俺にとって、酒とは何だろうか? そう聞かれれば、俺は迷わず『生の彩』と答えるだろう。事実、長い時間酒を呑まなかった俺の口内にはすっかり唾が溜まってしまっていた。不便な肉球のついた手足しかなかった狐時代のことを思うと、今更ながらに鬱になる。少なくとも俺の瓢箪に住む酒精の造る酒の味を知ってからは、つくづくこの味を手放したくないと思う。そう、昔々に呑んだイザナギの酒に劣らないこれをだ。
「それでそれで? それからどうしたの!?」
万感の想いで瓢箪を傾ける俺の向かいで、紅花が木のテーブルに手をつき、身を乗り出しながらそう言った。その顔は、俺の土産話の続きが待ちきれないように、きらきらと輝いている。
その紅花から少し離れた位置に紫が静かに座っていて、表情こそあまり動いてはいなかったが、とても興味深そうにしていることはすぐに分かった。
紅花と紫の間は身二つ半ほど、微妙な距離感こそ変わらないが、しかし当初と比べるとその距離は大分近づいている。表面こそ紫に威嚇することはあるが、それでも心の内では少なからず紫を認め始めているのだろう。紫の持っている能力は確かに強力だが、紫自身はとても高潔な人柄だ。時間さえかければ、相互理解も深まろう。俺としては、二人が屈託ない関係になってくれることを願うばかりである。
「んくっ……ぷはー。そう、このまま俺、あわや頭を潰されるか!? といったところだったが、そこで俺を救ったのが、びゅいーんと遠方から飛来した巨大な矢だったのさ。その長さはなんと俺の腕五~六本分といったところでさ、そんなものが勢いよく当たったものだから、蜘蛛はたまらず俺をはなして景気よく吹っ飛んでいたよ」
瓢箪から口を離しながら、大体真実、しかし少し脚色しながら、俺は今回の体験談を語った。ひょうきんに話しながらも、相変わらず表情筋の動かない俺とは対照的に、紅花は楽しそうに笑い手を打つ。
「すごいすごい! 人間の使う弓とかだったら、そんなおっきなの射てないの! ねぇねぇお母さん、それ誰がやったの?」
そもそも弓矢自体がそれほど古い物ではないこの時代、複雑な機構を利用し矢を半自動的に発射するという発想自体が浮かばない。誰かが自力で矢を射っただろうと考えている紅花に兎――てゐがやったと教えると、とても驚いた顔をして、また楽しそうにぱちぱちと手を叩いた。
そして紫はと言えば、紅花と同じように驚いた顔をすると、指をあごにあてがい小さく呟いた。
「いったい、どうやったのかしら? 兎の妖獣って体格もそれほどないし、力だって大きくないはずなのに」
「からくりだ。台座に矢をつがえれば、あとは勝手に射ってくれる機構のものだった。俺が見た時は、もう半分ばかり壊れてたがな」
「
「いい加減、人間の常識で考えてるなよ。それに作ったのは河童の連中らしい。とんだ欠陥品だったが…それもこれからどうにでもなるだろ。あいつらは人間同様に好奇心旺盛で、人間以上におかしな気質だからな、どういう方向に進むかは分からんが」
そう言いながら、俺はまた瓢箪を傾けて中の酒を喉に流し込んだ。この地で留守番していた“俺”は毎日呑んでいたが、出かけていた“俺”にとっては久々の酒だ。人間でなくなっても、食の必要がなくなっても、美味しいものに対する欲求は変わらない。いや、むしろ生理的な欲求を失ったことで、逆に娯楽要素たる欲求が増しているかも知れない。
久々に呑む酒は味わい深く、そして堪えていた唾とともに体内に流していく快感は何ものにも変えがたい。ある意味、俺は酒を人一倍酒を楽しんでいるといえるだろう。片方の“俺”が常駐し酒をかっ喰らい、しばらく我慢していたもう片方の“俺”が久方ぶりの酒に舌鼓を打つ。一口で二度美味しい、というやつだろうか。
ちゃぽちゃぽと瓢箪を振り、幾度目かの酒を煽っていると、紅花が「ねえお母さん」と言って俺の話の先を促した。
「それから、その矢が飛んできた後は、どうなったの?」
