俺が戦略的撤退をしている間に、虹夏たちはぼっちちゃんと親睦を深めていたらしい。仲良くなったかどうかはわからないが、ぼっちちゃんがスターリーでバイトをすることになったそうだ。
兄としては、妹に友達が増えることは大変喜ばしい。しかもそれがバンド仲間だというのだからさらに嬉しい。スターリーで一緒に働いていくうちに、結束バンドの名に恥じない結束力を身につけてくれるといいのだが。
まぁそれは今後に期待するとして、俺にはやることがある。虹夏からぼっちちゃんのフォローを頼まれたのだ。妹の頼みとあっては断るわけにはいかない。
とはいっても、直接教えるのは虹夏がやるそうだ。俺はぼっちちゃんとあんまり話してないし当然ではある。
じゃあ何をやるのかといえば、ぼっちちゃんがバイトをしやすい環境作りである。具体的には、口頭説明では覚えにくいことのメモを用意したり、初めてのバイトで仕事に遅れが出てしまった場合のサポートだったり、ないとは思うが仕事をスムーズにできない新人へのクレーム対応だったりだ。
正直あんまり必要ない気もするが、要は何かあるかもしれないから気にかけておいてってことだと思う。基本的には虹夏がなんとかして、虹夏も困ったときに俺がすぐ手助けできるようにっていう。
やはり虹夏は気づかいのできる優しい女の子だ。いい子に育ってくれてお兄ちゃんは嬉しいです。
そんなわけで迎えたぼっちちゃんのバイト初日。スターリーに行くと、扉の前で姉さんが誰かともめてた。というかぼっちちゃんだった。前もこれ言った気がする。
「私はここの店長だけど、あんた客じゃないの?」
(この人が虹夏ちゃんのお姉さん!)
「あっえっと…あの…う……あ……」
「姉さん怖がらせたらだめだろ。その子が新しいバイトの子だよ」
(虹夏ちゃんのお兄さんも来た!!)
「怖がらせてねぇよ」
ぼっちちゃんが何も喋れなくなってたので代わりに答えておいた。多分怖いというより緊張してるんだと思うけど。店長って聞いたら虹夏の姉だってわかるはずだし。いや、やっぱり怖かったのかも。姉さんだし。
いつまでも外にいるわけにはいかないので、とりあえず二人と一緒にスターリーへ入った。
「新しいバイト…そういえば虹夏がそんな事言ってたわ」
「姉さん、自分の店なんだからもう少し気にしなよ…」
(店長さん怖いなぁ…少し苦手なタイプ……)
「…あ!お前段ボールに入ってライブしたギターじゃん!確かマンゴー仮面」
マンゴー仮面ってなんだ。…あっ、あのダンボール“完熟マンゴー“って書いてあったな。それでか。まだ残ってるし、まじでロボみたいにしてマンゴー仮面作ろっかな。
(二つ目のあだな!店長さん好き!)
「まっマンゴー仮面です!」
「えっ本当にそんな名前なの…」
そんなわけあるか。キラキラネームにもほどがあるぞ。いくらきらきらきららでも流石にそんな名前をつける親はいない。
なんて、わいわいと話していると虹夏が来た。
「お!ぼっちちゃん早いね!お姉ちゃんもお兄ちゃんもおは~」
「ここでは店長って呼べよ」
「えへへ、ごめーん」
このやり取り何回目だろ。毎回謝る気ゼロの虹夏可愛い。姉さんもこの虹夏が見たくて言ってるのかな。ありえる。もうそれ以外ない気がしてきた。
「じゃあ仕事しよっか~このテーブル片して、それ終わったら掃き掃除…あれ、ぼっちちゃんどこ?」
「ふぅ…」
「ひと息つかないで!!」
ぼっちちゃんがテーブルの下に入って休んでた。まだ始まってすらいないぞ。どうせ片すし容赦なくぼっちちゃんが入ってるテーブルを動かした。安息の地を失ってオロオロしてる。面白いなこの子。
掃除は俺がやっておくので、虹夏たちはドリンクの方に行かせた。
ちらちらと虹夏たちの方を見つつ掃除していると、ぼっちちゃんが唐突にギターを弾き始めた。なんでだ。
…ん?ぼっちちゃんのギターってこんなんだったか?もっと下手って感じたはずだけど、今は上手いって感じる。まさかこの短期間で成長するわけないし…それに最近どこかで聞いたような?
