ハリー・ポッター -Harry Must Die- 作:リョース
ハリーは、勇気を振り絞った。
すべての試練を終え、あとは賢者の石を狙う下手人の潜むだろう部屋へ至るのみ。
そういった状況にあって尚も。
石を奪われる前に急いで向かう必要がある状況にあって、尚も。
彼女は二人に声をかけた。
そうしなければ先へ進めないからだ。
だから、一歩。
前に進んだ。
「……ねえ、二人とも。……ちょっと、聞いてくれるかな」
冗談を言い合っていた二人が、ハリーの声に振り返る。
どこか悲痛なその声に気づいていながら、二人はそれでも笑顔を崩さなかった。
人間のできた子たちだ。そう思いながらも、ハリーはそれに甘えることにした。
「なにかしら、ハリー? 私は私の仕事を終えたわよ、あとは覚悟するだけ」
「なんだいハリー。僕は戦力外だ。まったく、マーリンの髭もいいところさ」
二人そろってハリーの隣にやってくる。
スネイプの用意した台座の上に置かれたゴブレットはどこかへ追いやられ、三人のベンチへと早変わりした。ハーマイオニーは完全に問題を解いた自信があるらしい。二つのゴブレットを除き、魔法で消し去ってしまった。
ハリーが何を話すのかはわからないはずだ。
それでもなお、彼女らはハリーが自分たちに不利益をもたらすとは全く思ってもいない顔をしている。恐ろしいまでの純粋さだ。どこまでもハリーの事を信頼している。
「……ひとつ。ぼくは君たちに秘密にしていたことがある」
何をいまさら、とハリーは内心で自嘲した。
友達と思っていなかったという告白も、かなりとんでもない秘密である。
そう思っていてなお、さらに秘密を隠し持っていているなどと、本当に最低だ。
そして彼女らにとって負担になると知っていて伝えようとしている。
自分は何をしているのだろう?
「ぼく、が。ヴォルデモートに殺されなかった、って話は知ってるよね」
「ハリーその名前を言わなごぁっ! な、なんでもないよ続けて知ってるよハリー」
ハーマイオニーがロンの脇腹に肘鉄を打ったのを見たが、何も言わないでおいた。
そんなものに構っている余裕はない。
「……マクゴナガル先生から聞いた話、なんだけど、さ」
ハリーは未だ躊躇っていた。
当惑される。拒絶される。隔離される。否定される。
それらの未来が確定する言葉を、ハリーは紡げないでいる。
まるで喉が干上がって、どこかへ行ってしまったかのようだった。
今この時になって、ようやく分かった。
怖いのだ。
二人が自分から離れていくのが、どうしようもなく怖い。
以前にも考えたことだが、ハリーの心はホグワーツに来てから本当に脆くなってしまった。
独りでなら耐えられたことが、二人、いや、何人も隣にいる今では絶対に耐えきれない。
唇が震えて、続きが言えない。
「ハリー」
口をぱくぱく動かすだけの人形になったハリーに、ロンが声をかける。
悪戯っぽく得意のしたり顔をしているのが妙に腹立たしい。
「言っちゃいなよ。そうすれば楽になれるぜ。そう、マーチンミグスみたいにね」
「ロンあなた何言ってるの?」
面白くなかった。
場を和ませようとジョークを飛ばされたが、悲惨なまでに面白くなかった。
恐らくとっておきのものだったらしく、かなりショックだったようだ。
ついでに言うと意味も分からなかった。
だが、それでも、ハリーの心をほぐすには一役買ったようだ。
損な役回りではあったけれど、ロンもなかなかやるじゃないか。そんなことを思いながら、ひとつ大きなため息を吐く。そしてハリーは続きを口にした。
「ぼくはね。どうもヴォルデモートに呪われたらしいんだ」
「……呪文を受けたってこと?」
「いや。文字通り、呪われたんだ。ぼくが一歳になる誕生日。パパとママを殺したその足で、ぼくを殺し損ねた後、呪ったんだ」
ハーマイオニーが悲痛な表情を浮かべ、ロンが息を呑んだ。
それもそうだ。
ヴォルデモートはハリーを殺し損ねたことで死の呪文が
それが、ハリーを呪う余力があっただなんて。
何の呪いをかけられたのかは非常に気になるところであったが、二人はハリーが言うまで我慢することにした。
「それで、だね。ぼくにかけられた呪いは……」
深呼吸。
額は汗で前髪が張り付いて鬱陶しいし、ブラウスは胸にぺたぺたとくっついて気持ち悪い。
頬を一筋の汗が流れて床に落ちたのを合図に、言葉が雪崩れた。
「《命数禍患の呪い》。成人するまで、対象の『運命』を奪い取る呪文……らしい」
「なんだそりゃ! パパが魔法省勤務だから、僕もある程度は詳しいつもりだけど……そんな呪文、聞いたことないや」
「本来ぼくが経験するはずだった幸運は『奴』が得て、『奴』が陥る不運はぼくへ振りかかる……そういう邪悪な呪文らしい。マクゴナガル先生が言うにはね」
歯切れ悪く言うハリーに、ロンが疑問の声を投げかける。
疑っているのではなく純粋に疑問に思ったようだ。
「『らしい』って。ハリーはよくわからないの?」
「正直言ってわからない。図書館で調べてはみたけれど、そんな呪いどこにも載ってなかったんだ。強力な闇の魔術だから秘匿してるって言ってたし、もしかすると禁書の棚かもしれないね」
「それはたぶん、禁書の棚にも置けないほど酷い魔法だからってことじゃないかしら。私よく図書館に通ってるからマダム・ピンスと仲が良いけれど、許されざる呪文関連はその名前と効果だけ書いてあって、詳しいことは絶対に載せないようにしてるみたいなの」
「誰かが読んで会得したら困るから?」
「ええ。五〇年近く前、ダンブルドア先生が直々に図書館のそういった本を整理したみたいだわ」
この大事なタイミングで魔法省なんかに行ってしまった耄碌爺さんだが、意外なところで仕事をしていた。ただのクレイジーなジジイではなかったようだ。
組み分けの儀のときやハロウィーンパーティのとき以外、ハリーはあまり見ない人だったが、やはり校長職だから忙しいのだろうか。最後に顔を見たのは、透明マントで《みぞの鏡》に通っていたあの時だ。
まあ今はそんなこと、どうでもいい。
要するにハリーがそういった凶悪な呪いをかけられているという、その事実のみが伝わればそれでいい。
話を続けよう。
「とにかく、ぼくにはそういう呪いがかけられてるんだ」
「……ええ」
「胸糞悪い話だな……」
「……それ、で。……ここからが、本題。なんだ」
勇気を振り絞れ。
お前はどこの寮に入った女だ。
知識のレイブンクローか。いや、違う。
優しさのハッフルパフか。いや、違う。
目的遂げるスリザリンか。いや、違う。
そうだ。
勇気のグリフィンドール! そうだろう!
「……、ッ、……うん。ぼくと居ると、つまりぼくと関わると、たぶん君たちの幸運も奪われることになると思うんだ」
「…………」
「マクゴナガル先生曰く、普通に降りかかる災難もよりハードになるそうだからね。ぼくはもともとがトラブルに巻き込まれやすい立ち位置なのに、そんなことになったら命がいくつあっても足りやしない」
ハリーは、鼻の奥がつんと熱くなってきた。
なんだいまさら。怖いのか。いや、怖いのだ。さっき自覚しただろう。
言え、言うんだハリエット。
邪悪だろうと。『まともじゃなくて』も。人殺しを許容する薄汚れた女でも。
せめて、勇気を出せ。
「だから、ぼくは提案する」
勇気を。
「もう二度と、ぼく、に。関わらないで、くれ。足手まといだ」
そうだ。
それでいい。
ああ、認めよう。
ハリーは彼女たちに、微かながら、友情を感じてしまった。
ハーマイオニーとロンは、ハリーとは、ひいてはヴォルデモートとは無関係だ。
だから呪われた自分のせいで、彼女たちに余計な危害を与えたくない。
例えば。ハリーが何の呪いもなく、ただの一人の勇敢な子供であったなら。ヴォルデモートという巨悪に立ち向かうため、仲間の力を要してロンとハーマイオニーに協力を仰いだだろう。信頼できる仲間とともに挑むことほど、心強く達成できると思えるものは他にないからだ。
だが現実、ハリーは呪われている。
呪いそのものはハリー個人に対するものでも、その危害が周囲に及ぶのならば、ハリーは我慢できる少女ではない。自分の優先順位が低いために周囲を遠ざけ、自分独りで苦しめばよいと考えてしまうのだ。
それはどれほどの孤独か。
楽しかった時間を経てハリーは気づき始めているが、完全に自覚してしまえば心が折れる。
だが、折れたからと言ってなんだ。
足が折れたら手で這えばいい。
手が折れたら歯で食らいつけ。
彼女らを危険に巻き込んでしまうことは耐え難い苦痛だと気付いた今、もう隠す必要はない。
自分に言い聞かせて騙す必要もなくなった。
「いまさら何を言ってるのかと思うかもしれない。虫のよすぎる話だと自分でも思う。……だけどお願いだ。ぼくのせいで君たちに危害が及ぶのは嫌なんだ、だから。――離れてくれ」
ハーマイオニー・グレンジャー。ロン・ウィーズリー。
彼女らは、大事な人たちだ。
ネビルすら殺そうとするハリーを止めようと考えるほどお人好しで、友達だと思っていないといても態度を変えることはしなかった。
ハリーにはそんな二人が眩しくて、羨ましくて、疎ましくて、嫉妬していた。
そうだ。
意地を張って、嫉妬していたのだ。
友達じゃないなどと心の声が言ったことも、今のこの態度も。
自分では生きられなかった光溢れる人生がうらやましくて。
だからこそ突き放す。
二人には愛してくれる両親が、兄弟が、家族がいる。
翻って自分には誰がいる?
