天使の兄で、魔王の弟   作:神谷九十九

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伊地知コンプレックス

 

 あの時の話をしよう。俺が初めて姉さんに本心を見せた時の話だ。

 虹夏の卒業式も終わり、家で三人揃う時間が増えた頃。母さんを亡くした傷が癒えてきて、我が家には笑顔と活気が戻った。俺は兄の仮面をしていたが。

 母さんの葬式の翌日から俺に甘えるようになった虹夏だが、姉さんと和解してからは甘えてくることはなくなり、あの時にはもう一人でも平気になっていた。

 平気とは言っても、一人でいるよりはいいと思って兄として虹夏に構い続けた。それが良くなかったのだろう。あんなことになってしまったのは──

 

 

 

 

 虹夏がリョウと遊びに行くために支度をしようとしたときに、それは起こった。

 

「あれ…櫛がない!?おかしいなぁ…確かにここに……」

「櫛?俺があげたあの赤いやつか?」

「そうそれ!」

 

 虹夏の兄を始めた時に渡したものだ。あれから虹夏は使ってくれているが、あの櫛である必要はない。他にも櫛くらいあるし、櫛を探して予定に遅れるなんてことになってはいけない。

 

「洗面所に別のがあっただろ?あれを使いなよ」

「あの櫛がいいの!も~どこやっちゃったんだろ…」

「あの櫛じゃなくてもいいだろ?何か特別ってわけでもないんだし、あんなのまた買ってやるから」

「…あんなの?」

 

 あの櫛は特に高いわけでも、特別な効果があるわけでもない普通の櫛だ。洗面所にあるもので何も問題はない。寧ろ、使い古されて劣化した櫛より良いかもしれない。

 …ん?なんだか虹夏の様子がおかしい。

 

「なんでそんなこと言うの!?信じらんない!」

「なんでって…ただの櫛だろ?」

「おい、お前らちょっと落ち着けって」

 

 姉さんが止めに入ったが、虹夏は止まらなかった。そして、俺とって最も聞きたくない言葉を吐いた。

 

「お兄ちゃんなんて大っ嫌い!もうお兄ちゃんじゃない!!」

「虹夏!!」

「……ごめん、姉さん。虹夏を任せる。少し一人にしてくれ」

「あ、おい!」

 

 姉さんの返事を待たずにその場を離れて部屋に籠る。そのままベッドに転がって、呆然と天井を見つめる。

 お兄ちゃんじゃない、か……そうか。そうだよな。血なんて繋がってないし、赤の他人となんら変わりない。そのうえ虹夏にあんな顔をさせてしまった。完全に兄失格だ。

 今だって、何が駄目だったのかわかっていない。妹の気持ちがわからないままで、どうしようというのか。このままではいけない。これでは虹夏の兄に戻れない。

 虹夏のために兄になるなんて言ってるくせして、結局は自分のためだ。俺が家族でいたいから、もうこれ以上失いたくないから、そんな自分勝手な欲望を虹夏に押し付けた。虹夏のためにという言葉で、虹夏のせいにした。

 なんとも愚かで、醜くて、卑しくて、忌まわしい。こんな人間が兄になろうなどと、もはや近づくことさえ許されない。

 失った。あんなに失うことを恐れていたのに、あんなに大切に守っていたのに。でも全部自業自得だ。最初からそうだった。孤児になったのも、ベースを弾けなくなったのも、母さんが死んだのも、家族でなくなったのも、全部俺のせいだ。

 自分で自分を傷つけて、余計に周りを巻き込んで、迷惑ばかりかけている。それなのに、被害者ぶって偽善を振りまき、最後に不幸だけを残す。

 もう兄の仮面はいらない。兄でなくなったから。

 もう俺はいらない。俺の本質に気付いたから。

 だから、俺は──

 

 

 

 

 深夜。皆が寝静まった頃に、あるものを持って家を抜け出した。

 俺が今からやろうとしていることは、きっと…いや絶対にまた迷惑をかける。でもそれで最後だ。このまま何回も重ねるより、この一回で終わらせる方がいい。

 家の中では誰かが物音で起きるかもしれないから、近くの路地裏まで来た。普段は誰も近寄らないし、人気が少なく音も通りにくい。ここなら気付かれにくいだろう。

 俺は家から持ち出したもの──何の変哲もない包丁を自分に向ける。刃が月明かりで輝き、冷たい死を連想させる。切っ先が首に近づく程に、死の形象が大きく強くなる。

 恐怖はない。悲しみもない。ただ、漸く終わるのだという安堵にも似た何かだけがあった。

 暗闇の静寂に耳をすませて、瞳を閉じ、死に触れる。最期に失ったものを思い返し、未練を捨てる。そして──

 

「おい、何やってんだ」

「ッ!?」

 

 ──手が止まった。静寂を切り裂いて、聞き覚えのある声が鼓膜を震わせた。目を見開いて、声を辿る。そこには、俺を死なせないという決意を宿した目でこちらを見つめる、姉さんの姿があった。

