バットマン Burns The Night   作:織姫ミグル

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第15章

 

 

東京、新宿。

 

建設途中であったものの、建設会社が夜逃げでもしたのか、誰も手をつけないまま放置されたビルの最上階。

 

剥き出しの鉄骨と、冷え切ったコンクリートが四方に広がり、吹き曝しの夜風が男の衣服を激しく打ち鳴らしていた。

 

眼下には、防衛機関が電波操作によって作り出した傷跡のない均一な夜景が広がっている。

 

以前発生した血生臭い事件など存在しなかったかのような、平穏の証明だった。

 

 

「ヒヒッ!!」

 

「·······」

 

 

真島は赤錆びた鉄骨に背を預け、数歩先でビニール袋から取り出したみたらし団子を平然と食す道化の装束を身に纏った怪物を凝視していた。

 

汗と夜風で白粉が不均一に罅割れ、下地が不気味に浮かび上がっている。

 

左右の口角が大きく引き裂かれたような、不整形な紅の跡。

 

男の佇まいは、この社会が定義する犯罪者の枠組みから逸脱していた。真島は感情の起伏を排除した抑揚で、男の背中へ声を投げかけた。

 

 

「お前、なんで俺達の計画にこれほど深く関与してくる。動機と目的を教えろ」

 

 

ゴッサムからわざわざ国境をこえて現れた怪物は、咀嚼する顎の動きを止めた。不自然に白粉が罅割れ、口元の紅が際立つ。

 

男の唇の両端が、異様な角度でさらに深く釣り上がった。

 

 

「『目的』、『動機』、あるいは『計画』か············ハハッ!! ミスター真島くん、君のように具体的な青写真を描いて物事を進めようとする人間はどれも一様に同じ型にはまり込んでいる。全部同じでテンプレな展開、退屈極まりない」

 

 

男は串を足元の床へと放り捨てた。

 

乾いた音が硬い床に響き、風に流されていく。

 

男は不安定な足取りで手すりのない建物の最外周を構成する鉄骨の先端へと歩み寄った。眼下を往来する無数のヘッドライトが、不気味な陰影とともに男の顔の輪郭を下から照らし出す。

 

男の眼前に広がる東京の夜景。

 

幾重もの情報隠蔽システムによって管理された、あまりにも脆く壊し甲斐のある遊び場。その光景を眺める男の顔には、完成間近のパズルを面白半分でひっくり返そうとする子供のような、純粋なワクワク感が満ち溢れていた。

 

真島はその男の背中から滲み出る、掴もうにも掴めないほどの得体の知れない恐怖の本質を察知していた。

 

目の前にいる男は、世界のバランスを崩す思想も、社会を改革する大義も持っていない。

 

ただ、既存の秩序が崩壊していく工程そのものを食い荒らす、純粋な混沌の化身だ。

 

常軌を逸した存在の恐ろしさを真島は冷静に理解していた。しかしそれを表には出さず、男の言葉を待った。

 

怯えを見せることは、この怪物の前では敗北を意味する。

 

 

「俺が欲しいのは············」

 

 

男は。

 

狂気を孕んだ淡い緑色の眼差しで真島に振り返り、声を囁くような音へと落とした。

 

 

「この綺麗に整列した街の、“本性”。嘘の平和で塗りつぶされた薄汚い檻を揺すぶってやる。人間ってのはね、追い詰められたらお互いを喰い合い始めるんだ。防衛機関のお嬢ちゃん達も、そこの一般市民もね。俺はただ············そのショーを一番高い所から眺めるための特等席が欲しいだけだ、あのコウモリと一緒にね」

 

 

男は紫色のコートのポケットから、無造作に折られた数枚の紙片を取り出し、真島に向かって放り投げた。

 

第二位であっても優れたハッカー君の技術によってAIのバックドアをあとはこの道化自らが地道に解析し、その通信網の『綻び』を的確に突いたシステムデータだった。

 

 

「さあ、お喋りは終わりだ。楽しい次の『お遊戯』を始めよう」

 

 

真島が不審げにその紙を拾い上げる。

 

そこには、防衛機関が主犯の居場所を特定しようと必死に稼働させている、とあるAIの通信トラフィックの裏道が克明な数値とともに記されていた。

 

 

