落書きされすぎて、綺麗な場所を探す方が難しいくらい色とりどりに彩られた机。
液体糊にスティック糊、木工用ボンドに瞬間接着剤、しまいにはホチキスに画鋲、釘まで刺さり、一体何を捕まえようとしたのかと、誰かに問い詰めたくなる椅子だったはずの何か。
床には椅子と机を何かから隔離するように、ペンやテープを使って線が引かれている。
懐かしい光景だ、と。私はまるで他人事のように思った。
ここは教室で、あと二分もすれば授業が始まる。
廊下からは小学生が忙しなく走る足音と、声変わり前の男子の高い声が聞こえた。
カレンダーは六月で、窓の外では雨が降っている。
思い出した、と。まるでこれが過去の事のように私は考えていた。
胸元に安全ピンで止まっているであろう、名札を持ち上げて逆さに見る。
──五年一組19番
──田中卯乃
やっぱり。そこには有栖などという可愛すぎる苗字ではなく、普通で無難な、父の、そして私の旧姓が書かれている。
有栖とは、母方の苗字だ。私の父親が再婚したときに、私は田中から有栖になった。小学六年生の時のことで、一年後の梅雨明けの頃だ。
当時は慣れない苗字に戸惑ったし、画数が増えて面倒としか思えなかった。そんな些細な苦労が報われるのは、奇抜な苗字に救われるのは、さらに一年後──中学生になってからだ。
小学校という六年間を拘束される環境は、当時の私には地獄そのものだった。
美しさ、可愛らしさとは時に罪であるということを、あの手この手で教えられる六年間。
知らなかった罪を自覚させられる六年間。
ありもしない罪を裁かれ続ける六年間。
私の席を囲う床の線は鉄格子のつもりだったのだろうか。
ならば椅子のような何かは電気椅子か。
机は──なんだろう。汚いなとしか、当時も思っていなかった。現実はそうでもないらしいけれど、これは当時のクラスメイト達が思い描く刑務所のイメージを具現したものだったのだろう。
今となっては──と。距離をおけば見方も変わるかと思えたけど、距離を置きすぎたのだろうか。今更、どうとも思えなかった。
例えばこの夢にクラスメイト達がいたとして、嘲笑いながら現れたとして、私を罪人のように蔑んだとしても、どうせ中学生三年生になった頃には殺されるのだから。
そう思うと清々──とも、思えない。
恨んでいたし嫌いだったし死ねとも思っていたが、知らないところで死なれると、どうとも思えない。
本当は当時も、中学三年生になってからも、何も思ってはいなかったではなかろうか。
現にこうして、きっとこれは夢だけど、誰一人として顔を思い出せない。名前も分からない。いつも教卓の横にかけられていた名簿を見ても、そこに田中卯乃以外の名前は書かれていない。
私を助けたらしい、混沌の魔女が言うには、私は魔法少女なのだとか。
冗談じゃない。いくら苗字がそれらしかろうと、私なんかにそんな煌びやかな役が務まるものか。
魔族とやらの方がまだ務まるだろう。……なったとして、世界とか人類を滅ぼそうと思える自信はないけれど。
私を罪人のように扱ってきたクラスメイト達は、何を思って、私をどう恨んでこんなことをしたのだろう。
何があったらこんなにも人を恨めて、人を害そうと思い、実行に移すまでになるのだろう。
子供特有の無邪気さというやつか、あるいは単に正義感か。
「難しく考えすぎだと思うな」
「……は」
後ろから、声をかけられた。驚いて間抜けな声が漏れる。
誰もいなかったはずの教室で、扉を開ける音も、足音もなく聞こえてきたその声。
廊下から今も聞こえてくる小学生の声よりは低く、声変わり後の女子の声よりはちょっと高い、子供のようにも大人びたようにも聞こえる中性的な声。
振り返ったそこにいたのは、私とそう背丈の変わらない子供のような、けれどどこか大人びたようにも見える、気だるげな雰囲気を醸す人がいた。少年のような少女。少女のような少年。
「はじめまして。ボクは自堕落の魔法少女、エラ。──君は?」
