バットマン Burns The Night   作:織姫ミグル

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第9章

 

 

本名不明。

 

通称『ジョーカー』

 

ゴッサム中の民間人や暴力団その他諸々を含めて三千人以上に及ぶ大量虐殺。

 

暴行、傷害、強盗、放火、脅迫、恐喝、凶器準備集合、窃盗、詐欺、横領、偽造、汚職、背任、賭博、公務執行妨害、住居侵入、逮捕監禁、器物損壊、銃刀法違反、殺人等。

 

複数万件の罪を合算し、死刑に処す。

 

被告側の上訴期限を与える余地なし。

 

これにて刑は確定。

 

繰り返す、刑は確定。

 

 

カン!

 

 

木製の木槌の音が響き渡ると共に、男は嗤う。

 

ガベルを手にして見下す裁判官は何者の意見にも染まらない真っ黒な服を着て、しかしどこか清々した表情で被告人を見ていた。

 

それが、とても愉快だった。

 

判決を言い渡すだけの仕事なんかで満足してて、この世はもっと楽しいことで溢れてるのに、人の意見を聞くだけで自分の本当の意見は言わない。

 

全てが面白おかしく見える彼は、そこにいる全てのものが愉快極まりないオモチャ箱。

 

その箱が閉じられることはないだろう。一生遊び続けても飽きることを知らない。

 

いついかなる時も、

 

笑いを崩さない。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

硬く、冷たい音だけが地下に響く。

 

精神面を考慮して作られるはずの精神病院にしては湿っぽくて逆に不安定にさせる。腐りきった街では予算が常に足りてないからか、どの施設にも必要最低限のお金が不足している。

 

が。

 

怪物を閉じ込めるためなら、奴らは喜んでありったけの紙切れを湯水の如く使うだろう。通常の病院や刑務所では管理不能とされる怪物達を秘密裏に収監する巨大な病棟。

 

そこは彼のために作られたと言っても良い。

 

世界地図にも載らないその場所は、究極の隠匿術で守られている。

 

 

「······フフッ!!」

 

 

年齢、本名、出身。

 

性格、本性、思考。

 

あらゆるものが全て不明な怪物。

 

人間と呼ぶにはあまりにも恐ろしい怪物は、マットもシーツも敷かれていない硬い鉄の板に固定されている。

 

首に腕、足はもちろん。手足の指先から肘に膝までも曲げられないように完全に固められている。暴れても引きちぎれることはない金属製の拘束具をつけられても彼は特に暴れる様子を見せない。

 

ずっと、笑顔を絶やさず苔だらけの天井を見つめている。

 

知らない天井が見下ろしているのではない、その天井を睨み返してやってるのだ。

 

その隣には、この部屋の唯一の出入口がある。防音バッチリの硬い扉が付けられたその外には、厳めしい制服を着た刑務官が見張りをするために二人ほど入り口前で並んで立っている。

 

会話を拾われたくないのか、あるいは二人とも人見知りなのか。

 

彼らは会話らしい会話をすることなく、それでも時折チラチラと横目で視線を投げている。あの目は隣の奴を見ている感じではない。監禁部屋にいる彼を見ようとして、だが恐怖による抵抗で中を見る勇気がない。

 

規則正しい姿勢をするのも疲れている。

 

当然と言えば当然だ。

 

何しろ、自分達の後ろには正真正銘の怪物が優雅に寝転がっているのだから。

 

部屋の奥にいるものによって精神はかき乱され、調和に安定を崩され、空間の主導権を奪われてしまっている。

 

一言も発言することを許されない。何か話してしまうことで、その少ない情報からこちらの思考を支配する可能性もある。

 

 

「ハハハッ!!」

 

『『······ッ!!』』

 

 

嗤い声をあげる音に、金属製の太い拘束具の冷たい音が混ざる。防音なのにそれを貫いて響いてくる嗤い声に、監視員は振り返ることもできずに硬直してしまう。

 

緑色の乱れた髪。

 

緑色に染まった瞳。

 

怪物、化物、フリーク。

 

そんな風に呼ばれてる奴がいる部屋は円形状で、精神異常者を治療するための場だった。

 

