これは、俺が十五歳の頃の話だ。
俺には、六つ上の姉と六つ下の妹がいる。
年の差から価値観が合わず、ケンカばかりの姉妹に挟まれた当時の俺は、何となく居心地が悪くて、逃げるように外出していた。余り社交的でないこともあり、学校外で遊ぶ程仲の良い友人もいないので、ネカフェに籠ったり公園で黄昏たりと時間を潰して、家では飯か風呂か寝るのみ。
「おかえり。ねぇ、今日は一緒にご飯を食べましょう?家族の時間を大事に…」
「今日はいらない」
帰る度に母に言われる小言は、全部聞こえないふりをした。バンド一辺倒な姉も、そんな姉に振られては拗ねる妹も、見ないふりをした。俺には関係ないんだって言い聞かせて、自分の世界を塞ぎ込んだ。
だから、姉のライブに行く気はなかったし、一ヶ月音信不通になっても気にならなかった。妹の泣き声を聞いても寂しそうにする姿を見ても、俺は何もしなかった。
俺の世界は俺だけで完結していて、不変的に時間だけが過ぎていくのだと思っていた。
───母が亡くなるまでは。
今まで聞こえないふりをしたものが、見ないふりをしたものが、何もしない俺を責めるように嫌でも認識させてきた。不変的なものなどないと、漠然としたいつかは今すぐにでも起こりうると、現実という形をもって押し付けられた。
わかっていた。でも目を逸らすしかなかったそれ。受け入れ難いそれに涙腺が刺激されたとき、初めてまともに家族を見た。
世界の時間を止めて、何も映らない瞳で立ち尽くす姉。小学生ながら死に向き合い、大声で泣き叫ぶ妹。
その瞬間、俺の世界は壁を失った。聞こえないふりはもうできない。見ないふりはもうできない。心が傷つくのを止められない。こわい。つらい。くるしい。
耐えられない苦痛を誤魔化すために、俺はようやく家族を始めることにした。涙は流れなかった。傷だらけの心は、隠してしまったから。
葬式の翌日。学校が終わると、俺はすぐに帰宅した。いつもは寄り道して夕飯時まで帰らないが、これからは真っ直ぐ帰ることにした。妹──虹夏が家で独りになってしまうから。
玄関を開けると慌てたような足音がして、虹夏が出迎えた。そして、俺の顔を見るなり表情を曇らせて俯いた。
まだ頭の片隅で、母さんが生きていることを期待しているのだろう。俺はもう二度と、虹夏にこんな顔をさせてはいけない。兄とはそういうものだから。
その場に屈んで目線を合わせ、何年ぶりかもわからないが、虹夏に声をかけた。
「虹夏。話があるんだ。すぐに着替えてくるから、リビングで待っていてくれるか?」
虹夏が顔を上げて、目が合う。涙の跡が痛々しいその顔は、驚きに満ちていた。そして、小さく頷いた。
手早く着替えてからあるものを持ってリビングに向かうと、虹夏はソファに座って待っていた。俺は隣に座って出来るだけ優しく話を始めた。
「返事はしなくていいから聞いてくれ。まずは、今まで兄らしいことをしてやれなくてごめん。家族を大切にっていう母さんの言葉を、その母さんがいなくなるまで受け入れられなかった。失ってからようやく気付いたんだ。だから、これから頑張るよ。母さんのようには出来ないけど、兄として寄り添うことはできるから。虹夏とずっと一緒にいる。一人にしない。そしていつか、俺を兄として認めてくれたら、お兄ちゃんって呼んで欲しい。今すぐじゃなくてもいい。今日は虹夏の兄になる第一歩だから」
そう言って、俺は持ってきたあるもの──櫛を虹夏に渡した。我ながらひどいセンスだと思うが、これ以上のものは思いつかなかった。
すると虹夏は、俺にしがみついて泣き出した。これは、甘えてくれているのだろうか。母さん以外の拠り所を、俺に求めてくれているのだろうか。
俺は虹夏が泣き疲れて眠るまで、そっと頭を撫で続けた。
眠った虹夏をベッドまで運び終えると、丁度姉さんが帰ってきた。何かが欠けているのに、それが何かわかっていないような表情をしていた。
「…姉さん。母さんはもういないよ」
「………わかってるよ」
声をかけると、明らかに不機嫌な態度で睨んできた。
まぁ言葉が悪かったのは事実なので仕方ない。でも、まだ受け入れてない姉さんには、言わなきゃわかってくれないから。
