日本において、キツネといえば大抵は茶色っぽい毛のアカギツネのことを指す。キツネを精霊や妖怪として見る民族は日本以外にもあるが、日本においては信仰とも言えるほどキツネに親密だ。人を化かすいたずら好きの動物、そんな話もむしろ当初は親近感を感じさせるほどのかわいい俗説でしかなかった。ただその話がいつの間にかひとり歩きし始め、だんだん悪い方向に進んだのも事実で、その上海外からの悪狐、九尾狐の口伝などがキツネのイメージダウンに拍車をかけることとなった。
それらのキツネへのイメージは、むしろ妖狐を増やす切欠ともなり、余計に人とキツネの溝は深まった。
ただ、そうして妖獣化するキツネなどはそれこそ全体の一握りで、他の大半は獣のキツネとしてその生涯を終える。ましてや、そのイメージが根付く前の日本においては獣、ひいてはキツネが妖怪化することは極稀なことだった。
つまるところ、キツネは普通3~4年、長くとも10年ほどしか生きることは出来ない。
例え体毛が茶色であろうがなかろうが、キツネであるのならば、それは仕方のないことだ。
紫が拾った子狐には、紫自身が自分の名前に準えて“
ただ、もっとも顕著な反応を示したのは意外なことに紅花だった。藍を見て目を輝かせ、撫でようと手を伸ばしていた。当の藍にはすげなく避けられていたが。
藍が白式や式神の狐と違い、純正の狐であったことも理由のひとつだが、それ以上に紅花よりも子供っぽい藍の様子に興味をひかれたのだ。まるで自分よりも年下の子供を見つけた子供のように、紅花は藍を追いかけるようになり、自分に目を向けさせようと夢中になった。
しかし藍はといえば、紫の後を追いかけるばかりで紅花の方には目もくれない。紫に、以前ほど露骨ではないにしろあまり近寄りたがらない紅花としては、それはけっしておもしろいことではなかった。
「バリバリ。ボリボリ」
「ムギュー」
その日、紅花はようやく隙を見つけて藍を捕獲した。紫と白式が話があると屋敷の奥に引きこもり、その間藍が置いてけぼりにされていたのでその時を狙ったのだ。
縁側に座り、白式の焼いたせんべいをかじりながら紅花は藍を抱きしめる。無論手加減はしているが、もともとの力が強い上に手加減そのものも得意ではない紅花にとっては、つぶしていないこと自体が上出来と言えた。
藍は紫に置いていかれしょんぼりしていたところを紅花に捕まえられ、最初こそ暴れていたが今は紅花の腕の中で居心地が悪そうに、しかしぱっと見は大人しくしていた。
「食べる?」
紅花のついと差し出した醤油せんべいも、ふいっと顔をそらして拒否する。激辛せんべいではなく醤油せんべいだったのは、無論紅花が少なからず気を使った結果ではあったが、しかしそれもあくまで紅花の都合である。紅花の心遣いも、藍の知ったことではない。
「むー」
したたかに拒む藍に、紅花は頬を膨らませる。万単位で藍や紫よりも歳上のくせに、それを感じさせないほど紅花は精神的に幼い。
この原因は紅花を創った白式も知らないことではあるが、白式自身が自分にそうあれかしと願ったせいである。紅花はもともと白式の寂しさを発端として生み出された存在で、白式の理想や願望が多分に篭められている。紅花が白式のコピーでありながら情緒豊かなのも白式の願いのためであり、そうするには必然的に幼い精神のままでいる必要があったのだ。他人と触れ合うようになりそれも改善されつつあるが、まだまだ時間が必要だった。
「紫は母さんとお話中なんだから、今はお姉ちゃんと大人しくしてなきゃいけないんだよ! せんべい食べろとは言わないけど、ねぇ、私と遊ぼうよー」
「キュー」
抱きついたまま藍の身体を器用に揺する紅花に、藍は対応に疲れたとばかりにうなだれる。反対に紅花は楽しそうに藍の頭を撫でた。思い通りになってくれないことに対して不機嫌になりかけはしたものの、それでもこうして身近で藍に触れられることは紅花の望んでいたことなのだ。
「ねえねえ遊ぼうよー」
「……」