所謂社会人矯正、と言えば聞こえは良いだろうが、世界のどの地図にも載せていない場所の精神病院なんて、見放されたも同然だった。凶悪犯に夢も希望も与えない事自体、もうここから出られることはないざまぁみろ、という社会側の意思表示みたいなものだった。

 

ここは精神病院兼監獄というより、分厚い隠匿の壁で囲まれた廃棄場所みたいな所だった。

 

捨てられたゴミの事なんて、世界は一切気にしない。

 

用済みになったんだから、それがその後どうなったかなんて誰も興味持たない。

 

 

「いいVIP待遇だ」

 

 

そんな中でも、彼は気にするどころかむしろ喜ばしかった。

 

ここに連れてこられたのは、メンタルケア。死刑を宣告されたとしても、それまでにその汚れきった魂を浄化させて天国にでも行けるようにと、救われぬ者に対しての少なからずのお情けということだろう。

 

慈悲も救済も、本来は彼に与えるべきではないと皆が思うだろうが、人々の安寧を願う人間達は相手がどれだけの極悪人だろうと、二度と罪を犯さぬように来世では良き人間として生まれてくるように願うのだ。

 

 

『お待たせしました』

 

 

そんな魂を救う場の外で、一人の女の声が響いた。

 

外から中への声はシャットダウンされておらず、中にいる患者にも聞こえてくる。心が安らぐ声色は、恐らく訓練されてできた作り声だ。

 

鼓膜からリラックス効果を発揮するために、わざわざ優しい声を出すために自分の心も落ち着かせている。

 

しかし、彼は気付いていた。

 

その深いところには、少なからず恐怖心が潜んでいるということに。

 

 

『心理学者の到着を確認』

 

『囚人番号一◯九一号の収監部屋への入室を許可。さっさと中に入れ』

 

 

監視員の声に従って、部屋の外と中でロックを解除するためのアラートがビー! と鳴り響く。カチャカチャと小さな金属音が連続し、ロックが一時的に解き放たれる。

 

ガラスと金属が合わさった扉から、赤い眼鏡をかけて白衣を着た金髪の女性が入ってくる。

 

彼はそんな女性を見て鼻で嗤う。

 

好みの女じゃなかったのだろう。明らかに着飾ってるような見た目をしていて、本性を隠しているのが丸分かりだった。どんな時でも本当の自分を押さえ込んで周りに流されている。

 

こういう人間は、ちょっとからかっただけですぐ本性を現す。

 

目立ちたがりの格好で施設を徘徊する人気者的なポジションを目指す彼女。

 

使いようによっては、利用できなくもなさそうだ。

 

 

「こんにちは、アーカム病院へようこそ。まず簡単な精神鑑定を行います」

 

「······」

 

 

精神安定マニュアル通りの台詞を読み上げる彼女は、台本もなしでそう言った。手に持ってるのは舞台用の台本ではなく、そこの机に固定されている患者のカルテ。彼の精神面と、彼が今まで行ってきた数えきれないくらいのいくつもの犯罪。現段階でわかっているだけの情報を書き込んだ資料。

 

それを手に、彼女は派手な赤いハイヒールをカツカツと鳴らして彼のもとに近づくと、机の隣に事前に用意してあった回転式の椅子に腰かける。

 

女は言った。

 

 

「散々な一日だった?」

 

「······」

 

「はぁ、この街の執行人ときたら······いつも病人や弱者を痛め付けているわ」

 

 

同情するように声をかける心理学者は、呆れながらも落ち着いた口調だった。同情や共感を犯罪人にして、少しでも信用してもらおうという方法はよくある人心掌握技術。

 

全てに対して平等に訴えかける心理学者の方針に、彼は逆に呆れてしまう。

 

全員を差別することなく平等に扱う、それが彼は気に喰わなかった。

 

自分を他の奴らと一緒にしないでほしい。

 

自分は世界を混沌で埋め尽くすカオスな道化王子。

 

誰にもその認識を覆させない。

 

彼は少し不機嫌になるように珍しく口をへの字に曲げながらも、自分の心を救いに来た彼女に応える。

 

