その日の夜は早く訪れた。
毎晩のように犯罪が起きるこの街だったが、今回は別の案件だ。
「はぁ······」
四月の始め、ゴードンは中央警察本部の屋上で紙コップのコーヒーをすすりながら待っている。
コウモリの型を抜いた金属板を被せた巨大なサーチライト、そこから発せられるビーム光線は灰色に濁った雲に向けられ、歪んだコウモリが雲の影に隠れては消えている。
「コブルポットが銃を千丁ほど横流しした。何処にだ?」
カツンと、わざとらしい足音と共に変声された声が暗闇から現れた。
おそらく、それが彼なりのノック代わりなのだろう。
「どこでその情報を?」
「今夜奴らから聞き出した。奴らは最近大人しくしているが、俺は見逃さない」
彼は懐から何かを取り出すと、ゴードンの足元に投げ込んだ。
写真が敷き詰められた封筒。落ちた衝撃でその封が開き、中から大量の写真が散らばる。どこかから張り込みでもしていないと、こうもリラックスした表情は撮れないだろう。完全に呑気な態度で口を歪ませて、部下に銃をコンテナに詰め込むように指示している。
「そこにいたということは、もう奴らを捕まえたのか“バットマン”?」
ゴードンはライトのスイッチを切ると、彼の通り名を呟いた。
この街は犯罪で溢れている。今いる警察達もそいつらを捕まえようと必死だが、全てを未だに捕らえられていない。
理由は簡単、どす黒い闇がこの街を買い占めているからだ。
清純な警察達を見つける方が難しい。
警官、政治家、検察官、裁判官など表舞台の執行人の誰が闇と深く関わっているかわからない。そこに手を出したら、奴らは周りから破壊していく。暴力もいいが、まずは精神的な痛みを与えるだろう。家族や友人を不慮の事故ということで消し、警察や検察官はそれを隠蔽する。
この腐りきった街では誰もが容疑者。
その中を上手く生きるには、奴らと同じように自分も泥を被るしかない。
そんな中で、闇に潜む悪を沈める怪物がいた。
この腐りきった街、ゴッサムに巣食う悪党どもを圧倒する正真正銘の正義。
それでいて、法や秩序すらも凌駕するモンスター。
闇の騎士、『バットマン』は首を振って答える。
「いや、更なる悪を引き摺り出すために脅すだけにしておいた。写真を撮って見せて、何発か入れたらすぐ大人しくなった。奴の部下達も、当分はボスの身の周りの世話すらできないだろう。引き金に指をかけることも難しいかもしれないな」
「······優しいな」
「奴にはまだ利用価値がある。その時が来たらいつでも捕まえられる」
彼はその気になればあらゆる悪党を、それこそ闇社会の帝王すらも根絶やしにできる。
その証拠に、彼はこれまで様々な悪を根絶やしにしてきた。
容赦も躊躇もなく、慈悲もなく。
街を脅かす者達を恐怖に陥れた。
今回それをしないのは、片っ端から残りクズみたいな悪を徹底的に片付けるためだ。隅から隅までゴミ掃除をしないと気が済まない質の彼は、とりあえず今夜は見逃してやった。メインディッシュは最後まで取っておく。
今回は、彼の身体にある一◯三本の骨を折るだけで済ませた。
部下達も同様に。
「まあ、奴はここ最近大人しかったからな。我々警察も油断していた」
「アンタ達は詰めが甘い。だから俺が常に見張ってるんだ」
「本当、助かってるよ。君には」
「続けていいか?」
「どうぞ」
「今回の対象は『消えた銃の行き先』。この件はアンタの方が詳しいかもしれないな」
空気に流れはなかった。ただただ重苦しい閉塞感だけが場を支配している。
消えた銃の行き先は、十中八九国外だ。
奴がいたのは港。
そこからコンテナに詰め込んでどこかに輸出しようとしたところを止めたわけだが、既に遅かった。何個かは既に地平線の彼方。これ以上はどこにも流れないだろうが、その千丁の銃は今頃どこかの悪に引き渡されているだろう。
何が目的なのかは奴らにとってはどうでもいい。
明確な目標は、金。
それが全て。
そのためならば一々細かいことは聞かない。奴らはただ商品を売るだけ、その先のことなんて気にしていない。
バットマンは呆れた声で話す。
「奴らにしては、スケールが小さいことをするな。俺達がどこまでやったら捕まえにくるのか遊んでるんじゃないかとすら思える」
