ハリー・ポッター -Harry Must Die- 作:リョース
ハリーは屈伸運動をしていた。
ローブは脱いで、ロンに持ってもらう。
ネクタイを解いて、丸めてポケットにしまいこむ。
ブラウスを第二ボタンまで開けて、胸まで涼しい空気が入るようにする。
袖を肩まで捲って、涼しくかつ動きやすく。華奢な二の腕に冷たい空気がふれて心地よい。
万歳状態から両手を組んで上体を反らせば、ぱきぱきぱき、と心地よい音が背中から鳴る。
それは宙を舞い踊る鍵鳥たちの羽音に隠されて消えていった。
「それじゃあ、いいわねハリー。制限時間はだいたい五分くらいよ。でもずーっと持続させるってのはやったことがないから、気持ち半分くらいを目途に、出来るだけ早く決めてね」
「君ならできるさ、ハリー。だって君は一〇〇年ぶりの最年少シーカーだもの!」
ハーマイオニーの確認と、ロンの激励。
ふたつの声を小さなその背に受けて、ハリーはとんとんとその場で跳んだ。
足首の調子はいい。挫くことはないだろう。
手首も問題なし。杖のスナップも利く。
両肩も大丈夫だ。多少無茶な挙動をしても痛めはしまい。
膝、腰、首、背中、股関節、すべて問題なし。オールグリーンだ。
魔法の訓練や勉強のみならず体力づくりを怠らなかったという努力の果実が、今この時たわわに実っている。それはさぞや甘美なる味であろう。
もう一度肩をぐるぐると回して、ハリーは拳を横に突き出し、親指を天井に向けた。
「いくわよハリー! 『ヴェーディミリアス』!」
合図に従い、ハーマイオニーが杖を振るう。
すると彼女の周囲に、明るい水色をした正方形の板が複数出現する。
それらはハーマイオニーの指揮に従って、部屋のそこかしこへと飛んで行った。
足場現出呪文。
もとは高所における作業などで使うために開発された、歴史の浅い若い呪文である。
煌めく鍵鳥たちが飛び交う中、ハリーは目を見開いて部屋全体を眺める。
クィディッチで培ってきた目。
獣のように細められた明るいグリーンの瞳は、どのような素早いものだろうと見逃さない。
ひょい、と水色に光る足場に飛び乗って、ベルトに挟んだ杖を抜き放った。
「『グンミフーニス』、縄よ!」
杖先から飛び出した緑色の縄が、石造りの梁に巻きつく。
ぐいぐいと幾度か引っ張ってしっかり巻き付いていることが確認されると、縄はまるでメジャーのように勢いよく杖先の中へと巻き戻っていった。
それに引っ張られる形でハリーが天井まで飛び上がり、猫のように梁の上に着地した。
巻き上がる途中、掻き抱くような動作で鍵をとらえようとしたが、手のうちには何も入っていない。飛行する動作はゆったりとしている割に、回避に関しては存外素早い。失敗だ。
ちりりりり、と鍵鳥たちがハリーの方を向いた気配を感じる。
どうやら敵と認定されてしまったらしい。
「うっく、痛っ! なんだこいつら、噛む……違う、つつく? なんか突っついてくる!」
鍵鳥にくちばしなどという、上等なものはない。
あるのはスニッチのような透明で素早く動かせる翼。
そして金属製の細長い体。
たとえくちばしがなかろうと、そのような細く硬いものの先端が体当たりしてきたらどうなるか。
痛いのだ。死にはしないが、それが何羽も、何百羽もいて、かつそれらすべてがハリーに向かって突進してきたら。どうなるか。
恐怖心を煽られながらも、ハリーは鍵鳥を振り切って、梁から跳んだ。
「『グンミフーニス』!」
自由落下の最中に、途中の壁へ縄を撃ち込む。
通常の縄ならそんなことはありえないが、これは魔力で編んだ魔法の縄だ。
魔力は純粋な高エネルギー体。物理的に物体を破壊するにはもってこいのものである。
縄が壁を貫き、しっかりと固定されたらしくハリーの体を引っ張った。落下中の体重を支えたがゆえに肩が外れるかと思うほど痛かったが、そこは無視をする。
目の前にいるのだ。お目当ての鍵鳥が。
まず間違いないだろう。ハリーがジャングルの猿のように部屋中を跳びまわる中、彼女の眼前にはよろよろと疲れたように飛ぶ鍵鳥がいる。御自慢の羽が折れている。賢者の石を狙う下手人がだれかは知らないが、そいつが捕まえた時に折れたのだろう。しかも、身体の部分(とはいっても元は鍵なので鍵そのものだ)は錆びついていて、いかにも古そうだ。
