そして、ナギサは廊下を歩いていた。仕事が忙しいからと言って、書類仕事ばかりではない。直接足を向ける必要がある仕事もある。
今は放課後で、年頃の女の子らしくそこここでおしゃべりの声が響く中をナギサとその一団は足早に通り過ぎていく。
(先生の尽力があっても未だ収まり切らないキヴォトスの混乱。そして、エデン条約調印前の諸作業……仕事は尽きませんね。ですが、ミカさんとのお茶会の時間を減らしたくはありませんし。ええ、頑張るしかないでしょう)
(――それに、ツルギさんとハスミさんが協力してくれます。直接力になっていただけることはありませんが。トリニティの派閥間の溝は簡単には埋まらない。けれど、あの方たちが積極的に動いてくれるだけでも助かります。その活動がホストへの追い風になってくれるから)
ナギサはとても忙しい。だけど、何気ない一言を聞いて足が止まってしまう。
「ねえ、聞いた聞いた? ナギサ様とミカ様の噂!」
「ナギサ様? ええと……誰だっけ。聞いたことがあるような……」
どこにでも居るような普通の女の子。政治とは何も関係のない一般のトリニティ生が友達同士できゃらきゃらと噂話をしていた。
それはどこでも見られる光景だが……まさか自分のことが噂されるとは、とナギサは驚く。それも、こんな楽しそうに自分の名前が出されるなんて、と。
いつもナギサの噂話は怨嗟だの嫉妬だのテロだのと一緒にある碌でもないものしかなかった。まあ、それがキヴォトスとしての標準的なクオリティなのだが。
何やら幸せそうに話しているそれに、どうしても興味が涌いてしまう。
「遅れてるわねえ、今トリニティはその噂で持ちきりなのよ。ティーパーティーのナギサ様とミカ様!」
「ああ、うちのお偉方というわけですか。……でも、偉い人が何しても私たちに関係がないのではなくて?」
そう、偉い人。偉い人の名前をこんなにも嬉し気にささやかれるのはトリニティでも前例のない事だろう。
いったいどういうことだ、とナギサは興味を引かれて盗み聞きしてしまう。
「ああ、違う違う! 政治とかどうでもいいの! これは年頃の女の子なら絶対に聞いておかなくてはならないことよ!」
「……はあ? その、偉い人が何をしたと……」
ナギサは完全に立ち止まった。護衛が声をかけても反応せずに、なぜだかその噂の続きが気にかかって耳を傾けてしまう。
(私とミカさんの噂。まさか『フィリウス』が『パテル』すらも潰してホストを独占する……みたいな噂が出ることは覚悟していましたが違うようですね。では、何を噂することがあるのでしょう?)
「ナギサ様とミカ様の熱愛の噂よ!」
「……ッ! 詳しく聞かせて頂戴!」
どことなく熱に浮かされたような少女たちの会話が耳を打つ。いつでもどこでも、少女たちは恋の噂に熱中するものだ。その熱量はすさまじい。
(……はあ!? 私と……ミカさんの熱愛? そんな噂が……どうして?)
