ある住宅街の狭い道に一台のワゴン車が激しく揺れていた。
冷房と暖房もつけられていない、しかし明らかに殺意が充満している車内で、冷酷な空気に当てられた人質は冷や汗と涙で顔中がびっしょり濡れていた。
「ん~ッ!? んんっ!!!」
腰までの大きさしかない麻袋を被せられた女性は強引に押さえつけられる。自分の身に一体何が起きているのか理解することすらできない。目の前は真っ暗で視野が確保されない中、恐怖が全身を蝕んでパニックに陥っていた。
「おい!! 写真あったか!?」
「ありました!!」
「じゃあさっさと消せ!!」
どこからともなく低い男の声が聞こえてくる。
狭い車内なのにその声がどこから出たものなのかは全くわからない。
恐怖心に煽られて精一杯暴れる中で、頭の辺りに何か鉄のような硬い金属を突き付けられた感触に、女性は思わず息を呑む。
「おいお前ッ!? 写真はほかには拡散してないだろうなッ!?」
「どうなんだッ!?」
「······ッ!!」
男の汗の滲む手で、ガギリ! と頭を押さえつけられる。
頭蓋骨に響く鉄の感触。
初めて味わうその違和感に悪寒が走る。
本当なら近くに護衛として、といっても女子高生だからできることは限られているだろうが、それでも二人でいたから安心できた。なのに、急に先に行くと言い出して置いてけぼりにされたと思ったら、近くにいた車がそのまま轢いてしまうような勢いでこちらに近付いてきて、薄汚い袋を被せられて強引に車の中に引きずり込まれた。
状況が追い付いていない彼女はさらにパニックになり、何も答えられなくなって喉が麻痺する。
それがせめてもの抵抗だった。
かと言って、これ以上は何もできない。少しでも動いたら殺されるおそれがあるし、無我夢中で足を振り回しても他の男達に確実に押さえられる。真っ白に染まった思考の中で、どうしようもないと考えた。
その瞬間、
パシュ!! パシュ!!
と空気を突き抜けるような音が何連発も響き渡った。
ある程度抑えられたその音は特に怖いものではなかったが、それが聞こえてきた次の瞬間にはガラスを突き破るような粉砕音が炸裂する。それどころか、何か肉的な物を粉砕する音と共に男の苦しむ声が車の中で反響する。
人質の女性はもう泣き崩れそうな顔で、現実から目を背けるように固く目を閉じる。元から何も見えなかったが、視界をさらに暗くしてできるだけ恐怖を感じないように抵抗する。
しかし、目を閉じても耳だけは無防備なので嫌でも男どもの声と奇妙な音だけは鼓膜を遠慮なく叩いてくる。
『取引した銃の所在を言いなさいッ!!』
遠くの方で少女のような声が聞こえたが、それが誰のものなのかはわからない。何より、ガラスが割れる音の方が少女の声よりも遥かに響き渡っていて、正確な台詞すらよく聞き取れなかった。
「無茶苦茶撃ってくるぞッ!?」
「何で取引のこと知ってんだ!?」
「武器商人を皆殺しにした奴らじゃないですか!?」
「あんなガキがかよッ!?」
むしろ焦燥めいた男どもの声の方がよく通った。
もはや得体の知れない連中から聞こえてくるその怯えたような声が逆に安心感があった気がした。こいつらも危険な目に遭ってるんだと共感できたからだ。
だが、何にしても今自分は危険な状態であることには変わらない。どんなに良い方向に考えたところで、目の前を横切っていく風切り音が不安にさせる。皮肉にも、麻袋が壁となってその光景を塞いでいてくれていたから何とか耐えられたものの、もしこれでまた爆発並みのデカイ音が鳴り響いたら、頭の中がさらに混乱して遂には気絶してしまっていたことだろう。
しばらくして、ガラスが割れる音は止んだ。
袋の外では何が起きているのか未だにわからなかったが、男の声によって次の展開に進もうとしていることだけは理解できた。
「止んだぞッ!!」
「今のうちだ! その女連れて出ろッ!!」