「······しかし、私の呼び掛けに応じたのは既になんとなく察しているからなんだろう? その銃がどこに流されたのか」
ゴードンの問いに、バットマンは鼻を鳴らして、
「現在、治安の良い国第一位が日本だということは知ってるはずだ」
「ああ······この街とは比べ物にならないくらい綺麗な場所だろうな」
「ところが、それら全ては隠蔽されたものだ。この街と同じく、汚い嘘で塗り固められた偽りの平和だ」
バットマンは静かな声でそう言った。
暗闇のカーテンで囲まれた屋上に、彼の声がよく通る。
「証拠は?」
「ない·······だが、今の日本は我々から見ても明らかに不自然すぎる。今日日本で起きたニュースを少し見たが、取り壊し予定のビルがガス爆発を起こしたと報道されていた。しかし」
バットマンはまたゴードンに何かを放り投げる。
葉書サイズの紙切れ一枚。
二人のカップルが朝の朝食を楽しんでいる風景を納めた物のようだが、警察本部長を長くやっている彼は既に気付いていた。バットマンが何を言いたいのかを。
そこに映っている写真は粗かった。
元々近距離にいるカップルを撮る目的のために納めた写真だ。
よって、
それでも、大勢の怪しい奴らが『黒い箱がいくつも並べられた物の前に』大人数で突っ立っているのがわかる。
「······これがそのガス爆発が起きたビルか?」
「そのようだが、この写真は爆発が起きる三時間前に撮られたものだ。今回その事件の詳細を追っていたところ、偶然SNSに上げられていた物を見つけた」
ゴードンは戸惑った。
そんな彼を置いていくようにバットマンは続ける。
「日本の治安状況を鑑みるに、こいつらが裏で関わっている可能性が高い」
「········それを、単なるガス爆発という事故で片付けたというわけか」
「写真を見るに、その男達の前に映っているのはペンギンが所有していた商品の一部だろう。そんな危険なものが日本にあると世間に気付かれないように上の偉い連中が隠蔽工作を謀った、と俺は見ている」
「ビルが爆発した原因はこいつらが持っていた爆弾が何かの拍子で爆発したか、もしくは他に理由があるのか」
「いずれにしても、人の手で起きた事だと見てまず間違いない。それを隠蔽している以上、日本の闇は予想以上に深そうだ」
この件は一日二日で解決できるようなものではない、とバットマンは言う。
「ご大層な話ではあるが、何故君はそこまで日本が隠蔽しているとキッパリ断言できる? そもそもペンギンが売った銃が日本に行ったなんて確証も」
「本人に直接聞いたからな、まず間違いない」
顧客のプライバシーは守るが、奴は売った先は把握していた。
バットマンのその言葉にゴードンは眉間に皺を寄せて納得がいっていないような顔をしてわずかに黙ったが、ここまで証拠を集めて来られたのではもう強引に理解するしかない。
全てを疑え、この街の教訓だ。
何もかもを疑わなければ黒幕にたどり着くことができないと学んだゴードンは、バットマンの言葉を信用する。
「奴らが何のために銃を欲したのかはあいつは知らなかった。だが、なんにしても千丁もの銃が持ち出されたのでは予想される被害もかなりのものとなると考えるべきだろう」
「ああ、だがその銃が見つかれば確実にペンギンを逮捕できる。君がくれたこの写真も合わせれば、奴を二度と出てこられない独房に入れることができる」
それに、とゴードンは言った。
「何を企んでいるのか知らないが、そう上手く行くとは思えんな。拳銃や防弾チョッキで武装して何百人という単位で囲んだとしても、君のような奴が一人いるだけでそれらは全て無駄に終わる」
「······端からそのつもりで俺を呼んだんだろう」
バットマンは依頼を受け取った。
非公式ながら、世の中を乱す奴らに制裁を加える機会が与えられた。
これで、バットマンは動くことができる。
「だが、君の言う通りならこの件は長くなりそうだ。君がいない間、この街は誰が守る?」
「ナイトウィングやバットガール、そして頼れる相棒のロビンに事情を説明しておく。彼らならば、ゴッサムを任せられる」
「そうか、それなら安心だな。とはいえ、君が街を離れるのは寂しくなるな。君はこの街の守護神だし、君がいたからこそこの街の悪党どもは今日まで抑制されて大人しく─────」