居ないのだ、誰も。かつては居たが、だからこそ、彼女たちを危険に巻き込みたくない。
失いたくない。
「お願いだ。……たのむ」
ハリーは頭を下げた。深く深く、下げた。
優しい彼女たちのことだ。拒否されて一緒に行くと言われるのは想像に難くない。
意地を張ることをやめた今では素直に嬉しいと思えるが、それでも駄目だ。
ネビルとの戦闘で分かった。
当たり前の話かもしれないが、敵は一切容赦してこない。
ただの一年生であるネビルを駒に起用するあたり何か考えがあるのかもしれないが、少なくともハリーには、ネビルの瞳を通して敵の殺意を垣間見た。
あれは、人殺しの目だ。
禁じられた森で出会った、あのローブの怪人に見られた時と同じ感覚。
あんな視線を送れるような者に打ち勝つには、無力化させようとする意志では敵わない。
殺そうと明確に思わなくては。
魔法は、意思の力だ。敵を縊る覚悟を持たなければ、恐らく勝てない。
二人がそんな真っ黒い覚悟を決める必要は、ない。
だから、
「そうさせてもらうわ」
「分かったよ」
そう言ってくれと願っていても、いざ言われると絶望的な気持ちになってしまう。
離れてゆく。
友達だと言ってくれた人たちが、行ってしまう。
そんな表情を見せたくなかったハリーは顔を上げなかった。
ゆえに、二人の表情を見ていない。
「ただし、この一時間だけだわね」
「だからここで帰りを待つことにするよ」
がばっと顔を上げれば、ハーマイオニーとロンは微笑みを隠してもいなかった。
にこにこと、まるで妹の成長を喜ぶ姉と兄のような顔で。
穏やかにハリーのことを見つめていた。
「そういえば、言ったかしら。このゴブレットね、これを飲んだ一人だけを次の部屋へ通すらしいの。だから、その役割はきっとハリーなんじゃないかって思って」
「そうだよ。一人で送り出すのはちょっと心配だけれど、ハリー、君なら大丈夫。君なら間違ったことはしないと信じることができる」
「そう、勉強ができたり、戦略を組めたり、きっとこの先に必要なのはそういうことじゃないの。友情だとか勇気だとか、そういうものなのよ」
「だからハリー。君ならいけるさ。勇気の塊だし、なにより僕らがいるだろう」
二人の声が背中を押してくれる。
ハーマイオニーがゴブレットを手渡してきて、ロンが背中をやさしく叩いてくる。
ただそれだけの行為なのに、とても胸が暖かい。
心がほぐれて洗われる。
つい先ほどまでもう帰ってほしい離れてほしいと願っていたのに、こんなことで決心は揺らぐ。
嬉しいのだ。どうしようもなく、泣きたいほどに嬉しい。
自分のことを想ってくれると実感できるのが、情を感じられるのが、とてもうれしい。
この場に居ても危険はあるというのに、敵が死喰い人である可能性が高い以上は二人を教師のもとへ行かせるべきなのに、それなのに嬉しくて嬉しくて仕方がない。
ハリーは桜色に染まった頬を隠すようにそっぽを向き、もごもごと口を動かして言うべき文句を探す。
だが唇から文句が飛び出す前に、ハーマイオニーにぎゅっと抱きしめられて頬にキスされた。
面喰って呆けた顔をするハリーを笑いながら、ロンがハリーの黒髪を掻き回すように撫でる。
なにをするんだ、と振り払おうとするも、体が行動に出てくれない。
友達じゃない、と叫ぼうとしても、喉の奥が熱くてなにも言えない。
ハリーはこの日、はじめて声を漏らして泣いた。
「……い、行ってきます」
「気を付けてねハリー」
「油断するなよ」
涙を拭いて洟をかんで、ハリーはローブを着直した。
鍵鳥のせいでへそ出しとなったブラウスも直し、破れたズボンもきちんと直した。来年度はスカートを仕立ててもらおう、絶対にそうしよう、と心に決めながら裾を直す。
ローブも洗浄呪文で綺麗にした。せっけんのいい香りがする。
ぼさぼさだったり血で絡まっていた髪も綺麗にしたし、泥や埃だらけの肌も綺麗にした。
別にこれから戦うのだから見目に気にする必要はないとハリーは主張したが、ロン曰く余裕を見せることが大事ということでハーマイオニーが全力を出したのだ。
怪我もない。体力もある程度回復した。魔力も十分残っている。
なにより、心が軽い。
「長い階段だ」
こつこつ、と。
独りで扉をくぐって階段を下りる。
石造りの段を下りるごとに、気温が低くなっている気さえする。
不気味だ。こんなにも薄暗くて、蝋燭に灯った魔法火しか明かりはない。
お化けでも出てくるんじゃなかろうなと思いながら、そういえばホグワーツには普通にゴーストがいたな、と思うと自然と笑えてくる。精神状態にも余裕があるようだ。
だからなのか。
最後の大部屋についた途端に響いた声に、心臓が跳ね上がってしまった。
「随分と余裕そうだが……遅かったな、ポッター」
「……あなただったんですか」
襟を詰めた黒い服に、バイオレットのローブ。
ローブと同色のターバンで頭を包んだ、ホグワーツ教師陣の一人。
闇の魔術に対する防衛術、その教授。
「クィリナス・クィレル……」
「先生、だろう。ポッター」
普段のおどおどした様子は微塵もない。
どもり癖もまったく見られず、どうやら演技だったことが窺える。
確かに、クィリナス・クィレルは賢者の石を狙う下手人の候補に挙がっていた。
スネイプとの会話がその理由だ。ハーマイオニーとロンが主張していたスネイプ黒幕説の次点で有力だった説である。
「……いくつか質問をよろしいでしょうか、先生?」
「嫌味を言えるようになったかポッター。いいだろう、言え」
口元を歪めるクィレルは、なるほど邪悪な目をしている。
ハリーのことを路傍の塵とすら見ていない。
あんなにも人を見下した顔を見たのは、初めてだった。
ダーズリーでさえあんな高圧的な顔はできなかったはずだ。
自分への絶対なる自信からくる、高慢な態度。
惰弱な自信家か、または高慢が許されるほどの実力を持っているかのどちらかだ。
だがハリーは、クィレルが後者であると思っている。
「なぜネビルを操った」
「ネビル? ああ、あの男子生徒か。いや、なに。ポッター、貴様たちを止めなければ、と私に言いつけに来たからちょうどいい手駒に、と思ってね。おまえたちとの交友があるのは知っていたから、ちょうどよかったのだよ。試練で囮に使ったりね」
「……じゃあ、ネビルじゃなくてもよかったわけだ」
「それはそうさ。誰が、好き好んであんな落ちこぼれを使うか。現にスネイプの試練では一人しかここに来れないからな。彼はそこで捨てた」
酷い言われようだ。
そしてネビル。彼はノーバートの時に続いて、こんなところでも不運を味わっていたのか。
結果的にだが殺さないで本当によかった。
もし殺害していれば、ハリーの心は自分の行いに耐えきれなかっただろう。
ネビルの事を想い、そして次の問いを投げかける。
「ハロウィーンの日。トロールはどうやって入れた」
「ほう。あれが私の仕業だと、どうして思ったのかね?」
正解に近い答えを導けそうな、それでいて間違っている出来の悪い生徒を見るような目だ。
しかしこの男はきっと、正解を教えはしないだろう。
授業態度が悪かったとは言えないが、教科書通りの教え方をするのみなので、この男の授業は面白くなかった。それはなるほど、この男が人にものを教えることに向いていないからなのだろう。
「私はトロールを操ることにかけては特別な才能があってね。奴らはバカだが、きちんと手順を踏めば主に従属する忠実な駒となる」
「それを三体もぼくらに差し出してくれるとは、ずいぶんと太っ腹だな」
「勘違いをしてくれるなポッター。あれはブラフだ」
ブラフ。囮にしたというのか?
しかしトロールを三体も使い捨てるほどの陽動を必要としてまで行うこととは何だ。
まあ、いま目の前に見える光景がその答えだろう。
四階の禁じられた廊下にでも挑もうとしたに違いない。
「で、失敗したと」
「チィッ! そうだ。……あの忌々しいスネイプめが! 私の邪魔をしおったのだ!」
ここでその名前が出るか。
スネイプ黒幕説は覆り、スネイプ天使説が持ち上がる。
当然だ。ハリーとの個人授業のとき、彼はいつでも殺すことができたのだから。
苦々しげにスネイプへの文句をぶつぶつ言うクィレルに、ハリーはまた問いを投げる。
「じゃあ、もう一つ。どうして帝王側なんかに行ったんだ? 十年前、ぼくを殺し損ねてからは落ち目もいいところじゃないか」
この問いに、クィレルは少しだけ肩を揺らした。
ハリーは見逃さない。あの感情は『恐怖』に違いない。
「……私の命を御救い下さったのだ。忠実を誓うには、それで十分だろう」
「ホグワーツでマグル学を教えるっていう、安定した立場を捨ててでも?」
「当然だッ! 優れた魔法使いたる私の上に立つ以上、優秀な主であるべきなのだ! それを、なんだ、あのダンブルドアは! あの男はこの私をコケにしたのだ!」
少女の問いかけに、男が憤怒の形相でまくしたてる。
それはあまり美しい光景とは形容できない、あまりにあんまりな姿だった。
口角泡を飛ばし、必死さまで滲ませて激昂する。
大人の取るべき態度ではない。
「貴様はスネイプにずっと護られていた。クィディッチのときも……反対呪文で抵抗されなければ、もう少しで箒から叩き落とせたというのに……!」
「アレあんたの仕業か。くそ、教師失格だよ」
「そんなもの、どうでもいい」
そう吐き捨てると、クィレルは自分の背後にある何かに顔を向ける。
ハリーがそれへ視線を動かすと、恐ろしいことに《みぞの鏡》が置いてあった。
何故あれが、あんなところに。
スネイプがダンブルドアに言って、片付けさせたはずだ。
恍惚とした顔で鏡を横目で見つめながら、クィレルは言う。
「さあ、ポッター。こちらへ来い」
「その前に答えろ。ヴォルデモートはどこだ」
ぎくり、とクィレルが怯えた。
死喰い人であろうはずなのに、主人の名が恐ろしいのだろうか。
ひょっとしてヴォルデモートにとって死喰い人たちとは忠誠心や仲間意識で繋がっている仲間なのではなく、恐怖で縛り従える駒かそれ以下だとでもいうのか?