そっぽを向く藍を、紅花が笑顔で追いかけ覗き込む。それを避けるようにまた藍が他所を向き、またそれを追いかける。だんだんと楽しそうになってくる紅花、そしてそれとは対照的に藍はただ鬱陶しそうにしている。しかし、それを繰り返していると突然藍がもぞもぞと動き始めた。どうしたのかと紅花は聞こうとしたが、それは背後からの声に遮られた。
「何やってるの?」
「……紫」
白式との話が終わったのだろう、紫が腰に手を当て怪訝な表情で紅花を見下ろしていた。その顔には少し蔭があったが、白式以外の他人の顔色にうとい紅花はそれには気づかなかった。
紅花を見つめる紫の視線から逃れるように、今度は紅花がそっぽを向く。
「あ、もしかして藍と遊んでくれてたのかしら?」
「……うん」
紅花自身、藍を無理やり拘束していたことは自覚しているのか、そっぽを向いたままふてくされたように紫の問いに答えた。
いつも相対していたのが白式なせいか、紅花は嘘をつく時はその眼力から逃げるように、絶対に目を合わせないことが癖になっていた。付き合いのあまり長くない紫ですらそれを知っており、それゆえ頷いた紅花が嘘をついているということは紫にはすぐに分かった。
「そう……。ありがとう、紅花」
しかし、紫はそれに気づかない風でニコリと笑ってお礼を言った。
紅花が紫を避けているからといって、紫が紅花を敵視しているわけではないのだ。むしろ同じ屋根の下で暮らすうちに、外見に似合わず中身が子供の紅花を微笑ましい目で見るようになっていた。
今藍をがっちり捕まえていることも、藍がぱたぱたと暴れていることも見えてはいたが、紅花がいつも藍と遊びたがっていたことも知っていたので、嘘をついていることも含めて大目に見ていた。
「……」
嘘を言ったのにお礼を言われた紅花は、バツが悪そうに藍を抱きしめていた力を緩めた。藍はその隙に紅花の腕の中から飛び出し紫の胸に飛び込んだ。
「キュー」
「お帰り。うーん、ただいま、かな?」
紅花は楽しそうに言葉(鳴き声)を交わす紫と藍を羨ましそうに眺め、しかしすぐに目をそらし立ち上がった。そうしてどこかへ行こうとする紅花を、それに気づいた紫が呼び止める。
「あ、ちょっと待って」
「……何?」
普段は聞こえないふりをしてそのまま行ってしまう紅花だったが、今回は後ろめたさでもあったのか素直に立ち止まった。しかし、振り返らずに立ち止まった体勢のまま紫に答える。紫は特にそれを気にはせず、気になっていたことを聞いた。
「どうして藍なの? 紅花も、同じような子狐の式神は作れるでしょう?」
が、それは紅花には考えることもないような質問だった。不思議そうな顔で振り向き、首を傾げながら答える。
「?? 紫の言ってることはおかしい。同じじゃないの、全然違うの。だって、私が作るのは生き物じゃないの」
「生き物じゃないって……そうかも知れないけど、姿かたちは似てるのだから些細なことなんじゃないかしら?」
「全然違うの。見た目が似てるだけじゃ全然ダメなの。母さんが言ってたの、はんじりつ式神は中身がないんだって。式神は何体いても何匹、何人にはならないの。だから、藍とは全然違うの。お餅も、私は何も入ってないのより、らーゆが入ってるお餅の方が好きなの。何も入ってないのは、母さんはおいしいっていってたけど、私はつまらないの。だから、式神と遊ぶより、藍と遊んだ方がずっとずっと楽しいの」
紅花は、頭の中では話すことが分かっていても、明確な言葉の羅列にして伝えることはあまり得意ではない。長文を話す時はいつも、普通の相手では少し分かりにくい内容になるのだ。
しかし頭の回転が速い紫は紅花の言わんとしていることをすぐに概ね理解し、再び問いを重ねる。
「大体分かったわ。それで……ラー油入りの餅が妙に気になるけど……いえ、それはともかく、あなたの言う“中身”って、魂とかそういうのかしら? ウカノ様は確かその方面の分野に詳しいのよね」
「うーん……そう考える方が分かりやすいって母さんは言ってたの。本当はもっと難しいことを言ってたんだけど……よく分かんなくて忘れちゃったの。けど、分からなくても何となく感じてればそれでいいんだよって。私には魂が入ってるから、他の式神とは違うんだって、言われたの」
