ハリー・ポッター -Harry Must Die-   作:リョース

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10.秘密の部屋

 

 

 ハリーは杖を構えた。

 バジリスクの目はハリーに効かない。

 理由は知らないし、どうでもいい。今はただ、目の前の男を殺さねばならない。

 ハリーから殺意が膨れ上がったのを確認したリドルは、荒げる息を整えて言う。

 

「そうかい。答えるつもりがないというのなら……言いたくなるまで甚振るだけだ」

 

 リドルが腕を振り下ろすと、困惑しながらもバジリスクがこちらへ鎌首をもたげる。

 それに対してハリーは挑発するように言った。

 

【バジリスク、君も悪い男に引っかかったね】

【お答えできかねます】

 

 ぐん、と自動車以上の速度でこちらへ首を伸ばしてくるバジリスクを見て、ハリーは笑う。

 身体強化魔法の影響でいくらでもそれ以上に素早く動けるハリーは、その場で宙返りしてバジリスクの噛みつきを躱すと、わざわざその頭の上に着地した。

 ヌンドゥに比べれば相当に遅い。バジリスクにおいて最も気を付けるべきは件の魔眼であったが、どうやらハリーには効果がないらしい。ならば好都合。残るは蛇であるゆえ読みにくい動きと、尾による強力な打撃、そして受ければ死へと直結すると言われている毒を秘める牙だろう。

 鬱陶しがるように頭を振り、ハリーを落とそうとするもそれより早くハリーはバジリスクから飛び降り、ついでとばかりにリドルへと武装解除呪文を放った。

 盾の呪文で防がれるものの、これで隙あらばリドルの方を狙ってくるとわかっただろう。

 身体強化に回せる魔力も残り少なくなってきた。ここからは虚実織り交ぜた戦い方……要するに張ったりを混ぜていかなければいけない。

 

【さぁこっちだ! どうした、おいで美人さん!】

【惑わされるなバジリスク! 尾だ! 尾で叩き潰せ!】

 

 ドスン、と床に巨大な尾が叩きつけられる音が部屋中に響いた。

 これに僅かでも当たれば、ひき肉どころかペースト状になることは間違いないだろう。

 だが当たらなければどうということはない。

 はっきり言って、魔眼さえ効かなければかなり攻略難易度は下がるだろう。ハリーにとっては魔法で即死する可能性の攻撃をしてくる上に本人の身体能力も高いクィレルや、満足に呼吸すらできなかったヌンドゥの方がやりづらかった。

 その点、このバジリスクは戦いやすい。

 一撃貰えばその時点で終わりになる可能性が高いというのは、それこそロックハートと戦った時ですらそうだ。そこだけはいつも変わりない。バジリスクの一撃も、盾の呪文の上から喰らってあの威力なのだ。生身の状態で食らえば、確実にグロテスクな感じで即死する。

 そしてバジリスクには、どうやら戦うといった経験がない、もしくは少ないと見える。

 リドルの指示に従って攻撃しているものの、そのすべてが大振りだ。

 自分をかじるネズミや鬱陶しい蝙蝠や虫を払うくらいしかなかったのかもしれない。または、獲物を仕留めるとき。

 本当に余裕がない今、これは助かる事実だった。

 

【さぁ、バジリスク……でいいのかな、名前知らないな。とりあえず、斃させてもらう】

【なにを……!】

 

 ハリーは軽くそう言うと、羽根のように跳んだ。

 不審がるリドルを放っておいて、ハリーはスリザリン像の上を滑るように駆け上っていく。

 それに追随して攻撃してくるものの、像が揺れること以外は大して問題はない。身体強化に使える魔力も残り僅か。魔力枯渇などという無茶をしていないため、残り何秒ほどで効果切れになるかがわかるというのはかなり便利だ。

 スリザリン像の頭の上に乗ったハリーは、躊躇なくバジリスクに向かって飛び降りた。

 好機とばかりにリドルが指示を飛ばすと、バジリスクはその致死毒を孕んだ大口を開けてハリーを迎え撃つ姿勢を取る。そして捕食者特有の素早い動きでハリーを丸呑みにしようと高速で頭を突っ込んでくるものの、強化状態の目ではその動きがよく見える。

 だが、当たれば死ぬという緊張感はハリーの精神を大きく削る。

 それでも余裕を見せて、優位に立っているのは自分だと強く主張する。

 

「ふっ!」

「なにっ!?」

 

 一瞬だけ杖先から強力な魔力波を放射して、ハリーは空中で移動した。

 すぐ横で、ハリーのローブを削り取るような顎の力で牙が通り過ぎた。ハリーは内心で冷や汗をかきながら、それでも表面上は余裕綽々の不敵な笑みでバジリスクに向けて呪文を唱える。

 

「『グンミフーニス』、縄よ! 『プレヘンデレ』、捕縛せよ!」

 

 魔力で編まれた縄が、呪文の効果によってバジリスクの身体に巻き付いた。

 鬱陶しそうにそれを振り払おうとするものの、《捕縛呪文》を使う際に暴れれば暴れるほど締め付けが強くなる縛り方を指定したので、腕のないバジリスクにとってこれは苦しいだろう。

 ハリーですらほどけそうにない難解かつ適当で複雑な縛り方である上に、更には縄呪文にかなりの魔力を込めたので簡単に千切ることはできそうにない。よってバジリスクはその体勢を崩し、高い波を立てて水面へと叩きつけられた。

 

【まさか。こんなにもあっさりと……】

【おいおいリドル。女の子はもっと優しく扱うもんだぞ】

「耳が痛いね、ハリエット。……これでも、まだ侮っていたとでもいうのか」

 

 歓声をあげながら安堵しているハリーの内心を知る由もなく、リドルが悔しげに吐き捨てる。

 身体強化の効果が切れ、ハリーの身体から青白い光が消えていく。

 魔力はもう残り少ない。

 リドルと魔法戦を行うことを考えれば、これ以上の消費は実にまずいことになる。

 だが、顔には出さない。常に微笑んでおく。

 ロックハートはハリーにとても大事なことを教えてくれた。

 それは、敵対した相手の満面の笑みはひどく相手をイラつかせる効果があるということだ。

 ありがとうロックハート先生。さようならロックハート先生。帰りに一発蹴っておこう。

 

「そう落ち込むなよリドル。たかが負けたくらいじゃないか」

「……確かに、これが、未来のぼくを打倒する女の力だと思えば、まぁ気分は悪くない。しかしわからないんだよね」

「なにがさ」

「なぜ君は、そんなに虚勢を張っているのか。ということさ」

 

 どきりとした。

 精一杯の強がりを見抜かれた?

 いや、表情は余裕と笑顔のままで変えていないはずだ。

 とすれば、いったいなにをどうやって見抜いたというのか。

 それとも、ぼくと同じくはったりなのか?

 

「はったりじゃないよ、ハリエット」

「――ッ」

 

 心の中を読まれた!?

 ハリーはそう驚愕すると同時、昨年度のことを思い出す。

 クィレルの後頭部に寄生していたヴォルデモートの魂は、確かにハリーの考えを見抜いていた。

 あれは開心術だったはずだ。

 もしかすると、いや、確実にそうだ。

 トム・リドルと名乗っていた学生時代には、すでに会得していたというのか。

 

「正解正解、よくできましたー!」

「く……っ! こ、の野郎。分かってて遊んでいたのか」

「女の子がこの野郎なんて言っちゃだめだよ。ま、そういうことだね。ほぅら、『フィニート』!」

 

 ばつんというゴムが切れるような音がして、バジリスクに巻き付いていた縄がぶつ切りにされ、光の粒になって消え去った。

 拘束の解けたバジリスクはゆっくりと起き上がり、その魔眼をハリーに向ける。

 たじろぎかけるも、それでも女の意地で踏みとどまった。

 

「やるねぇ、勇気のある子だ。流石はグリフィンドール」

「うるさいな。はやくジニーを地上に連れ戻したいんだよぼくは」

「そうつれないことを言うなよ、……っと。天然ものの閉心術か。十六歳のぼくじゃまだ破れそうにないな」

 

 リドルの言からして、ハリーはどうも閉心術を使えるらしい。

 自覚はないが、天然ものというからにはそうなのだろう。心の殻を破る術である開心術への反対呪文なのだから、単に他者に対して心を閉ざしているだけなのかもしれない。

 しかしこの状況でそんなことを知っても、有り難くない。

 ハリーはリドルに杖を向け、

 

「『エクスペリ――」

「遅いなあ、遅い遅い」

 

