東方空狐道   作:くろたま

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キュッキュッキュー この話の主人公は狐である

 

 

ちちちと小鳥がさえずる早朝に、紫はなんとなく森で散歩をしていた。人間の頃のライフスタイルと大して変わっていないためか、いつになってもこういう朝は清々しい。人間の科学に汚染された都市の空気とはうって変わって、“美味しい”という表現が似合う森の空気が、紫は好きだった。特にこんな天気のいい朝はなおさらである。

 

紫が今居候しているウカノミタマ、改め倉稲白式の屋敷を出たのは丁度一時間ほど前。太陽が山から顔を出し始め、暗い空が白んできた頃だった。紫は空を飛ぶでもなく、体力にまかせて疾駆するでもなく、山の麓へと続く階段を地道にゆっくり歩いて下り、特に人でない事を気負うことなく人里へと入って行った。朝早くから働く里人達とすれ違い、軽く挨拶をかわしながら歩みを進め、森へと向かう。

途中神和ぎの社ものぞいてはみたものの、タクリは水浴びにでも行っているのかその時は留守だった。

 

かさかさと、人が通るには適さない森の木々の間や茂みを抜けながら、紫はふと服の中から式符を一枚取り出した。

それは独りでに、(とはいっても紫の意のままに、だが)ふわりと浮かび上がりくるくると紫の周りを回る。そして仄かに発光し、光球へと姿を変えると直にぱっと弾けて消えた。これは、力だ。紫が自分自身の身を守るための。

 

人里が近いからといって、決して森の中は安全というわけではない。毒をもった虫もいれば、獰猛な獣だっている。

そして人に害をなす妖怪もいる。里人達も、森に入る時は神和ぎ同伴、あるいは神和ぎ、白式の作った護符を持つことは必須事項だった。

 

紫が神の守護するこの地に来てから既に二十年。もう、紫が他の妖怪に怯えることはなくなっていた。妖怪の要である妖力が紫は他の者と比べ年若いわりに多く、その上その妖力を活用した術、妖術とでも言おうか、それも異常なほど卓越している。

二十年前、最初にこの森に入ったのは、自分を追う者から逃げ回っていた時だった。紫の能力を危険視して狙ったというのに、それゆえに身を守るために紫が強くなろうとし、そして結果的に強力な妖怪が生まれたというのはなんとも皮肉な話である。そしてこれでもまだ齢二十、妖怪としては短すぎるほどだ。これからさらに紫は強くなり続けるのだろう。

 

しかしそんな紫の外見は、二十年前とまるで変わっていない。ここに来た時のまま、いつまで経っても若々しいままである。そんな自分が嫌で、紫は自分の服を変えたり髪形を変えたりしたものの、結局自身の胸の裡に飛来する虚しさは止められなかった。

 

白式の守護する里に住む人間は、紫に恐怖することはない。まるで親しい隣人にするように普通に話しかけ、普通に笑いあう。いつまでも変わらない姿の、妖怪である紫に怯えるものは一人もいなかった。

それは白式や神和ぎが妖怪から里を守っているために、妖怪への恐怖心が少ないことと、またいつまでも年をとらない筆頭が山の上にいるため、不老の者に対する違和感がほとんどないためである。

 

だがそれゆえに、紫は自分が人間だと錯覚してしまっていた。

いや、頭ではもう自分が妖怪なのだと分かっていても、無意識のうちに人間のような考え方をしたり、人間のような行動をすることが多々あるのだ。

ちなみに近くにいる某神がしばしば非常に人間くさいことも関係しているのだが、本人は全く気づいていない。

 

紫は自分の中にあるその落差に、よく悩まされていた。

人間でないと、妖怪だと分かっているのに、いつの間にか人間だった時と同じことをしている。それがいけないというわけではないが、それでも紫はそのどっちつかずの言いようもない気持ち悪さをはっきりさせたかった。

そうして悩んだ時は、紫はこうしてのんびり散歩をしたり、はたまたタクリに会ったりしていた。散歩は純粋に他のことを忘れそれ自体を楽しめるから。タクリに会うのは、よく顔を合わせる彼女がだんだんと老けていく様子が分かるからだったりする。

そう言うと、タクリはもちろん怒るのだが。

 

そうすることで、自分が人間でないことが確認することが出来るが、同時に悲しくもなる。自分はタクリや里人達とは違うのだと、そう認識することが必ずしもいいとは限らないのだ。それも当たり前の話かも知れないが。

 

今はまだぴんぴんしているタクリも、いつかは紫をおいて死んでしまうのだ。早朝に冷水を浴び、空を飛び回り妖怪退治をしている今はそんな様子もないが、それだけに紫を置き去りにして老いていくタクリの姿は、紫にとって耐え難いものがあった。