目を吊り上げてハリーを睨むクィレルが、唸るように大声で叫んだ。
「来いと言っている! ポッターッ!」
クィレルがぱちんと指を鳴らすと、ハリーは自分の背中を複数の拳で押されたように感じた。
そのままよろけるようにしてクィレルの傍へと行く。
杖もなしに、一体何をした。魔力を叩きつけたわけでもないのに、一体何を。
だが余裕があれば、隙があれば斃せる。
その一心で近づいたものの、実際どうしろというのだ。
まったく隙がない。
目を凝らして視てみると、膜状に加工した盾の呪文をまとっているではないか。
いったいどのような
「ポッター、これを見ろ」
「……《みぞの鏡》なんかに、何の用が」
「見ろと言ったのだ! 口答えするなァ!」
ヒステリックに叫ばれ、頭を掴まれて無理矢理鏡の方へ向けられる。
また、皆が映るのだろう。
今あの光景を見れば、ハーマイオニーとロンとの関係が構築できた以上、あの時よりも幸せを感じられるかもしれない。
だが、あれは二度と見ない。そうスネイプと約束した。
しかし目を見開いたまま顔の方向を変えられたためにまともに見てしまう。
人を食らう、悪魔の鏡を。
「……ッ、」
クィレルと二人でいる姿が、鏡には映っている。
自然な光景だ。現実の様子を左右対象になって見せてくれている。
しかし。
鏡の中のハリーが、クィレルの脛を蹴った。
もちろん現実のハリーはそんなことをしていない。
蹲るクィレルを足蹴にしながら、鏡の中のハリーは己の懐をまさぐっている。
そうして取り出したのは、赤黒い宝石のような何か。
蝋燭の焔が反射してきらきらと煌めいている。あんなにも美しいものがこの世にあるとは。
生命の輝き。そうか、あれか。あれが、『賢者の石』か。
鏡の中にある『石』に見とれていたハリーは、次に心の底から驚くことになる。
鏡のクィレルがすっかり気絶したことを確認した鏡のハリーは、石を手に取って、現実のハリーに向けてにこりと微笑みかける。そして彼女が石をズボンのポケットにしまった途端、
ずしり、と意外なほど重い感触がズボンに走った。
そんなまさか。
そう思ってクィレルに気づかれぬよう何気なく自分のポケットを触ってみると、
……ある。
既に、ある。
――賢者の石を、手に入れてしまった。
「……どうしたポッター! 何が見えるッ!? 私が聞いているのだぞ、速やかに答えろッ」
一体何が起こったのか、さっぱりわからない。
《みぞの鏡》はそういう道具だったのか? スネイプの説明不足?
ぐるぐると脳内を渦巻く疑問と驚愕に、ハリーは気が抜けたかのように呆然としていた。
いつまでも鏡を見つめているハリーに焦れたクィレルが、大声を出して彼女の意識を引き戻す。
ハッとしたハリーは、とにかく嘘をつかなければと焦って適当なことを口走った。
「くぃ、クィディッチで優勝してる! ぼくがドラコを足蹴にして勝ち誇ってる姿が!」
「嘘を吐くな! そんな子供だましの嘘、わからんとでも思ったか!」
「……あんたを足蹴にしている」
「嘘を吐くなと言ったはずだぞ、ポッター!」
本当のことなのに。
この悪意溢れる映像はいったいなんだろう。
本当に自分が望んだ光景なのだろうかと、ハリーは己の心が正常か否かを疑った。
自尊心ばかり肥大していいように扱われていることに気付かないクィレルは、ハリーの思惑通りポケットにある石の存在に気付く様子はなかった。
しかしハリーの口から飛び出す出任せに顔を真っ赤にして怒鳴っていたところ、急激にその動きを止める。
ぜんまい仕掛けの人形めいたその動きにハリーが警戒レベルを最大にまで上げた、その時。
ハリーの全身の肌が粟立つような声が聞こえてきた。
『嘘だ……』
ぞわり、と。
長く冷たい舌で全身を舐められた。そんな気持ちの悪い感覚が走る。
なんだ、今の声は。
クィレルではない。彼の声はここまでしわがれていない。
ではこの場に現れた新たなる第三者か。だが声はクィレルから聞こえる。
いったい、いったいどういうことなのか。
恐怖の感情を見せないよう気丈に振る舞って、ハリーは袖の中に隠した杖を意識した。
『私が直に話そう……』
「い、いけませんご主人様。あなた様はまだ弱っておられます」
『案ずるな。そのくらいの力はある……』
「しかし……」
クィレルが目に見えて狼狽した。
いったいなんだというのだろうか。
怯えだ、あの感情は間違いなく怯えていることに間違いない。
だというのに、あの眼はなんだ?
まるで敬虔な信徒のそれだ。信ずる神が眼前に降り立つ姿を見るような、輝いた瞳。
不気味だ。
『従え、クィリナス』
「……は。仰せのままに、我が主よ」
クィレルが深く頭を下げた。
いったい、誰に? 奴は何をやっているんだ?
じりじりと後退しながら、いつでも袖から杖を出すことができるように杖腕を強張らせる。
この大部屋はすり鉢のようになっており、《みぞの鏡》が置かれた円状の床を取り囲むように同じく円環状の、幅が広い階段がある。後ろ向きに歩くには非常に辛い形状だ。
転ばぬよう気を付けながら距離を取り、三段ほど上の階段からクィレルを見下ろす。彼はすでにこちらを見ており、するするとターバンを外しているところだった。
今まさに逃げようとしていたようにも見えるのに、何故止めなかった?
不可解だ。
この男、不可解すぎる。
おまけに、長すぎるターバンをひと巻き、またひと巻きほどいてゆくごとに、彼から感じる邪悪な魔力が際限なしに膨らんでいく気配がしてならない。
同級生でも一、二を争うほどに魔力貯蔵量、生産量が多いとされるハリーであっても、彼から感じる膨大な魔力と比べれば、月とフロバーワームのようなものだった。
ありえない。
ただの人間がこんな大容量の魔力を、溜め込んでおけるわけがない。
確かな恐怖を感じながら、ハリーはクィレルがターバンを外しきった姿を見た。
常にターバンを巻いている姿しか見たことがなかったので、そのスキンヘッドの頭は意外なほど小さく感じた。クィレルがターバンを放り投げると、ターバンは自分からクィレルの首に巻きついてマントへと変じる。
そして、見た。
鏡に映ったクィレルの後頭部。そこにもう一つ、人の顔が存在するのを。
気持ち悪い、とハリーは素直にそう思った。悲鳴を上げなかった自分を褒めてやりたい。
グロテスクな魔法生物など、図書館で色々と見て、慣れたつもりだった。
だが、あれは異質だ。
多頭生物など、つい先ほど可愛い子犬が三匹もいたではないか。
だというのにクィレルの後頭部に浮かぶ人面は、ハリーの心の底から嫌悪感を呼び込んだ。
『ハリー……ポッター……。久しぶりだな……』
喋った!
「やだ気持ち悪っ!」
「ポッター貴様ぁ! ご主人様に向かってなんて無礼なァ!」
素直に口からついて出た感想は、クィレルのお気に召さなかったようだ。
しまった、つい。とハリーは真面目な気持ちを取り戻して、クィレルを、鏡に映る彼の後頭部を見据える。
ハリーの暴言に対しても、人面は低く笑うだけだった。
『……確かに。このような醜い姿になってでも生き残っているわしは、さぞ気持ち悪いだろう』
「ご主人様! そのようなことは!」
『事実だ。クィリナス、クィリナス、クィリナス。おまえにも、嘘を吐くなといったはずだ……』
「ひっ……」
そうだ、あれだ。あの怯え方だ。
どもりのクィレル、おどおどクィレルとからかわれていたクィリナス・クィレル。
彼の普段怯えていた様子と、いま後頭部から凄まれて怯えた様子が合致する。
……こいつ、常にあの人面後頭部と行動を共にしていたのか。
「……『久しぶり』。それで『ご主人様』。……そうか、そうか……」
『頭は悪くなさそうで安心したぞ、ハリー・ポッター』
ハリーのひきつった頬が、平常に戻る。
桜色の唇が、口元が、三日月のように、裂けるように、笑みの形に歪んだ。
暗い濁った眼を見開き、感極まったように叫ぶ。
「お前が、おまえがヴォルデモート……ッ!」
『如何にも。私がヴォルデモート卿だ。……もっとも、今やゴーストにも劣る霞でしかないがね』
ハリーの憎しみに狂った顔が醜く歪む様を、ヴォルデモートは愉悦に染まった顔で眺める。
それはさながら娘を見守る父親のように見えて、ハリーをさらにイラつかせた。
ヴォルデモート自身もわかっていてその顔をしているのか、ハリーの顔がさらに憎悪に歪むのを嬉しそうに嗤っていた。
ぼくのすべてを奪ったお前が、お前のすべてが憎い、と。
少女と帝王の間には言葉にせずとも、その悪意の念が伝わっていた。
『ポッターよ……死合う前にひとつ、問おう……』
「……なんだ」
『……お前は、『どこまで分かって』いる?』
父親の次は教師の真似事か。
ハリーはさらに苛々しながらも、突き刺すように言葉を紡いだ。
「クィレルを手駒に、ユニコーンの血肉を貪って延命処置をしたのはお前だな」
『……如何にも』
「そして今度は賢者の石を使って『命の水』を創り、永遠の生命を手に入れようとしている」
『……ああ、そうだ』
「そして、おそらくだけど……わざと、ぼくを誘い込んだ。殺すために」
ヴォルデモートが満足そうに頷く。
クィレルにとっては反対方向に首を曲げられて苦しげだが、体の主導権はまさかヴォルデモートにあるのか? 魂を売るに飽き足らず、体まで明け渡したのか。
それは……恐ろしいまでの献身だ。
『ククク……くはははは。よくできました、ポッター。グリフィンドールに十点!』
「ばかにするな!」
『はッはははは。いやいや、面白いことだ。実に面白い』
悪意に満ちた哄笑を響かせて小馬鹿にするヴォルデモートに叫ぶ。
いったい何がしたいのだ、この男は。
いや、冷静になれ。
ぼくを殺すためだ。冷静さを奪われてしまっては、勝てる勝負も勝てなくなる。
ひとつ大きな深呼吸をして、ハリーは落ち着きを取り戻した。
そうしてしっかりとクィレルを見据える。
『さて、少女よ』
「なんだ」
ぶっきらぼうなハリーの返事に、口の端を吊り上げて帝王は言う。
『その右ポケットに入っている、賢者の石を渡してもらおうか』
「!」
バレている!