 リドルが無言呪文で放った武装解除が、ハリーの杖を吹き飛ばす。

 会話しながら無言呪文を用いるというのは、いったいどれほどの集中力があればできるのか。

 まるで頭の中で別々のことを考えているかのようだ。

 回転しながら落ちる杖をなんとかキャッチしたハリーは、再度リドルに杖を向け直した。

 楽しそうにせせら笑うリドルに対して、先ほどのような余裕は浮かべられない。

 微笑みを焦りに変えて、ハリーは額から一筋の汗を流した。

 

「んんー、虚勢で微笑む君は素敵だったけれど。まぁそれだけだね」

「く……ッ」

「さーて、どうしよっかなぁ」

 

 だめだ。

 リドルと戦うために魔力を温存しておきたかったが、このままでは戦う前に終わる。

 意を決したハリーは杖を振り、無言呪文で身体強化の魔法を己にかける。

 適当に射出された魔力反応光を避け、ハリーは床を蹴って飛び出した。

 

【薙ぎ払えバジリスク】

 

 それを見たリドルは、落ち着いた様子でバジリスクに命令する。

 大蛇は命に従い、その長大な尾をハリー目掛けて振り抜いた。

 巨大な壁が迫ってくるかのような圧倒的な暴力に、ハリーは軽く地面を跳んで避ける。宙返りのように身を捩り、なんとかバジリスクの尾に着地するとそのまま駆け上り始めた。

 先に、リドルを斃す。

 それでバジリスクが止まるかはわからないが、止まらず襲ってきたとしても、リドルの妨害がなければ頑張って倒せない相手ではないように思える。油断はしない、確殺できるまでやらねばならない。

 ハリーがバジリスクの鱗に足を引っかけて疾走している最中、リドルはずっと微笑んでいた。

 いったい何を考えているのか。

 その言葉にしなかった問いかけは、リドルに通じた。

 ハンサムな彼がその顔を醜悪に歪めて、杖を振って呟く。

 

「残念。君の冒険はここで終わりだ」

 

 途端。

 ハリーは足を滑らせた。 

 焦りのあまり失敗した、というわけではないようだ。

 そこそこの高さまで上っていたので、ハリーは背中から床に叩きつけられたとき痛みに悲鳴をあげることもできなかった。

 そばにハリーが落ちてきたことに驚いたネズミが、鳴き声をあげて逃げてゆくのが見える。……するとぼくはいま、横倒しになっているのか? なぜ、いまは戦いの最中なのに。

 いったい何が起きたのかと自分の両脚を見てみれば、なるほどよくわかった。

 黒い。

 真っ黒な、どす黒い魔力反応光が自分の両脚から漂っている。

 《簒奪の呪文》だ。

 身体強化の効果が途端に途切れた。どうやら魔力を奪われたらしい。……足が動かない。もしかして体力まで盗られたのか? この魔法、本当に何でもアリだな。

 しかしいったいどうやって、とハリーは思う。

 この呪文がリドルの後の時代で開発されたものだという疑問は、すでに解決している。

 クィレルが教えたせいだろう。いや、正確にはクィレルに教えたヴォルデモートのせいか。

 では、どうやってハリーに仕掛けたか。

 リドルを目指して走っていたのだから、彼から魔力反応光が出ていないことは確認済みだ。

 武装解除されたハリーが目を離した一瞬の間にハリーにかけていたとしても、遅延して効果が表れるなんてことはないはずだ。ではいったいどうして、どうやって?

 

【う、うう……】

 

 なんだ?

 バジリスクの声が聞こえる。

 それも苦悶に満ちた、切なげな声が……。

 

「……まさか」

 

 ひとつの考えに思い当たる。

 確認するようにリドルへ目を向ければ、にっこりと笑みを返された。

 当たりか。それは、それはなんという外道か。

 

「本当に、バジリスクに仕込んだのか……」

「そうさ。君がさっきの……なんだい? 肉体活性化魔法かい? あれを使った状態の君なら、まず最短ルートでくると思ってね。だから蛇の道を差し出したのさ」

 

 ハリーが予想したのは、《寄生の呪文》。

 スネイプとの課外授業でハリーが疑問に思い、相談してみたことの中で出てきた呪文だ。

 身体強化呪文を習得できてしばらくしたあたりで、ハリーはスネイプに問いかけた。「クィレルの頭にヴォルデモートが寄生してたけど、あれって何かの呪文なんですか」と。

 それに対して嫌そうな顔をしながらも、スネイプは眼鏡をかけてじっくりと講釈してくれた。

 曰く、

 

『闇の帝王が用いたのは《寄生の呪文》であろう。……ああ、左様。読んで字の如く、そのままの魔法だ。グリフィンドールに一点。おや、おや、おや。お賢いことですな、ポッター? 我輩の話を聞くのかご自慢の知識をひけらかしたいのか、どちらか選びたまえ。……そう、それでよい。いけ好かない出しゃばりにグリフィンドール一点減点。さて、この《寄生の呪文》は本来ならば何かに魔法を埋め込むための魔法式を用いられている。つまり、お前に我輩が魔法を仕込み、ご学友のグレンジャーめがおまえに触れれば、たちまち魔法が作用するというわけだ。要するに魔力反応光を介した効果の発現ではなく、間接的な発現を可能にする魔法、それが《寄生の呪文》というわけだ。闇の帝王はそれを利用して己そのものをクィレルに埋め込んだのであろうな。ただし、埋め込まれた側には相応の苦痛が伴われる。……試してやろうかポッター』

 

 とのことだ。

 いちいち嫌味と増減点と呪いが飛んではきたものの、案外内容はわかりやすかった。

 つまり、バジリスクに仕込んだのだ。

 仕込む魔法に含まれる魔法式の容量によって、圧迫される度合は随分と変わる。

 スネイプに試されたところ、悪戯程度の軽い呪文の場合は多少違和感を覚えるのみだ。

 だが呪いや複雑な魔法式ともなれば、相応の苦痛を伴った。スネイプも一瞬しかやらせなかったほどであり、こうした応用を知っておくことで戦いには役立つこともあるそうだ。

 ヴォルデモートが使っていたのだから、リドルが使えてもおかしくはない。

 ならばなぜ、わざわざバジリスクに仕込んだ。

 なぜ自分に従っていた蛇に苦痛を植え付けた。

 

「どういうつもりだ、リドル」

「何がさ」

「なぜバジリスクにそんなことをしたと聞いているんだ」

 

 リドルはそんなことか、と呆れたように答える。

 

「君の相手が務まらなかったからさ。だったら少しでも役立ってもらうしかないじゃないか、ねえ?あれ、ひょっとしてハリエット、きみは蛇が好きだったの? それは悪いことしたねえ!」

 

 笑いながら教えられた答えに、ハリーはひどく苛立った。

 ハリーは、蛇が好きだ。

 初めてまともに話すことのできた友達として、とても好きだ。

 ハーマイオニー以下相部屋の少女たちは誰一人として理解を示してくれなかったものの、ちろちろ見せる舌や意外と甘えてくるところなどがハリーは気に入っていた。

 バジリスクも見た目は可愛いと思っていたし、魔眼さえなければいつかは会ってみたいとすら思っていたのだ。だが、今は敵。殺すべき時は殺すと考えてはいたのだが、こうなればもう仕方ない。

 何故だか、非常に腹が立つ。

 

「――ッ!」

「うわっと」

 

 無言呪文で放った武装解除がリドルに当たる。

 ぱちん、と弾かれる音がしてクィレルの杖が床に取り落とされ、水に濡れた。

 それっきりだ。

 腹が立って何かしてやりたかったが、どうやらイラつかせるに終わったようだ。

 思ったより魔力を奪われていたらしく、武装解除を使っただけで一気に息苦しくなる。

 魔力、枯渇か。

 唯一の武器である杖を取り落してしまう。

 カツカツと靴底が床を叩く音がする。

 顔を上げる体力までない。

 頭のすぐ真横まで来たかと思えば、ハリーは側頭部に痛烈な一撃を貰った。

 こいつ。乙女の顔を蹴りやがった。

 

「腹の立つ奴だね、君は。なに? バジリスクのために怒りましたってこと? へんなやつだなぁ、君は。ぼくらはとてもよく似ていると思っていたのに」

「……くそ。ふん、どこがだ。お前みたいな変態になったつもりはない」

「変態だなんて心外だなあ。ほら、似てるだろう? 二人とも混血で、黒髪で、マグルに育てられたにも拘らず、強大な魔法力を持っている。あ、そうだ。ぼくたち孤児じゃないか」

 