ハーマイオニーが出現させた足場に着地と同時に駆ける。ロープアクションだと、どうしても素早さには箒で劣る。両者を比べたとして勝っている点は、トリッキーな動きが期待できるところだろうか。だが相手が魔法生物ならばまだしも、魔法をかけられた通常の鍵ならば
次々と足場を飛び下り、宙を自在に飛び回る鍵を追いかける。
「この……っ、なかなかに、読みにくいっ」
シーカーたるその素質を最大限に生かし、ハリーは鍵の動きを先読みする。
どう手を伸ばせば、どんな反応をするか。そう動けば、ああして逃げるか。
体感時間ではいくら時間がたったのか、もはや把握できない。優秀なクィディッチ選手ならば感じたことのある、コンマ一秒が何十秒にも何分にも、時間が引き伸ばされる、快感にも似たあの感覚。あれを何度も繰り返せば、実際の時間の流れがわからなくなってしまっても仕方がない。
実際にハーマイオニーの叫ぶ声は、ハリーに届いていなかった。玉のような汗を流し、前髪を額に張り付けて、アクロバティックに鍵を追い続ける。その口元は笑みの形に歪んでおり、この状況を楽しんでいることがよくわかった。
よくわかっただけに、危険だった。
「ハリー! はやく! もう持続できないわ!」
「はやくしてくれハリー! ハーマイオニーの集中力が限界なんだ!」
聞こえていないだろう、とわかっていながらも叫ばずにはいられない。
現出した足場を駆け、壁や天井を蹴り、ロープで渡る。あらゆる手段をもってして鍵を追い詰めるハリー。まるで本当に箒なしでクィディッチをやっているようなその姿は、実に輝いていた。
だが輝いてもらっちゃ困る。先に鍵を捕ってもらわねばなるまい。
「ああっ! ハリー、気をつけて!」
冷や汗を流したハーマイオニーの足元が、一瞬ふらつく。
長時間もの集中のあまり、魔力枯渇に似た症状を引き起こしたのだろう。マグルでいう貧血だ。
ロンが彼女の肩を支えたが、もう遅い。
ハリーは今しがた着地したばかりの足元が消滅したことに気づいて、酷くあわてた。縄呪文を天井に撃ち付けて、一気に上昇する。ハリーを追いかけていた鍵鳥たちも続いて上昇。あの集団につかまれば、きっとずたずたになるだろう。
それはまずい。縄を巻き上げている途中で切断し、近くの柱を蹴って目的の鍵鳥へと向かう。
柱と柱の間を縫うように飛び回る鍵を、ハリーは同じく縄魔法で飛んでゆく。
特別なことは何もできない。
先ほどからハリーがやっているのは、鍵鳥の考え方を読み取るための追いかけっこ。
そんな狩人たるハリーから逃れるために、鍵鳥は変則的な動きでカーブを描く。しかしそれはハリーの思う壺だった。ハリーが背後から近づいて腕を伸ばせば、鍵はほぼ確実に、体があって腕を曲げにくい方へと動く。つまり現在ハリーが鍵を捉えようと左手を伸ばすと、鍵はハリーの右手側へと動いて避けた。
彼のそんな挙動をこの数分のやり取りで把握したハリーは、小手先の技で捉えるのは難しいと判断した。カーブで逃げるのならばショートカットしてやる。と言わんばかりに、鍵の進行方向とはズレた位置に縄を撃ち込む。
それは鍵の向かおうとしていた先であり、鍵からしてみれば目の前に突然ハンターが現れたようにしか見えなかっただろう。
そうしてハリーは、むざむざハンターの懐に飛び込んでしまいあわてて逃げようとした鍵の捕獲に成功する。左手の中で暴れる鍵を握りしめて、ハリーは梁から飛び降りた。
目当ての鍵鳥を捕まえたはいいものの、他の鍵たちはまだ追いかけてきているからだ。
「ハーマイオニー! 受け止めて!」
「んっ!」
床に飛び降りたハリーは、ハーマイオニーに向けて鍵鳥を投げ飛ばした。
少々危なかったもののしっかりキャッチできたそれを、先ほどはうんともすんとも言わなかった鍵穴にねじ込む。そのあまりにも乱暴な扱いに、鍵が羽根をばたつかせて抗議した。
手をはたかれて驚いてしまい、思わず手を放したハーマイオニーの隙を見て、鍵が羽ばたいた。これで逃げられる、と鍵穴から離れて飛び立った。そのとき。
飛び込むような挙動で鍵に近づいたロンが、その長い腕を活かして逃げ出した鍵鳥を見事にキャッチした。ハーマイオニーの時とは比にならぬほど暴れに暴れる鍵だったが、ロンは握る力を全く緩めない。さきほどの彼女よりもさらに乱雑な扱いで鍵穴に突っ込み、抵抗空しく鍵をひねって開錠に成功した。
