夜が来て朝が来て夜が来て朝が来て。
今も昔も、空の顔は変わらない。いや、この時代の方がより澄んだ色をしているだろうか。科学など微塵もないこの世界では、自然のままの大気が広がっている。そんな空気の膜を通して、目には綺麗な空色に映るのだろう。
とはいえ、人間だった頃の空を見ていた時間と狐になってから空を見ていた時間は断然にこちらの方が長い。最近では昔、時系列的には未来の空色の方が夢に思えてくるほどだ。
空に限った事ではなく、前世の記憶はずいぶんと薄れてきた。実際、前世で縁のあった人達の顔はもうほとんど思い出すことはできない。自分の顔に至ってはとりあえず目と鼻と口がついていた、ということぐらいしか覚えていないのだ。…それもう完全に忘れてるだろという突っ込みは受け付けていない。きっともう一度見たら思い出すことができるんだ。多分。
雲を見ながら胡蝶の夢について考えていると、イザナギが突然立ち止まり俺に向かって口を開いた。
「ここが、我の住処だ」
「…?」
既に昨日の内に森を抜け草原を歩いていたところだったが、イザナギはこの草原のど真ん中で立ち止まった。しかし、周囲にはそれほど高くない草しかない。風が吹くたびにさわさわと静かにざわめきとてもよい雰囲気、だが建物らしきものはどこにも、まるでない。
…はて、こいつは地面に穴でも掘って住んでいるのだろうか。おいおい神様、いくらなんでも泥臭すぎだろ。モグラかよ。
「ウカノ、何か失礼な事を考えておらんか? ヌシの目に憐憫が見えるような気がするのだが。…ふぅむ、まぁ、少し待て。――
俺が口を開かず目で自身の心情を語っていると、イザナギは心外だとばかりに
ぴしりと、何かが切り替わったような空気を感じるとともに、俺の視界には突如高床式倉庫が現れた。正倉院と言ってもいいかもしれないが、実際はどちらとも造りが違う建物だった。大体は木造で、屋根も瓦葺ではない。さらにこの建物の屋根は『へ』のような形ではなく『/』である。それほど鋭角でもないが、ずいぶんと斬新なデザインだな。ログハウスというには造りが簡単だが、この草原には妙に合っている気がする。
しかし、そこにはさっきまで何もなかったはず…いやちょっと待て、俺はさっき周囲を見回した時確かにこの建築物を目に映していた、ような気がする。いや、確かに目線をやったはずだ。なのにどうしてもう一度目にするまでこうして認識できなかったんだ?
「さて改めて。ここが我の住処だ。ふ…どうやら驚いたようだな、我の屋敷の威容に」
「威容というか異様というか。つかそもそも建物そのものに驚いたんじゃねーよ。なんなんだ? さっきのは。イザナギが何かするまで、これは確かに見えていたはずなのに認識できなかったぞ」
「そのことか…。何、屋敷の周囲に我が結界を張っていただけのことだ。視覚聴覚触覚嗅覚ついでに味覚、対象特定に必要な情報認識を阻害し、また正しくこの場所を認識できないものはここに入る事はできないようになっておる。とは言ってもこの結界はそれほど強力なものでもない。こうして一度認識してしまえば、再度先の結界を張ったところで一度根付いた認識を阻害する事はできんからな。阻害でなく認識遮断結界などでも張れば、別ではあるが」
つまり五感で捉えてはいても、それを明確に意識することができないということか。
しかしそれよりも、この世界では『結界』などという空想技術もまかり通るらしい。いや、そんなことも今更。『禍気』だとか『禍物』だとか、以前は非常識だ非科学的だといえるようなものが蔓延っているのだ。仮に『魔法』が出てきたところで俺はもう驚かない。
…この時代からしてみれば未来の科学技術の方が『魔法』か。
「…んー? そもそもこの『結界』はイザナギにとっては技術なのか? それとも能力だとかで感覚的に作っているのか?」
「いいや。一定の法則にのっとり正確に結界術式を構築し、我の神気を燃料とすることで起動させている。石を投げた時こめた力によって飛ぶ距離が変わり、また法則に従って地面に落ちるだろう。本質的にはまるで同じものだ、影響力が違うのだがな」
「ふぅん…『結界術「式」』と言ったな?」
「うむ。何故そこまで念を押すのだ」
「いやいや、ただの確認だ。イザナギ、この『結界』というやつを俺に教えてくれないか? いざという時に役立ちそうだ」