目を離して喋り続けていたゴードンだったが、すでにそこには誰もいなかった。
音もなく、すぐ近くの物陰にでも隠れたか。
探してみるも影すらも見当たらない。
「······」
ゴードンは呆れたようにしばらく誰もいない空間を眺めていた。
彼はバットマンが置いていった資料を拾うと、既に冷えきった苦い液体を一口含んで警察署内へと戻っていく。
◇◆◇◆◇
「転属······ですか。楠木司令」
「······」
死んだ魚のような目をした女性は黙る。
一人の黒髪の少女に話して聞かせるほど、女性が下した判断は優しくも温かくもなかった。
「指令を無視して作戦を台無しにした責任は重い。我々DAの存在が世間に知られる危険もあった」
目の前にいる少女、“井ノ上たきな”はとある任務で独断専行して強引に解決した。解決したという結果だけを見れば称賛されるべきことなのだが、彼女のしたことは許されることではない。
今回起きた事件の犯人どもを殺したのが問題だった。
銃取引の商人たちから出所と行方を聞き出すために生かして捕らえなければならないところを、彼女はそれを無視して全員の息の根を止めてしまった。
それでは何も解決したことにはならない。
被害が出るのを遅らせただけに過ぎないのだ。
何より、その行動で自分達の存在が広く知れ渡るところだった。
少女がいる組織は、表舞台に出ることなく裏で世界を守ることを強いられた集団。それが公になるのは組織にとっては死活問題。
よって、その責任を問題を起こした本人に全て負わせることとなったのだが、
「······」
たきなは黙って転属の命令書を眺めた。
自分はその時合理的な行動を取ったはずだ。
「既に決定事項だ。異論は認めない」
まるで人の心を読んだように、楠木は言った。あるいは、組織の特性上読心術といったものは必須科目なのか、司令である彼女もそういったものを極めているのかもしれない。
「お前の配属先にはリコリスが一人いる。優秀な奴だ、得られるものもあるだろう」
「······はい」
たきなは怒鳴られた子供のように落ち込んだ様子で頷いた。
目の前の人間の言うことは絶対。
全ての決定は私にある、と断言するような人間だ。
果たして彼女の人事は正当なのか。
果たしてこの人間は自分達を一体どう見てるのか。
それすらも疑いたくなるほど彼女は冷酷だった。
その冷酷さでこの空間が凍りつくのではないかと思えるほどの圧倒的なプレッシャーに押し潰されそうになったたきなは、肩を落としてお辞儀をする。
そのまま振り返って部屋の外へと出ていくが、たきなはそれでも納得がいっていない顔をする。
上の圧力に押し倒されて追い出されるこの状況にどうしても納得がいかなかった。
仲間を救うことが悪なのか?
悪者達を倒すのはいけないことなのか?
それならばどんな方法であの場を切り抜けたらよかったのか。
「ッ!!」
奥歯を噛み締める。
この与えられた転属が、たきなの胸に深く突き刺さる。
たとえどれだけ悔やんだとしても、もう変えることはできない。
この日。
優秀なエージェント、井ノ上たきなは、
地の果てへと送られた。
◇◆◇◆◇
よだれが出た。
早朝、錦木千束はせっかく買ったベッドで寝ないでふかふかなソファの中で丸まりながら、馬鹿みたいに惰眠を謳歌していた。
ここまでだらしなく寝ている理由は、テーブルに置いてあるいくつものブルーレイディスクに収録されている映画を、徹夜で見すぎたことが原因らしい。
「うへへ~、全ての悪は·······私がぁ······」
何だかとんでもなく幸せそうな笑顔と共に、可愛らしい寝言が部屋に虚しく響く。
夜通しして見ていたヒーロー物の映画の影響を受けて夢の中で悪と戦っているみたいだが、次第にその寝言は遠ざかっていく。
「······むにゃ?」
わずかに目を開けた千束は、ごしごしと片手で目を擦りながら壁掛け時計を見る。
そして絶叫する。
「やっばぁッ!! 寝ちゃったぁッ!!」
時刻は既に八時三五分。
まともな人間なら既に働いている時間。
今日も今日とて、影に潜んで世の悪を根絶やしにする史上最強のエージェントは、
寝坊という情けない朝から始まる。