「んー、その後か。なんのこたぁない、式玉の結界使ってやっつけたよ。式符が駄目なら、式玉でってな。あーいう時のために作った式玉だったしな。ま、使い捨てすることになるとは思わなかったけど」
「式玉って、自律式神…“朱色”の核ですわね。使い捨てなんて、少しもったいないわ」
「式玉ってのは元々術を速攻、低燃費で使えるようにするために作ったものだったんだがな。式神としての機能は、むしろ後から付け足したもんだ。使い捨てったって、封入してる高密度の術式を一気に解放したほうが出力も高いんだよ。式玉自体は俺の能力で量産出来るし」
「それにしても、“因幡の素兎”なんて。神話のお話を実話で聞けるなんて思わなかったわ。それ以上に、その兎が
「あぁ、それか。何でも能力を使ったらしいが……」
「『人間を幸運にする程度の能力』? あれが一撃で当たったのは、その能力の産物か」
「そ。人間、なんて銘打ってるけど、その実人外が対象でも問題ないんだけどね」
蜘蛛を倒した後の竹林で、荒れに荒れた光景に少し顔をしかめながら兎の少女は自身の能力を語った。あくまで幸運にする程度であり、起こる結果に対してはそれほど認知していないらしい。
「あんたの場合、たまたまあたしの矢が当たったわけだけど、あるいは強風が吹いてたかも知れないし、はたまた隕石が降って来て当たった、なんてこともあったかも知れないわね」
分ける幸運の度合いで調整も出来るけど。そう小さく付け足した。
その能力に対する俺の印象は、精度こそ低いがその実かなり問答無用、というところだった。どれほどの幸運をつかせられるのかは知らないが、起きる現象が曖昧でありながら、その方向性はプラスに一貫している、というより確定している。
そして、その幸運はいったいどこからやってきているのだろうか。今回の場合、俺が“幸運”になる代わりに、兎の能力を上回っているはずの蜘蛛の方が“不運”となり、割りをくっていた。力の小さい兎の能力の影響にも関わらず、だ。
「存外、強力だな」
「そう? 今回のはそれほど強運でもなかったけど」
そう事もなげに言う兎に、俺はなんとなく納得していた。直接的な力こそ小さいが、古くから生きていることも、 “因幡の素兎”という名も伊達ではないということか、と。
「そういやあんた、腹大丈夫? なんとまぁ、鮮やかな赤色に染まってるわね。うん、夕日なんてメじゃないわ」
と、彼女は俺のべっとりと塗れた腹部を指差しながらそう言った。最初から気づいていただろうに、今更言うということは大して心配していないということだろうか。実際、大半の修復は済んでいるが、
「『夕日』なんて言ってるところに、地味に悪意を感じる。なんだ、さっさと沈んで死んじまえとでも言うつもりか」
「別にー。あたしはあんたが気に入らないだけ。どうせそれぐらい、あんたらには致命傷でもなんでもないんでしょう。あんたの鉄面皮見れば、大して堪えてないことぐらい分かるわ。あー、あほらし、今ここで海水練りこんでやりたい気分だわ」
少し据わった目で俺を見ながらそう言う因幡の兎。声音は冗談じみていながらなぜか本気の色も垣間見える。俺はその視線から目を逸らしながら、肩をすくめた。因幡の素兎は、神を恨んではいないものの、少なくともよくは思ってはいないらしい。いや、それぐらい当然か。俺を神連中の同類だと思っているようだが…。彼女の神話とは関係ない神ではあるが、ウカノミタマ本人だと言えばどんな反応をするだろう。いや、そもそも“ウカノミタマ”って知名度あるんだろうか。謎だ。
「それで、俺はまだ君の名前知らないんだけど。いつまでも『君、君』呼ぶのはキミが悪い」
それが少し気になった俺は、赤く染まった腹の辺りを撫でながら彼女の名前を聞いた。順当に話を持って行けば、自己紹介の流れになるだろうと。
「何それ洒落のつもり? 果てしなくつまらない。……ま、いいわ。あたしは“てゐ”。頭に因幡国くっつけて、人呼んで“因幡のてゐ”よ。で、あたしのことは話したんだから、あんたも言ってよね」