それを見てハーマイオニーは感謝するより何するよりも早く、ハリーに叫ぶ。
「ハリー! 開いたわ、来て!」
「わかったーっ」
梁の上を走り回っていたハリーが、床に弾力化呪文をかけながら飛び降りる。
結構な高さから飛び降りたにもかかわらず、ゴムのようになった床のおかげで怪我なく着地したハリーが、猛然と駆け抜ける。ハリーの通った道には、天井付近からダイブしてくる鍵鳥たちが勢いよく床に突き刺さって、奇妙な模様を描いていた。
しかし、このままだと間に合わない。
箒に乗っていれば、余裕で扉を潜り抜けて、その瞬間に二人が扉を閉めることで鍵を振り切ることも容易だったことだろう。
その箒は今や、ゴミクズだ。自分の足で行くしかない。
このままいけば間に合う。
このタイミングなら、と思ったところで。
現実は厳しかった。
「……ッ、が、ぁ……!」
ハリーの左足、そのふくらはぎ。
一本の鍵が、深々と突き刺さっていた。
彼女には知る由もないことだが、その鍵鳥はあまりに密集しすぎた鍵鳥たち同士でぶつかり合い、勢いよくはじかれた一羽であった。はじかれた先は標的たる少女の未来予測位置。なればこれ幸いにと突っ込んできたのか、魔法式通りにそのまま突っ込んだかのどちらかだろう。
ハリー自身は、この鍵がどうして自分に刺さったのかはよくわかっていなかった。
だが、現在の状況が非常にまずいことだけはよくわかっていた。
足が一本、だめになった。
それは機動力の低下を意味する。機動力の低下はすなわち、回避力の低下を示す。
それは、それは。
ハリーは天井を見た。
綺麗に瞬く星のような、幻想的な光景が広がっている。
それは鍵鳥たちの刃がハリーを串刺しにしようとする、殺意の星だ。
盾の呪文で防げるのか。と一瞬思案して、きっとそれでは守りきれないということに考えが至り、そしてもはやお手上げなのだと気付いたハリーは、薄く微笑った。
ここまでか。
「おい! おいハリーッ! 諦めるな!」
しかし。
その悲観的な思いは、ロンの鋭く大きな叫び声によって中断された。
ロンが、扉を開けて待っているロンがその大きな掌をこちらへ差し伸べている。
ハーマイオニーが泣きそうな顔で、ロンに預けたハリーのローブを抱きしめている。
そういえば、そうだ。
ここであきらめたら、彼らが困るじゃないか。
にま、と笑顔になったハリーは、止まりかけていた足を再び動かして。
そして。手放しかけた杖を、ロンに向けた。
「えっ、ちょ。待っ」
必死に手を伸ばしていた必死な形相のロンの顔が、呆けたそれになる。
「『グンミフーニス』! ロン、引っ張ってくれ!」
ハリーの杖先から縄が飛び出し、ロンの左腕に巻きつく。
ままよ、と大声で唸りながら、ロンはそれを力の限り思い切り引っ張った。
メジャーを巻き戻すように、その場から滑るように、散々振ってから開けたコーラの栓のように、巨人と綱引きをした庭小人のように。ハリーの小柄な体は扉に向けてすっ飛んでいく。
ロンが抱き留めて、しかし勢いが強すぎるために失敗して。
ハーマイオニーをも巻き込んで、三人はもんどりうって床に倒れこんだ。
瀑布の如き鍵鳥の羽音を聞きつけて、ハーマイオニーは乱れた前髪をかきあげながら上体を起こし、杖を振るう。すると蹴り飛ばされたかのように、乱暴に扉が閉じられる。
続いて鳴り響いたキツツキのような連続音は、ひょっとしなくても扉に鍵鳥たちが連続して突き刺さっている音だろう。何十秒も音がやむ気配がないので、もしハリーがあそこで諦めていたらと思うと、恐ろしくて仕方がなかった。
「助かったよ。ありがとう、ロン」
「どういたしまして、ハリー。君ってフレッドとジョージ並みに無茶な子かもね」
床の上にロンを押し倒した形になってしまったため、一言謝ってから退いた。
ハーマイオニーにも抱きしめられて、お小言を言われてしまう。諦めたわね、このバカ。と。
彼女にも謝罪の意を表明しておいて、そして治療を頼んだ。
ハーマイオニーは治癒呪文が使える。本来ならば四年生で習うそれを一年生の時点で習得しているというのは、ハリーは実に舌を巻く思いであった。強さを渇望するハリーではあったが、彼女のその知識欲に裏付けされた豊富な知識は得難い武器だ。
