東方空狐道   作:くろたま

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境界少女

 

 

「まずは座ってくれ。立ったままいられると首が痛い」

 

白狐の少女は部屋の外にいたタクリを帰らせると、大きな木のテーブルの側に座布団を置きながらそう言った。彼女自身が動いて座布団を敷いたわけではなく、彼女が小さく手を振るとそれにあわせて座布団が現れる。そんな不思議をさりげなく行っていた。

そして対面にも座布団を敷くと、大きな瓢箪を持って立ち上がりそこに座る。そして促すように私の方を見た。

私は慌てて私のために敷かれた座布団に腰を下ろした。彼女の言葉から分かるように、私と同じ視点で話を聞いてくれるということだろう。どうやらタクリの言うように、言葉遣いとは裏腹に誠実な神様のようだ。外見にまったくそぐわない語り口は少し驚いたが。

 

「はじめまして。俺は“倉稲 白式(うかの はくしき)”という」

 

どこまでも礼儀正しく、彼女はまずそう口にした。その姿には皮肉も傲慢もなく、私を下とも上とも見ていないことが分かる。…よくない言い方をすれば、彼女は透明で、とても測りにくい。やりにくい相手といってもいい。無表情で私を見つめるその顔が、その見解に拍車をかける。

 

「倉稲…白式? ウカノミタマではないのですか?」

 

思えば、なんだかんだで私は緊張していたのだろう。この時代に来てまともに会話したのは、タクリが初めてだった。そのタクリがいなくなり、この神様と二人きりになってしまっていたのでなおさらだ。

さもなくばこんな失礼なことは言わなかった。

 

少女は、タクリはウカノ様と呼んでいたか、は案の定眉をひそめながら言葉を返す。

 

「…“白式”は先刻考えた俺の名前だ。“倉稲御魂”は俺の神としての名称さ。どちらも俺を表していることに変わりはない。だがそんなことはどうでもいい。自己紹介に疑問で返すとはどういう了見だ?」

 

平淡な声ながら、その言葉尻は詰問調だ。怒ってはいないらしいが、叱られているような気がした。それに気がつき、私は慌てて頭を下げる。ただ、彼女同様に自己紹介することはできなかったが。

 

「ご、ごめんなさい! …でも、私は、私の名前を覚えていなくて…」

 

「『無い』、ではなく『覚えていない』、か? つまり記憶喪失ってことか」

 

「は、はい」

 

ふーん、と頷くウカノ様に追随して頷く。そのままウカノ様は押し黙り、何かを考えるように首をかしげた。そんな彼女を前にして私も不用意に口を開くわけにもいかず、結局口を閉ざして結果的に対面のウカノ様を観察することになった。

 

こうして改めて見ると、ウカノ様の体躯はやはり小さい。私より頭一つ分、あるいは二つ分低いだろう。背に見える自分の尻尾にすら埋もれてしまいそうだ。

 

それでいて、純粋な存在としてはとても大きかった。それが何か、自分には分からないが、しかし確かに大きい力を彼女から感じている。生まれてこのかた、こんなことは初めてだ。こんなオカルトは体感するのは、私の能力ぐらいのものだと思っていた。

 

『結界の境目を見る程度の能力』。

有体に言えば、他の人には見えないものが私には見えるというだけのこと。結界の境目とは、広義的に言えば境界のようなものだと思う。世界と世界を隔てる境界、壁。それが結界。

ここでの世界は、世界などと一口に言っても、それは“世界一”だとか“異世界”だとかそういう表現で示されるものだけでなく、もっと小さい意味での世界も含んでいる。

 

壁で四方を囲んで完全に密室となった空間、そんなものでも一つの世界だ。物理的な単純なものだとしても、そこには確かに界を隔てる境界が存在している。

そも、人自体が個々人の世界を持っていると思う。それぞれが周囲を独自の価値観で観察し、同じものなど一つとしてない世界を形成している。心の壁、なんて言い得て妙じゃないか。仮に物理的な距離が0だとしても、この壁で隔たれるだけで精神的な距離は果てしないものにまでなるのだ。