いったいどうしてだ。あてずっぽうではない、ポケットの左右まで当てたのだ。
心を読む魔法? そんなものあるのだろうか。
と、思ったまさにその時ハリーの脳裏にとある魔法が閃いた。
いや、まさか。そんな。冗談ではない。
もしヴォルデモートが、もしくはクィレルがその魔法を心得ていたらハリーに勝ち目はない。
『頭のいい子に育ったようだな、ポッター』
突然ヴォルデモートが声をかけてきた。
クィレルは主人の手前なにも言わないが、ヴォルデモートが突然そう言った理由をわかっているとは言い難い表情をしている。
ということは、ヴォルデモートの方か。
奴は、奴は心を読めるのか!
『開心術士』なのか!
『ほほう……よく勉強している。まあ、よい。はやく石を渡すのだポッター』
「……!」
『そうだ。おまえに勝ち目はないのだ……。賢くあれ、少女よ……』
渡して当然と思っているかのようなヴォルデモートに、ハリーはもう我慢の限界だった。
人を馬鹿にするのもいい加減にしてほしい。
それに、もう殺したくて殺したくてたまらない。
『どうしたポッター。石を渡さねば、両親と同じ末路を辿るのみだぞ』
ぶづん、と。ハリーは頭の中にある何かが切れたような気がした。
鼻の奥から脳の中心にかけてが異様に熱い。視界の隅が赤く見えるのは錯覚か。
心臓がどくんどくんと動き、全身にとんでもないエーテル濃度の血液を送り込んでいる。
先ほどネビルと戦ったとき以上に、心が高ぶっている。しかし頭は冷静だ。
どうやってヴォルデモートを、クィレルごと殺そうかとフル回転している。
目が熱い。火が吹くように、赤い憎しみに染まっていくのが分かる。
「ポッターの目が……!」
『ククク……クィリナスよ、いい目だとは思わんか』
「ご主人様……?」
『この世には力を求める者と、求めるには弱過ぎる者がいる……あれは後者だ。偉大な目だ……』
クィレルの驚く声と、ヴォルデモートの怪しげな笑い声が聞こえる。
そりゃあ好きだろうさ、おまえが元凶で成った眼だ。敵意を振り撒くひどい目つきだ。
濁った瞳が、それでいてなお眼光鋭くクィレルを見据える。
威圧感にクィレルは一瞬気圧されるも、十一歳の少女に気迫で負けたその事実に怒り狂った。
喉の奥から奇声を吐き出しながら、呪文を叫んだ。
同時に、ハスキーな少女の殺意に満ちた呪詛も響く。
「『ステューピファイ』ッ! 麻痺せよ!」
「『グレイシアス』、氷河となれ!」
ハリーの杖先から飛び出した赤い閃光と、クィレルの杖先から飛び出した青白い光球が二人の直線状で激突し、爆発した。飛び散った光が当たった場所に呪文の効果が及ぶ。白くきらきらと光る氷の粒が宙に舞い、それが床に落ちる前には二人とも次の呪文を放っていた。
「『エクスッ、ペリアァームス』ッ!」
「『エクスペリアームス』、武器よ去れ!」
武装解除呪文が宙でぶつかり、またも光を撒き散らす。
短縮呪文を用いたハリーが、クィレルの丁寧な呪文が放った余剰魔力に一瞬よろけ、たたらを踏む。それを見逃すクィレルではなかった。即座に杖から魔力波を発し、不安定な体勢だったハリーを吹き飛ばす。
しかしハリーも負けじと、空中でなんとか体勢を立て直して背中から落ちる前に魔力を放出、空中で体勢を立て直すと危なげなく両足から着地した。
バッと顔を上げてクィレルを見れば、すでに呪文を唱えたようで赤い閃光がこちらに迫ってくる。
「『プロテゴ』、防げッ!」
咄嗟に唱えた盾の呪文が、ばぢんと閃光を弾いた。
クィレルの顔が歪む。おそらく今の一撃で仕留めたと確信していたのだろう。
もしくは、一年生であるハリーが《盾の呪文》を覚えているとは思っていなかったのか。
攻撃のチャンスだと判断したハリーが杖を振るおうとするも、彼女はその選択を後悔した。
クィレルによって幾度も風切り音が響くような、複雑な軌道が素早く描かれる。かと思えば、驚くべきことにクィレルは呪文も唱えずに魔法を放ってきた。それも、一度に十以上もの閃光が迫ってくるのだ。
通常、射出系の魔力反応光を発する呪文で出てくる閃光は一筋だ。それを如何なる手法を以ってしてか、二桁もの閃光を発したのだ。変わった形状の杖でなら不可能ということもないが、一本の通常の杖を用いてのこれは、明らかに異常だ。
ヒステリックで自尊心ばかり高い男かと思っていたが、評価を上方修正する必要がある。
こちらに飛んでくる魔力反応光から察するに、あれらはすべてが失神呪文。
当たったその瞬間が終わりだ。
「『プ……ロ……テ、ゴ』ォッ!」
最大限に魔力を込めて、一メートル四方ほどの分厚い盾を作り出す。
杖を動かすと盾も一緒に動き、ハリーの目測によって捉えた閃光を防いでゆく。
後ろ向きに跳びながら、ひとつひとつを対処してゆくうちに、酷い汗をかいていたようだ。最後の閃光を防ぎ切った瞬間、瀑布めいた汗が全身から噴き出してきた。
息を切らして肩を揺らしながらも、ハリーは杖をクィレルめがけて構えている。
不愉快そうな顔をしているクィレルに対して、ヴォルデモートの声は面白いショーをみた少年のように喜んでいた。
『何をしているクィリナス。お前は、一年生の少女にも劣る男だったのか』
「申し訳ありませんご主人様! ッく、ポッターァァァ――ッ!」
ヴォルデモートに失望されたのはお前のせいだ、と言わんばかりにがなり立てるクィレル。
あれは己の手下を嘲って遊んでいるだけだということに、なぜ気づかないのだろう。
今度はもはや一切容赦していないのか、呪文を一切唱えずに魔法を行使し始めた。
その速度たるや、声に出して呪文を放つよりもはるかに素早く、ハリーは盾の呪文で防ぐので精一杯だった。とてもではないが、反撃できる隙が見つからない。
『無言呪文』。それがクィレルの行っている手法だ。
まさに読んで字の如く、無言のまま呪文を放つ高等技術。本来は発声により自身の脳にこれから放つ呪文を強烈に認識させて、物理法則に魔法式をねじ込むことによって現実世界に干渉し、捻じ曲げ、そうしてやっと魔法を発動できる。
だが無言呪文は、意思の力のみで現実を歪ませているのだ。
ゆえに高い集中力と実力、なにより使用する魔法の魔法式を隅々まで理解していることが必要となる。
もつれそうになる舌を必死に動かして、盾を振り回すように閃光を防ぐ。
先ほど彼女が感じたように、魔力量には相当な差がある。全力で魔法を打ち合えば、先に魔力枯渇に陥るのはハリーであることが必然。
魔力を回復するための魔法薬の作成といった技術を持たないハリーには、魔力回復の手段はない。そうなれば自然、先に限界が訪れるのはハリーだ。
ハリーが構え続けた魔法障壁は、盾の呪文の効果が切れることによって消失する。
再度自身の命を守る盾を作り出そうと杖を振るものの、霞のような不完全なものしか出てこない。青ざめたハリーが杖を少し揺らしただけで、それは宙へと霧散して消えた。
見れば、顔色も悪い。足元はふらついており、目線も胡乱でクィレルの杖先も見えているのか定かではない。
いったい、何が、起きた? まだ、魔力はあるはずだ。
「ま、ず――」
思い当たる節が、一つだけ。
『魔力枯渇』。いや、正確にはまだ枯渇には至っていない。感覚としてはバケツ一杯分ほどの、その程度の魔力はまだハリーの体内に残っている。
では、このエーテル濃度の薄さはなんだ。
いや、知っている。事実から目を背けてはいけない。
学年末試験の前日、マダム・ポンフリーとの会話で出たではないか。
『魔力枯渇を短期間に何度も引き起こせば、急に魔力を練れなくなることがある』、と。
無理をしたツケが、ツケがきた。こんな重要で命がけの場面で。
よりによって、こんなタイミングで取り立てが来てしまうだなんて。
なんて。なんて、無様な。
「よくやった……と言いたいところだが、所詮は一年生ということか。いや、素晴らしい実力だったよ、ハリー・ポッター。『エクスペリアームス』、武器よ去れ」
ぱちん、と。
ハリーは右手を杖で叩かれたような、小さな衝撃が走るのを感じた。
他人から武装解除の呪文を当てられたことがなかったので、初めて知る感覚だった。あまり、いいものではない。
杖が、この一年を共にした最大の武器であるハリーの杖が、クィレルの足元へと飛んでいき、そしてからころと床に転がる。
嘲るクィレルの声が、頭でがんがん響く。
黙れ。喋るな。こっちに、来るな。
『クィリナス、簡単に殺すでないぞ』
「かしこまりましたご主人様」
ヴォルデモートの命令が聞こえる。
せせら笑うように冷酷な響きだ。
殺すな、とは言われたが。何か別の嫌がらせを考え付いたに違いない。
どうせろくなことではない。
『少し、怖い目に遭わせてやれ』
「ええ……冥府への良い手土産となることでしょう」
ほら、やっぱりそうだ。
相手は死喰い人だ。ただの十一歳の子供である自分よりも、よほど悪辣なことを考え付くに違いない。
磔の呪文でも使うか? それとも服従の呪文で屈辱でも味あわせるか?