 

「一つ聞かせてくれ······本当に最悪な日ってのを経験したことがあるか?」

 

「······?」

 

「······ハハハッ!!」

 

 

一回聞いただけでは理解できない質問。

 

その質問内容に興味が湧いてしまった彼女は、ついその質問の意味を聞いてしまった。

 

 

「それは、どういう意味?」

 

 

質問を質問で返す。

 

それが間違いだった。

 

犯罪を犯した罪人に同情することが商売道具な彼女にとって、その質問の内容は、大いに共感と同情ができる部分が多すぎた。

 

彼は語るための同意を得られたことを喜び、口を左右に裂けながら天井を見つめて話し出す。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

ご存じない人もいるかもしれないが、

 

記憶ほど残酷なものはない。

 

なんと鋭く突き刺さる稲妻よ。

 

招かれざるパーティー客、シナプスをつんざく叫び声。

 

不可避で、

 

無慈悲で、

 

極めて非友好的。

 

狂気に逃げ込むことすらできない。

 

そして人生を変える人物に出会う。自分が誰なのかすら分からなくなる。たった一度の出会いが自分の過去をもぎ取り、記憶や人格を歪めていくことすらある。

 

そして、自らの人格を構築し直さなければならなくなる。

 

所謂現実逃避だ。

 

しかしさらにそれがどれほど馬鹿げたことかと気付くと、自我の壁に反響するのは自分の笑い声だけ。

 

全ては喜劇となるんだ。

 

 

「······わかったわ。もう少し詳しく調べる必要がありそうね。言語連想検査を受けてみない?」

 

 

それはとても楽しそうな提案だ。

 

 

「ではあなたにとって『それ』がなんなのか答えてね。まずはそうね······“受容”は?」

 

 

しかし、それはあまりにもありふれたパターンじゃないだろうか?

 

 

「あのね······あなたのためにやってるのよ。さあもう一度、“受容”」

 

 

だがそれもいい、受容過程はお気に入りの段階だ。

 

 

「キューブラー・ロスをご存知なのね。わかったわ」

 

 

ああ、よーく知ってるよ。人間が死を受容していく過程を段階に区分したものってのは、人としての本質を見抜く必須アイテムだからさ。

 

 

「そう? じゃあ“家族”は?」

 

 

スクランブルエッグ。

割られた命をかき混ぜるだけのもの。

 

親の勝手なエゴで産み出されたんだから、いつかは見限られるときが来る。そんなもんさ。

 

 

「そうなの? そうしたら“裏切り”は?」

 

 

デュエット、それも推し同士の。

二人の良さがお互いを潰しあっていて声をバラバラにしてて、聞けたもんじゃない。好みだった奴が他の奴といるのを見ると何が良いのかわかんなくなる。

 

わかるか。

 

混ぜるな危険(聞けん)!ってね?

 

 

「うーん······“謙遜”は?」

 

 

紫のスパンコール。

光を反射させて、辺りを逆に暗く照らし出す。

 

着飾った自分で満足するような人生はあまり楽しくないってことだよ。

 

 

「なるほど······それじゃ“真実”は?」

 

 

玄関マット! 猫の帽子! セロファンのボディースーツ!

 

それから、電極。

 

 

「ハハッ、オーケー。では“妄想”は?」

 

 

火薬、それも大量に。

 

自分が熱く燃える世界を想像する毎に、幸福感や承認欲求も高まるんだよ。

 

それが人の動力源だ。

 

人ってのはいつも何かを考えてないと狂っちまうんだよ。

 

 

「フフッ、どれも面白い答えね。じゃあ最後よ、今度こそ真剣に答えてね?」

 

 

君のためなら。

 

 

「“運命”」

 

 

いい質問だ。面白いことを教えてやる。

 

今まで運命ってのは邪悪なものだと思っていた。それも天上の神さんやらなんやらが決めるもんじゃなく、人間のちっぽけな価値観の法則で決まるものだと。

 

でもあの時、“黒い化物”が現れた時、その考えが全て変わったよ。

 

何があったか聞いて?