「日本の美少女達は一生懸命に俺を追っている。とてもいい子達だ。だからご褒美をあげよう。真島くん、お前の部下達をこれから俺が指定する『座標』に、あのコブルポッドから仕入れた銃を持たせて配置してくれ」

 

「············囮か?」

 

 

真島の問いに、男は顔をくしゃくしゃに歪めて深い皺を見せ、甲高い笑い声を響かせた。

 

 

「ハハッ!! 囮? 面白い冗談だ!! ただの───『テスト』だ」

 

 

男は懐から取り出した何枚ものトランプを、夜風に乗せて夜空へとばら撒いた。

 

カードは暗闇の気流に乗り、高層ビルの下へと吸い込まれていく。

 

 

「女の子達に、俺達の居場所を『見つけさせて』あげるんだ。必死に計画を立てて大急ぎで突撃してくるようにね。さあ、東京の長い夜が始まるぞ真島くん!! HAHAHAHAHAHAHAッッッ!!」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

幹線道路が複雑に交差する目黒の市街地。

 

その一角に佇む、経年劣化によってコンクリートの表面が薄く剥離した五階建ての自走式立体駐車場。定刻の午前一時を過ぎ、建物の内部は等間隔に天井へ配置された高圧ナトリウム灯の黄色く濁った光だけが油の染み込んだ床を寝そべるようにして照らしていた。

 

光源から外れた死角は夜の闇によって濃く塗り潰され、夜間特有の湿った風が格子状の鉄骨フレームの隙間を抜けて不気味な風切り音を鳴らしている。

 

 

「「「「「「··········」」」」」」

 

 

この無機質な建造物の構造を事前に把握し、死角となる支柱の裏、あるいは上層階へと続く傾斜スロープの暗がりに身を潜めているのは、治安維持機関DAから派遣されたファースト、およびセカンドやサードリコリスの精鋭部隊であった。

 

彼女達の細い手には、暗視スコープと金属製の消音器を装着した自動小銃が固く握られており、人差し指はいつでも引き金を絞れる位置で固定されている。衣服の繊維が擦れる微かな音さえも風と同調させ、彼女達は微動だにせず標的を待っていた。

 

DA本部の通信解析班は、深夜のデータトラフィックを地道に監視した結果、この目黒の立体駐車場で大規模な『実弾銃の密輸取引』が行われるという確実な通報を傍受していた。そしてその情報の中には、あの銀行強盗事件の犯人『ピエロの仮面を被った男』も現場に現れるという特徴的な内容が含まれていた。

 

司令からの無線指示は明快だった。

 

『対象を確実に捕捉し、抵抗する余地を与えることなく排除せよ』という命令と『ピエロの男は絶対に生かして捕えろ、最低でも部下一人は殺さず捕まえろ』の二つ。

 

少女達はその命令を思考の基軸とし、平穏な都市の裏側で獲物の到来を待っていた。

 

予定の時刻になったその時。

 

建物のスロープの下層から、過給機の低い唸りと重い車体がコンクリートの斜面を押し潰す特有の振動が伝わってきた。暗闇を切り裂くように、二台の大型バンが排気ガスの焦げ付いた臭いを充満させながら駐車場の三階フロアへと滑り込んでくる。

 

先頭を走るのは、塗装の剥げかけた国産の黒いバン。

 

その後方を追うのは、ナンバープレートが乾いた土で汚れた白い大型の商用バンだった。

 

二台の車両は中央の広い駐車スペースで互いのフロントを斜めに向かい合わせるようにして、静かにエンジンを停止させた。

 

熱を持った排気管がまるで火花が弾けるようなパチパチという音を立てる。

 

黒いバンのスライドドアが開き、最初に床へ足を踏み出したのは、夜の寒気には不釣り合いな厚手の黒いレザージャケットを羽織った男だった。

 

その顔には、長年の裏社会での抗争を物語るような不整形な傷痕が幾筋も刻まれている。男に続いて、寸胴な体型に軍用迷彩のズボンを穿いた手下達が五人、一斉に自動小銃を構えながら周囲を警戒するように降りてきた。彼らの腰元には、ペンギンの密輸ルートから流出したとされるマガジンが重々しく揺れている。

 

レザージャケットの男は自車の後部ハッチへと歩み寄り、その重い鉄扉を跳ね上げた。

 

車内の暗がりに設置された頑丈な格子ケージ。

 

その中からは、人間の太腿ほどもある強靭な四肢を持った、三匹の巨大な軍用犬が飢えを耐えかねたような低い唸り声を上げていた。鋭い牙の隙間から、粘り気のある涎がコンクリートの床へと滴り落ちる。

 

男はその猛獣達の荒い毛並みを分厚い手のひらでゆっくりとなだめるようにして撫で回した。犬達の肉体が放つ熱気と獣臭が、冷え切った駐車場の空気を汚していく。

 

────ワン、ワン!!