「俺は“倉稲白式”。住んでるのは、ここから東へ行った方の土地だったりする」
案の定流れで俺も名前を言うことになり、用意していた口上を口にすると、兎――てゐは眉根を寄せて少し考え込むような顔をしてからこう言った。
「ふーん…
「何だ、“ウカノミタマ”のことは知ってるのか」
てゐの言葉に俺は心中で頷いた。てゐも知っているということは、どうやら俺の名もそこそこ知られているらしい。
思えば、神奈子も俺のことを知っていた。すると、てゐの情報ソースだろう大国主が俺のことを知っていても不思議ではない。そしてその大元も、全部ではないかもしれないが多分アマテラス。何を言ったかは知らないが、もう大抵の神に“ウカノミタマ”のことは広がっているのではないだろうか。
“否”とは言わない俺に、少し興味を引かれたのかてゐも言葉を続ける。
「否定しないってことは、当たりなの? そいつのことはオオナムヂ様に聞いたことがあるのよね。確か、穀物やら食べ物やらの神で、姿は尻尾のない狐の娘だって。……あんたの特徴と合致するわね。そういえば、自分と似た姿の狐をたくさん使役してるって話も聞いたけど、あんたもその一人なわけ?」
てゐの言う、使役している狐とやらはおそらく式神、“朱色”や“白色”のことだろう。あるいは色違いの紅花か。
それと尻尾は『ない』、というより、『見えない』じゃなかろうか。どうやら“ウカノミタマ”の情報は、アマテラスからだけではなく、色々なところから混ざって錯綜しているらしい。そうでなければ、『尻尾がない』という表現がされることはあるまい。大方、どこぞの人間が尻尾を霊体化させていた俺を見たのだろう。神連中が霊体化している程度の尻尾を見通せないとは思えない。
「んー、そういえば」
「何だ。俺の顔になんかついてんのか」
と、俺の顔や体をじろじろ見ながらてゐがこんな事を言った。
「会った時は口説きたい、みたいなことも言ってたわよ、オオナムヂ様」
「えー…」
そんなことを言われたのは初めてだ。そう思うとともに、何か苦いものが俺の中に広がった。
「何でも“ウカノミタマ”は見目麗しいって話だったから、食指を動かされたんだと思うわー。ホントにあの人は封印されてもお盛んだわ。心配したのに損した。でも、そいつがあんたと似た顔してるってんなら噂もあながち嘘じゃないみたいね」
てゐの言うオオナムヂは、確か大国主と同一だったか。そういえば女たらしが過ぎて封印されたという話を少し前に聞いた覚えがある。そこの事情に他の神の嫉妬があったのか、あるいは本人が本当に奔放過ぎたのかは知らんが、女好きという噂は真実のようだ。まさか俺が標的になるとは思わなかったが。
「そういや、封印されてても元気にやってるって噂を聞いたが、話しが出来る状況なのか?」
そう聞くと、てゐはなんでもないように肩をすくめて俺の問いに答えた。
「それがねー、注連縄みたいなのでどこぞの亜空間に閉じ込められてるみたいなんだけど、今はそこから出られないってだけで力を封じられてるわけじゃないらしいの。そこの門越しに話も出来たんだけど、あたしが心配して会いに行ったってのにあの人なんて言ったと思う? 『わりと快適だから別にいい。毎日酒池肉林の限りじゃ』だってさー! あの人なんで封印されたか分かってるのかしら。あたしもあんまり腹が立ったものだからそこ飛び出してね、そのまま近くにあったこの竹林に住んでるってわけ」
てゐは言いながら、苛立たしそうにがーっと頭をかきむしった。
閉じ込められているのにどうやって酒池肉林なのか、など疑問にも思うが、腐っても“神”にそれを聞くのも野暮なものだろう。
と、そこでてゐが顔を上げるとこちらにまた目を向けて、ばつが悪そうに言った。
「あんた、“ウカノミタマ”にこのこと言うのは止めてよね。なんか身内の恥みたいで恥ずかしいからさ。いや別にあたしはオオナムヂ様と親密な関係と言うわけじゃないわよ」
「いや、俺がその“ウカノミタマ”なんだけど」