一人の男の声に従ったのか、汗が滲んだ誰かの手が女性の腰を掴む。その手は震えていたが、自分も震えていたこともあってその事には気付くことはできなかった。
少し触れられているだけなのに、彼女の体が電撃でも浴びたように硬直して動かなくなった。腰を曲げることさえもできない。
なのに、男はそれを許さない。
「おいッ!! さっさと立てやオラッ!!」
「────ッッッ!!!」
強引に立たされ、車の外へ引きずり出される。車の段差から落とされるも、本当に自分の足が地面についているのかさえもわからない状況の中で歩かされる。
さっさと歩け! と耳元で怒鳴られた女性は震えながらも見えない道を歩く。まるで綱渡りをやらされているみたいだった。目隠しをされて、少しでも足を踏み外したら奈落の底へとまっ逆さまに落ちてしまいそうなほどの恐怖が彼女を支配している。
どこが安全地帯で、どこが危険なのかがわからない。こんなにも脅迫じみた怒号を叫ぶのは彼女の恐怖心を煽るために違いないだろう。何のために恐怖心を煽るのか、そんなの強引に従わせるために決まっている。
しかし、もう限界に近かった彼女は意識を手放す寸前だ。
震える足では上手く歩くこともできない。
彼女は泣きそうな顔で何度も何度も一歩ずつ歩かされていると、
「な、なんだテメェッ!? ぐはッ!?」
「ぐあッ!?」
「があッ!?」
光も届かない闇の空間で、男どもの呻き声の嵐が撒き散らされる。
すぐ近くでは、何か骨のようなものがいくつも折れる音が鳴り響いていた。
◇◆◇◆◇
「な~~~にしてんの!?」
「尾行されてたのでおびきだしました」
銃声が鳴り止んだ原因はその少女の同僚が都合よく駆け付けたからだった。彼女は無闇矢鱈に威嚇射撃をするたきなを壁の端まで引きずって引っ込ませると、声を抑えて睨み付ける。
先ほどまでサイレンサー付きの銃を乱射していたたきなは、特に何の問題もないかのように話し出す。
「彼らが銃の在り処を知ってるはず······」
「ちょーちょちょ!? ひょっとして沙保里さん車の中? 護衛対象を囮にしたの!?」
たきなの言葉に、一つ上の階級で先輩でもある千束は改めて護衛対象がいるであろう車へと目を向ける。
千束とたきなが立っているのは、人質にされて護衛対象がいる車から少し離れた場所にある壁の陰だ。本来なら、彼女は人質になることもなかった。護衛を努めていた井ノ上たきなが、銃の行方を突き止めるという任務を最優先にして重要参考人である一般人を囮に使わなければ、彼女は今頃何も怖い思いをせずにいつもみたいに平穏な生活を送っているはずだった。
それを、たきなの独断専攻で全てダメにした。
任務を最優先にしている彼女は、一般人の依頼など関係なかった。
「彼らの目的はスマホの画像データです。沙保里さんを殺す意図はないと思います!」
「人質になっちゃうでしょ!?」
「あなたが止めなければもう終わってましたよ」
「沙保里さんに当たっちゃうでしょ!」
「そんなミスはしませんよ! この距離からでも射殺できます」
「『命大事に』だってばッ!!」
千束とたきなは声を抑えて論争を繰り広げていたが、今はそれどころではない。一刻も早く人質を救出しなければならない。
たきなは何も問題なさそうに言ったが、千束は別のものに気を取られていたらしい。
彼女は壁から僅かに顔を出し、混沌に満ちた場所へ目を向けると、振り返りもせずにたきなに小声で指示を送る。
「射撃に自信あるならさ、七時の方向でこっちを見てるドローンを撃ってくれる? 後は私が何とかするから」
その指示に、たきなは何かを察したようにハッとしたような表情を浮かべる。千束に言われた通りそちらに目を向けると、数十メートルほど地上から離れた場所に偵察用のドローンが呑気に空中を漂っている。
千束は適当に言ったが、状況の把握を既に済ませている彼女のずば抜けた索敵スキルに目を見開いた彼女は、指示通りに流れ弾になることはない正確な射撃をドローンに御見舞する。