 

 

「·········」

 

 

その時。

 

黒いバンから三匹の軍用犬が突如として前脚で鉄格子を激しく叩き、狂ったように吠え立てた。

 

犬達は、ナトリウム灯の濁った光の下で、コンクリート支柱の裏に潜む『若い子供』の匂いと、微かな体温を感知していた。

 

一方。

 

後方に停車した白いバンの扉が開き、中から出てきたのは、白地に赤と緑の歪んだペンキで装飾された、不気味な『ピエロのプラスチックマスク』を被った男達だった。

 

その動きには一切の組織的な統率が取れていない。しかし、その足取りには、状況を軽んじているかのような奇妙な軽快さが混ざっていた。

 

中心に立つ、一際背の低い、衣服のあちこちに古い染みがこびりついたピエロが大袈裟に両手を広げながらレザージャケットの男へと近付いていく。マスクの目の穴から覗く視線は、ナトリウム灯の光を反射して怪しく揺れていた。

 

男は犬の頭から手を離さないまま、視線をピエロの顔へと向け、感情の起伏を排除した硬い口調で言い放った。

 

 

「ブツは? ちゃんと揃っているんだろうな?」

 

 

ピエロのマスクの奥から、喉をガラガラと鳴らすような不快な笑い声が漏れ出た。

 

 

「あぁ、揃ってるぜ········全部新鮮で、()()()()()()()()()()

 

 

その言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。

 

ピエロの男はコートの懐から無造作に突き出したサブマシンガンの銃口を、何もないはずの暗闇────ファースト及びセカンドとサードリコリスどもが完全に死角へ身を潜めていた太いコンクリート支柱の影へと向けて、一切の躊躇いもなく引き金を絞った。

 

 

ドババババババババババババッ!!!!!

 

 

夜の静寂を木っ端微塵に粉砕する、凄まじい実弾の破裂音。

 

消音器の付いていない銃口から放たれた赤黄色のマズルフラッシュが、駐車場の暗闇を瞬時に照らし出す。

 

弾丸は正確にコンクリートの角を削り飛ばし、無数の火花と細かい石屑が潜伏していた少女達の顔へと容赦なく降り注いだ。

 

 

「────ッ!? は、反撃!! 各自、目標を排除しろ!!」

 

 

指揮を執っていたファーストリコリスの叫びが響く。

 

だが。

 

 

「行け!!」

 

 

ワン、ワン!!

 

その訓練された命令系統が有効な反撃へと移行するよりも早く、レザージャケットの男の手によって鉄製のケージから放たれた三匹の軍用犬が、驚異的な跳躍力でリコリスの防衛線へと肉迫していった。

 

犬達の強靭な前脚が支柱の影から応戦しようとしたサードリコリスの少女の胸元を正確に捉える。

 

そして。

 

 

「あぁぁぁあああああッ!!!!???」

 

「グルルルルルルルッ!!!!!!!!」

 

 

低い唸り声と共に、肉を裂くための牙が容赦なく襲いかかり、防弾繊維のある制服の隙間を狙って発育途中の肉を抉る。コンクリートの床に少女の身体が叩きつけられ、消音器付きの銃器が甲高い音を立てて転がっていった。

 

 

「ッ!!」

 

 

隣から援護しようとしたセカンドリコリスが自動小銃を構えるが、取引相手の手下達が放つ、コブルポット由来の軍用小銃による実弾の壁がそれを阻む。

 

銃撃の残響音が狭い立体駐車場の天井と壁に何度も反響し、鼓膜を激しく震わせる。

 

耳元を通過する弾丸の衝撃波が、空気そのものを熱く引き裂いていた。

 