横に寝かせられたハリーは、未だにびちびちと動いて激痛を与えてくる鍵を睨む。これからコイツを引き抜くのだ。
きっと痛さのあまり身体は暴れてしまうだろうから、力のあるロンに押さえつけてもらった。そしてハーマイオニーのハンカチを口いっぱいに頬張って、思い切り噛みしめる。痛みに呻き、ハーマイオニーに早くしてくれと目で訴える。
ぶつぶつと呟いて集中力を挙げたハーマイオニーが、杖を振り上げた。
それと同時に、ロンが力いっぱい鍵をハリーの足から引き抜く。ハリーは声にならない悲鳴を上げた。
「あ、ッぐ――――――ッ!」
「『エピスキー』、癒えよ!」
痛みのあまり暴れる身体は、ロンがしっかりと押さえこんでいる。親愛なる豚のおかげで普通の女の子より体力のあるハリーだが、男の子の力にはかなわない。悔しいことも多い非力さだったが、今はそれが功を奏していた。暴れてしまっては、治療をするハーマイオニーの手元が狂ってしまうからだ。
まるで肉を焼くような音が響き渡り、それと同時にハリーのくぐもった悲鳴も奏でられる。
痛々しい旋律が収まるころに、ようやくハリーのふくらはぎに開いた穴は、流れる鮮血が蒸発するかのように煙となって消えると、綺麗さっぱり元通りの白い肌になった。
粘着質な涎とともにハンカチを口から吐き出すと、ハリーは激しく咳き込む。荒い息を吐き出して、ロンとハーマイオニーに礼を言い、ためしに立ち上がってみる。
違和感と鈍い痛みが残るものの、歩けないほどではない。先ほどのように高速で動くのはひょっとしたら厳しいかもしれないが、それでも前へ行くしかない。
ヴォルデモート本人だろうと、その手下だろうと。
奴に組するものならば、倒さなければならない。
特に帝王の復活など、想像するだに最悪だとしか言いようがない。
ならば阻止しなければならない。
賢者の石にて完全復活など、冗談でも言いたくない悪夢そのものだ。
「……よし。さあ、行かないと」
「少し休んだら、ハリー」
「だめだ。こうしてる間にも、何者かが石を手に入れちゃうかも」
切羽詰まった表情のハリーの肩に、ロンが柔らかく手を置く。
いったいなんだ、と振り返ったハリーの頬に、ロンの人差し指がぷにっと刺さった。
しばらく硬直が続く。
「……あにすんにゃ」
「落ち着きなよ、ハリー。それに、たぶん。この部屋で君の出番はないよ」
出番がないとは如何なることか、と訝しんだハリーがロンの指差す方へ目を向けると。
なるほど。これが予想通りのものなら、ハリーの出番はないかもしれない。
広々とした部屋を、独りでに点火した松明が赤々とした炎でもって照らしていく。
揺らめく光に照らされて現れたのは、巨大なチェスボードだった。
白と黒のチェッカー、ファイルとラインともに八マスずつ、六十四マスのチェスボード。
黒の軍勢がこちらに背を見せ、白の軍勢がこちらと敵対しているのだろう。
わざわざバカ正直にゲームをしている暇などないので、白のポーンの間を通って行こうとしたところ、突然動き出して剣で道をふさがれてしまった。退けば、鞘に剣を収めてくれる。
チェスで勝って進め、ということだろうか。
ハーマイオニーが言うには、マクゴナガル先生はチェスの元英国チャンピオンだったそうだ。ずいぶんと前の大会の事らしいので、ひょっとしたら戦術は古いかもしれない。勝機があるとしたら、そこだろう。
さて。
ハリーら三人組のチェスの腕前はどうなのかというと、まずハリーが一番弱い。駒の動かし方を良く分かっていない時点でお話にならない。友達がいなかったので今までチェスを触ったこともなかったというのも大きいだろう。ダドリーがチェスを食べ物だと思っていたのも大きすぎる要因だろう。
次点でハーマイオニー。あまり経験はないものの、持ち前の頭の回転の良さで先読みをして、なかなかの実力をつけている。ロンと対局するたびにめきめきと力をつけている状態だ。大人になるまでに続けていればかなりの打ち手になるに違いない。
ダントツで最強の名をほしいままにしているのがロンだ。彼の手にかかってはハーマイオニーなど赤子同然であり、ハリーなど目を瞑っていても勝てる。事実、ハリーとハーマイオニーを含めたグリフィンドール生四人を同時に相手取って全員と故意にスティールメイトするほどの実力を有しているのだ。