いや、いつまでも変わらない二人が紫の傍にいなければ、きっと耐えられなかっただろう。

 

ふと思うところのあった紫は、自分が人間だったころのことを思い出そうとした。相変わらず霧がかかったような曖昧な頭の中。どこで生まれて、どこで育って。どんな親でどんな兄弟でどんな家族で。それらのことはまるで思い出すことは出来なかった。

だがその霧がかった記憶の中で、大切な親友がいたことだけは良く覚えていた。いたことだけは、だが。大切な、自分が人間だったころの、人間の親友だ。今はもう、紫と親友は別のものになってしまった。

 

今のこの生活に、妖怪としての生に寂寥感はない。里人や神和ぎは妖怪である紫に過ぎるほど優しく、庇護者である白式は分かりづらいが確かに良くしてくれていた。紅花は一人敵意を向けてくるものの、それも会った当初と比べるとかなり和らいでいる。

それらに、紫自身は充足感すら感じていた。

 

だが、それで人間だった頃の自分の全てを諦められるほど紫は潔くはなかった。

 

時折、想ってしまうのだ。

どんな名前だったかどんな顔だったか、それもはっきりしないのに、親友に会いたい、一緒にいたいと。切実に何よりも強く、そう思ってしまう。

 

たとえ、それが何千年も先のことだとしても、紫は諦め切れなかった。

たとえ、人間だった頃の自分のいた時代に妖怪やその他もろもろの特殊な存在がいないことを知っていて、それが今の妖怪である自分の消滅の可能性を意味していたとしても。

もう一度、彼女と同じ時間を生きたいと、そう思うことを、紫は止められなかった。

 

 

ぱきっ

 

 

自分の足で踏んだ乾いた枯れ枝の折れる音が、思考の海に沈んでいた紫の意識を浮上させた。有体に言えば、はっとした。

気づけば普段の散歩コースを外れた場所に紫はいた。似たような木々が並ぶ森ではあるが、何度も何度も二十年単位で歩いていればそれぞれの木の細かい特徴、並び方など少しの差異も見逃しはしない。

 

(遠くまで歩いたつもりだったのに、結局里の近くまで戻ってきちゃってるわね)

 

紫は少し見覚えのある周囲の木々を見渡してそう思った。

そこは普段散歩で通る場所ではなかったが、秋の収穫の際にタクリに連れられて何度か来たことはあったのだ。その季節の、枯れ落ちる前の葉の鮮やかな色彩は、何十何百と見ても飽きることはなかった。今の季節は緑の色に溢れ、風景も大分変わってはいるが、その程度の違いは紫には些細なことだった。仮に道に迷ったところで、空を飛べる紫にはさしたる問題はなかったりするのだが。

 

と、近くまで戻ったのだからもう帰ろうかと紫が里の方に足を向けた丁度その時、どこかから微かな音がするのを、以前より鋭くなった紫の聴覚が捕らえた。

 

「……?」

 

木々の葉が擦れ合う音、小鳥のさえずる声、風が吹きぬける音。それに混じる微かな異音に、紫は耳を傾ける。早朝の、静かな森の中。しかしその実様々な音で溢れているその中では、むしろ他と異なるその音は雑音のように際立って紫の耳に入ってきた。

静かに意識を集中させていると、少しずつ明確な音が聞こえてくる。それは何かが地面を引っかいているような音だった。それだけなら異音として聞こえるはずもなく、それと同時に何かが暴れて地面を弱く叩く音、さらには何か動物の鳴き声まで聞こえてきたのだった。

 

「こっち、かな」

 

その音は里とは反対方向、紫の背中側から聞こえてくるようだった。無視することもできたが、気になった紫はそちらへと改めて足を向けた。普段はまだ用心深い紫なのだが、気分のいい散歩中ということが災いし、好奇心の趣くまま茂みへと深入りしてゆく。

 

が、果たしてその結果がことさらに悪い方へと転ぶことはなかった。

 

茂みをかき分け、紫が少し歩いた先で見つけたのは、罠、おそらくくくり罠のようなものにひっかかってもがいている、一匹の小動物だった。

大きさはわずか30センチほどの小さな体躯に藁のようなもので編まれた細い縄が複雑に絡まり、それがもがく度にさらに強くその身体を締め付けている。おそらく最初は引っかかったのは足だけだったのだろうが、わけも分からず暴れているうちに身体の方に絡まってしまったのだろう。

 

太陽の光にわずかに反射し弱く輝く体毛。尻尾は一本、先っちょは少し白い毛で覆われていて、今はばたばたとあちらこちらへ右往左往している。小さな耳が頭の上に二つ、せわしなく動いていた。

 

それは哺乳綱ネコ目イヌ科の肉食に近い雑食動物、いわゆる、

 