たきなは得意そうに偵察用のドローンを撃墜したが、千束は警戒を解かない。
どうやって人質を救出しようかといったプランを急いで組み立てているのだ。
(たきなの射撃であの人達は今警戒しているはず、仕掛けるなら今だよね)
そう思って壁の陰から敵の様子を観察していた千束はそのチャンスを逃さず、敵の領地へと駆け出していく。
その時だった。
唐突に、
ガシャン!! と。
突然、目の前にあったワゴン車の窓ガラスが粉々に砕け散った。
「え!?」
千束は思わず立ち止まる。
道路に面していた車の窓ガラスが全て割れたと思ったら、敵の悲鳴が全方向に炸裂した。
少しして、千束はワゴン車の屋根の部分に目を向ける。まるで透明人間のように、暗い夜の闇に紛れた一つの影が大型のワゴン車を踏み潰していた。
あれが何者なのか、千束が判断に迷っていると、男どもの悲鳴が連続的に辺りに響き渡った。
その光景に、千束は思わず目を剥いた。
人質である彼女を助けるために、情け容赦のない攻撃が目の前に広がっていたのだ。
◇◆◇◆◇
そこにいる誰もが、闇を纏った悪魔を捉えていなかった。
唐突に舞い降りた黒い影は車の屋根に勢いよく降り立ち、ガラスの悲鳴を炸裂させる。
すでに敵意は剥き出し状態だった。
全員が外に出ていることを良いことに、車のドアから今まさに外に出ようとしていた一人の男をまず始めに沈めた。
ガン! と彼は開きっ放しだった運転席のドアを強く蹴飛ばして、勢いよく閉じさせる。ドアの開閉というより巨大なトラバサミのような動きだった。今まさに車の外へ逃げ出そうとしていた男はドアに挟まれ、肺の中の空気を強引に全て吐き出すと、ずるずると地面の上へ崩れ落ちてピクリとも動かなくなった。
その次の瞬間、後部座席の窓の一番近くにいた作業服を着込んだ男の一人が、黒ずくめの男の飛び蹴りを受けて反対側のガードレールまで吹っ飛ばされた。
ノーバウンドで衝撃を吸収するガードレールに激突した武装集団の一人は、肋をヒビまみれにしながら地面に崩れ落ちる。
黒い影、バットマンは手加減もせず、しかし命を奪うことまではしない。
真っ黒に染まった瞳は容赦のない眼光を放ち、数人いるターゲットを正確に捉える。
液状のボディアーマー層の繊維で出来ているリキッドアーマーは予想以上に柔軟性が高く、運動性に特化しており、複数の敵を素早く連続で沈めることが出来る。
そのアーマーには更にスマート磁性流体を取り入れており、銃弾といった鋭い衝撃に反応して素早く硬化し、それでいてチタン化合の三重構造なこともあってどんな攻撃も無効化できる。銃弾なんて痛くも痒くも感じないだろう。拳などの衝撃吸収を利用して、カウンター攻撃による近接戦闘をより効率的に行えて、反撃にもっと多くの力を使える。
そして、航空能力を高めるために6gsまでの加速に耐えられる設計で作られたバットマンのスーツは、目にも止まらぬ速さで動くことが可能だ。
脚力に力を入れたバットマンは、他の標的へと狙いを変更し、その内の一人の懐へと突っ込む。
「ひッ!?」
反応したときには既に遅かった。
条件反射で持っていた銃の引き金を引くものの、そこから放たれた銃弾は何の効果も発揮しなかった。衝撃に反応したスーツが素早く硬化し、銃弾を弾き飛ばしたのだ。
彼は特に避けることもせず、そのまま男の懐に入り込むと鳩尾に鋭い一撃を入れる。
内蔵まで貫通するその拳を受けた男は急速に意識が狩り取られる。
白目を向いて、泡を吹き出しながら地面に倒れ込む。
「ッ!? この────ッ!!」
仲間の呻き声に誘爆するように、近くにいた男がバールのような物を持って襲い掛かる。しかし、彼は既にわかっていたのかもしれない。
仲間を素早く沈めるその情け容赦のない残虐性が周囲に放たれている時点で、目の前にいる黒い影には誰にも敵わないという事に。