 

…ところで、よく見ていると彼女の周囲にも壁があるのが見える。うまくは言えないが、何かが彼女と外界を遮断していた。それはとても強固なもので、たとえ現代兵器を全て集めてぶつけても彼女に傷一つつけられそうにないほど。もしかして、あれがタクリの言っていた“術”による結界だろうか。科学に喧嘩を売っているようにしか見えない。

あれ? 私の能力でそんなことまで分かったっけ。やっぱりこの時代に来てからの私は色々おかしい。

 

と、ふわふわの白い耳がピクリと動いた。ふと気づくと、彼女が私を見ている。正確には私の服を、であるが。

 

「……(むらさき)(仮)でいいだろう。紫色の服を着ているしな」

 

あれだけ考えて、それですかと。

 

「そ、それは…さすがに……」

 

さすがに承服しがたい。まるで、性は“ブラウン”なのに日本に来ると『茶色さん』と呼ばれているような。

 

「せめて(ゆかり)にしてください」

 

「まぁ、呼べればなんでもいいんだけどな。……それじゃ紫、本題だ。わざわざこんなところに来て、俺に何の用だ?」

 

そうだった。私はウカノ様にお願いに来たんだ。

一瞬忘れていたそれを思い出す。彼女の態度に毒気を抜かれ、他のことは頭から飛んでしまっていた。

 

「あの…なんて言ったらいいか分からないんですけど、私を元の時代に戻すことは出来ませんか?」

 

「…? 言っている意味がよく分からん。記憶喪失だとか言ってなかったか?」

 

軽く首をかしげる彼女の頭の上では、?がたくさん浮かんでいる様に見えた。確かに今の言い方では分からなくても仕方がない。とりあえずまずは私のことから話せばいいだろうか。

 

「記憶喪失なのは、一部だけです。…私は、今よりずっと先の時代から、未来から来たんです。

 

京都の大学で、普通の大学生をしてました。生まれは京都じゃないですけど。専攻分野は相対性精神学といって」

 

話さなければ。それが先行していた私は、真実ではあったが聞く側からすれば支離滅裂な言葉を繰り返していた。確かに聞く側に十分な知識があれば理解出来たのかもしれない。しかし何かを説明する時、話し手は聞き手のことを考えなければならない。ただ自分の頭の中を口にするだけではいけないのだ。そしてよくよく考えれば、この時代の神様が京都だの大学だの、ましてや相対性精神学だの話したところで分かるわけがない。けれど私は、少しずつ霧がかかるように薄れてゆく記憶に焦りを覚えていた。いつか全ての記憶が消えてしまい、私が私でなくなってしまうんじゃないか。そんな思いに囚われていた。

 

それでも、白い少女は私を見つめながら黙って耳を傾けてくれていた。その金色の瞳は全てを見透かすかのように深く、私の中の焦燥感も見抜いていたのかも知れない。そこに感情の色はなく、だからこそ全てを受け入れてくれそうな気がした。

 

やがて、私の話が尽きると同時に彼女がようやく口を開く。

 

「――つまり、何故かは分からないが、時間遡行してしまった。自分は西暦20XX年の住人だから、その時代に帰りたい。けれど帰り方が全く分からないので、どうか手を貸して欲しい、とこういうことだな」

 

「そ、そうです」

 

理解力の高さに舌を巻きながら私が頷くと、彼女は少しだけだが初めて表情を変えた。とても形容し難い顔、何かの感情が浮き出たわけではなく、難しい顔をしている。信じていない、わけではないと思う。彼女の顔には疑念も呆れも全く無かったのだ。しかしそれでも不安になる。やはり、帰ることは出来ないのだろうか?

