少年は失う。
当たり前だった景色を。
当たり前だった温もりを。
当たり前に続くと思った大切な時間を。
だから、闇を纏った。
闇に紛れ、恐怖を与える存在へと変わった彼は、悪を振り回す奴らを根絶やしにすることに生涯をかけることを誓った。
悪は滅びるべきだ。
そのためなら、法も秩序も関係ない。
圧倒的な恐怖でねじ伏せるだけだ。
そんな存在が、外界へと放たれたらどうなるだろう。
指向性も常識性も持たず、それでいて悪を恐怖に陥れるほどの力が無秩序に振るわれたとしたら。
世界全人類が共有する、無様な欲望。
汚い嗤い声を上げて世の中を見下し。
紛い物の平和を嘲笑って謳歌する世界。
それをぶち壊すことになるだろう。
これは、全ての悪に復讐を誓った男を中心に、ぬるま湯に浸かった悪党共に恐怖を拡散していく物語。
◇◆◇◆◇
何もかもが変わったあの日、彼は復讐を誓った。
闇に覆われて、全てが夜に包まれた街で両親に連れられて劇場を出た瞬間、とてつもない悪寒がした。
身を切るような寒さだったこともある。だが、それ以上に不気味に包まれた空気に鳥肌が立つ。どんよりとした曇りに渦巻く風、街灯の青白い光の下で投げ捨てられた新聞やゴミ袋が風に拐われている。
少年には恐怖でしかなかった。
夜の街は怖いところと教えられていたこともあり、暗闇に満ちた風を受けて思わず身震いをし、身を隠すようにコートの襟を立てた。怖いものを見ないようにするという子供なりの微力な抵抗に、母親が明るい笑顔で話しかける。
『面白かったブルース?』
輝かんばかりの笑顔。その暖かい笑みに照らされた少年は瞬間恐怖を忘れた。
『うん! とっても面白かった!』
純粋に、彼は笑った。
心配させまいという気持ちは多少はあったが、それ以上に共に楽しめたことに喜びを見せたかった。
『そうか、それはよかった。お前を連れて来た甲斐があったな』
少年の肩に頑丈な手の温もりが伝わってくる。
もう、少年は先ほどまで感じていた恐怖を忘れていた。両親に挟まれて優しい笑みが近くにある限り、彼に怖いものはなかった。
親子達は帰路につくために、劇場から出て行く大勢の客から離れて薄汚い石造りの建物を通り過ぎる。遠くに停めた車まで歩くための距離はどれくらいか、少年には見当もつかなかった。
しかし彼はこう思ったことだろう。とてつもない冒険をしている、と。そもそも、こんな時間に子供がうろつくなんて本来あり得ないと言ってもいい。
この街は、世界一治安が悪い。
少なくとも他の国や地域からはそう評されている。
街を歩けばゴミが散乱してるのは当たり前、並べられた店も次々と閉められ、まさに見捨てられたような場所だった。
鼻を折るほどの臭いに不快さを感じ、道行く人たちの中には素行が悪そうな者達が多く見られる。服の所々に泥や穴が空いており、体臭も酷い。雑音でしかない笑い声を上げ、道に唾まで吐いている始末。どんな教育を受けたらそんな人間になるのか、少年には理解不能だった。
そんな奴らに比べて、少年はとても裕福な暮らしをしていた。
きっちりとした教育を受け、治安の悪い街に出る機会などなかった彼にとって、この場所はまさに魔境に見えただろう。
『ほら二人とも、こっちだ』
父親は妻と少年を抱えて、小道へと消えて行く。
暗くて、ゴミと泥で濁った水たまりに薄汚いネズミが通り過ぎるが、向こうの方に明るい街灯があることに少年は気付いた。
両親に挟まれて不気味な路地を抜けようとした。
直後、
『······おい』
不意に背後から声がした。
狭い路地に響き渡る声に思わず三人とも振り返ると、フードを深く被った男がそこにいた。
『······』
大声で呼び掛けたのに、男は顔を上げない。
俯いた状態で、ブツブツと何かを呟いている。聞き取れた単語は僅かなもので、『なんでお前····が』『俺だって······してるのに』『こん·····理不···だ』と断片的にだがそう聞こえた。
そもそも、今となっては何を言っていたのか思い出せない。
それ以上に衝撃的なことが起きて、そちらの方が脳に焼き付いている。
男はとにかく自分達しか捉えていなかった。
フード越しに見えた瞳は、大富豪“トーマス・ウェイン”しか見ていない。
対して、トーマスの方も驚いていなかった。
それどころか、彼は妻と子を守るように前に一歩出て、
『······私に何か用かね?』
彼は表情を一切変えずにそう言った。
そこで小さく息を吐く。まるで面倒な仕事の前にうんざりしているようにも見えた。
その声に男は、わずかに顔を逸らした。
そのまま彼は震える手を回すと、スボンのベルトから何かを抜き取った。
『······パパ?』
自分達の前に立っている父親が壁となって目の前で何が行われているのかわからなかった少年は戸惑って思わず声をかけるが、そこで信じられないものを見た。
バン!!