バールのような物を持って接近戦を試みた男であったが、間近に迫った黒い影が無造作に手を横に振った。それを受けた男の体が、一気に真横へと飛んだ。金属製のガードレールに腹が食い込む鈍い音が響き渡る。
あまりの衝撃に吐き気が込み上がって、しまいには無色の液体を吐き出す。
手足から力が抜け、男の体は鉄棒の上でぐったりバテているみたいに、そして布団を干すような格好で体を折り曲げて両手両足をだらりと真下に下げてガードレールの上で意識を失った。
これで、謎の武装集団は残り一人。
「ひっ!?」
バットマンにギロリと目を向けられた最後の男は、とっさに掴んでいた人質の首に銃を押し付ける。
人質にされている女性は被せられている麻袋から伝わる冷たい感触に震えている。声も出せず、今にも気を失いそうな状態の中で、一生懸命身を守るために体を硬直させている。
人質を盾にすれば攻撃できないと思ったのだろう。家を囲む壁に背を向け、なんとか有利な状況にしようと女性の首元に銃口をめり込ませる。
しかし、
「いいか、よく聞けコスプレ野郎。一歩でも近づいたらこの女を────」
「······」
バットマンは無音でそれだけ言うと、腰のホルスターから素早くグラップネル・ローンチャーを引抜き、男目掛けてスピアを発射した。ガス式銃のため通常の弾丸速度より遅かったためか、男はひょいと頭を下げて躱し、スピアは背後の壁に深々と突き刺さった。
命中しなかった槍を見て、男はせせら笑う。
「外したな! これでテメェは────ッ!!」
何か勝ち誇ったような台詞を言いかけたみたいだったが、彼の攻撃はそれで終わったわけではなかった。
ガゴンッ!! と。
石造りの壁が崩れ落ちる音が聞こえてきた。
スピアにはワイヤーが結びつけられている。バットマンがそのワイヤーをグイッと引っ張ると、壁の一部が剥がれ落ち、男の後頭部に当たった。
男の体がよろめく。
鈍い音を立てて男の体は前に崩れ落ち、それから地面に激突して動かなくなった。
手放され、今にも倒れそうな女性の体を片手で支えると、壁に優しく置き直す。
これで、謎の武装集団は全滅した。
彼らが抱えていた人質へと目を向け、被せられている麻袋を脱がそうとした時、
「動かないでください!!」
彼の視界の外から、割って入るような少女の大声が響いてきた。
◇◆◇◆◇
たきなと千束はその光景を見て息を呑んだ。
黒い悪魔のような影が脇にしゃがみこみ、女性の安否を確認するかのように暗いケープが後ろで波だっていた。明らかに胡散臭い奴に対して、二人はその男に近づくと、たきなは毎度の如く独断でそいつに銃口を向ける。
千束の止める声にも意に介さず、
「動かないでください!!」
たきなは最初から最後まで、自分の方針を貫く。ただ正面を見据え、戦を終えた戦場に向かって侮蔑の声を放つ。
「あなた何者ですか? いきなり現れて全員をあっという間に倒すなんて、どう見てもただの一般人というわけではないですよね?」
緊張感を隠しきれていない様子だった。
警戒を常にしている彼女は誰であろうと容赦はしない。
しかし、放たれた声に対して答える返事はなかった。
黒ずくめの男はただマスク越しに彼女達を見つめており、口元を一切歪めず、そして何の感情もない表情を浮かべてただその場に突っ立っている。
彼の周囲には、鋭い一撃を入れられて気絶した男達が転がっている。その近くには護衛対象もいるため、油断を許さない状況が続いている。
「最後にもう一度だけ聞きます。あなたは何者ですか? 答えないというのなら問答無用で発砲します」
「······」
たきなは警告して照準を合わせるが、やはり彼は一言も発さなかった。
よって、たきなは躊躇わなかった。
パシュ! と。
無音の威嚇射撃を放った。
放たれた弾丸は空間を突き抜け、悪魔のような影を貫き、そこで影の肩辺りに命中させた。
しかし、
ガキン!
