今年から受験生。
中学三年生になった初日から、そんなことを言い聞かされてきたけれど、どうにも現実感がないというか、勉強に身が入らないというか。まだ四月なのに、季節外れの五月病に罹ったのか、単に私が本質的に怠惰なのか。私は受験生で、今は授業中であるにも関わらず、当てもなくグラウンドを眺めていた。
何処かのクラスが体育の授業をやっているわけでもないし、野良犬が這入り混んできたりもしていない。
春風に吹かれて、白線が砂に紛れて消えかけている。小学校と違ってブランコやジャングルジムのような遊具もなく、かろうじて鉄棒と砂場があるだけの、面白味のかけらも無いグラウンド。そんな地味な光景を見ていても面白くなく、だけど授業もやっぱり退屈だ。
私こと、有栖卯乃の成績はお世辞にも良いとは言えない。悪いと言われない程度の成績は修めてきたつもりだけれど、それでもかろうじて、可もなく不可もなくといった具合だ。
そして何か得意なことがあるわけでもなく、何か特別な特技や趣味があるわけでもない。普通の中学生にしたって、もう少し何か個性があるだろう。
私の個性なんて精々が、無愛想で可愛げの無さすぎる顔と、それに似合わないにも程がある可愛すぎる名前くらいだ。……どっちも親から譲られたものってのが、また悲しいというか、いっそ私らしいというか。
いけない。いくら個性が足りないとはいえ、こればっかりは個性として認めたく無い。けれどどうしようも無く最悪な、私の悪癖──私は暇になるとネガティブシンキングに陥る癖があるらしい。ただネガティブなだけなら、むしろ陰気な顔の私にはお似合いだけど、この考えが加速すると不味い。それこそ、季節外れの五月病なんて冗談を言っていられなくなる。
せめて明るいものを見ようと、グラウンドを呆然と眺めていた目を少し上に向ける。太陽を探す。けれど太陽を肉眼で直視しちゃいけないという子供でも知っている常識を思い出して、代わりに雲を眺めることにする。
が、雲すらない。清々しいほどに眩しい、真っ新な青空が広がっていた。
そして次の瞬間に、綺麗な空は赤く染まった。
「は、……は?」
夕焼け小焼けのような綺麗なものじゃない。
血だ。真っ赤な血が、まるで地面にぶちまけたみたいに、空に広がっている。
「……いやいや。いやいやいやいや」
目を疑って、目を擦ってみても、見間違いではない。
空が血で染まっている。
「どうした有栖。あと五分だから集中して……、……は?」
私を注意した先生も、外を見て固まった。釣られるようにクラスのみんなが窓の外に注目する。授業の雰囲気は一瞬にして崩壊した。
私の見間違いでも、私だけが見えてる幻覚というわけでもなく、あれは現実……?
呆然と見ていると、何か降ってくるのが見えた。今更、空から死体の一つや二つ落ちてきても不思議ではない異常な光景だけど、それ以上の何かが、グラウンドへと
人型だけど、どう見ても人間ではない何か。
「お、おい! どうなってんだよあれ!」
「なんか落ちてきたぞ!?」
「なになに、宇宙人!?」
この教室内だけじゃなくて、隣の教室からも騒々しい声が聞こえてくる。
こういう時に一緒になって騒げるようになれば、私の陰気なキャラも幾らかマシになったりするのだろうか。
とはいえ今すぐにはどうしようもなく、私はジッと、グラウンドに着地した何かを観察する。じっくりと。しっとりと。じんわりと。
空からやってきた、人型の何か。浅黒い外骨格のような何かで覆われた、特撮の怪人のようなそれは、言葉を口にした。
ここは二階の教室で、怪人はグラウンドの真ん中にいるのに、その声はまるで校内放送のように正確に聞き取れる声量で響き渡る。
「我、完全無欠の魔族なり──!」
……拗らせすぎた厨二病患者、じゃあないのだろう。空が血溜まりのように染まる異常事態を解決しにきたヒーロー、という雰囲気でもない。あの悍ましい声は、むしろ事件を起こす側だ。
「隠れず出てこい魔法少女──! か弱い子供たちの命が惜しくなくばな──!」
やっぱり厨二病患者だろうか。いい歳こいて魔法少女とか、痛々しいにも程がある。
「魔法少女って、何言ってんだあいつ」
「自分で完全無欠を名乗るとか、痛すぎだろ、ウケる」
「なんだろ、プロキュア?」
ぎろり。
完全無欠の魔族を名乗った怪人は、怒ったように、澱んだ目で私を睨んだ。
というより、私たちを、こっちを睨んだ?
