時の流れは川のように絶え間なく流れ続け、しかも一切が違う。古典にもそう書いてある。そういうわけだから名誉も賞賛も喝采も一時現れるだけで、そのものも、その記憶も、流れ去っていく。
ちびっこレースで一等の旗をつかみながら私は知った、諸行無常を。
かつて、初めて困難を達成し、その賞賛を得たとき、私は視界が輝き手指が震えたものだ。
当然次の日もそのまた次の日も、ありありと思い出せた。それはもう鮮明だった。
しかし、こうして再び、三度と味わって、気づいた。もはやあの輝きが霞み、輪郭が朧になっていることに。
悲しい。この喜びを忘れることが悲しい。何度味わっても悲しい。そして何度味わっても嬉しい。喜びは嬉しい。
たまらなく、においたつ。抑えきれぬ欲動に私は決めた、レースの道をゆくことを。
早計だったかもしれない。
教室にて、私はペンをノート上で延々と徘徊させながら、日々、毎日、日が沈むまでのことを考えた。
字を書くことは好きだ。下手になるからだ。走ることも同様に好きだ。
繰り返すと、あるところは濃くなり、あるところは薄くなる。
力みと脱力のタイミングが変わってゆく。
座標軸上の曲線に近い。
ある視点からみたもっとも高い座標とは、曲線上の一点であり、留まることはできない。
私にできるのは曲線のパターンを幾度となく変えることだけだ。
二次元から三次元に変わり、曲線が立体を描くようになり、より複雑になってゆくとしても、それは一点の座標に留まることがない。
つまりなにが言いたいかというと。
字を書くことと走ることには、到達点こそあれど、必ず変化し続けるわけだから、終わりがな
シャープペンシルの芯が尽きた。
芯を詰め替えながら思った。この面白くない時間も終わりがない。
私はサウナ―というわけではないから妄想に基づく比喩になるけれど、熱い湯に浸かり、外気に身を冷やす喜びというものを、ぬるま湯での半身浴で味わうことはできないだろう。
興味のないことに対する勉強というやつは、自分の追い詰め方が、ない。
首から上も下もたるんだままだ。褒められることもない。
努力と行為は似ているようで違う。
ひたすら走ることは、軍隊では努力になりえるが、アスリートにとって努力足りえない。
努力とは向上のために行うものであって、目的も理屈もなくなにかし続けたところで、それは努力足りえない。
オムレツとだし巻き卵の焼き方は同じではない。
アメリカのオムレツと日本のオムレツは違うらしい。
アメリカのオムレツは材料の質が第一で、日本のオムレツは焼き加減など工程が第一だと、小耳にはさんだ。
どうだ、今朝とれたばかりの牛乳と卵をドン。おいしいだろう。なるほどおいしい。そんなかんじだと。
食べたいと思う。
最近牛乳の質にこだわりを感じだした。瓶詰め牛乳とパック牛乳を比べて、強く思った。
瓶詰めは風味や香りが違う。とれたてな感じがした。
そんな牛乳でオムレツを作ったら、きっとおいしい。