 

「あの、どうかしたんですか?」

 

「いや、俺も大概永く生きてきたけどな。これほど驚いたのは久方ぶりだ」

 

「『驚いた』? …私の話、信じてくれるんですか?」

 

「俺が、俺の百分の一も生きてなさそうな娘の嘘も見抜けないとでも思ったか? 逆も然り、語り口の真実と嘘ぐらい聞いていれば見極めなど容易い。

紫、その上で聞きたいんだが。お前、元の西暦20XX年に戻ってどうするんだ?」

 

その時、私は彼女が何を言っているのか分からなかった。どうするかなんて、問われるまでもないと思うけど。…けど、言葉に出来ない不安が、足先からじわじわと広がってきていた。いったい、元の時代に帰ることに何の障害があるのか。

 

「もちろん、普通の暮らしに、戻ります」

 

「…無理に決まってるだろう。現実につぶされるぞ。

あぁ、まさかと思ったが、気づいてないのか。というより、自分の中の変化から目をそらしているのか?」

 

聞きたくない。

 

けど、聞かなきゃいけない。

 

本当は分かっていた。

人間に追いかけられた私。夜通し走り続けられた私。おかしな力を感じられるようになった私。月の出る夜に、身体が高ぶった私。

タクリにも、紅花という少女にも、“人間”とは一度も言われなかった私。

種はどこにでもあった。

 

本当に、この時代に来てからどうすればいいか分からないことばかり。

 

「紫。お前、もう人間じゃないだろ」

 

ままならない。

 

 

 

 

「……人間、に、戻れないんですか」

 

「無理だ。一度黒に染まった白は、元の白には戻れない。…まぁ、人間は白というよりは灰色だがな。どちらにしろ、人外になった身体、ひいては魂を人間に戻すことは俺の知る限り不可能だ」

 

俺はどうだったかな?

 

そこまで言って、まるで迷子の子供のような顔になった紫を見ながら、俺は思った。

時代を遡り、そして人間でなくなった元人間、紫。こちらに来た過程も来た時代もまるで違うが、境遇は本当に俺とそっくりだ。紫から感じられた妖力と、そして霊力の残り香。最初は相反するものに疑問も感じたが、紫の話を聞いて大体合点がいった。

 

俺が転生した時はわりと胸躍らせていたような気がする。そして実際、今までの俺の狐生は楽しかった。まぁそれも転生前の俺が人生を体験していたからこそなのだろうけど。紫は、俺と違って戸惑っただろう。前触れ無くこちらに飛ばされたらしい。

だが俺は紫を帰してやることは出来ない。封印術で紫を凍結して元の時代に解凍、なんてことは出来るだろうが、そんなことをしてもおよそ無意味だ。既に人間じゃない、幻想になってしまった紫では、肥大化した20XX年の┃科学《現実》に押しつぶされてしまうだろう。ましてや、紫はまだ生まれたばかりの幻想と言っていい。力を持っていないうちは、この選択肢は危険すぎる。

 

…だが、このまま放り出すのも気が引ける。俺の中には確かに同族意識があった。狐以外…人間、妖怪、神に対してすらそれを感じない俺にしては珍しい。

 

「これからどうするんだ」

 

「…………………」

 

ぽかーーん。

紫は、そんな擬音がとてもよく似合う顔をしている。しかし間抜け面といえるほど呑気なものでもなく、どこか悲壮感が見えた。開いた眼球は乾燥しているのか、少し潤んでいるようだ。

 

「おい。聞いているのか、紫」

 

そのままにしているわけにもいかず、平淡ながら気持ち語調を強めながら俺は言葉を重ねた。

すると、虚空を見ていた紫の顔がきりきりとこちらを向き、そして潤んでいた瞳からぽろっと涙がこぼれた。それを皮切りに、堰を切ったように雫がぼろぼろと顎を伝い、服に垂れてゆく。

 

「……ぇぅーーーーー」

 

「泣くなよ…」

 

「だって、だっでぇぇ、ひっく」

 

泣かれるとどうしていいか分からない。泣くのは子供の専売特許かと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。紅花の時から永い時が経ったが、今でも目の前で泣かれるのは落ち着かないのだ。

というか何で泣いてるんだろう。

 

「わたし…戻れな、いぃ、えぐっ」

 