リコリス達は、これまでの『情報操作によって守られた平和』の枠組みの中では決して出遭うことのなかった、論理を無視した悪意の暴力に直面していた。

 

ピエロのマスクを被った悪党達は遮蔽物から身を乗り出し、ただ銃を乱射することそのものを楽しむように甲高い笑い声を上げている。少女達の訓練された連携は、獣の牙と圧倒的に狂った制圧の前に寸断され、一人、また一人とコンクリートの支柱の裏へと追い詰められていった。

 

床には削り取られた外壁の粉塵と、衣服を濡らす赤い液体が広がり、火薬の焦げた悪臭が充満していく。

 

そこで誰か一人は思っただろう。

 

────罠だ。

 

この取引自体が全て囮で、自分達は嵌められたのだ、と。

 

ラジアータでモニターされているというのに、それを嘲笑うかのように自分達はまんまと誘き出された。

 

 

「────ッ!!」

 

 

それを最後まで察したのは、赤の制服を着込んだファーストリコリスただ一人。

 

まさに無様に生き残ったそのリコリスの頭部へ、テロリストの一人がトドメの弾を叩き込もうと引き金に指をかけた。

 

その瞬間だった。

 

 

 

ドガアッッッ!!!!!

 

 

 

立体駐車場の外周を囲む、頑丈なスチール製の格子アミとコンクリートの障壁が、内側からの凄まじい物理的衝撃によって、まるでペラペラの紙細工のように粉砕された。

 

飛び散る無数の瓦礫と、引き千切られた鉄骨の網をものともせず、暗闇の底から姿を現したのは、フロントに巨大な一対の特殊タイヤを備えた───漆黒の戦闘車両だった。

 

 

「あの戦車みたいなのは·········まさか·········!?」

 

 

悪党の一人が驚愕の声を上げる。

 

ジェットエンジンの太い残響音が、駐車場の全階層を揺るがすように咆哮していた。

 

タンブラーのルーフに設置された二連装の重機関銃が、火花を散らしながら旋回を始める。装甲の内部にあるシステムは、とある会社が開発した有能な熱源探知システムにより、硝煙に煙る駐車場の構造とテロリスト、軍用犬、地表に倒れ伏すリコリス達の位置関係を一瞬にして分析していた。

 

ズド、ズド、ズド、ズド、ズド、ズドッ!!!

 

タンブラーの銃口から放たれたのは、人体を破壊するための実弾ではない。

 

悪党達の足元のコンクリートをピンポイントで粉砕し、強烈な爆風と音響効果によって、その場にいる全ての戦闘員の三半規管を一時的に麻痺させるための『非殺傷の威嚇射撃』だった。

 

凄まじい衝撃波が狭い三階の空間を乱れ飛び、ピエロのマスクや銃を構えた男達も、凶暴な軍用犬達も、その圧倒的なテクノロジーの暴力の前にひとたび武器を取り落とし、床へと転がって耳を塞いだ。

 

そこで何人かはまだ無事だった逃走用の車に乗り込み、意識を手放した仲間を置き去りにして逃走した。闇に消えていくエンジン音が虚しく響く。僅かに残っていた犬も、まさに負け犬という言葉が相応しいように尻尾を巻いて逃げていく鳴き声を漏らす。

 

ナトリウム灯の照明が衝撃で激しく揺れ、不気味な明滅を繰り返す。

 

しかし。

 

立ち籠める白煙の向こう。

 

まだ辛うじて武器を握りしめていた一人のテロリストが、床に這いつくばりながらも、執念深くリコリスの少女へ向けてライフルの銃口を固定し直した。

 

 

「ッ!!」

 

 

この男もまた、命令を実行しなければいけない身。

 

失敗すれば、あの狂気の塊によって酷い目に遭わされる。

 

何度も見たんだ·······あの『道化』の異常さを。

 

その恐ろしさを精神面の奥深くまで植えられてるからこそ、彼はたとえ死んででも最後まで命令通りに動かなければならない。

 

最後まで·······()()、と。

 

 

「う········ッ!!」

 

 

軍用犬の鋭い牙によって引き千切られた防弾繊維の制服の隙間から、粘り気のある赤い液体が断続的に噴出し、コンクリートの斜面を黒く汚している。

 