「ちょっと待って。それじゃあなたもまるで式神みたいな言い方じゃない」
「そうだよ。紫は母さんに聞いてないの? 私は、母さんの創った式神だよ。私の本体は、魂と同じぐらいの力を持つ式玉なの。私は式神だけど、他と違ってゆいいついしを持っている式神だから、母さんのゆいいつの子供なの」
「え……」
聞いてない。
そう口から言葉が出ず、紫は改めてまじまじと紅花を眺めた。……今更ながらに、紅花と白式が、そして二人の作る式神たちも同様に、似すぎていることを再認識する。二人に限っては違いは表情と色だけで、体格背丈に至るまで何もかもが同じなのだ。
あるいは、仮にも神様なのだから命一つ作るぐらいは容易いことなのかもしれない。
そう思い直し、紫は一人頷いた。
「けど、失礼だけど、ウカノ様はどうしてあなたを創ったのかしら。ウカノ様って、とことん合理的な性格みたいでしょう? 式神は“朱色”や“白色”だけでも十分事足りるんじゃないかしら」
紫は今度は聞きようによってはこの上なく失礼なことを紅花に聞いた。紫は白式とは頻繁に会話はするものの、実際は白式があまり自身のことを語ろうとしないので、紫は白式のことをあまり知らなかった。一体どれほどの時を生きているのか、本当に元はただのキツネだったのか、どうしてあれほど節々が人間臭いのか、そのどれをも紫は知らない。
紅花は紫の言葉を大して気にもせず、紫の質問に答えた。解釈次第では“紅花は必要ない”ともなるが、紅花は深くは考えなかった。無論、紫とて嫌味を言っているつもりはさらさらない。
「えっと、ね。ずーっとずーーーっと昔に、母さんの友達がみんないなくなっちゃって、一人だけになったの。それで、独りが寂しくなったんだって。それなら創ればいいやって思って、私を創ったの。大きいトカゲや自己のない式神とは友達になれないの。私もそう思うの」
「さび、しい……。あのウカノ様でも、そう思うのかしら」
意外そうに、紫はそうつぶやいた。あの終始無表情の神が、『寂しい』などと言っている姿はまるで想像できない。しかし、改めて紅花のとぼけた表情を見て納得する。もしも本当に無感情であったのなら、こんな子供が生まれるわけがない。
「そうよね……大切な誰かに会えなくなるのも、自分だけになってしまうのも、やっぱり私は嫌だわ」
「そうなの?」
紅花は首を小さく傾げてそう聞くも、
「そうよ。あなたも、ウカノ様がいなくなるのは、ウカノ様に会えなくなるのは嫌でしょう?」
「む……むー、やだ」
「でしょう?」
紫に言い返されるなりすぐに顔をしかめ、髪を振り乱して首を振った。その様子に紫は苦笑し、それから今度は腕の中で大人しくしていた藍を見た。藍は紫を見上げ、紅花と同じように首を傾げる。
「ねぇ、藍。私と一緒に、私の夢を叶えてくれる? 長い時間がかかりそうだけれど、私とずっと一緒にいてくれる?」
諦めの浮かぶ笑顔で少し悲しそうに、しかし仄かな期待を滲ませながら紫はそう言った。藍の方は、紫の言わんとしていることを理解しているのかしていなのか一声鳴いて、てしと紫の胸に前足を置いた。
「……ねぇ、紅花。あなたは藍がなんて言ったか、分かるかしら」
「んーん。私はキツネじゃないの。キツネの鳴き声は母さんしか分からないの。母さんに聞いてくる?」
「そうだったわね……いえ、やめとくわ。自分で分かるようになりたいしね」
「ふーん」
「……そう言えば、あなたとこうして長話をしたのは初めてね。これからもこうだと嬉しいのだけど」
「あ! ……んー、うー。私は藍に会いたいだけなの! 紫は知らないの!」
「そう」
「……むー」
紫はニコニコ笑いながら、紅花はふてくされた顔のまま、しかし藍を間において二人の距離は間違いなく近くなっていた。
もともと、紅花が紫を避けていたのも本能からという曖昧な理由からだったのだ。その始まりが始まりだっただけに、紅花もなかなか素直に仲良くなろうとはしなかったが、そんな頑なな態度の紅花を見ていることも紫は嫌いではなかった。
そして今回の立役者である藍はといえば、そんな対照的な二人の間で我関さずとばかりにうたた寝をしていた。