魔法少女を名乗るにしては、服装が地味すぎる。
単に部屋着や寝巻きと言われたらそれまでだけど、その地味な服装が妙に似合っているのは何故だろう。
「私は、有栖卯乃」
「……うん。まあ、別にいいか。初めてだろうし、まだ慣れていないのかな」
一瞬、訝しむような目になったけれど、すぐに納得したように頷いた。なんだろう。何か不作法があっただろうか。そんなことは置いておいて、私は尋ねる。
「これって、もしかして夢じゃないの? 魔法少女の魔法、とか……?」
「これは君の夢だよ。ちょっとだけ、ボクの魔法が混じってるけど」
「……何をしたんですか?」
「無理に畏まらなくていいよ。確かに、ボクは魔法少女としては先輩だけど、歳は大して変わらないだろうし。魔法少女はみんな対等であるべきさ」
魔法少女としては先輩──その言葉が、妙に耳に残った。
確かに、小学校高学年から中学生くらいで年下でも全然ありえるだろう体付き。現実であれば、学生であるべき年齢だろう。
にしては不自然なくらい、胸が平ら過ぎる気がするけれど。
「うふふ。心配しなくていいよ。気になって話してみたくなっただけで、例えば新人の生意気な魔法少女を
「……話したいだけなら、普通に会えばいいんじゃ」
「ボクの名乗りを聞いていなかったのかい? ボクは自堕落だからね。楽するためなら催眠も辞さないのさ」
……要するに、魔法の無駄使いか。
中学校から病室へ、病室から小学校へと、ぶつ切りに途切れ途切れな記憶を思い返すに、混沌の魔女が病室を出てすぐ、私は眠らされたのだろう。
「ボクは君に何を聞かされるよりも先に、まず聞きたいのだけど──君は何の魔法少女なのかな」
「何のって、なにが……?」
説明されずとも、察しはすぐについた。
つまり私にも何か、そう名乗るべき名があるのだろう。
○○○の魔法少女、みたいな。
「……それって、言わなきゃだめなの?」
「当たり前……って、なったばっかりじゃ知らなくても仕方ないか」
当たり前のことなのか。その厨二病真っ盛りな名乗りは。
「ボクの”自堕落”とか、ボクの妻の”死”とか、君を助けたらしい先生の”混沌”とか。ボク達は”属性”って呼んでいるのだけど、それを名乗らないのはマナー違反なんだ。名乗らなかったり、属性を偽ったりなんてしたら、それこそ、魔法少女達に殺されても文句を言えないくらいの禁忌だよ」
「そんなこと、言われても」
そんな危険なマナーがあるなんて知らなかった。
私の魔法少女としての属性なんて知らない。
……なんて、そんな言い訳が通じる話ではないのは、魔道士の知り合いがまだ二人目の私でもわかった。
「恥ずかしいなら、形式まで無理に習う必要はないさ。でもそれはそれ。君の属性を教えてくれないかな」
「知らない、……のだけど」
「……へー。ほーん。なるほどなるほど。──って、そんなわけないじゃん!」
ツッコんだ。自堕落の名にも、ダボダボな服にも似合わないくらいに声の張られたツッコミだった。
でもそんな頑張られても、知らないものは知らない。
「知らないものを教えてと言われても、私も知らないとしか……」
「嘘じゃなさそうだね。……ちょっと不味い、いやむしろボクが先に知っておいて正解だったかな……」
「普通は、知ってるものなの?」
「うん。特に魔法少女は、敵を前にして名乗らずにはいられないからね。猿が自分を猿だと認識できるのと同じようなものだよ」
「それ、私を猿以下って言ってる?」
「うふふ。残念ながら時間切れだ。目覚めた君の前にいるだろうボクの妻、死の魔法使い──ライラは優しいから大丈夫だろうけど、もし何かあったらボクの名前を叫ぶんだよ。聞こえたら、助けてあげるからさ」
自堕落の魔法少女──エラの微睡むような微笑みを最後に、私の夢は終わり、ベッドの上で目を覚ます。
おそらくそう長くないだろう睡眠は、私の心に幾らかの余裕と、結構な不安をもたらした。