人間と人外の境というものは存外曖昧なものだ。霊力と妖力の関係も、それを物語っている。正反対の間柄ではあるが、あくまでこれらは裏表、神力やましてや禍気などと比べればその根源にそれほどの違いはない。正に染まるか、負に染まるか、それだけの違いだ。
それゆえ、人間は簡単に人外に変わることがある。血を吸われて吸血鬼になった、人魚の肉を食べて不老不死になった、憎しみに駆られて鬼となった。人間が何かを境に人間じゃなくなったという話は、どこにでも伝わっている。そもそも、人間は正負両方の特性を持っている。だからこそ、両者は紙一重なのだ。
だが、これには一つ落とし穴がある。一度黒に染まった白は、もう元の白には戻れないということだ。
「なんで…! こんなことに……!」
森の中を、一人の少女がばたばたと走り回っていた。年の頃は十代後半、あくまで人間換算で、ではあるが。見た目は確かに普通の人間ではあった。しかし、着ている服には違和感のみがある。時代が時代ならば、むしろ自然な紫色のワンピース。胸元に小さな赤色のリボンをつけた『現代』風の服装だ。だが、今この時代は紀元になるかならないかの大昔。彼女の服の方が不自然な時代なのだ。
それもそのはず、つい先日まで彼女がいたのは、未開の土地の広がる荒野でも原始的な人里でもなく、科学技術溢れる『現代』だった。少女はその時代で、ごくごく普通の大学生をしていたはずなのだ。そこで普通に暮らしていたはずの彼女が何故こんな時代にいるのか、それは彼女自身にすら分からなかった。いや、そもそも彼女はこの時代が大昔であることも知らない。例え未発達の人里を見たとしても、それで昨日今日文明社会にいた少女が、大昔に来ちゃった!などと思えるものか。
だが、いつの時代であろうと少女が見も知らぬ土地に飛ばされているという事実は変わらない。だからこそ彼女は言いようもない焦燥に囚われていた。
彼女が今こうして走り回っているのは、その焦燥感を現していると言えた。しかし、ただそれだけ、というわけでもなかったが。
少女は追われていた。その表現が一番正しい。
人間、人外問わず、彼女を見たものは各々の武器を振りかざし襲い掛かってきた。彼らは彼女を見てすぐに、ではなく、視界に入れ、そしてしばらくして何かに気づいたように敵意を向けてきたのだ。
お陰で彼女は追うものを振り切った今でも、何かに追われるような錯覚に怯え逃げ続けていた。
少女が走り続けて、既に太陽と月が二度空を巡っている。現代に居た頃は、それほど体力があったわけでも運動神経が良かったわけでもない。それに仮に優れたそれらを持っていたとしても、休みなく全力疾走を続けられるものではないが…。しかし彼女は実際に少なくとも2日間は走り続けていた。何かを境に、彼女の中身は確実に変化していたのだ。
だが、それでもいつかは限界が来る。それはもつれ始めた足を見ても明らかだった。雑な足運びで地面を叩き、慌しい足音が森に吸い込まれてゆく。それも少しずつ途切れ途切れになり始めていた。そして、その時は唐突に訪れる。
「あっ」
とうとう自分の足に躓き、地面に倒れこんでしまったのだ。
既に体力は限界、これまで走り続けられたことの方がむしろ奇跡だった。しかし、彼女にはもう立ち上がる気力すらない。夜も昼も足を動かし、それでも変わらない景色に絶望してしまっていた。気持ちが折れてしまったのだ。
「……ぅう、ぅぅー」
今まではそんな暇すらなかったが、ここに来てようやく涙が溢れだした。心細さと、先行きが全く見えない閉塞感に、少女の精神にも限界がきていた。
何でこんなことになったんだろう?
少女は考える。どことも知れぬこの地に来る前は、確かに自分の部屋にいたはずなのだ。しかし、何かがあって、いつの間にか見知らぬ場所に立っていた。その何かを、思い出せない。
その後途方に暮れて周囲を歩きまわっていると、原始的な村を見つけた。そしてそこに住んでいた、動物の毛皮を着て、先端に黒い尖ったものがついた槍を持った人間に追い回された。ようやく撒いたかと思えば、今度は得体の知れない化け物に追い回された。それもいなくなったと思えばまた人間に見つかって追いかけられた。
その繰り返し。
もう疲れた。
夢の中?でおかしな世界に紛れ込んだことは、以前にも幾度かあった。しかし、こんなことは初めての経験。しかも、現実感を痛烈に、ひしひしと感じる。それを考えるたびに、自分のいる場所が崩れていくような気持ちの悪い浮遊感に襲われた。
けれども、こうして目を閉じて、次に開けた時にはきっともう覚めている。そうでないといけない。だってこんなことは普通じゃない。
でもやっぱり現実だったら?