 おまえがやったんだろう、と突っ込みを入れるつもりはない。

 両親を殺した、もといこれから殺すことになる相手にそのように親しげに話す道理はない。

 冗談が返ってくることを期待していたのか、少し顔を曇らせたリドルは話を続けた。

 

「まぁ、性別は違うけれどここまで似ているんだ。何か感じたりしてもいいだろう?」

「……反吐が出るね」

 

 ハリーは口の中にたまった血をペッと吐き出してリドルの靴を汚した。

 見るからに憤怒の表情を見せたリドルの顔を、ハリーは笑う。

 もう一度顔を蹴られた。……歯が折れたようだ。ひどいことをする。

 

「調子に乗るなよ、ハリエット。……君は運よく闇の帝王の手を逃れられた、ただのガキに過ぎない。君の身体に宿る力のことも聞いているよ、古く強力な魔法だ。だが、あんなものは大したことない。くだらない魔法だ」

 

 俯せになったハリーを蹴り転がして、仰向けにさせるリドル。

 彼女の腹の上に馬乗りになると、まずは一発、と呟きながらハリーの頬を殴った。

 嬉しそうな朗らかな笑顔で、二発三発と殴り続ける。

 

「どう、ハリエット。気持ちいいかい」

「ぐ、ぶ。いい趣味とは、言えないね」

 

 こういうのをなんていうんだっけ、とハリーはおぼろげになり始めた頭で考える。

 サティスファクションだったか、なんだったか。ダドリーが何か言っていたような……。

 と、ここでハリーはバジリスクがこちらを見ていることに気付く。

 所在なさげな、どうしたものかと逡巡しているように見えてなんとも可愛らしい。なので、微笑みかけておいた。しかしそれはどうやらリドルの気に障ったようで、殴打の威力が上がった気がする。

 あ、鼻が折れた。

 

「その余裕を奪ってあげるよ、ハリエット。生き残った男の子? っていうか女の子? ハ、闇の帝王には勝てないってことを教えてやるよ」

 

 リドルはそういうと、拳についたハリーの血をなめとりながら、喉の奥からシューシューと音を出す。

 

【来い、バジリスク。ぼくの横で口を開けろ】

 

 リドルがそう命じると、バジリスクはするりと近づいてきた。

 そうしてハリーたちの隣で大口を開けて見せる。

 満足げに微笑んだリドルは、無造作に一本の牙を掴むと、躊躇なくそれを引き抜く。

 バジリスクが痛みに顔を顰めたように見えるが、蛇なので表情はわからない。

 まさかと思うと同時、リドルは嗜虐的な笑みを浮かべてハリーの耳元で囁いた。

 

「ああ、ハリー。今から君を太くて固いモノが貫くよ?」

「…………、……気持ち悪いな」

「そうかいそうかい。なら、未来のぼくがやり残した仕事を今終わらせよう。――死ね、ぼくの敵」

 

 ぐしゃり、と。

 ハリーは自分の胸の中に、焼けた鉄を突っ込まれたような錯覚を覚えた。

 

「――――ッあ――――――ぎ――――」

 

 熱い。

 なんだ、これ。

 痛いとは思えない。熱い。

 じゅうじゅうと魂が焼かれていく。

 ごうごうと心が削ぎ取られていく。

 ぱしゃぱしゃと体が崩されていく。

 がりがりと精神が剥がされていく。

 胸の中心に熱という熱をすべて凝縮して他の全ての体温を奪い尽くして並べて揃えて結んで束ねて開いて閉じて、引き裂いて掻き混ぜて折り畳んで踏み付けて、爆発しそうな火の塊が胸の奥に突っ込まれてじわりじわりと全身に広がって体の先の先まで奥の奥まで自身と尊厳と意義と意思と考えを蹂躙して犯し付けて嬲り続けて殺し晒して舐り回して、――――――――。

 

「ぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――ッ! ぃぎ、っぐ。ごぉあ、ああっ、が。げぇあ、ああああああ、っが、あが、がァァア」

「うっわぁ汚いなぁ。吐き散らすなよぉまったくもう」

 

 ハリーの胸に突き立てられたバジリスクの牙は、ハリーの身体にその猛毒を流し込む。

 それは死に至る致死の毒。蛇の王と呼ばれるバジリスクの持つ、最たる武器。

 魔眼によって隠れがちなその毒は、魂を傷つけるという異様な特徴を持つ。

 要するに、ゴーストですら殺害せしめることが可能となるのだ。死者を殺すという世界の理から逸脱した現象すら引き起こす。それがバジリスクの毒だ。

 いまハリーはその魂を焼かれるという、人知を超えた痛みを味わっている。

 恥も外聞もなく、リドルにすら許しを乞うという悲痛な叫びが秘密の部屋に響き渡っていた。

 

「ははっ、いい様だ! いやー、女の子が全身を汚して悶え苦しむ姿がこんなにいいとは! ダンブルドアへの見せしめだ。素っ裸にして死体を校長室に放り込んでやろう」

 

 リドルがとんでもないことを提案しているが、ハリーには周囲の音を聞き取る余裕がない。

 喉を潰さんほどに絶叫しているハリーが身悶えするさまをうっとり眺めながら、リドルはハリーのベルトを着々と外してゆく。しゅるりとベルトを抜き取って、シャツをめくりあげた。ダーズリー家での苛烈な食事情によって肋骨の形が丸わかりになるほど骨と皮だった少女は、二年のホグワーツ生活によって程よく肉が付き始めていた。さらに彼女は毎日運動をして体を鍛えているため、うっすらと線の入った腹をしている。

 リドルはそれを見て、口笛を鳴らした。

 

「おー。結構鍛えてるんだねハリエット。でも女の子にしてはちょーっと肉付きがよくないな。もうちょっと食べるべきなんじゃないの君。まあ、今から死ぬんだし無理な注文か」

 

 涙を流して身を捩るハリーを嘲笑いながら、リドルはハリーのへそに狙いを定める。

 醜く歪む顔を隠そうともせず、リドルはバジリスクの牙を振り上げ――

 

「――ッ、なんだ!?」

 

 ハリーの上から飛び退いた。

 瞬間、今までリドルの頭があった位置を、紅色の風が奔り抜けた。

 見れば、美しい鳥だった。紅色の羽毛を逆立て、長く美麗な尾を揺らしてリドルを睨みつけている。

 不死鳥(フェニックス)だ。そして、ダンブルドアの愛鳥である。

 

「……ダンブルドアが、戻ってきたのか」

 

 バジリスクの牙を放り投げてまで杖を取出し、リドルは警戒心を露わにする。

 フェニックスとはその体すべてに魔力を有する、大変珍しい魔法生物である。

 歌声は耳にする者の心によって左右され、悪人が聞けば不安を煽られ善人が聞けば勇気が湧く。

 リドルは居心地の悪さと不安を感じながら、じりじりとバジリスクのもとまで後退した。

 泣きじゃくっていたハリーの傍らに降りた不死鳥は、ハリーの惨状を見て涙した。

 その煌めく宝石のような涙は、ハリーの胸に落ちるとたちまち白銀の煙を噴いて消える。

 ハリーの喘ぎが収まり、呼吸が静かに、正常に戻る。彼女のうっすら膨らんだ胸が上下する光景を見たリドルが息を呑んだ。

 

「これが、これが不死鳥の治癒の涙か。まさか、バジリスクの毒まで癒えたとでもいうのか……? これは。なんと、これは……」

 

 リドルとて、驚きのまま見守るつもりはない。

 先ほどのしかかったときに拾ったのか、ハリーの杖を振ってリドルは魔力波を発した。

 不死鳥が身を挺してある程度守ったものの、リドルが本気を出して放った魔力波は暴風のようにハリーの身体を吹き飛ばし、壁際にまで転がってゆく。

 憤怒で胸を膨らませたようにすら見える不死鳥を前に、リドルはせせら笑った。

 

「鳥よ。おまえがぼくを斃すとでもいうのかい? 無駄なことを。霊体のままだった記憶の状態ならばともかく、受肉し体を得たぼくに死角はない。さらに言えば――」

 

 自信満々なリドルが大げさな身振りで語り始めた時、リドルの身体が燃え上がった。

 悲鳴を上げる間もなく焦げてゆく己の身体に驚き、振り向いたリドルが見たのは青いローブの老人。

 アルバス・ダンブルドアだった。

 

「すまないリドル。遅くなった」

 

 憂いの目で燃え尽きてゆくリドルを眺めるダンブルドアが、一筋の涙を流す。

 膝をついて苦悶の声を漏らすリドルが、それを嗤った。

 