 

 

「······何が変わったの?」

 

 

自分の人生すべてがこの一瞬のために築かれたものだ、と感じたことはないかい?

 

 

「あなたは今·······それを感じてるのね」

 

 

ああ、そうだよ。

それで気付いたんだ。

 

いさかい、酷い目に遭う日、残酷な仕打ち。

 

全ての出来事は運命の巡り合わせなんだよ。

 

 

「運命に対する見方が変わった?」

 

 

もちろん、良くわかったよ。

 

この世に偶然の出会いなんか存在しない。全ては起こるべくして起こっている。どれだけ足掻いたところで、それは変えられない。嫌でもその運命通りに動く。

 

それが別に嫌なわけじゃない。

 

むしろ、愉快過ぎて楽しくなるほどだ。

 

そんな運命が、“ある人”に出会わせてくれることに繋がっていた。

 

 

「······特別な人と出会ったのね」

 

 

そうだよ。全てを変えてくれた人と言ってもいい。

 

 

「何もかも?」

 

 

そう。

我々の住んでいる世界がどんなに腐っているのかわかるかい?

 

世間の荒波をたった一人で乗り込むのがどんなに孤独な行為かわかるかい?

 

 

「それって······孤独よね。そう思わない?」

 

 

そう。

 

そうだよ。

 

その通りだよ。

 

わかってくれたのかな?

 

変人たちに囲まれていても、孤独は消えない。物を蹴ったり引っ掻いたり腹の底から叫んでみても、どうせだーれも気にしてくれない。

 

まるで、自分が存在してないかのようにみんな振る舞うんだ。

 

何しても振り向いてくれない。何をしても満たされない。そんな世界が本当に辛くて辛くて、自分の中身を白く塗り潰された感じだった。

 

時として、自分はどこにも行けない道に迷い込んだ気分になる。どこへ行っても行き止まりで、何をしたら良いのか、何が答えなのか分からなくなる。

 

たとえその先へと行く方法を見つけても、その先にあるのは虚しさだけ。

 

でも今は、

 

 

「近くにいてくれる人を見つけたのね。共に、人生を歩んでくれるような人を」

 

 

そう。そうなんだよ。

 

しかも、その人物はこの道から狂気に繋がる出口を指し示してくれた。より一層面白い世界への入り口だ。

 

 

「······それって、どんな気分になるの?」

 

 

漂い、浮かんでいる気分だ。

 

現実の世界の栓を抜かれて、泥水の溜まった排水溝に吸い込まれて全く新しい何かへ導かれるように、実にワクワクする。

 

この先に広がっているのが何なのか、知りたすぎて思わずその激流を泳いでしまうほど。

 

どういう気分かは、どうせわかってもらえないだろうね。

 

 

「そう、ね·······でももしかしたら」

 

 

人ってのは他人のことを理解したがらないからね。

 

それがどれほど美しかろうと、もっと美しくて流行りやすい話しに夢中になってしまうような生き物だしね。

 

 

「その人のことをどう思ってるのか、もっと話してくれる?」

 

 

本当に心が通じ合う誰かに出会うような気持ちだ。

 

自分のことをわかってくれる、そんな存在と今まで出会ったことがなかったからかな? 今とても気分が良いんだ。

 

どれだけ人生のどん底に落とされても、そいつがいるだけで心が楽になるんだ。

 

信じて欲しいんだけど、そんな気持ちになったのは初めてだ。

 

 

「·······」

 

 

わかってくれるよね?

 

落ちるのがわかっていても躊躇いなく手を差し伸べてくれる、()()()()()()()()()()()()

 

 

「······フフ」

 

 

暗闇。

 

そこを照らし出す希望の光。

 

 

「フフフ」

 

 

わかってくれるよね?

 

 

「ええ、わかるわ」

 

 

だと思ったんだ。

 

 

「それで······この人は誰なの?」

 

 

名前はまだ知らない。

とても大切な人なのに、でもまだその人の本名がわからないなんて······ッ!!

 

······これって、大分イカれてるよな?