ああもう。俺にどうしろってんだ。

泣いてる紫を見てると、本当に紅花を思い出すなぁ。昔のあいつはよく泣いて、俺を困らせたものだ。子供っぽさは今でも抜けていないが、それでも昔に比べればずいぶん成長した。親としてはとても感慨深い。

 

「うくっ、ぃっく、ひぐっ」

 

現実逃避してる場合じゃなかった。

人間でなくなったことがショックなのか、元の生活に戻れないことが響いたのか、むしろ全部が原因のような気もするが、どうにしろいくら泣いたところで戻ることは不可能だ。現実はかくも厳しい。ならば別の道を見つけてもらわなければいけない。俺の推測が正しければ、紫がこのまま何らかの形で妖怪として生き続けることは確定事項だ。さもなければこの紫はここにいない。

 

「なぁ紫、泣いたところで、現状は何も変わらないぞ」

 

「ひっく、泣かなくたって、えぐっ、何も変わらないわっ」

 

こちらが地なのか、敬語がなくなっている。それほど紫も取り乱しているということなのだろう。言っていることもなんだかおかしいし。

 

「まぁいいや。泣け泣け、存分に泣くがいいさ。時間なんぞいくらでもある。これからのことを考えるのも、涸れてからでもいいだろう」

 

時間はいくらでもある。既に俺の常套句のようなものだが、人外になった紫にもそれはあてはまる。おそらく紀元が近いこの時代、少なくとも紫が来た時代までは二千年ほどある。人間だった頃の寿命を考えると破格の時間だ。それだけあれば、大抵のことは為せる力もつく。紫がどうしたいかは知らないが、幻想としてこのまま儚くも消えていく気はないだろう。多分。

 

「……これからの、こと?」

 

「ああ。いっそ死にたい~ってんなら今すぐ俺が殺してやるけどな。そういうつもりはないんだろ。なら必然的に考えることになると思うが」

 

「………」

 

紫は服の袖で涙を拭うと、黙りこくった。しん、とこの時だけ辺りが静まり返る。開放している表から鳥の鳴き声が聞こえてくるほど、他には何の音も無い。

俺は紫が顔を上げるまでぼんやりと外を眺めていた。

 

「私は、何をすればいいか、分かりません」

 

落ち着いた紫の最初の言葉は迷いだった。何をしたいかが定まらなければ、すればいいことも分からないのは道理だ。しかし少なくとも今の紫は前に進もうとしている。俺はそれに一石を投じることにした。

 

「紫は、能力持ちだろう。自分で気付いているか?」

 

紫から読み取った情報は、俺の中でいくつもの解を導き出している。元が人間であった痕跡や実年齢、現在の力の総量や身体情報等など。その中には強力無比な能力の情報もあった。俺の能力も最近特に万能すぎると思っていたが、紫のそれも冗談にならないほどに反則じみている。

 

「『結界の境目を見る程度の能力』、のことですか?」

 

「いや? そんなちゃっちぃものじゃ断じてない。元々はその能力だったみたいだが、今の能力はそれとは比べ物にならないぞ」

 

「…え?」

 

案の定自分の能力の変化にも気付いていなかったのか、紫は訝しげな顔をした。いや、おそらくは兆候はあったはずなのだ。さもなければ突然こんな強力なものに進化するわけがない。

そして、人間から妖怪になってしまったのもこの能力が原因だろう。

 

「『境界を操る程度の能力』。それが、今の紫の能力だ」

 

いじってしまったのだ。人間と妖怪の境界を。この能力を持ってすれば、人間を妖怪にする事などゆらゆらと揺れている天秤を片方に傾けるほど容易なことだろう。しかし一度傾けてしまったものを、また元の均衡状態に戻すことは難しい。

 

だが、不可能ではない。既に妖怪の色に染まってしまった魂を完全に塗り替えることは出来ないが、一時的に人間に戻ることは可能だ。紫自身の能力を使い、今一度妖怪と人間の境界をいじることができれば。

 

 


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