と弾かれた音が辺りを虚しく木霊する。
「ッ!?」
「······」
直撃した弾丸からは火花が飛び散ったが、その光に照らされて、マスクをした顔は落ち着いた目で二人のことを見ていた。
マスクの男は平然とホコリでも払うかのような素振りで肩を叩き、何事もなかったかのように睨む。
男は言った。
「今度からは催涙ガスを使うことだ」
低くしわがれた声色はおそらく作られたものだった。喉辺りに備え付けられている変声機によって、素の声を歪めているのだ。
たきなはその低い声に肩がビクンと大きく震えたが、平常心を常に保っていた彼女の先輩が一歩前に出て落ち着いた声色で話しかける。
「あなたは誰······この悪い人達の仲間?」
千束がたきなの代わりに、地面に転がり落ちていた痩せ男に指を指して訊ねた。
一見して冷静すぎる台詞に感じられるが、彼女がこういう喋り方をするのは極めて珍しい。誰にでも陽気な態度で接する彼女は、珍しく真面目な表情で相手を見据えている。
彼は一切目線を動かさず、千束の目を見て答える。
「いや、そいつらは俺の街から溢れ出た泥だ。俺はそれを拭いに来た」
「なんで?」
「俺達の街を揺すぶったからだ」
そう言うと、マスクの男はケープの下から写真を何枚か取りだし、千束の方に投げてよこした。
千束は写真を拾い上げ、遠くの街灯の光にかざして見た。それはシルクハットを被った小太りの男がいくつもの拳銃をコンテナに積み込むという、どこか危ない写真だった。 片眼鏡をかけた男は笑いながら部下と思われる者達に指示を出している様子が納められているが、これが正義の執行人の目線からなら破滅的な写真と思われる。
銃の密輸。
その光景が映し出されている写真を見て、千束は変わらぬ表情で再び訊ねる。
「これは何?」
「ネタだ」
「なんの?」
「悪を闇から引きずり出すための」
おそらくその言葉は、第三者が聞いても理解できないものだろう。彼が彼女達にそう言ったのは、彼女達が何者なのか既に理解していたからだ。じゃなきゃ、女子高生相手に危ない写真を提供したりしないだろう。
千束はマスクの男に一歩近づき、顔をのぞきこもうとした。
どこかに、見覚えがあるような気がしたのだ。
黒い鎧を纏った騎士。
蝙蝠のようなマークを胸に着けた男。
どこかで見たことがあるような男に対して、千束はポツリと呟くようにこう尋ねた。
「あなたは、誰?」
「君達に似た誰かだ······嘘で塗り固められた檻を揺すぶるつもりの誰かだ」
すると、後ろに都合よくやって来た別の車が左折するためにこの道路の向こう側に侵入してきて、ヘッドライトで一瞬二人の目を眩ませた。
視界が戻ったとき、千束とたきなは二人きりだった。どういうカラクリだったのか、つい先ほどまで目の前に迫っていたはずの黒ずくめの男は、気がつけばどこにもいなかった。
「「·······」」
ほんの僅かに遠くの方で風を切る音が聞こえてきたが、それに気付くこともなく彼女達は互いに目を合わせる。
やがて二人は、人質となっていた女性を解放するために麻袋を脱がす。たきなは人質に、千束は辺りに散らばっている男達の後処理を。
どいつもこいつも死んではいないが、所々に重傷を負っている。外見からではわかりにくいが、何人かの骨にはヒビが入っているようだ。少し触っただけで男は無意識の中で苦しそうな声を上げる。痛みに反応したのだろう。痛覚から送られてくる電気信号に、脳は驚いたように悲鳴を上げている。
彼女は自分のスマホを取り出すと、どこかに電話をかける。
呼び出し音が鼓膜を響かせる中、彼女は先ほどの出来事を振り返る。
「······あの人、どこかで」
千束はポツリと呟いて周囲を見渡した。
当然ながら、目に見えるような場所には移動していないだろう。黒ずくめのスーツに身を包んだ男は、闇に紛れるために敢えて全身を黒くしたと思われる。
追跡は出来ないだろう。
二人は疑問を抱きながらも作業を続ける。
納得できない展開にモヤモヤとするが、自らの目で確かめた情報を照らし合わせ、千束は笑いながら総合的にこう結論付けた。
「でも、あの人とはまた会う気がするし、その時にまた聞けばいっか!」
それだけだった。
たったそれだけの思いで、各々が持つ甚大な『正義感』が、静かに動き出す。