下手に触れようものなら切り傷じゃ済まなさそうな刺々しい目は、この距離でもわかるくらいに、殺意と憎悪に満ちている。子供くらいなら睨んだだけで殺せそうな眼をしている。
「くははははははは──! 我の計画に未遂無し──!」
怪人は、校舎に向かって突撃してくる。どう見てもアクセルを踏み間違えた顔じゃない。あの様子で校舎に這入ろうものなら、間違いなく皆殺しにして回るだろう。それほどに説得力のある顔をしている。……していた。もう見えない。
ドガガガゴゴゴゴゴゴ──!!
強烈な破壊音を最後に、私の記憶は途切れた。
……ここは、
……どこだろう。
天井が白い。
私はベッドか何か、柔らかいものの上で寝ているらしい。
「おはよう。どこか痛むところはないかな」
「は──」
知らない男の声が横から聞こえる。……というか、声の方向に顔を向ければそれは見えた。
色白なのに暗い顔。
どことなく親近感を覚える、闇の瞳。
身なりはいやらしくない程度に整っていて清潔感もあるのに、それでもどこか社会とは隔絶された悪人の雰囲気。
仕事人は仕事人でも、必殺仕事人って感じの男だ。
「おっと、知らない男と二人きりだからといって、大声をあげたりはしないでくれよ。一応ここは病院なのだからね」
「……びょう、いん?」
びょういん。病院。……病院?
何故?
ここ何年かは病気にはなっていないし、幸いにも病院にお世話になるような怪我もしていないのに。
顔に似合わない、爽やかな風のように通る声で男は語る。
「理屈っぽい説明は苦手でね、端的に伝えよう。君はかの強大な魔族──完全無欠の魔族に殺されたんだ。正確には殺されかけた。死にかけた。……そして死の魔法使いに治療されて、今、ここに至る」
言いながら、男は何かを差し出した。
受け取ったそれは、手鏡。
百円ショップで売っていそうな、持ち手がピンクのプラスチックで出来た安っぽい鏡だ。
当然、そこには私が映る。
「安心したまえ。死の魔法使いは既婚者で女性だし、恥ずかしがる必要はない。それに顔の傷も完璧に治っているはずだ」
「いや、そこは」
どうでもいい。
そんなことよりも、そもそも、何があったのかもよくわかっていない。
顔に怪我をした? 服も制服じゃなくて、入院着のようなものに着替えさせらているし、もうさっぱり状況についていけていない。
「……何があったんですか」
「さて。何があったのだろうね。世界が滅びかけたと言っても、今の君では理解に及ばないだろう。滅びの第一歩として、君の学友達が一人も残らず死んでしまったとしても」
「世界が滅び、かけた」
かけた。
「君も見ただろう? 血で染まった赤い空。そして完全無欠の魔族」
完全無欠の魔族。その名前は覚えている。あの怪人が名乗っていた名前だ。異常に赤い空も、覚えている。あの怪人はよくわからないけど、あの空が滅びの前兆と言われたら、そうなのだと思えた。
「魔族というのはまぁ、世界を滅ぼす爆弾のようなものなのさ。殺意と人格と肉体を持った、強烈で最悪で残虐な爆弾だよ」
「…………」
この人も厨二病なのか。
……なんて、冗談を言う余裕はない。
荒唐無稽な話だけど、嘘を言っているとも思えなかった。
「その魔族? って人、どうなったんですか」
「僕が殺した。全く、慣れない役回りをさせられたものだよ」
説得力のある顔だ。この人にはきっと、ドッキリ大成功のプラカードよりも血の滲んだナイフがよく似合う。
「ま、済んだことは気にしなくていい」
「……はあ」
世界が滅びかけたとか、人を一人殺したとか。済んだことなんて軽い言い方で済ませていいのだろうか。
まあ、私には関係ないか。
「そんな後ろ暗いことより、君の今後について、僕は伝えなきゃいけないことがあるんだ」
「私の今後、ですか」
そういえば学友、っていうか同級生たちは、誰も残らず、一人も生き残っていない、みたいなこと言ってたような。
「君は魔法少女となったからね。残りわずかな命、気まぐれに残してしまった以上は僕も無関係とは言えなくないからね」
「……は?」
残りわずかな命。その言葉は嫌に私の心にこびり付いた。
ちょっと待って、魔法少女になった?
誰が? 私が?
「そうだ、僕としたことが名乗り忘れていたね」
男は人を喰ったような笑みを浮かべて、名乗った。
「僕は混沌の魔女、ニャルラトホテプ。魔法少女達の教育係、みたいなものさ」
自称”這いよる混沌”の笑みは、どうしようもない、救いようもない、暗く黒い闇色だった。