「いや、わかってない。もう一度言うけど、母さんはもういない。俺は母さんの代わりにはなれない」
「………」
不機嫌な態度は変わらないし返事もないが、一応聞く気はあるようなので一方的に話を続ける。
「そして、姉さんの代わりもいないんだ。虹夏の姉は、姉さんにしかできないんだよ。姉さんの夢は知ってるし、応援もしてる。でもそれは、家族の時間を蔑ろにしていいってことじゃない」
「…………」
「世界一仲いい姉妹なら、目を逸らすな。現実を見ろ。虹夏を見ろ」
「…弟のくせに生意気だな。何もしてこなかったくせに」
「だからこれからは、何もしないわけにはいかないんだ」
話を聞く気が失せたようで、姉さんは部屋に入ってしまった。何もしてない俺の言葉が届かないなら──
「とりあえず、時間が必要か…」
俺の部屋の片隅、埃を被ったそれを見る。もう、目を逸らすことは許されない。あの日からは、逃げられない。
──────
私には、弟と妹がいる。弟の方は、あの日から誰とも話さなくなり、顔を見ることも少なかった。対して妹──虹夏の方は、何をするにも私の後をついてきた。当時、私が二十一の頃のことだ。
私がライブで家を空けようとすれば、虹夏が泣いて引き止める。そんな傍から見れば微笑ましい光景も、当時の私にはとにかく煩わしかった。
家族より友達、家よりライブハウス。それが私の全てだった。
泣き喚く虹夏に目もくれず、家にも碌に帰らない私を見て、母は決まってこう言った。
「星歌。友達もいいけど、家族の時間も大事にね」
私より、弟をどうにかすればいい。全て煩わしかった。
「あっ星歌おつかれー!」
「皆おつかれ!ごめん遅くなって!」
「リハぎりぎりだよ~」
私は遅れてライブハウスに到着した。妹に泣きつかれたとか母親がうるさいとか、家族が面倒だって話をすれば、みんな笑って話を聞いてくれる。
「私にはバンドとその素敵な仲間たちさえいりゃいいの」
「私は酒の方が大事~」
「俺は彼女が一番!!」
「死ね!」
「さっ冗談はさておきリハしよーぜ」
それでも最後は冗談って言葉で締めくくる。冗談じゃなくて、割とマジで言ってたのに。
バンドがあって仲間がいて、そこに夢が存在して。私の世界はそれで十分。それだけでよかった。
下北のレイニー・バーでのライブが決まった。ここから有名になったバンドはたくさんいる。私達バンドの大きな分岐点だ。彼女を呼ぼうなんて惚気てるやつもいたが、話の流れで私も誰か呼ばないのかと聞かれた。
なんとなく気が向いて、虹夏をライブに誘った。でも虹夏は、バンドなんて大嫌いだって断った。
家に帰ったってイライラするだけだった。わかっていたはずなのに。当分はバンドメンバーの家に泊まることにした。
この後虹夏が大声で泣いていたことなんて知る由もなかった。
なんとか一ヶ月泊めてもらうことになった。その間、母からの電話には一度も出なかった。
満たされた二十一歳の私の世界。キラキラわくわくしてて、未来が希望で溢れてた。何も怖くなかった。何も──
母が来た。メンバーがチクったらしい。少し話してこいなんて言われて、とりあえず近くの喫茶店に行った。
「で、話って何?」
「つれないな~元気な星歌の姿が見たかっただけなのに」
本当に面倒くさい。見るだけならもう十分だろ。自然とため息が出た。
「家に帰ってこないから説教しに来たんでしょ。家族を大切にしなきゃいけないのは分かってるから」
「ううん、わかってないよ。星歌は」
「…分かってるってば」
「じゃあもう虹夏を泣かせちゃだめだよ」
「…っ!!」
虹夏が…泣いて………
「夢に一生懸命になるのも良い。きっと今が一番楽しい時期だから。お父さんお母さんがうっとおしくてもいい。それは星歌の自由だから。でも虹夏に寂しい思いさせちゃだめ。常に仲の良い姉妹であるコト!お母さん達が居なくなったときに支えあって生きていくために、世界一仲のいい姉妹でいてほしいの。お母さんからのお願いはそれだけ!…もちろん、あの子もね」
「………」
母さんは帰った。本当はライブに行きたがってたから、もう一度誘うようにと言い残して。私は気が向いたらなんて答えた。
なんであの時、うんって言ってあげなかったんだろう。