「やっと、お出まし、か。ダンブルドア」

「喋るでない。そのまま朽ちてゆくがよい」

「そうは。いかない。『フィニート・インカンターテム』」

 

 ぼ、と一瞬の光と共に、リドルの身体を焼いていた炎が消える。

 驚かされたのはダンブルドアだ。片方の眉をあげて、訝しげな表情を見せる。

 その反応に満足したのか、黒焦げになったままリドルは立ち上がった。

 ぱらぱらと、まるで脱皮するかのように黒い焦げが彼の身体から舞い落ちる。

 中から出てきたリドルは、服こそすべて焼かれてしまったものの白く美しい肌を保っていた。

 裸身を晒したまま、リドルは老人を嗤う。

 

「お久しぶりです、ダンブルドア先生。おや、老けました?」

「リドル、おぬし……」

「クィレルの持つ吸血鬼の再生力。そして日記に封じ込めた記憶という曖昧な存在。そして魂を吸い取ることによっての受肉。いやはや、クィレルは本当に役立ってくれました。本人は自分のためと勘違いしていたようですが、ぼくのために生徒たちの生命力を吸い取ってきてくれたのですから。家畜を育てるマグルの気持ちがよくわかりましたよ」

 

 はやくおおきくなぁれ。とおどけると、リドルは馬鹿笑いした。

 それを黙って見つめるダンブルドアから反応がないのがつまらないのか、リドルは笑みを引っ込める。そして憎悪と怒りの表情で老人を見つめた。

 

「今さら出てきて邪魔をするなよ臆病者。お人形がそんなに大事か?」

「ハリーは人形などではない。わしの生徒じゃ」

「ぷっは! 先生、あなたすごい滑稽なこと言ってるのわかってます?」

 

 聞き分けのない生徒を諭すように、静かにダンブルドアは言う。

 

「リドルや。大人しく消えるとよい。記憶の残滓にすぎぬ君がいてはいけないのじゃ」

「断る。今日からはぼくたち二人でダブル帝王になるのさ。暗黒時代の再来だよ、楽しいだろう?」

 

 リドルの問いかけには応えず、いつの間にぬいたのかダンブルドアが杖から爆発を生み出す。

 それはあまりに強すぎる魔力反応光だった。直撃したリドルはその体を塵と変えられるものの、瞬きした次の瞬間には元通り裸身のまま仁王立ちしていた。

 

「うふふ、無駄無駄」

「トムよ……」

「あは、今のあなたにぼくを殺す術はないですよ。さて、ここで死んでもらおう、ダンブルド――」

 

 嬉しそうな声をあげて、ハリーの杖を振り上げるリドル。

 しかしその言葉は途中で途切れた。

 リドル自身も不思議そうな顔をしており、何が起きたのかと不思議がっている。

 ダンブルドアが見たのは、リドルの胸に輝くなにか。

 見れば、リドルの逞しい胸はひび割れ、中から光の粒が漏れていた。

 

「――まさか」

 

 リドルが何か思い当った節があるのか、青褪めた顔を周囲に向けて慌てはじめる。

 眉をひそめたダンブルドアと、蒼白なリドルが同時に壁際を、倒れ伏していたはずのハリーを見た。

 彼女はいつの間にやら起き上がり、ぺたんと床に座って何かを持っている。

 白く長い牙と、黒い表紙の日記。

 ハリーは虚ろな表情のまま、日記に牙を突き立てていた。

 非力なためか、全体重をかけるようにして半ば牙にのしかかっているようにも見える。

 

「きさ、ま。どう、して」

 

 リドルの言葉が途切れ途切れに響くと、それに呼応するように胸の光も強まる。

 ハリーは日記から牙を引き抜くと、一瞬だけリドルへと目を向けた。

 クィレル戦で見せたように、紅色に鈍く輝く、昏い瞳を。

 それを見たリドルは、怯えと驚愕の表情を顔に張り付けた。

 そして呟く。

 

「なるほど。そういう、ことか。ハリエット・ポッター。おまえ、は、」

 

 ハリーが振り降ろした牙が、日記へ二つ目の穴を穿つ。

 するとリドルの胸の光が一瞬強く瞬いて広がると同時、ごぼりと血液が溢れ出た。

 胸から血を流すリドルは、裸身のままハリーへと駆け出した。

 そうしてハリーを殺さんと杖を振り上げるも、それはダンブルドアが放った武装解除によって弾かれて地に落ちる。それに見向きもせずリドルは疾駆した。

 

「ハァァァリエェェェットォォォオオオオオ・ポッッッタァァァアアアアア――――ッ!」

 

 魂ごと吸収したクィレルの能力を扱えるのか、リドルは爪を刃のように鋭く変化させるとハリーに飛び掛かる。

 しかしハリーがさらに日記へ牙を突き立てたことにより、リドルの四肢が爆裂したかのように千切れ飛ぶ。無様に顔から床に落ちたリドルは、自身が駆けた勢いのまま滑り、ハリーの足元まで転がった。

 水と血に濡れたリドルは、ハリーを見上げながら唸る。

 

「この……ッ、ダンブルドアの人形如きが……! この、ぼくを……!」

 

 何も感情を見せないハリーを見て、リドルが憤怒の表情のままひきつけを起こしたように笑う。

 何かに納得し、絶望したかのような悲痛な声が、秘密の部屋に響き渡った。

 

「そう、か。そうかあ。そういうことか。ヴォルデモートは生きている。ヴォルデモートは健在だ。闇の帝王はより強大により偉大になって凱旋を果たすだろう。気を付けよ、闇の帝王に楯突く愚か者どもよ。我々は常に見ている。常にお前を見ているぞ、ダンブルドア。うふは、うははははは、あははははははははははははははははは」

 

 悲しげなダンブルドアが目を伏せる。

 自分のすぐそばで、リドルが壊れたラジオのように笑い続けるのをハリーは見つめ続けた。

 発作のように笑い続けたリドルの動きが、ぴたりと止まる。

 ハリーがまた日記に牙を突き立てたことで、リドルの眼窩や鼻から血と光があふれ出した。

 リドルが叫ぶ。

 

【バジリィィィスク! この部屋の人間を皆殺しにしろォ! やれェ! 今すぐにだァァァ!】

 

 びくり、と反応するのは蛇の王。

 何故か石化しないダンブルドアがゆっくりとバジリスクを見るも、蛇の王は困惑した様子だ。

 残り時間のないリドルが激昂したまま、再度命令を下す。

 殺せ。皆殺しにしろと。

 ぼろぼろと体が崩れ始め、もはや肩から先がない上半身だけの状態となったリドルを見て、バジリスクは静かに、しかし確かに言い放つ。

 

【お断りします】

 

 それに時を止めたのはリドルだ。

 自らの身体が光の粒に姿を変えて消滅してゆくのを知りながら、それでいて動けない。

 きょとんとした顔のまま、リドルはバジリスクを見上げた。

 

【な……ぜ……】

【彼女は、彼女は継承者です。ゆえに、殺せません】

【ばかなことをいうな……、ぼ、ぼくを、うらぎるのか。みすてる、の、か」

 

 明確な拒絶の言葉を前に、リドルは蛇語を話すことも忘れて言葉を零す。

 ハリーを見る。こちらを見ていない。

 バジリスクを見る。視線すらよこさない。

 ダンブルドアを見る。哀しげに見つめてくる。

 水に映った、自分を見る。醜い。情けない。これが、これが闇の帝王?