「さて、ポッター。授業を始める」
どうやら、とことんまでいじめるつもりのようだ。
膝をつくことだけはしまい、と意地で立っているハリーだが、情けないことだが今なにかされれば、その場で倒れ伏す自信がある。
ハリーの強がりを見抜いているクィレルは、なおも嗤う。
「ほぼすべての呪文には、『反対呪文』というものが存在するのを知っているなポッター」
「……、……っ、……」
「おやおや、駄目だなポッター。グリフィンドール五点減点」
この男。
息を切らして言葉を発せないのをいいことに、いやらしい奴だ。
ハリーは睨むのみで、何も言えないのが悔しかった。
口から息を吸い込んで、食堂を通し、肺にまで到達させてそこから吐き出すだけでも辛いのだ。
エーテル不足の体が、酸素を、休息を求めている。
だが休むわけにはいかない。
休んだその時が、永遠の休息を取る時になる。
「反抗的な目が不愉快だ。十点減点。教師には跪け、ポッター」
クィレルが杖を振り下ろす。
なにか魔法を使った様子は感じられなかった。魔力を放出したのでもない。
だというのに、ハリーの体は上から何かに押さえつけられるかのような感覚に崩れ落ちた。
まるで日本人の日常挨拶である土下座のようだ。
立ち上がろうとするも力の入らないハリーは、ただの塊になったままぜいぜいと息を吐く。
それを面白い見世物であるとでも言うように、クィレルは哄笑した。
「いい格好だポッター! さて、まずは失神と蘇生の繰り返しを味わってもらおう」
「……!」
顔も上げられぬまま、ハリーは目を見開いた。
失神呪文は、実戦的で強力な呪文である。その魔力反応光が当たりさえすれば、対象の意識を閉ざすことができる。頭を殴ってショックで気絶させることや、薬品を嗅がせて眠らせることなどと比べれば、実に素早く確実に昏睡させることができる。
何かのプロセスを通さず、ただ脳に失神せよという命令を叩きつける魔法。それが失神呪文。
それの反対呪文として、蘇生呪文がある。
別段失った生命を復活させる魔法ではなく、失った意識を覚醒させることのできる魔法だ。
失神呪文による気絶はもちろん、先に述べた物理的な要因による気絶にも効果範囲内であり、さらに言えば眠っている人物を無理矢理に叩き起こすことも可能である。
だが蘇生には、若干の痛みと違和感を代償にする必要がある。
蘇生後も、頭全体に鈍痛を感じるという症状も残る。手足の痺れも報告されたことがある。
なにせ失神呪文と同じく、脳に直接命令をぶち込むのだ。そう表現すると軽い痛みや違和感程度で済むのなら、まだ御の字だと思われる。
だがそれを何度も繰り返すというのは、洒落にならない痛みを引き起こす。
本来ホグワーツならば、失神呪文とは上級生になって、妖精の魔法を学び終え、呪文学と呼ばれるようになってから習う呪文だ。
しかし習得難易度としては、そこまで難しい魔法ではない。ハーマイオニーに習いながらでも、標準的な勉強の苦手なホグワーツ生代表であるロンが使えることからも、それはわかる。
ならばなぜ上級生になってから習う呪文なのかというと、身体の成熟が必要となる呪文だからだ。
脳に直接影響を与える呪文は須らくそういった措置が取られている。若い未成熟なうちに脳に影響を与えては、まずい事になってしまうかもしれないからだ。人間である以上、成長に関する事柄はマグルと大差ない。ゆえに、魔法という危険と隣り合わせの学問を学ぶ以上は細心の注意を払う必要がある。
仮にも魔法魔術学校で子供たちに『マグル学』と『闇の魔術に対する防衛術』を教えてきた身であり、それをわかっていながら、クィレルはその拷問を行おうとしている。
喜悦のため、愉悦のためだけに。
一人の少女に危害を加えようというのだ。
「くそ……ッ! こんな、こんなときに……」
悔しい。
純粋に悔しい。
憎みに憎んで、殺すことを切望して、そしてやっと到来した機会。
だがそのチャンスは、するりとハリーの手から逃げていった。
『やれ』
「はっ。始めるぞポッター……『ステューピファイ』!」
赤い閃光が目の前に迫る。
咄嗟に避けようとするものの、弱った足腰と蹲った体勢からではろくな動きもできない。
土下座のような恰好だったのが、仰向けになっただけだ。
だめだ、当たってしまう!
…………、……。
…………。
……、
「……ッ! ……ッ、……。…………、……え?」
ぎゅっと目を瞑り、迫りくる恐ろしい拷問に怯えた様子のハリーが、うっすらと目を開ける。
赤い閃光は確かに身を包んだ。
ハリーの喉元あたりに魔力反応光が直撃し、ブラウスが焼け焦げて白く細い鎖骨が見え隠れしている。
まさか。とは思うが、十一歳では体もまともに形成されていない。
それにクィレルの怯えきった様子を見てみれば、そういう目的ではないこともわかる。
片や万全の状態で杖を構え、いつでも殺せる大人。
片や満身創痍で疲労困憊な上に、杖すらない子供。
なぜ、クィレルは怯えているのか。
なぜ、クィレルの放ち続ける赤い閃光はハリーの服を焼くだけで、肌に傷一つ作れないのか。
なぜ、……自分には失神呪文が効いていないのか?
「な、何だ、何が起こったんだ……!?」
『これは……どういうことだ……? クィレル、直接締め殺せ!』
ヴォルデモートの怒声にはっとしたクィレルが、ハリーの元へと走りだす。
しまった、千載一遇のチャンスを棒に振った!
ハリーは慌てて立ちあがろうとするも、力が入らないことを忘れていたため無様に倒れた。
ただただ呆然と、クィレルが宙を飛んで高速で向かってくる姿を見るのみ。
彼の魔手はそのままハリーの細く白い首にかけられ、骨を折るつもりかというほどに強く乱暴に握りしめてきた。抵抗する間もなく、無理矢理に気管を閉じられる。全く息ができず、喉が潰されて酷く気持ち悪い。えずこうにも出すべき場所がない。吐こうにも出口がない。
涙をぼろぼろとこぼしながらハリーは、死への恐怖ともう優しい友達二人に会えないことを悲しんだ。
――だが。
その苦しみから、急に解き放たれた。
胃液を吐き、涙を拭きながら、それでもハリーはクィレルを睨めつけた。
「あああっ!? あ、あああっ、がァァああああァ――ぁぁぁあああ!? ああっ、ぐぎゃああああああああああああああ――――――ッ!?」
どういう、ことだ。
クィレルの右腕が、じゅうじゅうと嫌な音を立てて焼け爛れてゆく。
ひび割れて色を失ったかと思えば、まるで灰か塵にでもなったようにボロボロと崩れてしまう。
恐ろしい光景だ。
完全に狼狽して冷静さを失ったクィレルが、右手を失った喪失感と驚愕、そして恐怖に歪んだ顔で金切り声をあげているのもまた、ハリーの精神をガリガリと削る。
その状況を生み出したのが、自分であろうということもまたハリーの心に突き刺さった。
だが、罪悪感に浸るのは後だ。
いまは弱った体に鞭打ってでも、あの男を斃さねば。
「な、なんだこの魔法はァァアアッ!?」
『愚か者! 杖を使え!』
――使わせてはならない!
どういうわけだかクィレルは、ハリーの手に触れると身体が焼け爛れて塵と化すらしい。
ならば、あとはただ、奴の腕に触れるだけでいい。
幸い奴は混乱していて、ハリーと距離を取るということをしていない。
既に煙と消えた右腕が杖腕だったのか、苦労して懐から杖を取りだそうとしているクィレルに、ハリーは力を振り絞って跳びかかった。
そして彼の左腕にしがみつく。
途端、不愉快な音とともに彼の左腕がたちまちひび割れて灰を撒き散らしていった。からん、と軽い音を立てて彼の杖が取り落とされる。使う腕がないのだから当然か。
たまらないのはクィレルだ。
己の腕が両方とも塵と消えてしまい、英語にもならない絶叫を喉の奥から絞り出している。
「うッ、腕がァッ!? 私の両腕がァァァ――ッ!? あぁぁぁ、ああああァァァッ! さいっ、再生しない!? なんで。なんでェェェ――――ッ!?」
『なぜ、何故このような、こんな力が……』
クィレルの悲鳴と、ヴォルデモートの混乱した声が部屋中に響く。
ハリーは続けてクィレルの顔に掴みかかった。
じゅう、と焼ける音が響く。クィレルがまた絶叫した。
狙うは目だ。視界を潰せば、幾分か有利になれる。
「目がァァァ――ッ! あぎぃぃあぁぁあああああ!」
このまま焼き潰せば、奴の頭部がまるごと灰になるはずだ。
そうすれば、殺せる。
殺されかけている以上、殺害するのもやむを得ないだろう。
しかし、そこで終わりはしなかった。
両の腕を失くしながらもクィレルは、残った足でハリーの体を蹴飛ばしてきたのだ。
ああ、自分が男の子だったなら! あのくらいの弱々しい蹴りくらい、なんともなかったのに!