あれかな。ソロで弾くのとバンドで合わせるのとでは違う、みたいな。いやでもこんなに差があるものか?
あ、仕事しろって姉さんに叩かれた。何故か虹夏も叩かれてる。可哀想だけど可愛い。俺も叩かれないうちに仕事しよう…ってもうそろそろ終わるな。客入ってくるしさっさと箒片付けよう。
なんか不安だけど、ぼっちちゃん大丈夫かな…
──────
そろそろライブが始まるから、受付を代わってリョウを虹夏たちの方に行かせた。今日のバンドはどれも人気で勉強になるだろうし。
客も来ないのでライブの音に耳を傾けていると、弟が来た。
「どうした?なんかようか?」
「いや、掃除終わってドリンクの方も大丈夫そうだから暇になった」
暇って…まぁいいか。弟と二人ってのも、なんか久しぶりだしな。虹夏が中学上がる前の、あの時以来か。
…初めて弟の心に触れたあの時。兄の仮面に隠された本心。あの時は大変だったな。
結局今も弟の心を救えていないが、もう“あんなこと“はしないだろう。
「虹夏、変わったよな」
「変わった?」
「変わったっていうか…動き出したっていうか。バンド嫌いって言ってたのに、今では自分でメンバー集めてバンドやっててさ。なんか…いいなって」
「羨ましいのか?お前は変わってないもんな」
「えぇ…結構変わった自覚あるけどな」
確かにシスコンになったし馬鹿にもなったが。それは割と私のせいでもあるしな。私から見れば、弟は臆病なまま変わってない。
弟の心は、まだまだガキのころのまんまだ。虹夏に失望されたくないから、弱い心を兄の仮面で隠す臆病者だ。しかも自分で自分の弱さを受け入れられてないからさらにめんどくさい。
「まだ“兄らしさ“に固執してんだろ?いくら仮面を分厚くしたって見えなくなるだけで、中身は変わらないさ」
「…それは…………そうだけど」
「そうだ、お前もバンドしてみたらどうだ?虹夏みたいに変われるかもしれないぞ。あの日の精算はしたんだろ?」
「それは無理だよ。未だにベースを持つと…手が震える。指先から感覚がなくなって、頭が真っ白で、動かなくなる。あの日…ベースが弾けなくなった日のままだ。あいつらへの精算は終わったけど、楽器にはまだ向き合えない。こんな姿、虹夏には見せられないよ」
はぁ…めんどくせぇなこいつ。いつまでもウジウジしてるくせに、虹夏の前ではしっかりとした兄を演じて。そんなだから余計に引きずるんだろうが。
「それは、楽器じゃなくて自分に向き合えてないんじゃないか?音ってのは感情が表れやすいんだ。だから自分の音…自分の感情が怖くて、音を出すことができない」
「…もしそうなら、楽器より向き合うのが難しいな。自分の感情があの日のままなら、正気でいられる自信がない。また塞ぎ込むかもしれない。兄の仮面をつけれないほどに」
「…いつかでいい。でも、少なくとも待ってるやつが二人いる」
「……ははは。なら、頑張らないとな。俺はお兄ちゃんで…弟だし」
また“お兄ちゃん“かよ。自分を見ろって言ってんのに。もうほとんど無意識なんだろうな。
兄だから、妹のために。兄として振る舞い、家族であるために。ずっとそうやって心の傷を無視したから、“あんなこと“になったってのに。
やっぱりまだ早いか…良かったんだけどな。こいつのベース。
「“音は感情が表れやすい“って虹夏も言ってたよ。やっぱり姉妹だね。仲が良くてなによりだよ」