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「“ハーリーン”、“ハーリーン・クィンゼル”よ」

 

 

首を振って、思わず自分の名前を告げてしまった。

 

それだけで、

 

それだけなのに、

 

彼女の心は凄く満たされた。

 

 

「素敵な名前だね。お友達からは『ハーレイ』って呼ばれてるのかい?」

 

 

元から嗤っていたが、彼は微笑みかけながら彼女にそう聞いた。

 

猫の首を撫でるような愛しげな声色で。

 

 

「友達は、多い方じゃないわ。ここにいる人達は誰も私を見てくれないもの」

 

「でもねハーレイ? たった今、()()()()()()()()()()()?」

 

「······ッ!!」

 

 

彼のその優しい一言に、彼女の手はつい彼の自由を奪っている拘束具へと伸ばされる。

 

彼女は嬉しかったのだ。

 

自分と同じような存在がいることを。

 

彼女は今まで自分を偽り、抑えることで世間を渡り歩いてきた。

 

人というのは目立ちたがりな生き物。それなのに、自分を見てくれない。

 

一生懸命勉強して心理学者にまでなったのに、勤める先は世界地図にも載らない極秘な場所。そこでの功績は一切認められず、外に持ち出すことも許されない。

 

透明人間のような気分だった。

 

精神科医という仕事柄、人の心を読むというのは大分疲れる。

 

なのに、

 

その功績は全て抹消される。

 

極秘という義務によって、患者達の情報を流してはならないのだ。

 

どれだけ優秀な成績を残しても、人に認められないなら生きていないのと同じだ。なにも成し遂げられない人生の一体何が楽しいのか、存在そのものを消してまで人の思考を読むのに何の意味があるのか、わからなくなり始める。

 

鬱々となる人生に、何の価値があるのか。

 

それについていつも考えていた。

 

その答えを持っているものが、目の前に現れた。

 

彼は運命だと言った。

 

ならば、彼に会うのは必然的な運命だったのだ。

 

妄想が妄想を呼び、彼女の中で何かが芽生え始める。

 

赤くギラッギラに塗られたマニキュアが、ゆっくりと、金属製の拘束具を撫でる。

 

愛おしく、

 

ペットでも愛でるように。

 

 

「······ヒヒッ!!」

 

 

彼は嗤う。

 

人の思考なんて、ちょっとつついてやればコロッと転げ落ちる。弱味の部分に一筋の光を射し込むだけで、簡単に這い上がれる。

 

彼は口を歪ませて、耳元で囁くように小さな声でこう言った。

 

 

「これからよろしくね、ハーレイ?」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

囚人番号一◯九一号の収監部屋にてブレイク警報あり、事象発生。

 

発生地点はアーカム病院の最深部。

 

事態を迅速に収拾するべく、施設内にいる監視員および執行官達は即現場に急行してください。

 

逃亡犯は過酷かつ不測の事態を極めた重要資源であり、同時に数々の犯罪を犯した極めて危険な凶悪犯でもあります。

 

何としてでも、囚人を確保するように。

 

これは訓練ではない。

 

繰り返す、これは訓練ではない。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

バタバタと人間が喚き始める。

 

しかし、彼は既にそこにはいなかった。

 

冷たい雨が降りしきる中、街灯の白々しい光が、水溜まりに反射する狂喜をギラリと照らし出している。

 

それとは別に、カツンという細々とした足音が鳴る。

 

濡れた路面へと足をつける彼女の足は、ゆらりゆらりと雨天の夜道を歩く彼の後ろをついていく。

 

二人は解放された気分に心打たれていた。

 

意味は違えど、互いに同じ場所に捕らえられていた存在同士、仲良くやろうと手を取り合う。

 

街灯の下に出た男女は傘も差さずに大いに嗤っている。糸のような細い雨が、患者のように細くなった二人の痩身を打ちまくっている。

 

解放されたことに喜び、女性は眼鏡を捨て、纏めていた髪もほどき、全てをさらけ出した。

 

着飾っていた自分を崩し、ありのままの姿を見せつける。

 

 

「フフッ!!」

 

 

顔面白まみれの男は周囲をぐるりと見回して、腐った街に別れを告げる。

 

ほんの数十分で既に治安を司るはずの警察達は機能停止状態に陥っている。たった一人が解き放たれただけで、奴らはすぐに思考が狂っちまう。

 