恐ろしい憤怒の形相で、クィレルは長々と叫び声をあげている。まるで傷ついた野生の獣のように吠えている。床に転がされたハリーは、よろよろと起き上がりながら、最大のチャンスを逃したこととその遠吠えに怯えてしまった。
怖い。純然たる恐怖が、ハリーの全身を舐め尽くす。
バジリスクを前にしたカエルのように、ハリーは竦んだ己の身を抱きかかえるように震えていた。
ハリーの目線の先で、クィレルがこちらを睨むのが見えた。
もはや彼に眼球など存在しないはずなのに、それなのに。
それは、か弱い獲物であるハリーを食い殺そうとする捕食者の目だ。
「な、んだ……あれ……ッ! あ、ああ……!?」
クィレルの。
奴の顔が、びきびきとひび割れてゆく。
灰と化す様子はない。あれはハリーのやったことではない。
「私ィのォ、わたァァァしィィィのォ、目がァ……腕ェェがァァァ……よくも、よくも……ポッター……ッ! ポッターァァァアア……ッ!」
クィレルは怨嗟の声を漏らす。
彼の両腕はもうない。二度と杖を握ることはできないだろう。
両目も焼き潰した。彼に光はなく、ハリーのいる方向すらわからないはずだ。
そうだ。わからないはずだ。
なのに、なぜ奴はこちらに顔を向けている?
なぜ、奴からの視線を感じる?
『クィレルよ』
「ご主人様ァァァ! もォう我慢がなりませんッ! 奴をッ! 奴を殺す許可をォッ!」
猛り狂ったクィレルが、唾液を撒き散らしながら叫ぶ。
ヴォルデモートは呆れたような失望したような声を漏らし、一言だけ残す。
『……よかろう』
「有ァり難き幸せェェェァアアアがァァァぁあああああああああッ!」
クィレルの頬から目元にかけての皮膚には深い亀裂が入っている。
ぼろぼろと皮がこぼれたその下には、銀と赤の流動体が蠢いている。
あれはなんだ、と疑問に思う前に氷解した。あれは、あれは血だ。血液だ。
赤色はわかる、人間の持つ血の色だ。だが銀は……、そうか、あれはユニコーンの血だ。
延命のため多数のユニコーンを殺し食らい、啜った結果があの有様なのか。
スキンヘッドのため、頭皮もぼろぼろと崩れて赤と銀が見え隠れしている。潰した目からは涙さながら瀑布と血を流し、裂けた口内にはずらりと鋭い牙が並ぶ。
……こいつ、人間じゃないのか!?
ハリーの考えがそれに至ったとき、変化が起きた。
クィレルの手の指一本一本が鋭い刃物のように変化し、ぎしぎしと軋む。
元はターバンだったマントが不自然に動き、腕のようにゆらゆらと蠢く。
ハリーの倍はある大きく開かれた口からは、紅い霧がごとき息が漏れる。
知っている。
あれの正体を、ハリーは知っている。
他ならぬクィレル自身が、授業で言っていたではないか。
「ハァァ――ァァアアアAAAA。……ポッターァア……」
「あ、あんた……あんた、その姿は……」
ハリーは、震えながらもなんとか言葉を出す。
二の腕から先の両腕がなく、目も見えない怪物。
皮膚の色は血色を感じられず、そしてひび割れたその下は赤と銀の流動体。
だがそれでいてなお、捕食者とエサの関係は変わらない。
何せ、なにせ奴は、
「吸血鬼……ッ!」
「YEEEEEEES……、正ィ解ィィだァ、ポッター……」
人類の上位種。
ヒトたる生物にカテゴライズされる、夜の一族。
悪の化身。不死者。魔王。塵の王。ノスフェラトゥ。ノーライフ・キング。
様々な呼び名がある、かつての魔法界最悪の生物。
それが吸血鬼。
「私は、ルーマニアでVAMPIREに遭ってね」
「じゃあ、命を救われたっていうのは……」
「その時だ。MASTERに助けられはしたものの、既に噛まれていた私は、その時その瞬間より吸血鬼となった。陽の光のもとを歩けぬ、NIGHT WALKERに……」
そんなバカなことがあってたまるか、とハリーは叫びたい気分だった。
だが事実だろう。
こんな場面で嘘をつく意味がない。
つまり、奴は本物の吸血鬼。人間の、天敵。
思い当たる節はいくつかある。
赤と銀の流動体、つまり彼の血液。そのうちの銀の血液。
つまり奴こそが禁じられた森で出会った怪人その人であり、呪われた命持つ者。
では、と考えると奴にはおかしいことがある。
腕だ。
森においてのハリーとの戦闘で、奴は自ら腕を引き千切ったはずだ。
それが、今は再びハリーが奪ったとは言え、先程まで彼の失くしたはずの腕は健在だった。
何故なのか。それが、この答えだ。
ユニコーンの血の効果もあるだろうが、それ以上に吸血鬼であるために、失くした腕を再生したのだ。
「この姿を晒すことになるとは、何たる屈辱! 貴様! YOU! ポッタァーッ!」
「ひぅ。ああ、あ……っ」
「そォォォうだァ、その顔だァ! その怯えた顔が見たかったッ! POTTER! 血を吸い尽くして、貴様をミィィィィイイイイラァァァにしてやるるるるRURUUUUUUUUAAAAAAAAAAッ!」」
瞬間、轟音を立ててクィレルが床を蹴り砕いた。
いや違う。跳んだのだ。ただの踏込で、床の石材を打ち砕いた。
ハリーが見上げると、天井を蹴ってこちらへ砲弾のように拳を放つ姿が見えた。
慌てて腕を十字に構え、心臓や顎、首といった致命傷を避けようとする。
触れば、触りさえできれば勝てるのだ。
例え肋骨を砕かれようとも腕を砕かれようとも、脳や心臓、そして手が無事ならば奴を倒せる。
そう信じて、ハリーは両腕を犠牲に差しだした。
だが――
「無ゥゥ駄ァァァだァァァッ、ポッッッタァァァーアアアアッ!」
クィレルの絶叫通り、ハリーの防御行動は全くの無意味と化した。
ばぎべぎごぎ、という鈍く硬質な音と共に、ハリーの両腕が弾かれた。
両腕が、熱い。変な方向にぐにゃりと曲がっており、骨を粉砕されたのが見てとれる。
激痛に泣き叫びそうになるが、続けてクィレルの蹴りの威力が貫通して腹に響く。内臓に傷が入ったのか、赤黒い液体が喉を通って出口に殺到、床を汚してしまう。
よろけながらも倒れまいとするハリー目がけて、続けてクィレルはマントを振るった。触手か何かのように自在に動いたマントはハリーを殴り飛ばし、階段から突き落とす。
大部屋の中央、《みぞの鏡》の鏡面に叩きつけられたハリーは、咳き込みながら血を吐きながら、それでもクィレルを睨めつけた。
頭のどこかを切ったようだ。どろり、と鼻を伝って血が垂れている。
先ほど蹴られたときにどこかの内臓を痛めたのか、心臓の動きに合わせて耐え難い激痛を継続的に感じる。
抵抗する力はもう、残っていない。
杖など何処へ行ったか分からない。
だけど。
だけれども。
「……ッ、ぐ、うううっ、ああ……っ!」
倒れない。
斃されてなどやらない。
鏡にもたれかかりながらも立ち続け、血の足りなさから霞んでよく見ない目で敵を睨む。
クィレルはそれを不愉快そうに睨みつけ、人外の奇声を叫ぶ。すると紫のマントがばさりと翻され、クィレルの体は無数の蝙蝠と化した。
禁じられた森での光景が思い起こされる。
ハグリッドが大樹を破砕したとき、多くの羽虫や蝙蝠が飛び立っていた。そうか、ああやって逃げていたのか。と思うと同時、人型ならまだしも多数の蝙蝠などという姿で攻撃されては、拙い防御を行うことすらできないだろうとハリーは絶望感が胃に流れ込むのを感じる。
高速で突っ込んでくる蝙蝠たちの羽根に体中を切り裂かれながら、ハリーは叫んだ。
恐怖からの叫びではない。
まるで、敵の首を跳ねんと挑む戦士の雄叫び。
闇雲ながら両腕を振り回し、その柔らかく小さな拳で少ないながらも蝙蝠を打ち落とす。
だが現実は厳しく残酷だ。
ばぎ、と聞くに堪えない音がハリーの左膝から響いた。
焼けた鉄を埋め込まれたかのような暑さと痛みを感じる。視線だけで見れば、クィレルのものらしき足のみが蝙蝠の背中から生えている。
……蹴り折られた。こいつ、こんなこともできたのか。
怯んだ隙をついて、右膝の裏を蝙蝠の一匹に体当たりされる。膝を床に打って膝立ちにさせられたハリーは、眼前に蝙蝠が集まって人型を成すのをただただ見つめるしかなかった。
牙を剥いて、唾液を垂らし、大口を開けてハリーの首筋に噛みつこうとしている。
ああ、血を吸われて死ぬだなんて。
自分の死は飢えか衰弱かと思っていたハリーにとってそれは予想外で、嫌な死因だった。
しかしハリーの心は、不思議と静かに凪いでいた。
死への恐怖は感じる。
せっかくできた友人……いや、親友に対する無念もある。
それでも、それ以上にハリーが感じるのは一つの感情だった。
解放感。
この世界は地獄だった。生きる価値などなかった。
自分の居場所などない、自分を愛さない世界なんて耐えられない。
やっとだ、やっとなのだ。まるで愛する恋人にようやく会えたかのような顔で、
涙も流さずに、ハリーは、呟く。
「……ああ。やっと、死ねる――」
その微笑みは、十一歳の少女とは思えないほど妖艶に美しく。
泥のような瞳が、恍惚としてこの世に有り得ざる世界に魅入られる。
死への渇望。
自分でも気づいていなかった、ハリーの願い。
心の闇にすらなっていなかった彼女の切望が、今ここに姿を見せる。
――だが、死の女神は彼女の来訪を許さなかった。
クィレルが全身を形成して床に降り立ったその瞬間。