 リドルは呆けた顔をして、身悶えし、泣き始めた。子供のように嗚咽を漏らす。

 

「嫌だ。嫌だあ……消え、たくない。消えたくないよう。助けて。ああ。嫌だ。怖い。逝きたく、ない。寒い、暗い。寒い。恐ろしい。……たす、けて。助けて。たすけてよ、せ――」

 

 ぐしゃぐしゃに泣きながら、リドルは消滅した。

 後に残ったのはリドルの残した大量の血液と、日記の残骸。

 

「トムや。寂しかっただろうにの……」

 

 ダンブルドアが数年老け込んだような顔をして、俯いた顔をあげる。

 日記と牙を手にしたまま倒れ込んだハリーのもとへ行き、傍らに控えていた不死鳥を拾い上げる。

 不死鳥を自らの肩に乗せたダンブルドアは、一言二言、愛鳥からの報告を耳元で聞いた。

 ダンブルドアは「ご苦労じゃったフォークス」と不死鳥を労うと、続いてハリーの頬に触れる。

 まるで死体のような冷たさだ。

 フォークスの涙によって体は回復しているはずであるが、体力も魔力も底をついている。

 医務室で休ませなければならない。

 

「フォークスや。先に行って、皆に知らせておくれ。危機は去ったと。そしてポピーに、ベッドの用意をしてくれるようにもの」

 

 頷いた不死鳥が、ダンブルドアの肩から飛び去る。

 その後ろ姿を見送った老人は、ハリーの頬を撫でながら振り向いた。

 

「あー、おほん」

 

 咳払いを一つすると、ダンブルドアの喉からシューシューと声が漏れる。

 

【バジリスクや、ちと来とくれ】

【……なんでしょう、ホグワーツ校長】

 

 ダンブルドアの呼びかけに、バジリスクは応える。

 やはりバジリスクの目を直視しても、ダンブルドアには何ら影響がないようだ。

 シューシューと息を漏らすように、そのまま会話が続けられる。

 

【おぬしは。これから、どうするつもりじゃ】

【彼が消えた今、残る継承者は彼女です。わたしは彼女に従いましょう】

 

 バジリスクが目を向けるのは、意識のないハリー。

 ダンブルドアがその矮躯を抱え上げると、驚くほど軽かった。

 

【では、わしにいい考えがある。……とっても面白い事じゃ】

【……聞くだけ、聞いてみましょう】

【なあに。あっちをちょこちょこ、こっちをこちょこちょ。じゃよ】

 

 彼女はどう思うだろうか。今回、リドルがあそこまで復活に近づくとは予想できなかった。

 賢者の石をめぐる騒動の後、ダンブルドアは《みぞの鏡》を回収するため、昨年度の夏休み中に最終決戦の場へ戻ったが、そこに灰や残骸はあれどクィレルは確かにいなかった。

 ハリーに敗北したあの様子で、自力でそこから這い出したなどとはとても考えられない。

 確実に、何者かが手引きしていた。

 それはトム・リドルではない。

 リドルは日記から出た存在ゆえ、ゴーストと同じく現実へ物理的に干渉することはできない。

 彼が実体を得たのは、この一時間ほどの話。

 さて、どうしたものかと考える。

 そしてダンブルドアは、腕の中で眠る少女を見た。

 彼女には、これ以上の困難がより苛烈になって降りかかってくるだろう。

 今回はリドルが復活してしまったことによって思わず手を貸してしまったが、ここが彼女の限界だったか。そして今回の行動を見て、ダンブルドアは悩む。

 どうするべきか。老人は、悩む。

 

 

 ハリーは目が覚めると同時、リドルはどこだと叫ぼうとして全身を襲ってきた痛みに顔を顰め、身動きせずに身悶えるという器用なことをやってのけた。

 いったい何が起きたのだろう。

 なんだか前が見えない。目が包帯で覆われているのだろうか?

 このふわふわの感覚。消毒液の匂い。そしてなんか横に感じるジジイの気配。

 ああ、とハリーは納得した。

 医務室だ。

 

「……ダンブルドア先生?」

「なんじゃね、ハリー」

「とりあえず女の子の寝顔を覗くのは紳士としてどうかと思う」

「おや、すまなんだの。しかし寝顔を見るというのは、ちと難しいと思うぞい」

 

 何の話だ、と

 ハリーは目元の包帯をずらすと、目の前には手鏡があった。

 ダンブルドアが手に持って差し出してきているらしい。

 見れば、そこにはミイラ女がいた。なんだか寄せ書きのように皆が好き勝手落書きしている。

 確かにこれでは寝顔を見ることはできない。

 ていうか誰だこんなことしたの。と、やり場のない怒りをダンブルドアにでも向けようかと思っていたところ、鏡文字でフレッドとジョージの署名を見つけた。よし殺そう。

 

「ハリーや、殺意を漲らせて魅力的な笑顔を浮かべるのもよいが、お話をしてもよいかね?」

「あ、はい」

 

 ダンブルドアに包帯を解いて貰いながらも、ハリーは返事を返す。

 どうやら真面目な話のようだ。

 

「さて。今回も学校は君たちに救われた。礼を言わねばならん。ありがとう、ハリー」

「……いえ」

 

 救った覚えなどない。

 それにハリーの記憶が正しければ、自分はリドルに敗北したはずだ。

 微かに覚えているのは、紅い鳥が泣く姿、そしてリドルがダンブルドアと会話する声。

 リドルにはもっと言いたいことがあったが、恐らくもうこの世にいないだろう。

 なんとなくではあるが、そう感じる。

 

「そして謝らなければならない。ジニー・ウィーズリー含め、生徒である君たちを危険な目に逢わせてしまったのは、すべてわしの責任じゃ。申し訳ない」

「……悪いのはリドルですよ」

「そう言ってくれると、助かるのじゃがの」

 

 ハリーには大人の事情というやつはわからない。

 戦うことに関してはもはや並大抵の大人を凌駕しているとは自分でも思うものの、そういうことはまだまださっぱり分からないのだ。

 それを察したのか、ダンブルドアは小難しい話はそこでやめにしようと言う。

 ダンブルドアがハリーの枕元に山と置いてあったお菓子を食べて身悶える姿を見て、去年も同じ光景を見た気がするとハリーはぼんやり思った。

 

「……いくつか、聞いても?」

「おお、よいぞハリー。何でも聞いておくれ」

 

 口中のビーンズを呑み込んだダンブルドアに、ハリーは声をかける。

 寝転がったまま会話するのはあまりいい気分ではないけれど、動けない以上は仕方ない。

 

「ロンと、……あとロックハートはどうしましたか」

「君の大事な親友なら、特に大した怪我もなく医務室でちょいと手当をしただけじゃ。ロックハート先生については、聖マンゴ病院に直行じゃ。どっかの誰かさんが頭を捏ね繰り回したからのう」

「…………誰でしょうね」

「ほっほ。誰じゃろうな」

 

 ロンが無事だったのはいいことだ。

 ロックハートについては、何か思うところはあるものの概ね(どうでも)いい。

 次いで、ダンブルドアは石化させられた生徒も病にかかった生徒も無事に退院することができたと教えてくれた。それにはハリーも安堵するばかりだ。バジリスクの石化については、マンドレイク薬でなんとかできるという知識はあったものの、ヌンドゥの病についてどうやって治すかは全く知らなかったのだから。

 ほっとした様子のハリーを見て、ダンブルドアは話しを続ける。

 

「続きを話してもよいかの」

「ええ、お願いします」

「うむ。秘密の部屋については、閉鎖することにした。三階女子トイレの扉も、蛇語だけではなく、いろいろとわしが直々にちょちょいのちょいしたからの。よっぽどのことがなければ、もう誰にもあそこは開けることが出来ん」

「それは……」

 

 よかったですね、とは素直に言えない。

 なにせ最初に開けたのはリドルが操ったジニーだとしても、次に開けたのはハリーなのだ。

 両方ともグリフィンドール生。他寮の生徒たちが知ったら顰蹙では済まないだろう。

 ハリーはマクゴナガルに見つからないよう、女子トイレでこそこそするダンブルドアを想像しながらも、ふと思い出したことがあって不安になった。

 

「どうしたね、ハリー」

「あー、えっと。その……」

 

 ダンブルドアは待った。

 ハリーが言うまで、ずっと微笑んで待っているつもりかもしれない。

 意を決したハリーは、口を開く。

 

「バジリスクは、彼女はどうなりますか」

「おう。おう。聞いてくれて嬉しいぞ、ハリー」

 

 微笑んでいたダンブルドアの笑顔が、より無邪気なものになる。

 なにやらローブの袖をがさごそとしているダンブルドアを見て、ハリーはまさかと思う。

 いや、そんなまさかね、ありえない。

 しかしハリーの半分開いた口元は、妙な形に引き攣ることになった。

 

「これじゃ」

【お久しぶりです、継承者様】

 

 ダンブルドアによって無造作に掴んで引っ張り出されたのは、小さな蛇が入った小瓶。

 はしたなくもハリーは、あんぐりと口を開けて固まった。

 驚きの表情を見れたダンブルドアは愉快そうにくすくすと笑うのみだ。

 

「え、なに。これ。どうなって……いや、え? 魔眼とか牙とかいろいろ……あっれぇ? ええ? というか、え? なに? 久しぶり?」

 

 未だ驚くハリーに、ダンブルドアは悪戯が成功した子供のように微笑む。

 ハリーの疑問に答えるのはバジリスクだった。

 

【継承者様、あれから二週間が経過しております】

【二週間!?】

 

