四宮雁庵──────四宮家現総裁であり、先代から総裁を引き継いだその瞬間から、四宮家の立ち位置を更に押し上げた、俺から見れば怪物である。
齢八十五、病気らしい病気をした事もなく、大きな体の衰えを見せないまま手腕を発揮するその姿は、まさに怪物であった。
ほんの数日前は、だが。
脳梗塞、それが親父を蝕んだ病気の名前だ。
何の前触れもなく、突然親父が倒れたという話ではあったが、親父自身、倒れる間際に体調の変化を感じていた筈だ。脳卒中には初期症状があり、たとえ軽度であってもそれに親父が気付かない筈がない。
しかし親父はそれを、周囲の人に見せず、悟らせず、いつも通りの激務を熟し、結果取り返しのつかない所まで親父の体は蝕まれた。
言うまでもなく、自業自得だ。若くない癖に無理をしてぶっ倒れて、こうなる事くらい親父には分かっていた筈なのに。
擁護の仕様がないくらいの自業自得─────だが、そんな事をしたのは何故なのか。
もし、俺にもう少し
勘違いされるかもしれないが、親父は生きている。田沼先生曰く、もうダメかもしれないという所まで陥ったというが、流石は怪物といった所か、親父はまだしぶとく生き残っている。
生き残って─────依然と
─────
「こんな風に、兄弟が一堂に会するなんて、正月以外じゃあ初めてじゃねぇか?」
「一堂、じゃあないでしょう。かぐやはいません」
「あぁ…言い方が悪かったな。
「別に、フェミニストになったつもりはありません。ただ、かぐやは俺の掛け替えのない妹ですから」
話は一気に変わるが、俺は現在、京都にある四宮家本邸にいる。
本邸にあるとある一室にて、座布団の上に腰を下ろす俺は、室内にいる俺以外の三人の内の一人と言葉を交わした。
四宮家の長男であり、親父が俺を後継者として正式に指名するまでは、四宮家の次期当主候補筆頭だった。
「おい、俺はこんな下らん世間話をするためにここへ来たんじゃねぇぞ」
俺と黄光の短い会話を聞いていた、別の男が微かに苛立ちを募らせながら口を開く。
「雲鷹。折角こうして兄弟─────一人足りないが、集まれたんだ。少しくらい近況を話し合ったって、罰は当たらんだろ?」
「ハッ─────。近況を話し合って、俺と総司の情報を少しでも集めようって魂胆か?生憎、俺は
「敵、か…」
兄弟、なんていっても、四宮家でいう兄弟とは正に、たった今雲鷹が言った
睨み合い、探り合い、蹴落とし合う。身内同士で平気でそれらを行うのだから、敵という一言意外にどう表現が出来ようか。
「だが、そうは言っていられない状況だと、お前も分かっている筈だ」
「…フン」
黄光に睨まれた雲鷹は、その言葉には異論はなかったらしく矛先を収める。
そう。
四宮家にとって、身内というのは敵に等しい。俺とかぐやの関係性の方が、極めて稀なのだ。
むしろ、今の黄光と雲鷹の様な関係性の方が、四宮家の歴史において例としては格段に多いだろう。
だが、先程黄光が言ったように、そうは言っていられない状況というのが今だ。
「親父の脳を田沼に診て貰った。恐らく、脳血管性認知症が急速に進むだろうという話だ」
「…ったく。溝鼠の動きが大きくなってるこの時期に、面倒臭ぇ親父だ」
この日、俺達兄弟が一堂に会した理由は、今黄光が言った話─────親父の現在の状況が大きく関わっている。
親父は脳梗塞を発症し、一命を取り留め、現在は依然と殆ど変わらない様子を見せてはいるが─────その脳を、確かな後遺症が蝕んでいた。
その名は、
親父が発症した脳梗塞や、脳出血、くも膜下出血など脳の血管の病気が切っ掛けとなって発症する認知症。