ハリーのポケットから、紅い石が滑り落ちた。
硬質な音を立てて床に転がったそれに、クィレルが目を取られる。
彼女の中の生存本能が、鎌首をもたげた。
咄嗟に左腕で、クィレルの左脚へ全力の拳を放った。
まるで小麦粉の袋を殴ったかのような感触と共に、服の中の脚が灰と化したのを驚いた顔で見るクィレルは、完全に虚を突かれていた。
完璧に心を折られた少女が、まるで操られるかのように突如攻撃してきたのだ。
片脚を失ってしまっては立つこともままならない。
倒れるのを防ぐため、膝を床についた。
その間クィレルが見たのは、自分と同じ目線になった少女の姿。
固く握り締めた右手を振りかぶって、拳を放つその姿。
「――ッッッらァァァあああああああああああああああああああ――――――ッ!」
ハリーの声が大部屋に響き、灰が吹き荒れる。
どちゃ、べちゃ、と。
固くも柔らかい何かが、床を転がっていくのが視界の端に映る。
その何かが、《みぞの鏡》にぶつかって止まり、それは鏡面に映った。
「――、――――」
クィレルの顔。
左半分の顔面のみが、転がっていた。
ちょうど人間の頭部を、縦に四分割したらああなるだろうか。
断面が灰と化しながらも、耳や眼孔からはとめどなく赤と銀の血液が溢れている。
もはや何も喋れぬクィレルの欠片は、自信の死を信じられない驚きに見開いた目だ。
ハリーと目が合う。彼女は徐々に消えゆくその視線を外すことができなかった。
そうしてしばらくハリーを恨めし気に見つめたのち、ぐるんと白目を剥いて、二度と動かなくなった。
「――――う、ぐっ」
もう胃の中にはほとんど物がない。少量の黄色い液体が床を汚す。
その液体音と共に、もはや動かなくなったクィレルの身体が床にその肉塊を横たえた。
ハリーにその光景を見る余裕はない。
衣服が汚れるのも気に留めず、床に倒れ伏す。
体力も、心も限界だ。
彼女はゆっくりと、その意識を手放した。
ハリーは闇に、深い深い闇に、
ゆるりと沈みゆく。
*
はっと目が覚めると、小汚い石造りの大部屋などではなく、清潔感あふれる白の部屋。
いったいどこなのだろう。
「……知らない天井だ」
起き抜けだというのに、なにか電波を受信した。
言わなければいけない台詞を宣ったのち、ハリーはゆっくりと身体を……起こそうとして、痛みに呻いた。
焦りを感じながら周囲を見渡せば、白いカーテンで周りが隠されている。
ああ、と納得。保健室だ。
隙間から見える隣のベッドには、見覚えのある男の子がいる。
ネビルだ。ぐっすり眠って居るようで、可愛らしい寝息が聞こえてくる。
その痛々しい姿に申し訳なく思いながらも、ハリーは努めて無視しようとしていた人物へと目を向ける。
すると彼は嬉しそうに微笑んだ。
「おお、ハリーや。気づいてくれて嬉しいよ」
「ええ……はじめまして、ダンブルドア校長」
アルバス・ダンブルドア。
世界最強と言われ、学問の面でも多大なる貢献をしている老齢の魔法使い。
ハリーが自分の寮を決める切欠になった男。
「はじめましてではないよ、ハリー」
「え?」
「君をダーズリーの家に預けるときにちっちゃな君を抱いていたのが、わしじゃよ」
瞬間。
ハリーの拳が空を切った。
いつの間にかベッドの反対側に移動したダンブルドアが、少し眉を寄せている。
何をされても余裕綽々で微笑んでいるような爺さんかと思ったが、意外とそうでもないようだ。
その姿を見て、ハリーは隠すことなく舌打ちする。
「どうしたのかね、ハリー」
「ぼくを地獄に突き落とした人物の鼻にハエが止まってまして。払って差し上げようかと」
「それはありがとう。それには及ばんよ」
ダンブルドアは厳しい表情を緩めて、好々爺然とした笑顔に戻る。
ハリーはその笑顔を、なんとなく嘘だと思った。
それもそうだろう、一生徒にいきなり殴りかかられたのだから。
「ほっほ。このお菓子は君の信奉者たちからの贈り物のようじゃの」
「……しんぽうしゃ?」
「うむ」
ハリーのベッド脇に置かれた小机には、山と積まれたお菓子が大量にある。
種類も様々で、お見舞い用のメッセージカードが添えてあるものもある。
ハーマイオニーとロンの物はすぐに見つかった。友情パワーで。
羽ペン型砂糖菓子はマクゴナガルからの物。下手なラッピングがなされた包みは、まずハグリッドのお手製ロックケーキだろう。アンジェリーナたちのクィディッチチームの女三人衆からは何を考えたのか、揉むと増えるマシュマロセットだ。ウッドからは最後の試合をボイコットしたことへの恨み言が綴られたクッキーが贈られている。その他いろいろな人たちからの贈り物に、ハリーは思わず笑顔になった。
「お、バーティーボッツの百味ビーンズじゃ」
ダンブルドアがそう言って手に取ったのは、たぶんリー・ジョーダンからの物だ。
「わしゃこれが嫌いでの。若いころ、シュールストレミングと洗顔料のパフェ味にあたったことがある」
「オエーッ」
「おや、封が開いておるの。……このドドメ色のビーンズなら、食べても大丈夫じゃろ」
ハリーが見ている前でゼリービーンズを口に入れたダンブルドアが、顔を顰める。
吐き出したいのを堪えているようにしか見えない。
「なんと……一年間放置した生ごみ味じゃ。いやはや……」
おどけるダンブルドアの様子に、ハリーはくすくすと笑った。
そんな彼女の様子を見て安心したのか、ダンブルドアの雰囲気も柔らかくなった気がする。
「さて、ハリーや」
「はい先生」
「何か、今晩のことで聞きたいことはあるかの」
ベットのそばにあった椅子を魔法で引き寄せて、腰かけたダンブルドアが問う。
質問できること、答えてくれる人がいることにハリーは小さな幸せを感じる。
だがそれを噛みしめるのは後だ。
まずは真相を知らねばならない。
「ヴォルデモートはどうなりました」
「おう。それを真っ先に聞いてくれるとは」
まっすぐにダンブルドアを見つめる。
少し迷うような仕草を見せたが、言っていいものだと判断したのだろう、彼は口を開いた。
「死んではおらん。ただ、退けただけじゃ」
確信めいたものが宿る声だ。
奴は死んではいない。憑代となったクィレルをやっつけたのだから、或いはと思ったのだが世の中そううまくはいかないようだ。なにせ、死の呪文が跳ね返っても生きているような輩なのだ。保険として何かあるのかもしれない。
では、とさておいてハリーはベッド脇にあるとんでもない物に目を向ける。
「あの」
「何じゃね」
「あれ賢者の石ですよね。無防備にこんなとこに置いてもいいんですか?」
そうなのだ。
起きたとき横を見たらぽんと置いてあってドキッとしたものだが、何故だろう。
こんなぞんざいな扱いをされては、守った甲斐がない。
「ああ。聞いてくれてうれしいよ。実はの、アレ偽物なんじゃ」
「えっ」
「偽物じゃ。本物はずっとわしのポケットの中に入っておったよ」
力の抜ける話だ。
つまりハリーは、命がけでレプリカを守っていたということになるのだ。
ベッドに倒れ込んだハリーが呻く。タヌキジジイめ、とも呟いている。
それを聞いても微笑んだままのダンブルドアが、説明を続けた。
「あれはの。『石を見つけたい者』だけが取り出せる仕組みなんじゃよ。『石を使いたい』でもなく、ただ『見つけたい』者だけ。使う意思があってはいけないのじゃ。んでおまけに取り出せたとしてもそれは偽物。ヴォルデモートに勝ち目はなかったのじゃよ」
「ぐぬぬ」
おのれ。
そうと知っていれば行かなかったものを。
可愛らしくさえ見えるジトっとした目でにらみながら、ハリーはため息を吐く。
一呼吸置き、ダンブルドアが話し始めようとしたのを見計らってハリーは問うた。
「何故ぼくたちを行かせたんですか」
開きかけていた口を閉じ、ダンブルドアは微笑む。
言え、と目で示すハリーに彼は微笑みとともに教えた。
「君たちの成長を見たかったのじゃ。万が一の事があれば、わしが何とかするしの」
思えば、不自然だった。
クィレルは確かに物知りな男だが、頭のいいとはとてもではないが言えなった。
自尊心ばかりが肥大して、高い実力を自重で潰してしまっている。
そんな男がダンブルドアを出し抜けるだろうか。
いま実際に会って分かったのだが、この爺さんは結構抜け目ないタイプだ。
クィレル如きの謀など見抜けそうなものなのだ。
「……とんでもないクソお爺様ですね」
「ほっほ。すまないの、ハリー。君たちに必要な試練だと思ったのじゃ」
ぶん、と空気が殴られた。
ダンブルドアは動いてもいないはずなのに、確実に軌道上に彼の鼻があったはずなのに、ハリーの振りぬいた薬瓶は空を切っていた。
「これ、ハリーや」
「いやいや。もうこれはしょうがないと思うんだよね」
もう一度ぶん、と空を切る。
今度はハリーの手には薬瓶はなく、ダンブルドアの手の中にあった。
魔法を使った形跡もないのに行われた不思議に目を丸くし、ハリーは溜め息と共にベッドに戻る。
眉をひそめたままのダンブルドアに、ハリーは言った。
「ぼくが試練を受けるのは別にいいです。強くなるのに必要だから」
「では、何故わしを殴ろうと?」
ダンブルドアの問いに、ハリーは答える。