 と、いうと。

 もう期末テストは終わっているはずだ。

 マジかよ。おいおい、マジかよ。二年生にして留年とか、勘弁してくれ。

 ハリーはハグリッドと同じ格好をした未来の自分が、森番としてホグワーツで丸太を運ぶ想像をした。……それは流石に勘弁してほしい。どうしたものか。

 ……一応魔法界を救った英雄扱いされてるんだし、何とかならないかな。

 ハリーが普段は嫌がっている評判を利用してまで解決策を模索し始めたころ、ダンブルドアが言う。

 

「ハリーや、慌てるでない。今年は君たちの功績によって、お祝いとして期末試験は免除じゃ」

「うあああああ! よかったァァァああああああああああああ――ッ! 本当によかったぁ!」

 

 ハリーが歓声を上げると、ヌンドゥのような顔をしたマダム・ポンフリーが怒鳴りつけに来た。

 医務室では静かにしないと生皮剥いでホルマリン漬けにしますよと脅され、ダンブルドアともども震えあがった。ひそひそと話すことにした二人と一匹は、話を再開する。

 っていうかダンブルドア先生、蛇語わかるのね。

 

「実はの、この医務室が寂しいのも、君が彼女を救ったおかげじゃ」

「……ぼくの?」

 

 そう前置きすると、ダンブルドアは語る。

 継承者であるリドルが消滅した今、いま現存する継承者はハリーだけ。

 つまりハリーについていきたいと彼女が主張したそうだ。

 

「ちょっとストップ」

「なんじゃらほい」

「そこですよ、何故ぼくが継承者なんですか? そもそもこの蛇語だって……」

「まあまあ。そこは後で説明するよハリー」

 

 しかしバジリスクがハリーについてくるとなると問題になるのは、やはり魔眼。

 秘密の部屋に居てもらうという案もあったものの、やはりリドルに散々やられてしまったハリーのことが心配で、しばらくの間でもいいから傍に居たいということだったのだ。

 そこでダンブルドアは、小瓶に魔眼殺しの魔法をかけた。そして生物の体を縮める魔法をかけて小瓶に入れ、更には特定の人物が許可しない限り蓋が開かないようになる魔法もかけて、すぴすぴ寝息を立てるハリーの枕元に置いておく。

 こうすることでバジリスクの望みは叶った。

 ハリーは今聞いた話で使われた魔法には、普通の魔法使いならば儀式を行わなければ出来ないような複雑で難解な魔法式と膨大な魔力が使われているのだが、知らぬが仏である。

 

「なるほどなぁ……」

【ご迷惑でしたか?】

【正直に言うと、かなり。でも、傍に居たいって言ってくれるのはとても嬉しい】

【継承者様……】

【ハリーでいいよ】

 

 ハリーは蛇が好きだ。

 あの動物園以降、蛇に会う機会はあまりなかったためにこれは嬉しいことだった。

 しかし本当に小瓶に入れたままでいいのだろうか?

 

「実はよくないんじゃ。パイプの中をのびのび動いてたことから、彼女の健康にもよくない」

「そう言われればそうですね……」

 

 ダンブルドアがきっぱりと言った言葉に、肩を落とす。

 がっかりした様子のハリーに、ダンブルドアが優しく声をかけた。

 

「バジリスクの影響で石化してしまった子もいる以上、やはり連れ歩くのは難しいということになるのう」

「……なるほど。連れ歩かなければいいんですよね?」

「わしゃなーんにも言っとらんよーぅ」

 

 おどけるダンブルドアに、にやりと笑うハリー。

 わからないのはバジリスクだけだ。

 

【あの、継承者さ……ハリー様?】

【ん? ああ、……んふふ。たぶんね、君は秘密の部屋で暮らすことになると思うよ】

【ですが、あそこはご老人が封じたのでは?】

【うん。『ダンブルドア先生が封じた』ってことになってるから好都合なのさ】

 

 ハリーは説明した。

 騒動中、バジリスクは壁の中にあるパイプを移動していた。

 ハリーは彼女のその声を聴いて、何かが学校の中を徘徊していると気付いたのだ。

 つまり、なんと言えばいいのだろう。

 この学校ひょっとして壁薄いんじゃないかな?

 

「ハリーや。あまり言わないでおくれ」

「でも先生、蛇の声が聞こえるって相当だと思うんですが」

「そんなこたぁないぞう。んなこたぁない」

 

 一頻り心が軽くなるようなやり取りとしたのち、ハリーはふと思い出す。

 何を聞かれるかわかっているかのように微笑んだままのダンブルドアに、少しのやりづらさを感じながら問うた。

 

「先生、そういえば……クィレルはなぜぼくに触れられなかったのですか?」

「そのことじゃがな。母の愛じゃ」

「母の愛?」

 

 ダンブルドアは微笑んだまま、ハリーに語る。

 

「ヴォルデモートはリリー・ポッターを害する際に、ひとつの大きなミスをした。それは母親の愛を軽く見ていたということじゃ。愛には、強力な魔法がかかっておる。子を守る母の愛というのは、それはもう格別なものじゃ」

「……でも、それだと今までに助かった子供がぼくだけってのは納得できません」

「……そうじゃな。子を想う気持ちが特別なのは、なにもリリーだけではない。残念ながら、子を庇った状態でヴォルデモートに害された母子が、他にいたのも事実じゃ」

 

 では、なぜだろうか。

 何故、他の母子では助からず、ハリー・ポッターだけが助かったのか。

 ハリーは別段、親は子を愛するのが当然という考えを持っているわけではない。

 これはロックハートという大人を見たことでも、それは正しいものだと考えるようになっていた。

 『大人は子供の延長線』。それがロックハートの持論だった。

 言われてみれば、確かにそうだ。

 もしも。有り得ない事ではあると思うが、もしも将来、ハリーに愛する男性ができて、その愛する人と子を成し、母となったら。

 その子を、愛することはできるだろうか。

 己の命と子の命を秤にかけて、迷わず子を取ることができるようになるだろうか。

 あまり想像したくない事ではあるが、もし何らかの都合があって愛していない人と結婚することになっても。もしハリーがヴォルデモート陣営と戦う中で敗北し、暴行されてしまったとしても。

 どちらにしろ子はできる。やればできるというか、人間とはそういう生き物だ。そうなってしまったらハリーは、自身の心を守るために自分を害すると思う。胎にできた子に罪はないと知りながら、きっとハリーは耐えられないだろう。自分が最も嫌う大人であるダーズリーのように、子につらく当たってしまうと思うのだ。

 そういう意味でもハリーは、確実に子を愛することができるか分からない。

 だから、ヴォルデモートに狙われた母子の中で助からなかった者達がいるというのも納得できる話だ。だがそうであっても、子を愛する母がいるのは確かだ。現に、リリーがそうであったというのだから。

 ならば何故。生き残ったのはハリー・ポッターだけだったのか。

 

「はっきり言っておこう。これは残酷な話じゃ」

「覚悟の上です」

 

 即答である。

 ハリーはダンブルドアを見上げ、ダンブルドアはハリーを見つめた。

 

「それは、魔法の、才能の差じゃ」

「才能……」

「残酷なことじゃが、リリーには子を守る特別な術を知っていて、そして土壇場でそれを扱える才能があった。ほかの母親にはそれがなかった。……そういう、ひどい話なんじゃよ」

 

 この話を聞いて感じるのは、ひとつの失望という感情だった。

 愛と言えば恰好はいいが、所詮はそういう話だった。

 ハリーは何か、夢を見ていたのかもしれないと思ってしまう。

 やはり自分の親だと思う人間は、特別であってほしかったのかもしれない。

 乾いた笑みを漏らすまいと懸命に我慢し、哀しげなダンブルドアに頭を下げた。

 ダンブルドアは言う。

 

「では、わしは彼女を秘密の部屋に戻してくる。ハリーや、ゆっくりとおやすみなさい。学年末パーティは終わってしもうたが、グリフィンドールの優勝じゃ。明日のホグワーツ特急で帰る際は体に気をつけるのじゃぞ」

「……学年末とは何だったのか」

「こればかりは、わしとてなんにもできなんだ」

 

 二人はそう言いあうと、くすりと微笑んで別れた。

 もっと聞きたいことはあった。だけど、なぜか答えてくれない気がした。

 なら無駄なことはしないほうがいいと思っていたのだけれど、なぜだろう。自分なら何がなんでも聞き出そうとする性格をしていたはずなのに。ひょっとしてダンブルドアは……いや、邪推か。