「僕に任せてくれ。なに、たまにはいい格好見せたいじゃないか」
赤毛のノッポが、不器用にニヤッと笑う。
不覚にもちょっとカッコいいと思ってしまったハリーは、照れ隠しのために「ならさっさと指示を出せ」とロンの尻に平手を叩きこんだ。
乱暴だと抗議するロンは、それでも盤上を観察する。
これだ、この目だ。
チェスをする時のロンは、随分と不思議な目をしている。
まるで未来でも見えているのではないかというほどハリーらの手を読んでくるその先読みの異常さ、チェスに関する知識ならば他の追随を許さないその豊富さ。
ハリーはロンの指示に従いビショップの位置へ移動して、元々そこに居たビショップに場所を譲ってもらう。我等に勝利を、なんて声をかけられても困る。
しかし、そうか。
自ら動いて声を出してというのなら、これは普通のチェスではない。ウィザードチェスだ。駒が自分の言うことを聞いてくれるか如何かは、駒自身が打ち手を認めているか否かに依る。ハリーが行ったウィザードチェスは通常のチェスと同じサイズなので何とも思わなかったが、相手の駒を取る際には、駒が駒を実際に破壊するのだ。クイーンならば持っている剣で一刀両断するし、ナイトならば馬の一蹴りで粉砕する。
心配になってロンを見てみれば、ナイトの位置についた彼がハリーの表情を見てとってニヤリと笑う。
「心配しなくていいよハリー。この試合、勝つのは僕たちだ」
なんとまあカッコいいことを。
そんなロンを見ていると、彼はその得意げな笑顔を引っ込めて真面目な顔つきになる。
ビッ。と間の抜けた短い音が鳴る。
ゲーム開始だ。
先攻は白。つまり相手側のようだ。
重々しい音を立てて、白のポーンが動く。
石造りのホワイト・ポーンはその足音を響かせながら二マス分を歩いて、E4のマスへと進む。そうして彼は腰の石剣に手を置いた。さあ、来い。いつでも殺してやる。物言わぬ対戦相手からそんな幻聴が聞こえる。
しかし驚くべきは、そこではなかった。
「な、んだって……ッ!?」
ロンから驚きの声があがる。
巨大なチェスボードの、ほぼ真ん中。丁度D6と呼ばれる位置の色が変わったのだ。
ぐにゃり、とマーブル模様になったと思えば、黒かった床板が白に変じる。
それと同時。隣り合うD5の黒かった床板が、同じく白に変じた。
白いD4と、白になったD6に挟まれて、D5が白になる。
これは、これはつまり――
「リバーシ……!」
ロンが絶望的な声を漏らす。
彼に数瞬遅れてハリーは気付いたが、この試練の悪辣さに思わず悪態をこぼした。
理解できていないハーマイオニーが疑問を飛ばす。
試合に集中したいであろうロンにではなく、ハリーに問いを投げるあたりの気遣いが残っているのは彼女がまだこの事態に気付いていないからだ。
「は、ハリー? どういうこと?」
「……ああ。これはね、チェスと同時にリバーシでもあったんだよ」
リバーシ。
これもチェスと同じく、イギリス発祥のボード・ゲームだ。
チェスと同じく六十四マスのボードを使う。もう一つは、裏表が白と黒のチップを用いる。自らのチームの色をしたチップ二つで、相手のチップ一つを挟むことで反転させ、自分のチップの色に変える。
そういう単純明快なゲームだ。
だからと言って簡単なゲームであるというわけではないが、ロンにとって違いはない。
ゲームルールの内容如何にとっては、だが。
「……ルールだ。ルールを確認させろ! 特に、勝利条件をだ!」
ロンが叫ぶ。
これが侵入者を排除するための罠ならば、これほど滑稽なことはない。
だが、三頭犬のときの仕掛け扉然り。
悪魔の罠での焼却という脱出方法然り。
此度のチェスで勝てば通れるということも、然り。
正解が用意されているということは、これらは排除ではなく試練なのだ。
ならばこそ、挑戦者の求める声には応じるはず。
ロンのその予想は正解だった。
白のキングが、その手に持った剣を床に打ちつけると、魔法文字がするりと流れ出す。
空中に描かれた文字は、『同時に勝利せよ』と素っ気ない文章。
だが、それにロンは苦虫を噛み潰したかのような顔をした。