「うるせぇ…言っておくが、お前も私たちの家族だからな。お前がどうなろうとも、どうしようとも、これはずっと変わらない。まさかもう忘れたなんて言わないよな?」
「……うん。言わないよ。あの時姉さんが俺の心を引きずり出してくれたから、こうして姉さんの前でだけ心を言葉にできるんだ。でも、虹夏には“お兄ちゃん“をやめられない。本当の俺を受け入れてくれない、お兄ちゃんって呼んでくれない、また家族を失う。そんなことないってわかってても、勇気が出ない」
ちょっとは本心が聞けたか。自分で言葉にできるようになっただけ、少しは成長してんのかな。まったく私は弟にも甘い。
こんなにこいつが欲しい言葉をかけて、こんなにこいつの心に近づいたのに、言葉にするだけで精一杯で表情の変わらない弟を見て、なんとなく思った。
いつかこの仮面が外れたら、どんな顔をするんだろうか。
音が止んだ。ライブの終わりだ。一瞬の余韻のあと、歓声と拍手で埋め尽くされる。
特にトラブルもなかったし、ぼっちちゃんの初バイトはまぁ及第点だろう。
「ほら、もうライブも終わりだ。さっさと片付けて帰るぞ」
「…姉さん。この後、虹夏たちが帰ったら少しだけ時間いいかな?」
「………少しだけな」
変わってないと思ってたが、私の前で勇気出すくらいには変われてんのかな。
少しだけと言いながら長くなりそうな気はするが、弟のためだ。仕方ない。
「じゃ、今日はおつかれ。気をつけて帰れよ」
「あっお疲れ様でした…」
ぼっちちゃんたちを見送ってスターリーに戻ると、ベースを構えた弟が待っていた。…やっぱり弾く気なんだな。
怖くても、自信がなくても、私がいれば大丈夫だって思ってるのか。随分と信頼されたものだな。
「姉さん、見ていてくれ。俺が勇気を出せるように。聞いてくれ。俺の感情を乗せた音を。姉さんとなら、向き合える気がするから」
弟はそれだけ言うと、黙ってベースを見つめた。手が震えている。弦を抑える力も弱い。ただ腕を降ろすだけの動作を何分も躊躇う。
それでも私は待った。弟が成長する瞬間を。トラウマを乗り越える一歩目を。
静かなライブハウスに、荒い呼吸と激しい心音だけが響く。仮面が崩れ始め、汗が滲む。
そして、ついにその腕を降ろした。
───ベースの音が、静寂を破った。
その音は、その感情は、やはりあの日のままだった。音楽を失ったあの日の、最後の演奏。
恐怖、憎悪、後悔、猜疑、悲嘆。混ざりあった感情の全てが負。
我を忘れて泣きじゃくる子供のように、一心不乱にベースを掻き鳴らす弟の姿があの日と重なり──
「もういい」
「………あ」
私はそっと弟を抱きしめた。そして、ゆっくりとあやすように頭を撫でた。
ベースの音が霧散し、静寂が訪れる。
弟は泣いていた。仮面を外した顔は、こんなにも情けないのか。
「よく頑張ったな。今はこれでもいいんだ。少しずつでいい。今日はもう終わりにしよう」
「………うん。ありがとう、お姉ちゃん」
…“お姉ちゃん“だなんて、本当にあの頃に戻ったみたいじゃないか。
私は弟が落ち着くまで、優しく頭を撫で続けた。
「ただいま」
「おかえり~もう、お姉ちゃんたち遅いよ!ご飯できたからはやく食べよ!」
家に帰ると、頬を膨らませた虹夏がご飯を作って待っていた。
弟の方を見ると、既に兄の仮面をつけていた。流石というかなんというか。まったく…
虹夏に本当のこいつを見せられる日は、いつになるのやら。