしそれだけではとても吸い取り切れなかったので、雑巾も持ってきてティッシュの上に何枚もかぶせた。
始めのうちは滝のように流れ落ちていた液体は間もなく勢いを弱めた。
しかし濡れた下着からすらりとした脚を伝っていつまでも液体が流れ落ちてくる。
このままでは切りがない、下着を脱がさなくてはと思った圭太、少し躊躇してから美々面のスカートの中に手を突っ込んだ。
手探りで濡れた布の感触を探し出すとその上端にゴムの手ごたえを感じたので指を掛けてそのまま引きおろす。
玄関のドアが開いたのはちょうどその時だった。
「圭太くん、学校にプリント忘れてたから届けに……」
クラス委員長の
圭太と委員長の目が合う。
委員長の表情が、学校でいつも浮かべている人の好さそうな微笑から、まるで便器にこびりついた汚物でも見るような顔つきにゆっくりと変わっていく。
圭太はその変化をつぶさに観察することができた。
彼女がどんな誤解をしているのかが手に取るように分かる。
「ち、違うんだよ委員長」
震える声で弁明する。
「ほら、君も違うって言って」
濡れた下着を握り締めたまま美々面にも促す。
しかし少女は放心したように宙を見つめるだけで何も言ってはくれなかった。
「圭太くん、どういうこと?」
委員長がか細い声で尋ねる。
どこか遠くでパトカーのサイレンが鳴っていた。
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