ファーストの彼女は立ち上がろうと手を床に立てて這おうとしたが、損傷した大腿部の筋肉は物理的な力の入力を完全に拒絶し、ただその場に縫い留められたように痙攣を繰り返すばかりだった。銃器を失い、機動力を奪われたその無防備な背中は、こちらの狙撃にとって恰好の的でしかなかった。

 

 

「死ねッ!! クソガキ────────」

 

 

男はライフルのグリップを握る右手に力を込め、大腿部から側頭部へと照準を固定し直した。

 

引き金を引けば、五・五六ミリ口径の鉛が少女の頭蓋を確実に粉砕する。

 

この仮初の平和を維持するために機関に飼い慣らされた子供を、自身の指先ひとつで現世から排除できるという確信が男の目に歪んだ悦びを浮かび上がらせていた。

 

男の人差し指の第一関節が、鋼鉄の引き金を後方へと引き絞る。

 

シアーが外れる音が、火薬の焦げ付いた空気の振動を通じて男の指先に確かに伝わった。

 

 

メキィッ!!!

 

 

引き金が機関部を叩き、薬室の雷管へと撃針が到達するはずだったその直前。

 

男の視界の全てを──────“漆黒のマントの影”が遮断した。

 

同時に響いたのは、硬質なチタン合金が鉄を圧殺する凄絶な破壊音だった。

 

男が何が起きたのかを脳で処理するよりも早く、男の両腕に保持されていたはずのアサルトライフルの先端が、あり得ない角度へと折れ曲がっていた。男の視線の先で、数ミリ前まで真っ直ぐに伸びていたはずの分厚いスチール製の銃身が、まるで熱せられた粘土細工か柔らかい蝋細工のように容易く、正確に真上へと九◯度折れ曲がっている。

 

 

「あ、ああ·······!?」

 

 

男の口から、形にならない掠れた声が漏れ出た。

 

弾丸の通り道を完全に塞がれ、直角に変形した銃口。

 

そのひしゃげた鉄の塊を鷲掴みにしていたのは、夜の闇そのものを具現化したかのような、胸に不気味な『コウモリの紋章』を刻んだ男の拳だった。

 

人間のものとは到底思えない圧倒的な握力の前に、男は引き金を引ききることも武器を投げ捨てることもできず、ただ恐怖に肺腑を突き動かされながらガチガチと歯を鳴らして立ち尽くすことしかできなかった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

立体駐車場に、再び沈黙が戻りつつあった。

 

バットマンの手によって自動小銃の銃身を直角に変形させられたテロリストの男は地面へと激しく叩きつけられ、その場に崩れ落ちていた。

 

男の首元は強靭なグローブによって強引に締め上げられ、床へと押し付けられている。

 

周囲では、非殺傷の威嚇射撃によって三半規管を破壊された男どもや軍用犬達が床に這いつくばったまま失神、あるいは激しい嘔吐を繰り返していた。右脚を損傷したファーストリコリスの少女も、その場で出血を抑えながら、闇の中に佇む二つの影を凝視することしかできない。

 

 

「··············」

 

 

だがバットマンがそれ以上に見ていたのは、まだ若い女の子達の遺体だった。

 

つい数日前まで、友人や仲間達と他愛のない冗談に笑い合っていたに違いない子供達。

 

教科書を詰め込むべき鞄に、代わりに無機質な鉄の塊を握らされ、その命の燈火を乱暴に吹き消された少女達。

 

その無惨な横顔には青春の輝きを知る前に大人の都合によって戦場へと駆り立てられ、そこで儚く散った虚しさだけが色濃く焼き付いている。

 

バットマンは周りで倒れ、もう息をしていない女の子達を見て怒りに震えていた。

 

この国は子供達の清らかな血を礎にして、形ばかりの平穏を繕っているに過ぎない。世界の片隅で人知れず散っていく幼き魂の重さに、為政者達は一度でも思いを馳せたことがあるのだろうか。弱者を都合よく消費し、都合の悪い真実ごと葬り去る理不尽なシステムへの嫌悪が、彼の全身を支配していく。

 

だが。

 

バットマンは今はそんな私情に近い感情を振り払い、男の胸倉を掴み上げたまま、変声機を介した地響きのような低音を向けた。

 

 

「·············ジョーカーはどこだ?」

 

 