考えたくない。考えたくはないけれど。
そしたら、
「白い狐、探さないと……」
自分が元いた場所からいなくなる直前に、声が聞こえた気がしたのだ。曰く、“白い狐に会いなさい”と。こうなってしまっては、その言葉だけが頼りだった。たとえその希望が藁屑であろうと、そもそも今の自分には何もない。元の場所に戻る可能性が欲しい。
また、友達に会いたい。
「……会いたい」
頭の中に浮かんできた、黒い中折れ帽がトレードマークの親友。いつも互いに、変な目だと笑い合っていた。
いつも一緒にいることが、当たり前だと思っていた。会えなくなって、こんなに会いたいと感じるようになるなんて思わなかった。
「■■……」
あれ……名前、なんだっけ………?
今の自分からは何もかも消えてゆく。自分の名前も、自分の世界も、自分の居場所も、自分の大切な誰かとの記憶も。
――ん……か、倒れとるぞ
――む、本当じゃ。…おや? この娘、人間かね、妖怪かね
――…わしらじゃ見分けがつかんのう… 仕方ない、神和ぎ様のところへ連れて行こう
――そうじゃの。万が一の時は、ウカノミタマ様もおられるしのう
――ほれ、お主はそっちを持ってくれんかい
――わかっとるわい、そう急かすな… どっこらしょ …いかん、老骨には響くのう
夢うつつに、誰かの声を聞きながら少女の意識も闇に飲まれていった。誰かに運ばれていることにも気づかずに。
「あ…」
「目が覚めましたか」
目を、開くと、私はござのようなものに寝かされていた。
やっぱり、夢じゃなかったんだ。
ここがどこかとか、さっきの声は誰かとかよりずっと先に、私はそう思った。
私の下にあるござは、藁で編んだような、とても粗末な造りをしている。それは布団と呼ぶにはあまりに薄っぺらい。そして、そのござの側には、つまり私の側には一人の女性が座っていた。
上は白く、下は赤い布を身につけており、それらもとても薄く下着すらつけているようには見えない。昔の、それこそ弥生時代あたりに生きていた人々がつけていたような服装である。そう、先日まで私を追い掛け回していた人たちのような。
「ひっ」
それに思いいたると同時に、ひきつれた叫びが喉の奥からまろび出る。何時間も追い掛け回された恐怖が、一瞬フラッシュバックした。
また、石を投げられ、槍で突かれるのだろうか。
私は思わず起き上がった姿勢のままずるずると後ずさり、身体の上にかけられていたむしろのようなものを握り締めた。
赤白の、とにかく古めかしい服装の女性は不思議そうな顔をしながら、私へと右手を伸ばした。後になって思えば、その手は私を心配してこそのものだったのだろう。しかしこの時の私にはその手があまりにも恐ろしく見えて、握り締めていたむしろを頭から被って身体を隠してしまった。そして、自分の意思を無視してがたがたと震える体を押さえつけるように抱きしめる。
「こ、来ないで!」
絞り出すように、それだけ言う。抵抗とすら言えない、稚拙な行動ではあった。しかし、その時の私にはそれが精一杯だったのもまた事実。粗い目の、目を近づければ向こう側が見えそうな粗末なむしろも、この時だけは私を護る立派な防壁だった。
と、そうしてふるふると震えていると、むしろの向こう側から穏やかな声が届いた。
「何があったかは存じませんが…大丈夫ですよ、ここは安全です」
その声に、私は震えた声音で小さく返した。
「……ホントに?」
「はい。ここはウカノミタマ様が守護される地、助けを求める者を拒みはしません」
私は頭まで被っていたむしろを少し下げ顔の上だけを出して、側で静かに正座をしている女性を見た。先ほど差し出した手はもう膝の上に収められていたが、彼女は優しげに笑っている。それを見て私は思った。この人は私が初めて起きた時から、こうして私を安心させるように笑っていなかっただろうか。私がそれに気づかなかっただけで。
「いじめない?」
「何もしませんよ。そもそも、何かするつもりならあなたは今こうしていることは出来ないのではありませんか」
それもそうだ。
女性にそう言われ、私の頭の中は少しずつ冷めていった。しかしそれと反対に少しずつ顔が熱くなってゆく。私はがっしりとつかんでいた粗いむしろをそろそろと放した。しわのついて形の歪んだむしろを見ていると、余計に恥ずかしくなってくる。自分がずいぶんと幼稚なことをしていたような気がしてきた。
「ぇ、えと……そうだ、ここは……?」
話をそらそうと、私は慌てて口を開いた。が、話題づくりの咄嗟の一言は、存外今の私にうってつけのものだった。なにせ今の私には分からないことの方が多い。ここがどこなのかとか、目の前にいる人が誰なのかとか、そもそも私は森にいたはずなのに、何がどうなってここにいるのかとか。