「……チェスとリバーシを同時にやって、同時に勝利しろってことかよ」
「そんなの! できるわけないじゃない!」
ハーマイオニーが悲鳴をあげた。
ロンの強さを良く知っているハリーだが、これはチェスではない。
一体どうしたらいいのか分からないが、ロンは大きく深呼吸すると眼光鋭く言い放った。
「――約束する。君達を取らせはしない」
ロンが言い放つと同時、駒に指示を飛ばし始める。
チェスでポーンを動かすと、次はリバーシの指示を飛ばす。
ポーンとポーンが剣で斬り合い、黒いマスが白いマスを挟んで色を変える。
白のビショップが黒のポーンを貫いて、ハリーの目の前でポーンが爆散する。ロンがナイトに指示を出せば、一足飛びにポーンの頭を飛び越えて白のビショップの首を刎ね飛ばす。
相手が複数の黒マスを挟んで白に変えれば、ロンはそれを上回る数を挟んで縦横斜めを一挙にひっくり返す。
チェスにもリバーシにも疎いハリーでも分かった。
激戦だ。
それも有り得ないほどの。
相手が
そう、最善だ。最良ではない。
ロンには相手と違って、行動に制約がついている。
自分自身、ハリー、ハーマイオニーの駒を絶対に取らせないという制約が。
これを破るわけにはいかない。
ハリーとハーマイオニーは当然だ。なぜなら彼女らは女の子だ。古い考えかもしれないが、敬愛する父たるアーサーは常々言っていた。女の子を守るのが、男の子の仕事なのだと。ロンもそれに異存はない。
自分は二人より劣っていると自覚はしている。そそっかしいし、成績も良くない。だが、この場面だ。この時がきた。親友だと思っている彼女たち二人を守るのに全力を尽くせるなど、これ以上の名誉はないだろう。誇らしいのだ。
そして自分自身も取られるわけにはいかない。
チェスだけなら、自分を取られることを前提に行動して、あと一手のみをハリーたちに任せても大丈夫だろう。チェックメイトをしてもらうだけの簡単な仕事だ。
だが事は違う。リバーシもしなくてはならないのだ。
こちらも自分が倒れたあとで、指示を出してもいいのかもしれない。
しかし。だが、しかし。
そう上手くいくはずがなかった。
フル回転させた脳が悲鳴をあげ始め、激しい頭痛に集中力をかき乱される。
つ、と鼻からネバついた血が垂れてきた。
それに気づいた一瞬が、集中力のほつれであった。
「しまっ……ッ!」
一手。
そのたった一つを、ミスした。
ゲームとしては、致命傷ではない。それは悪手ですらない。
だが。今この時において。
それは、やってはならない手であった。
ハリーは取られない。ハーマイオニーは届く位置に居ない。
ならば。
標的は、――自分だ。
「ロォォォ―――ンッ!」
「いやァァァ―――ッ!」
相手のクイーンが、ファイルをひとっ飛びして此方へ跳んできた。
振りかぶられた石剣の動きが、スローモーションでよく見える。
まずいな、と思った思考が口を突いて出た、その瞬間。
石剣はロンの乗った馬の首を刎ね飛ばし、返す刀でロンの脇腹を貫いた。
熱い。
最初の感想はそれだった。
次にわき上がるのは、嘔吐感。
今までの人生で感じたことのない嫌悪感が胃を満たして、ごぼりと粘着質な血が溢れる。
少女二人の、絹を裂くような悲鳴が聞こえる。
意識が遠のく。
それは決して手放してはならないものだと分かってはいる。
分かっているからこそ。
ロンは、手に届く範囲に落ちていた石の欠片を拾って己の肢に突き刺した。
「ぐ……、あッ……!」
「ロン! ロン!」
「血、血が! 早く止血しないと!」
ハリーの悲鳴のような呼び声と、ハーマイオニーの切羽詰まった声が聞こえる。
ロンは後者の声を聞いて、慌てて叫んだ。
「動くなハーマイオニーッ!」
「……ッ」
「げ、ゲームは、終わって、いない。まだ、続いている」
ごぼ、ごぼ、と液体音を漏らしながらも、這いつくばりながらも、ロンは指示を続行する。
ハーマイオニーは涙の瀑布を溢れさせ、ハリーは唇を喰い千切らんばかりに噛んだ。
石の兵士たちが無言で従う。
彼らが従うのは石造りの黒い
「……行け、クイーンに成ったポーン。お前が行くのはF5だ。……チェック! リバーシ。A1に黒を置く。これでAファイルと1ラインは僕たちのものだ」
白に動揺が広がる。
石の、無機物の、ただの魔法式に従う石ころどもが。