能力の新たな分野の開拓。いくら俺とてゼロからこんなよくわからんものを組上げるのはおよそ不可能だ。が、『結界』の術式を知る事ができれば、そこからさらに応用範囲を広げていくことは可能だろう。雛形さえあれば、あとはそれを組み替えていけばいいだけだ。それに、そうして試行錯誤して新しいモノを作っていくという快感は何事にも変えがたい。酒造りに何百年もつぎ込めたのも、造る過程も結果も俺にとっては娯楽のようなものだったからだ。
「教えるのは構わぬが…我が術式に使っているのは『神気』と『霊気』だぞ。ヌシは『禍気』を扱えるようだが、我の知る術式にそのまま使うことはできないのではないか?」
それは織り込み済みだ。式の根本の仕組みを理解できれば、機構を『神気』『霊気』?用から『禍気』用に変換することが出来るはずだ。まぁそのためにはイザナギの『神気』『霊気』?を詳しく知らなければいけないだろうが…それも含めて教えてもらおう。いざとなれば、時間をかけて試行だけ繰り返していけばいい。いつかはできるだろ。
「いや、いい。術式、あるいは基礎だけでも教えてくれたら、こちらで何とかしよう」
「ふむ、了解した。…そう言えば屋敷の前まで来たというのに、何故我々はわざわざ立ち話をしているのであろうな」
「そうですよ。わざわざ結界を開けたというのに、いったい屋敷の前で何をしているのですか? …あら、お客さんが来ていたのですね」
と、イザナギと結局立ち話をしていると、突然俺でもイザナギのものでもない声が混ざった。その声のした方を見てみると、建物の扉が開いておりその前には一人の女性が呆れた顔で立っていた。俺と目が合うとニコリと笑ってひとつ会釈をする様は、とても美しい。イザナギにも共通しているが、二人とも綺麗な黒髪と整った顔立ちをしている。
「うむ、帰ったぞ、イザナミ」
「お帰りなさい。それから、いらっしゃい」
「あ、お邪魔します」
はっ。つい丁寧な言葉遣いをしてしまった。彼女の丁寧な雰囲気には自分の気も引き締まるようなものを感じる。
そしてイザナギの次はイザナミさんが来ました。もうアマテラスとか来ていいんじゃないかな。
イザナミさんにはイザナギと同等ほどの力を感じるが、イザナギと違いとても物静かな雰囲気で、そして神秘的な空気にあふれていた。イザナギはもう少し豪儀な感じだ、そして神秘的というか神々しい。決して騒がしいわけではないが、威風堂々としているといえばいいだろうか。
イザナギの家に上がり部屋まで案内されたが、中の造りはとても単純だった。小部屋といえるような壁で区切られた部屋は2,3ほどしかないようで、大部屋一つが家の大体のスペースを占有している。床は板張りで、しかしどのような技術で接合してあるのか軋みなどは一切なかった。つやつやとした表面はさしもの一枚の板のようで、未来の科学技術をもってしてもこれほどのものはなかなか作れはしないだろう。
さて、俺は今大部屋の真ん中でイザナギと膝を突き合わせて座っているのだが、現在進行形で小さい敗北感と大きい感動に打ちのめされていた。そんな俺の手にあるのは一つの器。イザナギの手にも同じ物があり、なみなみと透明の液体がそそがれている。
「どうだ。なかなかのものであろう?」
イザナギの言葉に、俺は小さく頷いた。これほどのものは、前世も含めて味わった事はない。キリッとした辛口とほんのりとした甘味が絶妙に混在し、口当たりも良く、すっと口から喉へと伝ってゆく。飲んでしまった後も身体の隅々まで何かが巡っているような気がして、とてもいい気分になるのだった。
「おかわりいかがですか?」
「あ、お願いします…」
そばに座っていたイザナミさんが空になった器を見てお代わりを差し出した。俺はなんとなく借りてきた猫のようになりながら注いでもらい、こうなった発端を思い出していた。
家に上げられた後は大部屋に案内され、用意された座布団に腰を下ろしたのだが、その時に肩にぶら下げていた瓢箪を下ろしたのが始まりだ。
どうやらイザナギも気になっていたらしいが、聞くタイミングが今まで無かったらしい。それは何か、との問いに俺が簡便に『酒』と答えるとそのまま酒の話題になったのだ。イザナギも酒を嗜むと聞き、まずは一杯ご馳走になったわけだが、結果は上の通り。
俺の作った酒ではこれほどの味を出すには、まだ千年単位の時間が必要では無いだろうか。俺の酒は今壁にぶち当たっている。その壁をまず越えなければならないのだ、時間がかかるのは当然の事。しかもそれを乗り越えたところで課題はまだいくつも残っていることだろう。それほどの代物なのだ、イザナギの酒は。まさに