男は顔中に吹き出た脂汗をナトリウム灯の黄色い光にぎらつかせながら、引き攣った笑みを浮かべてみせた。

 

 

「は、ハハ········何のことだかさっぱり分からねえな。俺達はただネットの掲示板にあった通りの命令に従ってここに来ただけだ。分からないことを話すなんてできるわけねぇだろうが········!!」

 

 

男はしらばっくれ、視線を逸らそうとした。

 

バットマンという自警団のルールに『不殺』があることを、裏社会の噂、あるいは先程の非殺傷の掃射から本能的に計算し、命までは奪われないと高を括っていた。

 

だから白を切ったようだが、こいつはバットマンの容赦のなさを知らない。

 

 

「········」

 

 

見下す視線は冷たかった。

 

バットマンは人殺しはしないが、それ以外ならなんだってやる。

 

バットマンは男の襟首を掴んだまま無言でその身体を引きずり、立体駐車場の床面へと仰向けに組み伏せた。硬いコンクリの床に男の後頭部が叩きつけられる。

 

そして。

 

バットマンは男を起き上がらせないように片足で胸を踏みつけて固定し、腕のガントレットに組み込まれた小型のタッチパネルを人差し指で正確にタップした。

 

キュウゥゥゥゥン········!!!

 

駐車場の外壁を破って停止していた漆黒の戦闘車両、タンブラーのエンジンが、まるで命を得た獣のように再び高音の唸りを上げ始めた。無人の運転席のステアリングが自動で旋回し、フロントに備えられた一対の巨大な特殊高圧タイヤが床のコンクリートを削りながら、ゆっくりと確実に男の頭部がある方向へと回転を始める。

 

 

「お、おい待て!? 何を考えてやがる········!?」

 

 

男の顔から血の気が引いていく。

 

タンブラーの重厚な車体は、男の顔面の僅か数センチメートル手前でピタリと停止した。

 

幅広のトレッドパターンが刻まれた分厚いタイヤの黒いゴム壁が、男の視野の全てを覆い尽くす。エンジンから発せられる青白い排熱と、過酷な突入によって高熱を帯びたゴムの焼けた悪臭が、男の鼻腔へとダイレクトに吹き付けられた。

 

バットマンはガントレットのレバーを微かに傾けた。

 

 

グ、ググッ!!!

 

 

無人の巨体が数センチメートルだけ前進する。

 

巨大なタイヤのトレッドの角が男の額の皮膚を強烈に圧迫し、髪の毛を数本巻き込みながらメリメリと音を立てて床へと押し潰していった。あと一回転、あるいはバットマンの指先がほんの少し震えるだけで、男の頭蓋骨は熟し切った果実のように容易く粉砕される。

 

物理的な死の境界線が、皮膚の一枚下にまで肉迫していた。

 

 

「あ、ああ、ああああッ!!!??? や、止めろ、止めろ!!!」

 

 

男は四肢を痙攣させながら絶叫した。

 

バットマンはタッチパネルのレバーを戻し、タイヤを数ミリメートルだけ後退させる。

 

だが男が安堵の息を漏らす暇もなく、再びタッチパネルを押してタイヤを激しく回転させ、男の顔面へと押し付け、引き剥がすという行為を冷酷に繰り返した。

 

 

「吐かなければ、お前の命がこの車輪の下で終わる」

 

「し、知らねぇんだって!! 本当にあいつがどこにいるのかなんて!!」

 

「········ジョーカーのことは知っているんだな?」

 

「あ、いや········ッ!!」

 

 

それでも男は脂汗を撒き散らしながら、恐怖に顔を歪めるだけで口を割ろうとはしない。

 

その往生際の悪さを切り捨てるように、バットマンは一切の躊躇なくガントレットの数値を最大へと跳ね上げた。

 

バゴォォォォォォォォオオオオッ!!!