何の力もない、死体同然の少年一人に怯えているように見える。
ロンのブルーの瞳が、ぎらぎらと怪しい光を携えて盤上を睨みつける。
燃えるような赤い髪の奥で戦場を見通す青は、勝利を確信した、まさに将のそれであった。
赤い血を石剣から振り払った白のクイーンが、ポーンに縊り殺される。
仇とばかりに相手のナイトが動こうとするが、そこを動けば、キングが裸になる。
だが、そこを動かねば白い女王を害した黒の歩兵が、白い王の首を刎ね飛ばす。
しかしルール上、相手のナイトは動かねばならない。
憎々しげな様子で白のナイトはロンの頭上を飛び越え、先に居た黒のポーンを踏み砕いた。
これで、白の王は、死あるのみだ。
「……ハ、リィ。動け。トドメは、きみ、が。刺すんだ」
「ロン……」
ハリーはビショップだ。
ただただ、斜めに動けばいい。
早くロンの元へ行きたい一心で風のように駆け抜け、ハリーは相手の王に手が届く位置までやってきて、叫んだ。
それはたった一言でいい、魔法の呪文。
相手の首を掻き切る、ただ一言。
「チェック・メイト!」
白の王が、掲げていた宝剣を手放す。
耳障りな音を立てて剣がボードに落ちれば、同時にロンが指示を出し、盤上がほぼ黒一色に染め上げられた。白を打ちこむ隙間など、あるはずもない。
チェスも。リバーシも。
同時に勝利したのだ。
「……ッ、……!」
ハリーが急かすように、降伏した白の王を睨みつける。
生き残った白の兵士たちが全て平伏したのを合図に、中空にはコングラッチュレーションの文字が躍った。
しかしハリーとハーマイオニーに、そんなものを見ている余裕はない。
二人は脱兎のごとくロンのもとへ駆け寄り、急いで止血を試みる。
あたりは既に血だまりのようになっていて、ロンは既に意識を手放している。
ハリーは己のブラウスを引き裂き、上半身の服を脱がせたロンの腹に巻いてゆく。ハーマイオニーは杖を額の前に構えながら極限まで魔力を込めて、鋭く唱えた。
「『エピスキー』、癒えよ!」
ほのかに緑がかった暖かな光がロンの腹を包む。
痛々しく引き裂かれた痕の見える脇腹の傷が、ゆったりと塞がってゆく。
ハリーがロンの頬をはたいて意識を呼び戻そうと試す。
すると、魔法の効果もあってロンはゆっくりと目を覚ました。
「ロン。お願い、返事して。あなたがいなくなるなんて、いやよ……」
「……、ロン。ロン、返事できるか? 頼む、何でもいいから言ってくれ」
死にかけ。
または死ぬ寸前とでも言いたげな二人の様子に、目を覚ましたロンは小さく笑った。
笑ったおかげで治癒されたばかりの脇腹が鋭く痛んだが、それでもロンは笑顔だった。
「……なん、だよ。別に死ぬわけじゃないだろう」
「ロン……!」
「あ、待ってハーマイオニー。抱きつかない方がいい」
感極まって抱きしめようとするハーマイオニーを、ハリーが止める。
流石にこの状態でそんなことをしては、殺してしまうかもしれない。
意識を引き戻し、傷付いた肉体を魔法で治せても。
ダメージを受けた心までは、どんな魔法でもなかなか治すことはできないのだ。
「おや、セクシーに、なった、ね。ハリー。へそ出し、かい?」
「うるさいな、ロン。……ちょっと休んでよ。心配させるな……」
冗談を飛ばしてもしおらしいままのハリーに、ロンは薄く笑った。
ここは大人しくしておいた方がよさそうだ。
先は格好付けて勝つなんて言っていたのに、この様では全く格好つかない。
カッコ悪いなあ、僕。
そう一言呟いて、ロンはしばらく夢の世界へ旅立つことにした。
「バカ。十分かっこいいっつぅの」
「ロンは自分の評価が低すぎるのよ」
残された二人は、体力の回復もかねて数分休むことにした。
ハリーが足の痛みをほとんど気にしなくて済むようになった頃、ロンが呻きながら身を起こす。
大丈夫かい、と声をかければ逆に心配されてしまった。
人のことは言えないだろうに。
「よし、次へ行こう! スネイプから石を守るんだ!」
「いやまあ、スネイプかどうかはわからないんだけどね」
「ハリーが何度もそう言うもんだから、だんだん私も疑問に思えてきたわ……」
怪我も癒えて、くだらない話をして疲れもある程度削いだ。
ならば前進あるのみ。
ロンは陽気にそう言って、次の試練への扉に手をかけた。