「ウカノはこの世界に生まれてどれほどになるのだ?」
「女に歳聞くなよな。別にいいけどさ。…そうだな、多分八十万ほど太陽と月を見たような気がするが。そう言うイザナギはどうなんだ」
「我か。我は、いやイザナミも我と同時期に生まれた事を考えれば我らとなるが、この世界ができた頃に生まれたことは覚えているのだがな。どれほどかは覚えておらん」
「昔ってレベルじゃないな。生まれた時はどんな景色だったんだ?」
「ふーむ…虚無だったような気もすれば、何かが出来上がっていたような気もする。なんとも言えん曖昧な世界だったように思うがな」
生まれた時一番最初に何を見ましたかとかナンセンスすぎたか。俺は今世の最初が今ティニューだったから覚えているが、イザナギはそういうわけでもないのだ。ましてや気の遠くなるような年月が過ぎているのに詳しく覚えているはずもない。イザナギの話からすれば、一応イザナギの前があったということだろうか。…俺が見たわけじゃないしな。イザナギもあまり覚えていないというのに考えたところで不毛か。
「イザナギは地上を調整する、とか言ってたよな。どういうところを変えるんだ?」
「ふーむ。まずは一番の大仕事となるであろうが、『禍気』に手をつけることになるだろう。このままのカタチで地上に残るには劇物すぎるのでな、密度を薄めるつもりだ。量が少なければ問題は無いのだが、今の地上にはこれに満ち溢れている」
「そうすると、『禍物』はどうなるんだ?」
「どうもならんだろう。これ以上の変化は止まる、が、それでどうなるというわけではない。…いや、成り立ちが少し変わる事になるかもしれんな。我らの天界の天人同様、地上には『禍気』の影響で劇的な速度でヒトが生まれつつある。そうすれば感情も生まれる、正だけなればよいのだが、そういうわけにもいかんだろうな」
「よく分からなくなってきたぞ。簡単に頼む」
「むぅ。喜怒哀楽だけならばむしろよいのだが、憎悪や恐怖といった顕著な負の気は周囲に少なからず影響を与える。それらが深刻な変化をもたらす前に、何らかのおとしどころを作っておかねばいかんのだ。…おそらく『禍気』を薄くするためにそれらを使い、それらのおとしどころには『禍気』を使うことになるだろう」
「…ふぅん。ま、すぐの話じゃないんだろ」
「うむ。この案が形になるのはずいぶんと先になるであろうな」
「さて、俺はそろそろ帰るぞ。あ、イザナミさんもありがとうございました」
まるでうわばみのごとくかぱかぱと器を空け、アルコールを微妙に分解しながらほろ酔い状態に調整し俺はようやく席を立った。
イザナミさんは、手を伸ばしながら微笑み
「ぉぉ!?」
さりげなく俺の頭に伸びてきた手を、俺は寸前で反射的にかわした。かわされたイザナミさんは伸ばした手をふらりと彷徨わせている。その顔はどこかしょぼんとしていた。その視線は俺の頭の上、具体的にはふさふさの耳に向いている気がする。
「む、すまぬな。イザナミは可愛いものが好きなのだ。前も三つ頭の犬を拾ってきて…」
イザナギはスルーするとして、なんだかイザナミさんの顔を見ていると俺が悪いような気がしてきたので、俺はおとなしく頭を差し出した。
するとイザナミさんはにっこりと笑うと改めて手を伸ばし、俺の頭を撫でるのだった。母狐になめられた記憶はあるが、撫でられた記憶は無い。それ以降はそんな繊細な動作をするものには出会った事は無い。狐になって初めての経験に、耳がぷるぷると震えている気がする。まぁイザナミさんが嬉しそうなので本望です。
「しかしウカノよ」
ようやく解放された俺に、イザナギがふと声をかけた。さっきまでケルベロスもどきの話を熱く語っていた時とは違い、その顔には真剣味に溢れている。俺はそれにつられて自然と身体を引き締めた。
「我は、ヌシのその口調はどうかと思うのだが」
「気を引き締めた俺の緊張を返せ。んなことどうでもいいだろ…。それに、理由はあるぞ?」
「ほう、なんだそれは」
「実はな」
「うむ」
「俺の前世が男だったんだ」
「…うむ。それでその理由とは?」
おい神様、スルーすんな。
いくつか時代間の価値観や法則などを画一化してます。美醜を昔と今でいちいち表現するのはめんどいです。