という乾いた銃声が小さな路地に響き渡った。
すると、
突然、
目の前にいた父親の体が揺らぎ、そのまま膝から汚れた地面へと崩れ落ちた。
『··········え?』
何が起きたのかを理解しようとする時、世界は止まっていた。自分以外の物は全て止まっていて、倒れ込んだ父親から、少年の視線は男の方へゆっくりと移していく。
男の手にある、黒光りする金属の塊。
全長わずか一五センチほどの物体。
男の顔がわずかに見えた。
ガタガタと震えて上下の歯を鳴らし、歪んだように笑っていた。
右手に持っていた、拳銃からは今も白い煙がうっすらと漂っている。
父親は低い唸り声を上げるが、それも次第に小さくなっていく。
眼前の光景を少年は受け入れられないかのように、目を見開いてうそだうそだと繰り返していると、
バン!!
と、再び男の持つ銃口から青白い炎が噴き出した。
事態についていけない少年は恐怖で目を見開いたままだった故に、その瞬間を二度目の当たりにした。
回転しながら倒れていく、母親。
真珠のネックレスを引きちぎられ、玉が泥へと散っていく。
『マ、マ·······?』
震える唇を何とか動かし最愛の母親に呼び掛ける。
しかし母親は答えてくれない。横たわったまま身動き一つせず、やがて二人の体から汚れた地面に血の海が広がっていく。
二人は、互いを求め合うように腕を伸ばしたまま動かなくなった。
その光景をスローモーションで見ていた少年は、男がそのまま去っていくのに気付かなかった。男のことなどどうでもよくなるくらい、目の前の光景が信じられなかった。
『······パパ······ママ······?』
少年は冷たく横たわる二人に近付き、震える手で両親の体に触る。
二人の体には、すでにぬくもりはなかった。
温かみも、優しさも、何もかもをその瞬間に失った少年は、倒れ込む両親に挟まれる形で泥まみれの地面へと膝をついた。
遠くの方で、足音が小さくなっていくのが聞こえる。
だが、それも次第に聞こえなくなった。
いつの間にか周りには警棒や拳銃を構えた警官達が走ってきていたが、少年の視界には一切映っていなかった。
ブルース・ウェイン。
孤児なのに億万長者。
彼はこの日を境に、深い闇の中にたった一人取り残されてしまった。
◇◆◇◆◇
窓から差し込む月灯りにうっすらと目を開けた。
小さくため息をつく。
「······少しは寝れたかな?」
時計を見ると、ほんの十五分程度しか経っていない。脳の専門医が言うには、仮眠を取るのに最適な時間は十五から二十分らしい。少しでも眠気を覚ましたなら十分だ。
ここ最近は眠りが浅い日が続いていた。
それもそのはずだ、彼は夜行性なのだから。
「ふっ」
ブルースは暗闇の中に座って何かを待っている。
目を閉じ、瞑想するように静かに待つ。
全ての悪を滅するためには、悪が動き出す時間帯と闇に潜むタイミングを狙って動かなければならない。
そんな状態なので、大富豪的な権力を持ってしても惰眠を貪る贅沢などもうできないのだ。
悪党どもがこの世を彷徨く限り。
根絶やしにするのが彼の使命。
「·······」
目を開く。
月灯りが差し込む窓の外に、黄色く輝く環が分厚い雲に映し出されている。環の中には、恐怖を象徴するコウモリのシルエットがくっきりと浮かんでいる。
「人使いが荒いな、ゴードン」
そうは言うもブルースは微笑んだ。
お呼びがかかった。
犯罪と欲望が渦巻く世界を変えるため、今日もまたこの世の闇を駆逐する。