とはいえ、”張本人”としては心穏やかでは居られない。
いつもの悪意とともにささやかれる噂であれば黙殺すれば良かった。それがトリニティで政治に関わる者としての心得だ。
だが、まさか――自分とミカの熱愛騒動の噂などが囁かれようとは。予想外のこの事態にナギサの思考は停止した。
「そうよ。ナギサ様はフィリウス派のトップ、そしてミカ様はパテル派のトップ。本来であれば、想いを通じ合わせるなど決して許される関係ではないの」
「ええ、そうよね。よくわからないけど、そのフィリなんとかと、なんとかは長年戦ってきたのよね。トリニティは昔から派閥争いが酷かったって聞くもの。でも、別れ別れにされても想いは残るものよね。だって、恋は障害が大きいほど燃え上がるものだもの!」
「ええ。お二方の間には二つの派閥というとても……とても大きな溝があったわ。更には生徒会の派閥のうち最後の三つ目であるサンクトゥス派が二人の仲を引き裂こうと暗躍し、そして正義実現委員会でさえもその恋を許しはしないわ」
「そうでしょうね。偉い方って、何かとても怪しいもの。トリニティを裏から支配しようと日夜暗躍する幾多の勢力。……誰も二人の恋を認めてあげないのね」
うるうると目に涙を溜めながら噂話をする少女たち。だが、ナギサとしてはその話には無限に突っ込みどころがあった。
単なる噂話とはいえ、それでも事実と違いすぎると。
(いえ……サンクトゥスはもう空中分解しかけていて暗躍なんて出来ませんし、正義実現委員会が何か私を阻んだこともないのですが。……もしかしてアレですか? ミカさんと4人でお茶会したときに、多少強引に部屋に入ってこられましたがそれを言っているのでしょうか)
ナギサは苦笑する。いつのまにか完全にその噂話に聞き入ってしまっていた。
「そう、どれだけの壁があろうとも……! どれだけ強い恋敵が居ようとも、私はあなたを諦めない。……ミカ!」
「そんな……まだ他にも敵が居たのですね」
その彼女たちはなにやら悦に入ったように演技し出した。当事者のナギサとしては、そんなセリフをしゃべった覚えは一切ないが。
演技している彼女はくるりと方向を入れ替える。どうやら次はミカのセリフのつもりらしい。
「でも……駄目よ。私には……私には心に決めた人が居るの!」
「そんな……! ナギサ様はこんなにもミカ様のことを愛しているのに。ミカ様にはその心が伝わってないなんて」
ナギサはついに噴き出した。ここで飛び出して話を中断させることなどできない。近くにあった壁を掴んで、その二人を凝視する。
(……な――心に決めた人とは誰ですか!? 誰が、そんなミカさんの心を掴んだなんて……!)
「私には……私の心には先生が居るの。だから、あなたの想いは受け取れないわ……ごめんなさい、ナギサ」
「先生……近頃噂で持ちきりの彼ね。失踪した連邦生徒会長の代わりにさっそうとサンクトゥムタワーのコントロールを取り戻してキヴォトスを救った英雄。そして数々の不良を撃退し、時には不良とも組んで公権力と戦い、ついには田舎とはいえ自治区一つを救って見せたという……!」
(先生!? そうか、そういうことですか……! 確かに、ミカさんは先生を信じています。過剰に! 信じすぎている、依存していると言っても過言ではないほどに……!)
二人を睨みつけるが、伝わるはずがない。というか、ナギサは物陰に隠れてこの話を聞いている。
「そう。あなたでは先生の代わりにはならないの」
「……では、ナギサ様は!? ナギサ様は失恋を受け入れられたのでしょうか!?」
(なっ!? 失恋だなんて、そんな。確かにミカさんに相応しい方か調査しようとは思いましたが。それに私は負けたわけでは……)
そして、彼女はまたくるりと位置を入れ替える。次はナギサのセリフだ。
「それでも、諦められないのです。あなたが私の想いを受け入れられないのなら。……ミカ、無理やりでもあなたを私のものにします!」
「……きゃあっ!」
そして、彼女は聞き入っている友達を押し倒す……振りをする。軽く抱きしめて、次のセリフを口にする。
「私には、あなたが居ないと駄目なのです。あなたが私のもとを離れて先生の下へ行ってしまうくらいなら……!」
「何を……何をしようというのですか? ナギサ」
そして、付き合う彼女も演劇のようにセリフを口にする。
(待って。ちょっと待ってください。いえ、確かに私はミカさんを牢獄に入れましたが……そんなつもりでは……)
見ているナギサは自分のことのようで気が気ではない。いや、実際に自分について妄想で好き勝手言われてしまっているのだが。
「あなたをずっと私のものにするために……あなたを閉じ込めます。先生になど、決して会わせません。あなたが目にするのは、私だけでいい……!」
「……ナギサ。そこまで、私のことを」
そして、二人はキスをする……ふりをした。
「――ッ!」
たたた、とナギサは走り出した。もう見ていられなかった。いや、あの二人はコイバナに夢中になるあまり演技していただけで実際には恋人でもなんでもないからその先なんてないけれど。
「……ちょ。ちょっとお待ちください、ナギサ様!」
護衛は慌ててナギサを追いかけた。
原作とは別の形でナギサの脳を破壊したかった!