基本的な症状は、他の認知症と同様だが、脳血管に障害を受けている部分の機能は低下しても、障害を受けていない正常な部分の機能は保たれる。
まだら認知症なんていう風にもいうが、簡単に言えば、出来る事と出来ない事が明確に分かれる。しかし、認知症が進行していけば、今まで出来ていた事も当然、出来なくなっていく。
「親父は、積極的な延命治療をするつもりはないらしい。田沼からは、この調子だと一年保つかどうかと言われている」
脳血管性認知症を発症してからの寿命は、男性は平均五年だ。しかしそれは、医療機関でちゃんとした治療を受けながら、の話だ。
どういうつもりなのかは知らないが、親父は積極的な延命を望んでいない。
ちゃんとした治療を受ければ平均で五年、十年以上生きられるという例もあるというのに。
「症状が進行すれば情けない自分を晒す事になる。生き恥を掻きたくないんだろ?あの親父らしいじゃないか」
「黙れ、青龍。これは真剣な話だ」
ここに集まってから、ずっと喋らず、興味を示す事もなく、爪の手入れを続けていた最後の一人─────青龍が茶化すように口を挟んだ。
それに苛立ちを見せた黄光が諫めると、青龍は肩を竦めてこれ以上何を言う事もなかった。
「とにかく。どういうつもりかは知らんが、親父の意思が延命を望んでいないのなら、俺達に口を挟める権利はない。…が、それだと親父の命は一年─────或いはそれより短いか、とにかく、その周辺で、四宮の現当主は死ぬ」
そう、今回俺達が集まった理由は、その話をするためだった。
「雲鷹が言ったように、四条の動きが活発になってきた。その状況で、当主に空きが出るのは拙い」
親父の命はもう長くない。その上、認知症が発生しているのなら、余命として宣告された一年よりも前に、間違いなく当主としては使い物にならなくなる。
そうなれば─────四宮が弱体化するのは避けられない。
「この場で決めようと思ってな。親父の後を継ぐのは誰か…、俺か、総司か」
「…」
黄光が、俺を横目で見遣る。
俺もまた、黄光の視線を受け止め、視線を返す。
ヒヤリと奔る沈黙。俺と黄光の間で漏れてぶつかる、微かな敵意。
雲鷹は表情を変えず溜め息を吐くのみ。青龍は平静を装おうとしているが、微かに表情が強張っていた。
「決めるも何も、んなもんとっくに決まってんだろ。親父は総司を指名してんだからよ」
「あぁ。…だが、総司はまだ十六だ」
俺と黄光が睨み合い、沈黙が続く中で雲鷹が口を開いた。
ため息混じりで発するその言葉に、黄光は一度頷いてから、しかし反論の言葉を口にする。
「大学どころか高校も卒業していない。若くして当主を継いだ親父でも、その歳は30を超えていた。…いくら何でも、総司が継ぐには早すぎる」
黄光に言われるまでもなく、これまで血の繋がった身内や、傘下の関係者達から言われてきた。
耳に胼胝ができる程に聞かされた台詞。正直、条件反射で苛立ってしまうくらいだ。
「年齢を言うなら、兄貴だってもう六十超えてんだろうが。体力的にどうなんだよ」
年齢を理由に今すぐ俺が家督を継ぐ事に反対する黄光に対し、雲鷹もまた年齢を理由に黄光が家督を継ぐ事に反対する。
俺とかぐやは、親父が七十を超えてから産まれた。その為、雲鷹とは親子ほどの、黄光とは祖父と孫ほどの歳の差が離れている。
俺が年齢を理由に家督を継ぐべきではないというのなら、体力的に衰えが目立ち出す年齢帯の黄光もまた、家督を継ぐのはどうなのかという雲鷹の論理だった。
「あぁ。だから、俺は総司が大学を卒業するまでの繋ぎだ」
「──────」
黄光は、雲鷹の論理に反対をする事はなかった。
自身が家督を継ぐべきではないと受け止めた上で、しかし今この場で家督を継ぐに相応しい理由を持ち出した。