 

鼓膜を破らんばかりの爆音と共に、タンブラーの心臓部が限界を超えた咆哮を上げる。

 

 

「や、やめろ!! やめてくれ!!! もう止めてくれぇぇぇぇええええええッ!!!!!!」

 

 

排気口から凄まじい熱風の塊が吹き荒れ、立体駐車場の床に溜まったオイルが瞬時に蒸発していく。機械の唸りは狂暴な咆哮へと変貌し、怪物の如き巨体が男の顔面へ向けてさらに前進を再開した。

 

メリメリ、メリ、と。

 

不穏な破壊音が男の額のすぐ上で鳴り響く。強烈な圧迫に皮膚が裂け、細い血の筋が這い回り、鼻梁が微かに歪み始めた。

 

タイヤの回転運動が男の頭皮を容赦なく削り取り、文字通り肉の障壁を消し飛ばして骨の芯まで車輪の重圧が到達する。

 

一ミリの猶予すら残されていない。

 

次の一瞬には、肉と骨が塵と共に平らな染みへと変えられる。

 

死そのものが、男の頭部を完全に包み込んでいく。

 

 

「は、話す!! 話すからもうやめろぉぉぉぉおおおおおおおおッ!!!!!!」

 

 

死の恐怖が男の精神を完全にへし折った。

 

バットマンは、耳元を焦がす爆音が鳴り響く中、狂暴に回転を続ける車輪のレバーを固定した。

 

あと一ミリ動かせば、男の頭蓋骨が砕け散る。

 

その逃れられない支配下で、地響きのような低音を突き立てた。

 

 

「ジョーカーについて知ってることは?」

 

「や、奴は今俺達のボスと一緒に行動しているッ!!」

 

 

狂ったように叫ぶ男の口から、ついに決定的な情報が溢れ出た。

 

 

「名前は?」

 

「ま────“真島”だ!!」

 

 

すべてのパズルが繋がった。

 

この国の裏で暗躍し、そして日本国にペンギンの銃を輸入させた黒幕の正体。

 

バットマンは、マスクの奥の瞳を冷たく細めた。

 

 

「礼を言う」

 

 

冷たく言い放つと同時に、腕のタッチパネルを操作してタンブラーを後退させる。

 

男の視野を覆っていた巨大なゴムの壁が離れ、生ぬるい夜風がその顔に吹き付けられた。

 

助かった、と男が安堵の息を漏らそうとした、まさにその瞬間。

 

 

バキッ!!

 

 

視界が引いた直後の空間を切り裂き、バットマンの強固な装甲に覆われた膝蹴りが男の顔面へと正確に叩き込まれた。

 

鈍い衝撃音と共に、男の意識は強制的に闇へと突き落とされた。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

周囲を支配するのは鉄錆の臭気と、今し方まで稼働していた大型車両の排熱が齎す重苦しい大気だけだ。

 

バットマンは意識を失った男の身体から視線を外し、まだ微かに胸元を上下させている一人の少女へと、物音一つ立てずに歩み寄った。

 

衣服に付着した血痕の広がりから、負傷の度合いを慎重に見極める。

 

彼は膝を折り、細い身体に余計な負荷をかけぬよう細心の注意を払いながらその華奢な肩と膝の裏に腕を回した。

 

崩れ落ちたコンクリートの破片を避け、まだ無事だった壁際へと彼女の身体を優しく滑らせるようにして預ける。

 

少女の瞳が、苦痛に耐えるようにして薄く開かれた。

 

その視線の先にあるのは、漆黒のマスク。

 

バットマンは、未だ混濁する彼女の意識へ直接釘を打ち込むように、低音の声を響かせた。

 

 

「こいつらは君達の組織に任せるが、絶対に殺すな。君達が思う以上にこいつらは貴重な情報を持っている」

 

 

警告だった。

 

それは単なる自警団としての不殺のルールではなく、これから始まるであろう巨大な混沌を阻止するための、厳しい事実の提示だ。

 

だが、壁に背を預けたリコリスの少女は、苦しげに喘ぎながらも、その右手に握られた銃口を迷いなくバットマンの胸元へと向けた。

 

引き金にかかった指先は、決して恐怖で震えてはいない。

 

暗殺者として育て上げられたプロのプライドが、その冷ややかな眼差しに宿っていた。

 

 

「貴方に言われずとも········元々そのつもりでした。あのピエロの男がいなければ一人だけ残して他は殺す予定だったけど」

 

「········」

 

 

銃口を向けられたまま、バットマンはそれ以上言葉を返すことはしなかった。

 

ただ静かに身を翻し、夜の闇に紛れるようにして、駐車場の壁を打ち破って鎮座していたバットモービルへと向かう。

 