街のあちこちから被害報告や増援要求などの通信が行き交っているのがわかるが、そんなものに興味はない。

 

この街はもう死にかけている。

 

しかし、

 

それでも、

 

怪物の口元に浮かぶのは、ただひたすらに裂けた笑み。

 

いついかなる時も笑いを絶やさない、喜怒哀楽どれを感じても全てが一つの感情に当てはまる、説明不要な純粋な笑み。

 

 

「面白いことになってるじゃないかジャパニ~ズ?」

 

 

彼は囁く。

 

 

「最っ高に面白いジョークだッ!! これだから人生ってのはやめられない。予想できないことの連続過ぎて全然退屈しないッ!! やっぱりイレギュラーな事態こそ最高の娯楽だぜッ!! ギャハハハハハハハハッ!!」

 

 

口の中で転がすように弄ぶ舌に様々な感情を乗せながら、同時に彼は夜空を見上げて手を伸ばす。

 

暗雲だらけの空から降り注ぐ雨に打たれて、全ての闇に蠢く者達に自分の歪んだ思念を送信するように、笑みと共に宣言する。

 

 

イッツショォォォタァァァアアアアアアイムッ!! HAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHAAAAAAAッッッ!!

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「へへっ! この世界最高のハッカーから逃げられると思ったら大間違いだぞウォールナット~?」

 

 

窓から流れ込む光を全て遮断した一室に、ふざけた格好の男がそう呟いた。

 

にも拘らず、ロボットのような被り物をした奴はブルーライトがしこたま取れるパソコンと向かい合っていた。

 

普段照明らしい照明は何もなく、ただパソコンを動かすための機械類のパイロットランプなどが星空のように細かい光を放って部屋を照らしている。

 

何かを追っているような口調でただパソコンに語りかけているが、

 

その時、

 

突然、

 

何の脈絡もなく、

 

ブツン!! と。

 

パソコンどころか部屋全体を漆黒に染める。

 

 

「······へっ?」

 

 

暗闇が空間を満たす。停電かとも思ったが、ここのマンションの管理は自分がしている。自分以外には誰も住んでないから、勝手にセキュリティを解除して別荘のような豪奢な作りの内装に、ネット会議用の特殊回線まで備えたその場所が停電するなんて今までなかった。

 

電力復旧のためのキーを叩いてみても、反応はなかった。

 

一体何が起きたのか、理解できない状態が続く中で、それは起こった。

 

 

『プログラム改造作動中』

 

「!?」

 

 

突如知らされる音声に目を見開く。

 

次の瞬間には、電気も入ってないはずのパソコンにある映像が映し出された。

 

顔面蒼白なピエロが口元を両手で抑えて笑いを堪えるような画像。HAHA!! と笑いを溢して、目を細めてこちらを向いている道化師に、パソコン前にいた男は思わず立ち上がって後ずさる。

 

椅子が倒れたことにも気付かず、反対側の壁に背をつける。

 

断続的に瞬く赤い警告音が暗闇空間を照らし出していた。

 

前述の通り、この部屋には機械以外の照明機器はない。

 

赤い光の正体は、モニタ一つ一つから表示される無数のエラーの集合体。つまり現在はそれだけの異常事態が彼の部屋を蝕んでいるのだ。

 

ただ一人の道化師によって。

 

犯罪界の王様によって。

 

あの世界最高とまで言われたハッカーを追い詰めた自分の空間が。

 

 

「な、なんだ!?」

 

 

理解が追い付かない中でも、パソコンから発せられる音が彼を嘲笑う。

 

部屋中に蔓延する狂喜に耳を塞ぐ彼だったが、

 

ピコン!

 

とパソコンに一通のメールが届いた。

 

 

「え、え!?」

 

 

次から次へと状況が変わる展開についていけず、それでもメールは逐一確認しないと落ち着かない質なのか、彼は恐る恐るパソコンに接続しているマウスを動かして、開くという項目を押す。

 

開かれたメールには、こう書かれていた。

 

 

日本への招待状を手配してくれ、と。

 

 

 

 

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