 窓をよく見てみれば、まだ空は深い藍色に覆われている。ならばいいだろう、とハリーはそのまま眠りにつくことにした。

 やはり疲れていたのだろう、瞼を閉じると吸い込まれるように意識が落ちていった。

 夢の中でハリーは、リドルの最期を見た。悪夢と言ってもいいかもしれない。

 寂しげに、しかし意地を張って、最後の最期まで本心を隠し続けた一人の少年。

 戦っているときには終始怒りと憎しみしか感じられなかった彼の有様に、ハリーはどうしても憐みを覚えてしまう心を止めることができなかった。

 

 

 ホグワーツ特急。

 とあるコンパートメントの一つで、ハリーはぼーっとしていた。

 ロンとハーマイオニーが楽しげに雑談する中、ただひたすらに窓の外を眺めつづける。

 理由はその格好にあった。

 シックなカチューシャ。白と黒のエプロンドレス。そして白いタイツに黒い靴。

 すべてダーズリー家からのクリスマス・プレゼントであった。

 毎度服を贈るつもりかとか、そういうのは割とどうでもいい。どうしてメイドなんだ。

 ぼーっとした表情が悲壮感に染まり、だんだん遠い目になってゆく。

 それに気づいたハーマイオニーが、ハリーの心が死ぬ前にフォローを始めた。

 

「に、似合ってるわよハリー? 可愛らしいと思うわ」

「ありがとうハーマイオニー。君の方が可愛いよ?」

「え、あ、ありがとう?」

「そ、そうだよハリー。でもその姿で足組んでるってのはちょっと」

「ありがとうロン。君はここで死ぬかい?」

「なんで!?」

 

 ロンが酷い目に逢ってようやく、ハリーは少し微笑んだ。

 その笑顔を見て安堵した二人であったが、ハーマイオニーは少し不安を覚える。

 今年の後半一ヵ月ほどは、あまりハリーと会っていなかったが、何といえばいいのだろう。

 成長していると言っていいのだろうか。

 確かに体の方は成長しているだろう。胸も今年度初めはそうではなかったが、いまとなってはもう下着が必要になっている。体つきだって、ホグワーツの栄養ある食事で多少女性らしいラインを描くようにはなっている。髪も少しずつ伸ばしているため、いまハリーが見せた笑顔は同性であるハーマイオニーも見惚れそうになるようなものではあった。

 だが問題は、心の方だ。

 ハリーは今まで育ってきた環境によって、心があまり成熟していないとハーマイオニーは思う。

 去年と今年、二度も命がけで戦ってきたから心の殻は強くなっている。それこそ、生き延びていたクィレルを殺してしまうほどには冷徹な鎧を身に着けることができるようになっている。

 問題はその中身だ。

 クィレルの首を貫いた話をハリー自身から聞いた時は大いに心配したものだが、ハリーは何とも思っていないというのだ。もう二度とストロベリージャムやチキンは食べれないねとそのとき言っていたのは知っているが、きっと彼女は平気な顔をして食べるだろう。

 体の成長に心がついていけていないのも問題だ。ハリーはロンの前でも平気で薄着になるし、体が密着するというのに肩を組んで笑ったりもする。さすがに裸身を見られれば怒ることはするようだが、そうでないときがあまりにも無防備すぎる。

 パーバティとラベンダーを交えて相談してみたものの、やはりどうも男連中の中で育ってきたという原因が大きいのかもしれない。ダーズリー家では従兄のダドリーを中心とした生活がなされているというのもまた原因の一つだろう。

 そう結論を出したハーマイオニーたちは、ハリーに今年の夏休み中、グレンジャー家へ泊りに来るよう言ってある。マグルであるグレンジャー家ならば、魔法嫌いのダーズリー家でも許可をくれるだろう。ハリーの言う『まともじゃない』一家とは正反対の、歯医者を営むごくごく常識的な家なのだから。

 

「ハリー、都合がついたらフクロウ便を飛ばしてちょうだい。フクロウを飛ばすことがダーズリーの人たちの心象に悪いっていうなら、電話でもいいわよ」

「なんだそりゃ? マグルの考え方はよくわからないな。フクロウを飛ばすなんて常識だろう」

「前から思っていたけど、魔法族とマグルって文化が違いすぎると思うわ」

「マグルにとっては空を見上げたら電線があるのと同じような考え方なんじゃないかな。ほら、電線をみてイカレてるなんて人はマグルにはいないだろう?」

 

 現にハリーも夏休み中の楽しみができたと大喜びしていたし、そのお泊りのときにみっちりいろいろと教えてやればいいのだ。それに、今年は敵も多くて大変だったろう。のんびりと過ごすのもいいかもしれない。

 ロンもロンで『隠れ穴』へ招待してくれている。年中暇なところだから、例えばガリオンくじで一等賞を当ててエジプトに旅行とかそんな有り得ないことが起きない限りは、何時でもウェルカムだそうだ。そんな幸運があるくらいなら、ダンブルドアが同性愛者であるということの方がよっぽど信憑性があるね、というロンのジョークはやっぱり面白くなかった。

 ウィーズリー家といえば、ジニーだ。

 彼女の奪われた目は、再生するとのことだ。泣き腫らして喜ぶウィーズリー夫妻にはあまり詳しくは説明できなかったものの、バジリスクの毒から作られる材料があるからこその奇跡だそうだ。

 だがそれは、少しばかり調合に時間がかかる魔法薬らしい。少なくとも来学期にホグワーツに来た時にはスネイプがそれを完成させているとのことだ。バジリスクのことをスネイプが知っているということは、ハリーがまた問題を生み出す爆弾を抱えていることを彼が知っていることになる。

 目が合った時、にやりと笑われた気がした。……来年が怖いなあ。

 

「さて、また来学期……じゃなかった。数週間したら絶対会いに行くよ」

「うん。待ってるわ、ハリー」

「僕も楽しみにしてるよハリー」

 

 ホグワーツ特急が、九と四分の三番線に到着して三人は汽車から降りた。

 相変わらず生徒とその家族でひしめき合っている。

 だからなのか、ハリーはパチンという音を聞き逃してしまった。

 くい、とスカートを引っ張られてハリーは短い悲鳴を上げる。

 慣れないモノを我慢して穿いているというのに、それを引っ張る不届き者がいるとは!

 

「ハリー・ポッター!」

 

 くいくいとスカートを引っ張る狼藉を働く者の正体は、なんとドビーであった。

 杖を向けると手を放してくれたものの、正直すごい嫌な気分だ。

 それもそうだ。何度も殺されかけたのだからいい気分になるはずがない。

 なんだか心臓が変な動き方をしてきた気がする。緊張しすぎた時みたいな、アレだ。

 ハリーから話を聞いていたロンとハーマイオニーが、ハリーを庇って前に出る。

 まるで不審者が少女に話しかけたとでも言うような扱いにも気にせず、ドビーは笑顔で言う。

 

「ハリー・ポッター! ドビーめは、ドビーめは自由になりました!」

「はあ? え、いや。どういうこと?」

「それは自由を得たということです!」

「お前もフィレンツェの同類か」

「ハリエット・ポッター。私から説明しよう」

 

 ドビーのキーキー声を聞いても要領を得ない。

 ハリーが困っていたところ、後ろから落ち着いた低い声がかけられた。

 驚いて振り向けば、そこにはルシウス・マルフォイ氏が双子の息子を連れて立っていた。

 ロンが敵意をむき出しにして食って掛かろうとするのをハーマイオニーが止め、その姿をスコーピウスがくすくす笑う。父親に睨まれて笑みを引っ込めるも、父の目が逸れればにやにやした目がロンを挑発していた。よくやるものである。

 いつも通りのスコーピウスはともかく、ドラコはどうしたのだろうと見てみれば、驚くほど無表情だった。彼らは、いったい何をしに来たんだ?

 

「まずは謝罪しよう。申し訳ない、ミス・ポッター」

「!?」

 

 な、なんだ!?

 マルフォイ一家が、頭を下げている!

 ドラコまで頭を下げているあたり、いったい何が起きているのかさっぱりわからない。

 スコーピウスは兄に睨まれて下げているが、いや本当になんなのこれ? どういう状況?

 

「ど、どういう……」

「この一年、君に散々な被害をもたらした屋敷しもべ妖精。名をドビーというのだが、恥ずかしながらマルフォイ家の屋敷に憑いたしもべの一匹でね……」

「…………」

 

 ハリーは完治したはずの背中が痛んだ気がした。

 射殺すような目でドビーを睨みつけると、短い悲鳴を上げてハリーのスカートから手を放す。

 まだ掴んでいたのか……。

 

「ついては、召使いである奴の行動は、主人たる我々の責になる。その謝罪に来たというわけですな」

「そ、そうですか。えっと、なんて言えばいいのか……」

 

 本当になんて言えばいいのかわからない。

 自分の父親よりも年配の男性に頭を下げられて、なお平気でいられる心をハリーは持っていない。

 ジニーの持ち物に、リドルの日記を紛れ込ませたのは間違いなくマルフォイ氏だという。

 要するにドビーがそういった行動に出たのは、彼自身が原因であるともいえる。

 あれ、そう考えたらこの謝罪って結構妥当なものなのでは?