装甲車が再び不気味な高音の唸りを上げ、主の帰還を歓迎するようにハッチが上部へとスライドした。

 

彼が巨大な車体へと乗り込もうとした、まさにその時。

 

 

「ねぇ」

 

 

背後から、痛みに悶えながらもどこか透き通った声が静寂を切り裂いた。

 

壁に身体を預けたままのファーストリコリスの少女が、銃口を下ろすことなく、その視線を真っ直ぐ彼へとぶつけている。大人の都合で戦場へと駆り立てられ、多くの仲間を失った彼女の瞳には、目の前の怪物が放つ異質な気配の正体を突き止めようとする強い意志が宿っていた。

 

 

「なんでこの国に来たんですか?」

 

 

純粋な疑問であり、同時に、この嘘で塗り固められた平穏な街に現れた巨大な異物に対する、最大限の警戒の表れでもあった。

 

バットマンはハッチに手をかけたまま、動きを止めた。

 

ゆっくりと頭部を巡らせ、背後の少女へと視線を戻す。

 

ナトリウム灯の鈍い光を吸い込む漆黒のマスクの奥から、射すような眼光が彼女の身体を貫いた。

 

 

「悪への────“復讐”だ」

 

 

変声機を通した地響きのような低音が、駐車場の冷え切った空気を震わせる。

 

それはかつて、ゴッサムの路地裏で当たり前だった温もりを全て失った少年が、その生涯を賭けて闇に誓った、決して揺らぐことのない行動原理だった。

 

言い残すと同時にバットマンは車内へと滑り込み、ハッチが重厚な金属音を立てて閉じる。

 

エンジンが限界まで吼え、漆黒の怪物は破壊された外壁の向こう側、東京の濁った夜の闇へと文字通り弾散るようにして消え去っていった。

 

 

「········復讐、か」

 

 

あとに残されたのは。

 

罅割れたアスファルトに刻まれた深いタイヤの痕と、静かに息をする生存者達。

 

そして、まだ若いリコリス達の冷たくなった身体だけだった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

そんな喧騒から隔絶された暗い一室に、電子機器の放つ青白い光だけが不気味に揺らめいていた。

 

 

「········ッ!!」

 

 

モニターの前に座り込むロボ太の背中には、冷や汗が絶え間なく伝っている。

 

彼のすぐ隣には派手な道化の装束を模したドレスのような赤と黒の基調にした衣装を身に纏った女、ハーレイ・クインが座っていた。

 

その手に握られたリボルバーの銃口はロボ太の薄い頭皮を容赦なく圧迫している。引き金にかかった細い指先がほんの少し動くだけで、自分の頭脳が部屋の壁一面にぶちまけられる。その確実な死の恐怖に直面しながら、ロボ太は震える指先でキーボードを叩き、目には見えない港湾の死角に仕込んでおいた超小型カメラの録画データを中央サーバーへと転送した。

 

画面に映し出されたのは、さっきまでとある中央駐車場で繰り広げられていた凄絶な一方的蹂躙の記録。

 

漆黒の装甲車がコンクリートを粉砕し、国家の狗である少女達が次々と肉塊に変えられていく悪夢のような映像だ。

 

ロボ太は歯の根が合わないほど怯えに染まった声で叫んだ。

 

 

「ほ、ほら!! 言われた通りに撮ったぞ!! こ、これでいいだろう!?」

 

 

必死の懇願は狭い室内で虚しく反響する。

 

だが、ハーレイは彼に安堵の溜息を漏らす猶予すらも与えなかった。こめかみに冷たい銃身を押し付けたまま、空いた左手でロボ太のデスク上に転がっていたスマートフォンを乱暴に掴み上げる。手慣れた動作で特定の暗号回線を呼び出すと、画面に表示された通話ボタンを爪先でタップした。

 

電子音が遮断され、回線が繋がったことを示す微かなノイズがスピーカーから漏れ出す。

 

ハーレイは狂気と歓喜の混じった甲高い声を上げ、受話口に向けて弾むように囁いた。

 

 

「もしもし、上手くいったわ“ミスターJ”。負け犬コウモリの証拠映像よん!!」

 

 

モニターの光に照らされた彼女の歪んだ笑顔は、これからこの街に訪れるであろう。

 

かつてない混沌を予感させていた。

 

 

 

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