私は顔を上げて首を巡らせ、周囲に視線を向けた。とは言っても、私のいる場所はとても狭い場所だった。天井まで大体2mほど。思いっきりジャンプすれば頭を打ちつけてしまいそうだ。そして部屋の広さは畳にして2~3畳程度。私を寝かしていたござと女性でほとんど満杯だ。部屋の造りもとても粗く、木だけで出来ている。
言っては悪いが、何もかもが粗末だ。もしかしてこの女性の家は貧乏なのだろうか…。
「ここは私達神和ぎの住んでいる家ですよ。私以外に二人いますけど、今は出払っていますね」
「かむなぎ……?」
なんだろう。どこかで聞いたような言葉だけど、思い出せない。
「この地の守り神様、ウカノミタマ様に仕える者のことですよ。…ふふ、実際は、この地の守護が私達の仕事なのですけどね。あの方は自分で動かれる事がお好きのようですから、私達がお側にいる必要はあまりないんです…」
「守り、神? 神様がいるの?」
どうやら神職らしい女性は、神様がいるのだと言っている。しかも単なる信仰上の概念的なものではなく、実際にいて人のように動いていると。それに確かウカノミタマは日本神話に出てきた神様だったはず。詳しいことはまったく覚えていないが、それでも守り神?あるいは土地神をしていたような神ではなかったはず。
…きっと現人神というやつだ。この地では、一人の人間を神話上の神になぞらえてそう呼んでいるのだろう。地方の村ではよくある話だ。
「はい。私達の先祖がこの地に訪れる前から、ずっとこの地を守護されておられたのです」
「え゛。ずっと、って?」
「少なくとも、千年は経っているのでしょうね。私も詳しくは存じておりません」
「千年! えっと、その、ウカノミタマ様って、人間なんじゃないの?」
「いいえ、違います。あの方は人間ではありませんよ」
私は、いったい今どこにいるんだろう? そろそろ現実を見るべきだ。
そもそも、“人間じゃないもの”はこうしてここに来るまでに何度も見てきたじゃないか? 幾度となく襲われたじゃないか。今更人間じゃないものがいるからと驚くことはない。…今の私に重要なことは何? 孤立無援で、何も分からない今の私。ならば必要なものは、情報と、そして味方だ。
この女性が、私の敵でないことはもう言うまでもない。いや、そう信じたい。この笑顔が嘘だとは思いたくない。
きっと、こうして助けられた私は運が良かったのだ。助けられなければ、きっと私は私を追いかけていた者達に殺されていたのだろう。
…ウカノミタマという神様についてもう少し知りたい。女性の言葉から察するように、ここを支配しているのはウカノミタマなのだろう。ならば彼、もしくは彼女のことを詳しく知るべきだ。
「その、ウカノミタマ様について、もっと教えてくれないかしら…?」
「構いませんよ。どんなことを知りたいのですか?」
「えっと、人間じゃない、って言ってたけど、それじゃウカノミタマ様っていったい何なの?」
あ…、と言い終わってから気づいた。今の、そして今までの私の言い方って、まずくないだろうか? 私達の神様に無礼なり!と、殺されやしないだろうか。
しかし女性は私の無作法な言葉を気にした風もなく、口を開いた。
「私は本当の姿を見たことはありませんが、あの方がおっしゃるには、狐、だそうです。けれど、あの方はいつも尻尾を何本も出してらっしゃいますからね。間違いないでしょう」
「狐……?」
少し、ひっかかった。
人を化かし騙くらかすとか、悪戯好きだとか、白面金毛九尾の狐だとか、近代では悪者として描かれることの多い狐だが、狐というだけで悪者だと捉えることには異を唱えたい。さもなくば、日本のあちこちに稲荷神社があるわけがないではないか。
狐も、人間と同じだ。悪もあれば、善もある。
…私がひっかかったのはそれだ。
善狐の代表格とされているのは、白狐。昔から神の使いとされ、そして現代ではほとんどの稲荷神社で白狐が祀られている。
ここのウカノミタマという神様も、きっと、間違いなく白狐だろう。希望的観測を含んではいるが、私にはおかしな確信があった。
「ウカノミタマ様は、……どんな姿をしているの?」
私は少し胸を高鳴らせながら、恐る恐る女性に聞いた。もしも、もしもそうならば、私は帰れるかもしれない。私の居場所に、戻れるのかもしれない。
「とても美しい方ですよ。あの方は普段は人間の姿をしていらっしゃいますから。それでも、尻尾と耳はそのままなんですけどね。それから、服も髪も肌も耳も尻尾も、真っ白い色をしておられますよ」
あぁ、きっと今の私は泣いている。泣きながら笑っている。だってこんなに嬉しいのだ。だから、目の前にいる女性の驚いた顔も歪んでしまって見えやしない。
…ようやく、希望がつながった。
「会わせて、ください。あなた達の、神様に」