何かしらの反対をされると思っていたのか、雲鷹の表情が固まる。
そんな雲鷹を見て何が面白いのか、青龍がニヤリと笑みを浮かべていた。
「俺は何も総司が四宮を継ぐ事に反対している訳じゃねぇ。ただ─────今は時期尚早だと思ってるだけだ」
穏やかな笑みを浮かべ、黄光は雲鷹を宥めるように声を掛ける。
「思う所がない訳じゃねぇが…、こいつの才能は本物だ。四宮を継ぐに相応しい─────どころか、それに余りあるとすら俺は思ってる。だが、継ぐべきは今じゃねぇ」
それっぽい言葉を重ねて、雲鷹を納得させようとしている風を装って、更に続ける。
「高校、大学に通いながら当主の仕事を熟すなんて、いくら何でも出来やしねぇ。だから、その間は俺が代わりをするっつってるんだ」
「兄貴…てめぇ…」
そんな事、微塵も思っていないなんて、俺にも雲鷹にも気付かれているのに。
そしてその事を黄光自身が気付いていてなお、
「ここは、俺が家督を継ぐ。親父の重鎮だった奴らも納得済だ」
「…クソが」
苛立ちを隠そうともしないまま、雲鷹が毒を吐く。
しかし、これ以上は何も言い返そうとせず、頬杖を突いて黄光から視線を逸らした。
事実上の、敗北宣言である。
「総司。おめぇもそれでいいな?」
前座を下したら、後は本命。黄光が穏やかな笑みをそのままに、俺の方を向いて言葉を掛けて来た。
「安心しろ、総司。おめぇが当主になるまでの間は、俺が何とかするからよ」
違う。そうじゃない。
この男が当主になってしようと考えているのは、俺が当主を継ぐまでの繋ぎ等ではない。
俺を安心させるために浮かべている様に思えるその笑顔の裏で、何を考えているのかなんて、俺には筒抜けだ。
「勿論、約束の時が来たらおめぇに家督を渡す。持ち逃げなんてするつもりはねぇ」
この男は、俺が当主になるまでの間に、自分の思う、自分に都合が良い基盤を築き上げるつもりなのだ。
俺が四宮の当主を継いだその瞬間、俺が何をしようとしているか、四宮を
女を軽んじ、かぐやを駒としか思わず、自身の部下の自主と権利を無視した封建的考え。
まさに、今の古い四宮の考えの権化といってもいい黄光が、その四宮の根本を変えていこうと考えている俺に、素直に家督を明け渡す筈がない。
「俺を信用できねぇのは分かるけどよ、今は互いにいがみ合ってる場合じゃねぇ。兄弟が団結して、この危機を乗り越えなくちゃならねぇ時なんだ」
そんな男から、こんな綺麗ごとが聞けるとは。
驚きを通り越して感動が、それを通り越して今度は気持ちの悪さを覚える。
今この状況でなければ、すぐにでもトイレか洗面所かへ行って、嘔吐していた所だ。
「だから、総司。今は俺に家督を譲れ。…おめぇは正式に親父から次期後継者と指名されてるからな。おめぇから許可を貰うのが筋ってもんだからよ」
これも、心の底からそう思っている訳じゃないんだろう。俺がここで断れば、力づくにでも家督を奪いにくる心積もりの筈だ。
ただ、今、穏便に事を進めようとしているのは、俺の派閥の連中からの反発を嫌ったのだと思われる。
互いにいがみ合ってる場合じゃない─────この言葉だけは、本心から出たものだろう。
ここで俺と全面戦争になんてなれば、四条どころか他の敵対グループに大きな隙を見せる事になる。
黄光もそれだけは避けたいと思っている筈。
それを踏まえた上で──────俺の答えは初めから、決まっていた。
「断る」
俺がそう言い放った直後、黄光と青龍の顔が固まり、雲鷹の顔が面白げに歪んだのが見えたのだった。
という事で、初めてアイの名前も出ない回でした。
次回も兄弟会合が続きます。