「キツネ?」

 

「キュー! キューー!」

 

実物のキツネは初見である紫は少し戸惑った。人間だった頃は写真の類でしか見たことはなく、こちらの時代に来てからは式神の偽の狐や、時折屋敷に無造作にごろりと転がっている白い化け狐を見かけるぐらいである。

 

「キューー!」

 

紫の姿に気づき、より一層激しく暴れだす子狐。小さな前足と後ろ足で地面をかき、縄から抜け出そうともがいている。しかしそんな必死な子狐を哀れむでもなく、さらにくるくると身体に巻きつく縄はどこまでも残酷で執念深かった。

 

「ギューーーーーー!」

 

悲痛な叫びをあげる子狐に、紫はわたわたとことさらに慌てる。

 

「だ、駄目よ暴れちゃ! ちょ、ちょっと、今からほどくから待ってて……」

 

そう言いながら、紫は子狐の方へと一歩一歩ゆっくりと近づいた。

暴れる子狐の様子をはたから見ていた紫は、罠にかかった子狐が酷く可哀想に見えたのだ。細いながらも普通なら切ることは出来ないだろう縄だが、妖怪である自分なら引きちぎることも出来るだろう。そう考え、紫は子狐を罠から解放しようと暴れる子狐の方に手を伸ばした。

しかし紫は手前数十センチではたとその手を止めてしまった。

 

(でもこれ、どう見ても人が作った罠よね)

 

そうなのだ。この罠を誰かが仕掛けたということは、今ここに引っかかっているこの狐はその罠の主のものということになる。紫が何の関係もない自由奔放な妖怪だったならば、ここで躊躇する必要はなかった。ただ自分の考え赴くままに行動してしまえばいいのだ。だが面倒なことに今紫は人の中で生活していた。それも、この場所に罠があるということは間違いなくあの里の者が仕掛けた罠なのだろう。人の中にある以上はそのルールに従わなければならない。このままこの子狐に手を出すことは、同じ里で暮らしている紫の立場としてはかなり危ういものだった。

人としての感情が子狐へと手を伸ばし、そして皮肉なことに人としての常識が紫の手を止めていたのだ。

 

(そ、そうよ、これはきっと自然の摂理なんだわ。このままこの子は誰かに食べられてしまうけどそれはしょうがないことで。うん、私もよく肉を食べてるんだから、文句なんて、言え、ないわよ、ね)

 

そう必死に考えながら、紫はするすると手を引いてゆく。けけ決して名残惜しいなんてことはない。

このままここにいては、私の中の何かが危ない。と紫は考え、足を後退させようとした。

この時、そのまま踵を返し後を見ずに立ち去ればよかったのだが、紫はうっかりちらりと子狐の方を見てしまった。最後にもう一度だけ…そんな軽い気持ちで子狐の方へ目をやったのだったが、しかし紫はそれをした後にすぐ後悔した。

 

目が、合ったのだ。

 

「う」

 

「キュー…」

 

子狐はいつの間にか暴れる事を止め、身体に絡まった縄はそのままの状態で地面に静かに伏せていた。そして顔を持ち上げ、何もしてこない紫の顔をじっと見つめている。つぶらな二つの瞳は、何かをうったえかけているように、紫には見えた。

目が離せない。いつの間にか出てきた冷や汗が、紫の頬をつつつと伝う。引こうとしていた手は宙で留まり、退こうとしていた足は棒のように固まってしまっていた。

 

「キューーー」

 

かりかりと、子狐のか細い鳴き声をあげながら再び地面を引っかきはじめた。固まる紫の足元で、伏せた状態で進もうとする子狐。しかし今度は逃げようとするのではなく、紫の方へと進もうとしていたのだ。子狐が何を考えているかは紫には分からなかったが、しかしその姿は紫の中の何かを強く掻き立てた。

 

必死に紫の方に進もうとする子狐、だがそれに反し身体は一向に進む様子はなかった。ふかふかした尻尾はもぞもぞと動く子狐の身体に合わせてゆるゆると揺れ動き、やがてへたりと地に垂れた。

 

「キュゥ…」

 

自分の行動がまったく無駄なことに気づいたのか単に諦めたのか。子狐は切なげな声を漏らし、尻尾に続き少し持ち上げていた上体をぺたんと地面につけてしまった。

 

(かわいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!)