まくし立てるてゐを前に、言うか言わぬか悩んだのは一瞬。俺はてゐの誤解を解く答えを口にしていた。先ほど“ウカノミタマ”のことをそれほど嫌な顔もせずに話していたことから、いきなり敵意を向けられることもないだろう。俺がそう考えて瞬きをしているてゐを見ていると、
「……(ふん)」
何故か鼻で笑われた。
「そんな小奇麗な容姿の、それもご大層な名前の偉そうな神が、あんたみたいに粗暴な口調してるわけないじゃん。本物なら馬鹿みたいに丁寧な話し方してるわね、きっと」
なんら疑問を挟まないてゐの口ぶりに、俺はなんとなく頷いていた。あぁ、そういうイメージなのかと。
そういえば、信仰にしたがって地上に顕現してたアマテラスも、天上の本体とは違う雰囲気だったっけ。それに俺の分霊にも、そういう奴がいたような。もしかしてこの認識のままいけば、誰でもない架空の存在に“
ま、いいや。
いちいち自分の醜聞に気を遣うのも面倒くさい。なるようになるだろう。それに、口伝とは得てして中途で歪められるものだ。世代を越えた伝言ゲームみたいなものなのだから、意識するしないに関わらずそれは仕方がない。俺の話がどう伝わるかも、今更路線を修正しても遅いか早いかの違いだけだ。それなら放っておいてどう変わるか観察するのもまた一興か。
「少しくらい信じてみようという気にはならんかね」
「はぁ? 誰に言ってんのさ、誰に。神の言を信じて苦節幾年、そのあたしがそう簡単に他人の言葉を信用するはずないじゃん。信じて欲しいなら、まずはあたしを信用しろって話よ」
「信じるも何も、まだ俺は疑ってないじゃないか。てゐの話もちゃんと鵜呑みにしてるぞ」
「威張るところじゃないわよ、それ。ふん、いいわ、ならあたしも心置きなくあんたを騙してやるから」
「それぐらい想定済みだ」
「ほら信用してないじゃない」
いたちごっこだしな。
「そろそろ帰るわ。酒精中毒の俺にはこれ以上の我慢は厳しい。さっさと帰って、愛しの酒瓢箪に抱き付きたい」
それからしばらく言葉のドッヂボールに花を咲かせていたが、いい加減帰ろうかと俺は話を切り上げた。
「あっそう。そもそもなんでこんな長居してたのよ。用が済んでたんならさっさと帰ってればよかったものを」
「えー、てゐが引き留めてたんじゃないか」
「なによ、あたしのせいにするわけ? あたしはただあんたが物を聞くから、それに懇切丁寧に答えてただけじゃん。それをあんたときたら」
「おいおい、てゐの方だって俺に話を聞いてたじゃないか。俺だけのせいにするのも如何なものかと思うぞ。それに、わざわざ協力して
「あーもう、どうでもいいわよ! ほら、もう帰った帰った! あたしは竹林の片付けで忙しくなるんだから」
しっしっと虫を追い払うように手を振るてゐに俺はやれやれと溜息をつきながら、尻尾をゆらゆら揺らしててゐに背を向けた。
「あ、ちょっと」
が、そうして飛ぼうとした時に何故かてゐが俺を止めた。何事かと俺が振り返ると、てゐが少し思案気に佇みこんなことを聞いてきた。
「あんた、アレに妙に詳しかったみたいだけど、アレがどこから来たか知ってる?」
俺はすぐには答えなかった。心当たりこそあったものの、確証はなかったから。ただ、てゐも一重に事実を求めているわけではないだろう。単なる好奇心か、俺に探りを入れてるのか。仮に後者だとしても納得は出来る。俺の存在はてゐからしてみれば怪しいの一言だ。神力を持っているために神の関係者であることは証明できても、その神自身が何も企んでいないとは証明しきれていない。てゐ自身、大国主以外の神はそれほど信用してはいないだろう。
しかし、実際は“ウカノミタマ”は今回の裏には(多分)直接の関係はない。ならばてゐの問いに俺が何を答えようと、それほどの意味はないはずだ。
「さて。地獄からでも這い出てきたんじゃないか?」
「ふーん」
俺が冗談めかしてそう言うと、てゐは肩を竦めてまるで信じていなさそうな口ぶりでそう返した。