「ロン。何が来るかわからないから、十分以上に注意してよ」
「わかってるって」
わかっていない様子でロンは扉を開け放つ。
先ほどの頼れる格好よさはなんだったのだろうと思いながら二人は扉をくぐった。
なんだか薄暗くてよく見えない。
部屋に入った最初の感想はそれで、次に「臭い」だった。
「……ねえ、この酷い臭い、覚えがない?」
「ははは。やめろよハーマイオニー。脅かすなって」
二人が乾いた笑いを零しているその前で。
ハリーが懐から杖を抜きながら、ため息をつきたい気持ちを呑みこんで叫ぶ。
「現実逃避してる場合かッ! 来るぞ!」
なにか大きなものが、風を切って落ちてくる。
転がってそれを避けたハリーは、大きく振りかぶって呪文を唱える。
しかしその失神呪文は、何か大きなもので阻まれた。続いて援護に放たれたハーマイオニーとロンの呪文も、似たようなものに弾かれて届いていない。
何も見えないというわけではないが、こうも薄暗いと敵との距離も把握しきれない。
ぶつぶつと呟いたハーマイオニーが、杖を掲げて叫ぶ。
「『ルーモス・マキシマ』!」
するとただの『ルーモス』とは違う、蝋燭のような杖灯りではなく閃光のようなまばゆい光が、杖先から発せられた。
ドーム状に広がる光は、まるでシャボン玉が膨らむがごとき勢いで瞬く間に部屋中を覆い尽くし、闇をすべて打ち払った。ハーマイオニーが杖を掲げるのをやめても、明るさは消えることなく部屋を満たしている。
そうして見えてきた光景を一言で表すならば、
「うわ、キモッ」
ロンが呟いたそれである。
バカ、バカ、バカ。見るに堪えない光景の名がそれだ。
トロール。全長三メートルから四メートルのトロールが、ずらりと並んでいた。
その数、全部で十匹。
十匹のバカが鼻息荒く、棍棒を持って立っていたのだ。
かつてハロウィーンの夜に見た光景よりも酷いものを見て、ハリーとハーマイオニーが叫ぶ。
「気持ち悪っ!」
バカなりに悪口だと解釈したのか、トロールたちが怒りの声をあげた。
ブーッ、と鼻息荒く十匹が十匹すべてが棍棒を振り上げ――
お互いの顔面に思いきりぶつけてしまう。
そうして始まったのは乱闘だ。
お前が悪い、いいやお前だとでも言いたげな呻き声が部屋でぶーぶー鳴り響き、地団太やたたらを踏む音がずしんずしんと響き渡る。
なんと下らない光景だが、彼らは巨体だ。彼らから見ればチビ助に過ぎないハリーら人間にとっては、遥かにデカく重い生物が暴れているというのはそれだけで既にかなりの脅威だ。
だがハリーはこめかみを抑えて頭痛をこらえる。
「どうやって突破しようこれ」
ロンとハーマイオニーは苦笑いを返すしかできなかった。
【変更点】
・逆に考えるんだ、箒なんてなくたっていいさと。
・数少ないロンの魔改造ポイント。
・実際、同時勝利って出来るのかな。
・ロンを放置は出来ないので連れていく。足枷ウィーズリー。
・モンスターハウスだ!
【オリジナルスペル】
「ヴェーディミリアス」(初出・PSゲーム『賢者の石』)
・足場を出現させたり、隠し通路を暴く呪文。術者にはかなりの集中力が求められる。
元々魔法界にある呪文。ゲームオリジナル。
「グンミフーニス、縄よ」(初出・11話)
・杖先から魔力で編んだ縄を射出する魔法。本来は捕縛などの用途に使われる。
元々魔法界にある呪文。魔力の込め方次第で長さや太さが決まる。
【賢者の石への試練】
・第三の試練「君もダイ・ルウェリンに」フリットウィック教授&マダム・フーチ
箒に乗って飛び交う鍵鳥から目当ての物を見つけ、扉を開ける。……だけだったはずが、石を狙う何者かが箒を破壊したせいで無駄に難易度が上がった。
・第四の試練「ディープブルー・チェス」マクゴナガル教授
チェスとリバーシを同時に行って勝利する必要がある。
このステージで魔力は必要ない。チェスを知らない者はその時点でチェックメイト。
今回、チェスは悩みに悩みました。私チェス出来ないのです。色々と不自然な点は多々あると思いますがオブリビエイト! 君は何も見なかった、いいね。
ここまでが比較的イージーステージです。次回からは適性のある人間でないと全くできない試練ばかりになる事でしょう。頑張れハリー、胃薬は暴れ柳の下の部屋だ。