───母さんが死んだ
玉突き事故の巻き添えだったらしい。
母さんの葬式で泣きじゃくる虹夏を、どこか冷めた目で見ていた。弟がどんな顔をしていたかは覚えていない。
満たされていた世界の時が止まった。
「せっ星歌…無理しなくていいんだよ。まだ亡くなって一ヶ月だし…バンド活動の再開、もう少し落ち着いてからでも…」
「ううん。平気だから」
「そ、そう…?」
私はバンドを続けた。家で大人しくしてたほうが余計な事考えそうだし、弟は人が変わったように兄らしいことを始めたから。
それにあんまり実感もなかった。母さんがまだどっかにいる気がして。
ライブ当日、その朝。父さんからの電話で、私は家に帰った。
「やだやだ!もう学校にもどこにもいかない!もうずっと家にいる!何もしたくない!!」
虹夏が泣いていた。学校のものは床に散らばっていて、虹夏は髪も結ばず着替えてもいない。弟はどこに…
「きっ気持ちはわかるけど学校はちゃんと行かなきゃ…ほら、髪結んで支度して…」
「結べないもん…もうお母さんいないもん!お兄ちゃん帰ってこないもん!!」
その時、私は思い出していた。家族みんなが笑ってたときのこと。母さんが髪を結んで、虹夏が嬉しそうに鏡を眺めて、弟が可愛いって褒めていた。ありふれた日常。
「そうか…もういないんだ……もうどこにも…」
私はやっと受け入れた。そして泣いた。
虹夏はずっと向き合ってた。私が現実から逃げて家に帰らない間もずっと。
弟はそんな虹夏を支えていた。私にも言葉をかけていた。
ごめん。ごめん二人とも。私は二人の姉なのに。
「星歌ありがとうな。虹夏、少し落ち着いたみたいだ。あとは父さんの方でなんとかするから」
「…そういえば、あいつが帰ってこないってのは」
「あぁ…それは昨日──」
母さん。約束、絶対守るよ。世界一仲のいい姉妹でいるから。任せて。
「虹夏!ここ座んな。髪結んであげる。準備できたら今日は二人で出かけんぞ!」
その辺にあったお菓子のリボンで、母さんがいつもやってたように左でまとめる。
「お母さんのと違う。こんなぐちゃぐちゃじゃないし…」
「そろそろ出なきゃいけないしこまけぇ事はいいじゃねぇか」
「どこ行くの?」
「そりゃもちろん──」
ライブ会場、レイニー・バーにきた。
虹夏は微妙な顔したあと帰ろうとしたが。
「虹夏バンド興味ないし、嫌いだもん!」
「…とか言って、本当は凄く来たかったでしょ?お姉ちゃんにはわかるぞ!」
私がいつもライブやってる箱の照明に虹夏を預けて、バンドメンバーの元へ向かう。虹夏に最高のライブを見せてやる。
ライブ中、虹夏は笑っていた。泣いてもいたけど、両手を振り上げて飛び上がって。楽しいって感情が伝わってきた。
その時思ったんだ。これからずっと虹夏のこんな顔が見ていたいって。
「虹夏!」
「お姉ちゃん…」
「私は…もう母さんの死から逃げないし、虹夏たち二人にだけ辛い思いはさせない。だから、これからは支えあって生きていこう。私たちは世界一仲いい姉妹なんだから」
その夜、夕飯時。母さんが好きだったカレーを作っているとき、弟が帰ってきた。
私は弟にも言わなきゃいけないことがあった。でも弟のその姿に、言葉が出なかった。
「どうしたんだお前!そんなボロボロで…」
「父さんには言っておいただろ。あの日の精算だよ」
そうか…あの日のトラウマを乗り越えたのか。一人で。
私が何も言えないままでいると、虹夏が救急箱を持って走ってきた。
「お兄ちゃん!帰ってきて良かった…大丈夫?」
「虹夏、遅くなって悪い。傷は多いけど軽傷ばかりだから大丈夫だ。ありがとう」
そう言って虹夏の頭を撫でる弟の顔は、どこまでも兄らしく笑っていた。どう見ても歪で不自然で、弟らしくない顔。
家族であることを失うまいと、兄という仮面で心を隠した、作りものみたいな固い表情。
どうして忘れていたんだろう。いや、忘れていたわけじゃない。気にしなかっただけだ。
あいつは弟だけど弟じゃない。私たちと弟は、血が繋がっていない。
生まれていなかった虹夏は知らないこと。弟が兄という仮面を被った理由。あの日よりも前…失うことを極端に恐れるに至った最初のトラウマ。
───弟は、孤児だった。