 

「ね、姉さん……なんで………」

「なんでって言われてもな。まぁ、お前が考えそうなことくらいわかるってとこかな」

「…止めにきたのか?止める理由なんてないだろ」

「止める理由しかないだろ。私はお前の姉だぞ」

「な……何言ってんだ。血なんて繋がってない赤の他人だろ?俺がいたって迷惑なだけなんだ。俺なんかいない方がいいに決まってる。確かに家の近くで死体が見つかったら迷惑かもしれないが、これで最後なんだ。この一回で終わらせて、俺がいたことなんて全部忘れて、虹夏と幸せに暮らせばいいんだ。それでいいだろ?」

 

 それでいいはずだ。それで全部良くなるんだ。俺がいない世界が一番いいに決まっているんだ。

 …そうだ。これはきっと幻覚だ。未練を捨てきれない俺が姉さんの幻覚を見てるんだ。そうに違いない。なら幻覚なんて無視して速く首を──

 

「言いたいことはそれで全部か?赤の他人を自称するくせに、まだ私を"姉さん"って呼ぶんだな。まったくめんどくせぇ弟だ」

 

 ──また手が止まった。首が切れない。無視できない。姉さんの言葉が、俺に死を拒絶させる。

 姉さんが近づいてくる。でも体が動かない。声が出せない。頭が回らない。そして姉さんが俺から包丁を取り上げて、地面に放り投げる。俺にその包丁を拾いに行く気力は無かった。

 姉さんが俺の頭を撫でる。乱暴で適当なはずなのに、抵抗する気にはなれなかった。されるがままで、力が抜ける。ただ姉さんを見つめることしかできない。あぁ、これは幻覚じゃない。

 

「家族に血の繋がりなんていらねぇよ。家族だって思ったら家族だ。私はお前と虹夏の姉だ。お前は私の弟で虹夏の兄だ。そうありたいなら、それでいいんだよ」

 

 涙が、頬を伝う。言葉が、心に響く。温もりが、体に溶ける。感情が、染み渡る。

 ずっと望んでいた。これが欲しかったんだ。失うことを恐れて目を逸らしていたもの。何をおいても大切にしたいと思えるもの。家族の愛情。

 自然と、心の内が言葉になる。

 

「家族になりたかった。でも、失うのが怖かった。孤児になって、ベースが弾けなくなって、大切なものは失ってしまう。なら、大切に思わなければいいって塞ぎ込んだ。母さんが死んで、間違いに気付いた。だから、家族になる決心をした。血の繋がりがなくて、塞ぎ込んでいた俺は家族じゃない。家族になるために兄を演じた。結局兄が何かなんてわからなくて、兄ではないと言われてしまった。もうどうしようもなくて、これ以上失い続けるくらいならって…どこまでも自分勝手で……」

「…そうか。なら改めて言ってやる。それでも、お前は私の弟だ」

 

 姉さんは俺の心を受け止めて、返してくれた。家族の実感を与えてくれた。とても大切なものだ。

 失いたくない。失うことが怖い。でも今はそんな恐怖なんてなくて、暖かい気持ちに包まれていた。とても安心する。心地がいい。

 

「さ、帰るぞ。外寒いし」

「そうだね、帰ろう。一緒に」

 

 俺たちの家に──

 

 

 

 

 翌朝。俺はすぐに虹夏に謝った。また虹夏の兄として過ごしていくために。

 

「虹夏。昨日はごめん。虹夏があんなに大切にしてくれているなんて思ってなかった。嬉しかったよ。ありがとう」

「…ううん。あたしもごめん。ひどいこと言っちゃったよね。櫛も見つかったし、もう大丈夫だよ。ありがとう、お兄ちゃん」

 

 そして、お互いに笑い合った。

 虹夏には兄の仮面のまま接した。でもそれは、家族になるためじゃなくて、家族であるためだった。失わないように、弱い本心を隠すために。

 困ったときは姉さんに相談するようになった。姉さんは弱い俺を知っても、受け入れてくれているから。

 

「そういえばお前、兄が何かわからない…みたいなこと言ってたよな」

「言ったけど…どうかした?」

「これ、読んでみるか?こういうの手つけたことないだろ」

 

 これは…漫画?確かにこういうジャンルの漫画は読んだことないけど…家族をテーマにしていると、読める気がしなくて。

 

「お前の漠然としたお兄ちゃん像の参考になればと思ってな」

「なるほど。ありがとう。早速読んでみる」

 

 この漫画を始めとして、妹を持つ兄が登場する作品を色々と読んでみた。そして共通点を見つけた。

 兄は皆、シスコンである。シスコンとはシスターコンプレックスの略で、簡単に言えば姉や妹が大好きってことだ。多少盲目的に。

 それに気付いて以来、俺は虹夏に愛を持って接するようになった。

 

「あ~失敗したかもな…」

 

 姉さんの呟きは、残念ながら俺の耳には届かなかった。

 

 

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