 

「しゃ、謝罪を受けます」

「ありがとう、ミス・ポッター。ついては、ドビーめの処遇をあなたに決めてもらいたく思ってね」

「しょぐう?」

 

 足元のドビーが、マルフォイ氏の言葉に怯えてハリーの脚に抱きついた。

 それを蹴り飛ばしてから、ハリーは問う。

 

「処遇って、何をしたらいいのですか?」

「そうですな。屋敷しもべ妖精として死にも値する屈辱として、まず『解雇』はしたのだよ」

 

 解雇。

 それは屋敷しもべ妖精からすると、死罪よりも辛いのではないだろうか。

 グリフィンドール女子寮の掃除当番であるヨーコに聞いたら泡を吹いてひっくり返りそうだ。

 しかし、と呟いてルシウス氏はこめかみを抑えた。

 

「恥ずかしい話、ドビーというしもべ妖精はひどい欠陥を抱えていたようでね」

「欠陥?」

「屋敷しもべ妖精の本能に逆らうほどに、自由を欲していたのだ」

 

 自由。

 それは言葉の響きだけならば、とても素晴らしいものだろう。

 だが、魔法使いに尽くすことこそが生物の本能である屋敷しもべ妖精にとってそれは侮辱だ。

 彼らは自分が奉仕したことで主人の役に立つことに、誇りを持っている。

 何故なら、彼らはそういう風に創られた生き物なのだから。

 

「私が彼に靴下を与えた途端、見たのは苦悶の表情ではなく歓喜の笑顔だ。……少し堪えた」

「父上……」

 

 スコーピウスが心配そうな声を上げる。

 これ笑っていいところなのだろうか?

 

「自由にするのが罰にならないのならば、もうあとは死罪しかないだろうと思った。だが、残念ながらいまの私にこのしもべの所有権はない。ゆえに、君に決めてもらいたいのだ」

「……ぼくに?」

「ポッター。ドビー曰く、この自由はハリー・ポッターのおかげで手に入れたものとのことだそうだ。だから父上は、ポッターの決めたことならドビーも従うと思ったんだろうさ」

 

 ルシウス氏の説明に、ドラコが補足を加えたことでハリーは納得した。

 ハリーを殺してしまいそうになるほどに、ドビーは熱狂的なポッターファンなのだ。

 彼にとっての女神であるハリーの言葉ならば絶対、ということだろう。

 

「さあ、ミス・ポッター。斬首ならば首を刎ねよう。縛り首なら縄で括ろう。選んでくれたまえ」

 

 ハリーに選択するよう、ルシウス氏は言う。

 遠巻きにこちらを眺める魔法使いや魔女たちもそうだが、なんと居心地が悪いのだろう。

 あまりにぞんざいな扱いにハーマイオニーはショックを受けているようだが、ハリーからするとそうでもない気がする。あんな痛い目に遭わせてくれたのだからという気持ちがないわけではない。

 ドビーを見下ろしてみると、瞳を潤ませてこちらを見ていた。だからスカートを握るな。

 自分は薄情な女だな、と思いながらハリーは言った。

 

「いえ。もう罰は与えたのでしたら、このままでいいです」

「……ほう」

 

 ドビーの顔が輝いた。 

 苦虫を噛み潰したような顔のドラコと、心底驚いたという顔のスコーピウスが見える。

 ルシウス氏はというと、興味深そうな声を漏らすのみだった。

 

「それは、君は彼を許すということかね。殺される一歩手前だったというのに」

「ええ、それは、そうなんですけど……」

 

 英雄を見る目でドビーがこちらを見ている以上、あまり言いたくないのだが。

 ルシウス氏の目を見ていると、言わねば解放してくれない雰囲気がある。

 仕方なしにハリーは本音をぶっちゃけた。

 

「あまり彼に関わりたくないんです……」

 

 ドビーの顎が外れた。

 ドラコの眉があがり、スコーピウスがさらに困惑した顔が見えた。

 ルシウス氏は納得したような、得心が行ったような顔をして頷いている。

 だって、そうだろう。

 彼に悪気がないのは知っている。良かれと思って行動したことはわかっている。

 だけどさすがに、あれはない。

 本気で死の危険を感じたのだ。あれはちょっとどころではなく、どうかしている。

 だから、これくらい意地悪なことを言ってもいいんじゃないかな、とハリーは思っていた。

 

 マルフォイ家と別れ、ダーズリー家の車が見えるところまで来て、ハリーはロンとハーマイオニーを抱きしめた。たった数週間とはいえ、二人と全く会えないのだ。フクロウ便を出せなくなる可能性がある以上、ロンに至っては電話を持っていないために、下手をしたら『隠れ穴』に行くまで一切連絡がつかないかもしれないのだ。

 顔を真っ赤にして慌てるロンと、しっかりハリーを抱きしめ返すハーマイオニー。

 性別も性格も全く違う二人ではあるが、ハリーは二人が大好きだった。そう、もはや意地を張らずにそう言える。

 だからこそ寂しかった。

 もうドビーは邪魔しないから、今度こそ手紙のやり取りをしよう、と二人に約束して、三人は別れた。

 予定通りなら、二週間と数日の別れ。

 ハリーはダーズリーの車の前に立っていたペチュニアに会釈し、メイド姿のハリーに感激したペチュニアによって嬉々として後部座席に放り込まれた。

 既に座っていたダドリーの横幅が広いので多少手狭だが、まぁいいだろう。

 ダドリーがハリーの格好をじろじろと見て、言う。

 

「なに? お前ついに召使いになっちゃったの?」

「召使い?」

 

 と、そこでようやくメイドとはそういうものだったと思い出す。

 なんだかダドリーと普通に会話するのが、妙に久しぶりな気がする。

 というよりは、ハリーを見たダドリーが悲鳴をあげなくなったというのが大きいだろうか。

 

「ホグワーツ流でよければお持て成ししようか、ダドリー?」

「マジか」

 

 ジャパニメーションのせいだろうか、ダドリーが大喜びする。

 運転席からミラー越しにこちらを睨みつけているバーノンが見えるが、気にしない方がいいだろう。

 ハリーはにやりと不敵に笑ってダドリーに言った。

 

「じゃあまずは背骨を折らないとね」

 

 そう言われたダドリーの困惑した顔が面白くて、ハリーは今までダーズリー家では見せたことのない笑顔を浮かべた。くすくすと笑い、本心から笑みを作っている。

 なんだ、こんなものか。

 バーノンが車を発進させ、キングズ・クロス駅が遠ざかってゆく。

 今年は案外、ダドリーと仲良くやれそうだ。

 いまのハリーに、不安の色はまったくなかった。

 




【変更点】
・ヌンドゥに比べればバジリスクは比較的容易。
・やっぱりリドルには勝てなかったよ……単純に実力差で敗北。
・ダンブルドア登場。リドル対ダンブルドアは、漁夫の利でハリーの勝利。
・なんと バジリスクが おきあがり なかまに なりたそうに こちらをみている!
・ドビーへの扱いが変化。ただし立ち位置は変わらず。

【オリジナルスペル】
「プレヘンデレ、捕縛せよ」(初出・25話)
・対象を捕縛する魔法。対象周囲の捕縛できる何かが反応して対象を縛りつける。
 元々魔法界にある呪文。魔力反応光が極微弱なため気付かれにくく、実戦向き。

「セデム・ムータレ、寄生せよ」(初出・25話)
・《寄生の呪文》。対象を別のものに寄生させる魔法。
 元々魔法界にある呪文。埋め込む際には、たいてい無言呪文で使われる。

これにて「秘密の部屋」は終了です。二年目はハリーが力を身につけ始めるお話でした。
思わず助けに着たダンブルドアの手によって、生き延びたバジリスクが準レギュラー化。秘密の部屋在住なのであまり出番はないでしょうけれど、城中のパイプを通れるので、夜中に壁に向かって話してる女が居たらそれはハリーです。
魔眼が効かない理由は次回と言ったな。アレは嘘だ。ハンサムに免じて許してください。
三年目は「アズカバンの囚人」。ここから先はちょっとずつオリ脇役たちが出てくるようになります。やったねハリー、死喰い人も増えるぞ!

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