 

その様をつぶさに見つめていた紫は、心の中で絶叫をあげる。

たまらず子狐を抱きしめ、そのたまらない小動物的な愛嬌に悶絶した。ふかふかの尻尾を存分に堪能し、小さな身体をぐりぐりと撫でさする。

 

想像の中だけで。

 

もうこのまま子狐を置いて去る、という選択肢は紫の中にはなかった。かといってどう連れ帰るかというプランすらすぐには浮かばず、連れ帰ってどうするかという妄想だけが頭の中で暴走する。いつの間にか、罠から解放して逃がすという選択肢も消えてしまっていることに、紫は気づかない。

 

(そうだわ、今の私は人間じゃないんだから、無理に人間のルールに従うことは…ないわよね。あ、でも今はウカノ様の屋敷に暮らしてるんだし、お伺いをたてなきゃいけないかしら。でもあの人は絶対反対するわよね。『郷に入りては郷に従え』って。大抵のことは大らかというか不干渉なのに、なんでこういうことにはお堅いのかしら)

 

なんとか自分の中に理由をつくろうと苦闘する紫だったが、こういう時に限ってなかなかいい案は思い浮かばなかった。既に罠から助けることが前提として決定しているゆえに、視野が狭まってしまっているのだ。

 

「キュゥ」

 

が、そんな葛藤も子狐の鳴き声ですぐに吹き飛んでしまった。

 

(ばれなきゃ、大丈夫よね)

 

いわゆる泥棒の類ではあるが、しかしそんなものは子狐救出の大儀の前にほっぽりだしてしまう。

縄をほどき罠を元の状態に戻しておくか、最悪そのままにしておいても、おそらく逃げられたということで片付けられるだろう。白式や紫がいるとはいえ、罠の開発があまり進んでいないこの時代、獲物が逃げ出すことはよくあることだったのだ。

罠から解放した後に子狐を連れている紫を誰かに見られたとしても、『森で拾った』だとか適当な言い訳を言えばいい。証拠はないのだから、ばれはしないだろう。

そこまで考え、紫の顔に喜びが浮かぶ。

 

白式が嘘を見抜くことはすっぱり忘れてしまった、緩んだ笑顔だった。

 

(そうと決まったら、急がないと。陽も昇ってきたし、誰かが今来ないとは限らないわ)

 

子狐を見つけてから数分、ようやく再び動き出す紫。紫は後退しようとしていた足を戻し、子狐の前で少し身をかがめた。

 

(どきどき)

 

そろそろと、子狐の方へと手を伸ばす。正確には子狐の身体に絡まっている縄に、だが。しかし縄に触る前に、うっかり(・・・・)子狐を撫でてしまってたしても、きっと誰にも文句は言われないだろう。そうに違いない。

 

(どきどき)

 

一方子狐はといえばそんな紫を、何をするでもなく相変わらず静かにじーーーっと眺めていた。手が伸ばされても警戒した様子はなく、おとなしく紫の行為を見守っている。その様子がさらに紫を行為へと駆り立てた。紫のテンションはさっきからずんずんと上がりっぱなしだった。

 

が、次の瞬間そのテンションゲージは一気に0へとすとんと落ちた。

 

 

「まーったく。罠ぁ仕掛けとるん忘れるんて、おまどうしよらね。昨日のうちにみんな集めとんやろ?」

「だら、悪かった言うとばやー。こうすて今日きたんの、勘弁してな。第一、おまんが道具忘れた時は、おらが助けてやったとかぁ。お互い様だがや」

 

 

(○♯♪×Ж☆!?!?!?)

 

突然、すぐ近くから聞こえてきた声に紫は飛び上がって驚いた。このタイミング、まさに最悪のタイミングで現れた彼らに、紫は惜しみなく恨めしい感情を贈った。以前はこんな状況で、グッドタイミングで助けられたような気もするが、それとこれとはまた別の話だし、それも二十年前の話だ。

だが現状はそんな事を考えている場合ではなく、このまま子狐を置いて逃げるか、それとも縄を引きちぎって、姿を見られないうちに逃げられることに賭けるか、急遽選択を迫られる状況だった。

 

紫の逡巡はまさに一瞬。子狐へと飛びつき縄から解放することはものの三秒もかからなかった。

 

が、その三秒が致命的だった。

 

 

「だーらそれはこの前おまがどうしても言うてから……ん?」

「およー? だれぞおるんかいな」

 

その時茂みから現れたのは、里人の二人。以前同様二人組みだが、これは里人が森に入る際には一人では絶対に入らないためだ。そして紫も二人の顔には覚えがあったために、余計に気まずかった。

何せ、子狐を抱きかかえているところをばっちり見られてしまったのだ。あまつさえ、紫の足元には途中で縄が千切れた罠が転がっている。まさに決定的、犯行?の瞬間こそ見られなかったものの、ほぼ現行犯である。

 

「うぅ…」

 

「キュ?」

 

子狐を抱き締めてうめく紫とは対照的に、抱き締められた子狐は無邪気に、そして居心地よさそうに鳴いて小さく首をかしげた。

 

 


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