「友達を巻き込まないでください。大切な人たちなんです」
ぽつり、と照れるように放った言葉。
それを聞いて、ダンブルドアは心の底から嬉しそうな笑顔を見せた。
まるでクリスマスとハロウィーンとイースターが同時にやってきたような、子供のような満面の笑み。
先ほどのように嘘が混じった笑みではない。
本物の、おちゃめな笑顔だ。
「そうか、そうか。ハリーや。信頼する友ができたのだね」
「……はい」
ハリーの耳が赤くなった。
散々な扱いをしておいて、いまさら友人面するなど、という恥もある。
しかしそれ以上に、ハリーはあの二人が愛おしくてたまらなかった。
だから。
彼女はダンブルドアの言葉に、笑顔で答えることができる。
「ハリー。その気持ちを、忘れるでないぞ」
「――はいっ」
一週間と少し後。
ハリーが退院する前の日に、学年末パーティは終わってしまった。
今年一年おつかれさま。夏休みが終わったらまたおいで、という宴だ。
そしてホグワーツ生には欠かせないものがある。
寮対抗戦だ。
生徒たちの行いによって点数が加減され、最後に優勝した寮は一年間の王者となる。
六年連続でスリザリンが優勝しているこの対抗戦は、他三寮が熾烈な思いを燃やしていた。
目的のためなら手段を選ばない傾向にあるスリザリン生は、他寮生徒から嫌われている者が多い。
ゆえに皆してスリザリンから優勝杯を掻っ攫いたいのだ。
しかし結果は惨敗。
四位がグリフィンドール、二六二点。三位はハッフルパフ、三五二点。二位はレイブンクローで、四二六点。そして一位がスリザリン、ぶっちぎりの五四二点だった。
だが、これは暫定に過ぎない。
学年末パーティで御馳走をたらふく食べて頭が空っぽになる前に、もう一つ大事な発表がある。
成績だ。
教育機関なのだから当然である。
そしてこの成績ももちろん、寮対抗戦に影響する。
七学年それぞれの学年において、主席には四〇点、次席には三〇点の点数が加算されるのだ。
さらに、特別な功績を成した生徒にも点数が追加されることもある。
今年はスリザリンのクィディッチ歴代最速スニッチ・キャッチを称えて、ドラコ・マルフォイに特別功績点が追加された。どうやら最後のグリフィンドールとスリザリンの試合、ハリーがいないことに激怒した彼は、試合開始六分二八秒でスニッチを捕ったのだという。
主席や次席への加算では、なんとハーマイオニーが一年生の主席として点数をもらっていた。
嬉し泣きを我慢しきれなかった彼女だったが、直後に発表された一年生の次席がまたもやドラコ・マルフォイであることを聞いて引っ込んでしまったようだ。
様々な要因が重なり合って、順位は変わらないものの四寮間で点数差がほとんどなくなった。七年連続で優勝を得たことで狂喜乱舞するスリザリン生だったが、
しかし、驚きは終わらなかった。
なんとダンブルドアは、クィレルの暴挙を暴露。
具体的に何を盗もうとしたかはうまくぼかして明かさなかったものの、ハリーら三人がその野望を食い止めたとして特別中の特別で、大量の点数が加算された。
それによって順位がひっくり返り、グリフィンドールが一位に躍り出るというとんでもない展開に。
あまりにあんまりな仕打ちに泣き出すスリザリン七年生もいたらしく、ハリーはロンとハーマイオニーの話を聞きながらハリーは苦笑いと共にスリザリン生に同情した。知らなかったとはいえ自分もその片棒を担いでいるのだから、間違っても口には出さない。スリザリン生全員を敵に回してしまいそうだ。
閑話休題。
結局悪事を暴露されたクィレルは、ホグワーツをクビになったとのことだった。
ハリーは実際には自分が殺害してしまったことを知っているのだが、真相は闇の中だ。
流石に教師が悪い奴に取り憑かれて死にました。などとは言えないのだろう。
さて。
ハリーらがホグワーツ最後の週を楽しんで、トランクに詰めた荷物をホグワーツ特急に乗せた時。
大きくてひげもじゃで図体のデカい優しくて素敵な男が、ハリーをひょいと持ち上げた。
三メートル近くあるハグリッドは、冗談抜きでハリーの二倍近くあるので脚が全く届かなくて怖い。しかも、彼の抱擁は骨が折れる(比喩表現ではなく)のでできれば遠慮願いたかった。
「ウオーッ! ハリー! すまなかったーッ! 俺がもっとちゃんと教えてやりゃあ、あんな怪我しなくてすんだってーのに!」
「げほっ! げっほげほっ! ハ、ハグリッド、肋骨が折ぐえぇあっほえっほえっほ!」
「女の子なのにすまなかったなあハリー! 傷跡のこってねえか! 大丈夫だな! だめでもちゃんと婿さん見つけてやっからなーっ!」
「ぐげほぉ――ッ!」
コンパートメントの中でハリーを見捨てたことを謝罪する二人を無視して、ハリーはハグリッドからもらったアルバムを眺める。
ジェームズ・ポッターとリリー・ポッターのアルバムだ。
一冊にまとめられているが、学生時代の両親や当時の学友たちの写真よりも、赤ん坊のハリー・ポッターと三人一緒に撮った写真の方が多い。
なかなか面白いものだ。
写真の中ではまるで男の子みたいな格好をさせられている赤ん坊ハリーがずいぶんと嫌がっているようで、魔法製品らしきガラガラをジェームズの眼鏡にぶつけていた。ずり落ちた眼鏡を直す彼の姿を大笑いしているのは、きっと彼らがホグワーツにいたころから仲の良かった人たちだろう。
茶髪の小柄な青年と、鳶色の髪のやつれた青年、そして黒髪のハンサムな青年。皆楽しそうで、朗らかに笑っている。
他の写真では、また別の青年が映っている。母のリリーと共に、こちらも笑顔だ。
ハリーを抱く黒髪の理知的な青年が――
「うわっ!? スネイプ先生だ!」
「黒幕がなんだって!?」
「ロンあなたまだそのネタ引っ張るの」
写真の中では、若い頃のスネイプがハリーを抱いていた。
母親のリリーと鳶色の髪の青年が笑ってジェームズと黒髪のハンサムを抑えているのを余所に、ハリーが今まで見たことのない優しい表情のスネイプが写真の向こうにいる。困惑しながら、それでも微笑んで。
そんな写真を見た三人は、驚きに口を半開きにしたまま閉じることを忘れてしまった。
スネイプに関する謎がまた一つ増えたところで、何の魔法だろうか、マグルでいう汽車内でのアナウンスが鳴る。
残り数十分でキングズ・クロス駅につくので用意をしろとのことだ。
それを聞けば途端に寂しくなる。
他の者にとっては、愛する家族に会える夏休みは楽しいだろう。
だがハリーにとってはそうではない。
あの地獄に帰らなければいけないのだ。
しかし今回に限って、ハリーはあまり心配していない。
なぜなら彼らは、ハリーが学校の敷地外で魔法を使ってはいけないことを知らないからだ。
「バレないようにするのが一番の課題ね」
「実際に使わざるを得ない機会が来なければいいんだけどねえ」
ハーマイオニーとハリーの会話に、ロンが口を挟む。
「魔法を使うと魔法省からお知らせのフクロウ便が来るんだ。だから保護者には簡単にバレちゃうし、間違っても使っちゃいけないよ」
「珍しいねえロン。何でそんなこと知ってるの?」
「フレッドとジョージが証明した。身を以って」
「あっそう……」
汽車がゆっくりと速度を落とし、ひと揺れして止まった。アナウンスがキングズ・クロス駅に着いたことを教えてくれる。
ハリーは椅子から立ち上がり、さて、と気合いを入れる。
これからが本当に厳しい戦いの始まりだ。
攻撃はできない。魔法すら使えない。それら全てを隠し通さなくてはいけない。
なんと厳しい戦いなのだろうか。
「……ハリー、大丈夫?」
「はは、まぁ、うん。ちょっと怖いけど」
けど、と言葉を切って。
ワンピースの裾を揺らして微笑んで。
「ヴォルデモートと比べれば、まぁ怖くはないね」
二人の親友はただ苦笑いするしか出来なかった。
この一年で成長したのは、どうも心だけではなかったようだ。
ハリーは少しだけ、ほんの少しだけ、憎き宿敵に感謝したのだった。
【変更点】
・ハリーの心の闇緩和。持つべきものは素敵な友達です。
・真のラスボスは、やっぱり
・私は人間を辞めるぞポッタァ―――ッ! 難易度超上昇。
・ダンブルドアの胡散臭さグレードアップ。信頼度は原作よりは低い。
・ヴォルデモート≧ダーズリー家>越えられない壁>その他
【新キャラ・変更のある登場人物】
『クィリナス・クィレル』
原作人物の魔改造。下級死喰い人。
ルーマニアへ修業した際に吸血鬼に噛まれて脱人間。分不相応に傲慢な性格。
本来なら魔力の続く限り肉体を再生する能力を持っていたことで、帝王に気に入られる。
一応かなり優秀な魔法使いだが、闇の魔術への適性はなかった。石仮面とは関係ない。
大変お待たせしました。一週間かけてこんな量。最長です。
これにて「賢者の石」は終了となります。秘密の部屋は……うん、頑張ります。
今後の難易度に影響する変更点はこの話の中にいくつかありますので、暇なマグルの皆さんは探してみてください。ざっくざっく出てきます。
一年目はハリーが友情(と絶望)を知るお話でした。二年目はどうなるか、楽しみにして頂けると幸いです。
拙作を読んでいただき、ありがとうございました!