ハリー・ポッター -Harry Must Die- 作:リョース
1.ナイトバス
ハリーはバテていた。
ダーズリー家の庭の日陰でごろんと横になり、だらしなくバテていた。
格好はノースリーブのワンピースだ。
一年生の時にクリスマス・プレゼントとしてペチュニアが買い与えたものだが、そろそろ胸がキツい。
ハリーのバストは以前の夏休みと比べると、少しずつ膨らんでいた。それでもペチュニアよりは小さいし、パーバティに比べたら鼻で笑われるようなものだ。だがハーマイオニーよりは大きい。ハリーは勝ちを確信していた。
これが成長することなのよ。とペチュニアは言っていたが、下着売り場に入るのはなんだかすごく恥ずかしくて、恥を忍んでペチュニアについてきてもらったこともあった。
そして驚くべきことに、ダドリーはハリー狩りというスポーツをやめたようだった。
いや。辞めざるを得ないのだろう。
驚くべきことにというか、ハリーは麻痺呪文が直撃したかと思うほど驚いて、しばらく現実逃避をした出来事がある。夏休みが始まって数日した頃、ダドリーがボクシングの試合があると言って出掛けたことがあった。
この日はもはや完全に態度が軟化したペチュニアはともかく、いまでのハリーに対して厳しいバーノンですら上機嫌でにこにこ顔だった。朝ご飯を作ったハリーに礼を述べただけではなく、頭まで撫でてきたのだ。
試合会場についてみれば、活気が凄い。妙に大きな場所でやるんだなと思って行ってみれば、ダドリーの隣で眼帯のトレーナーが気合を入れている最中で、ダーズリー夫妻がダドリーに声援を送っていた。
ダドリーの通うボクシングジムの子供たちがワーワーとダドリーを応援して、まるでヒーローだなと思いながらハリーは眺めているとき、ダドリーがこちらを向いた。
「勝ってくるぜ」
ダドリーがそう言い放ち、ニヒルに笑うとそこかしこから黄色い歓声が上がる。
ハリーはなにいってんだこいつと思いながら、その背中を見送った。
確かにダドリーは、ハリーがホグワーツ入学前に見た時より異常な程に痩せている。それでも横幅はハリー二人分と言ってもいいくらいあるし、顎もしっかりと二重になっている。
だが筋肉質だ。腕なんかはハリーを片手で持ち上げてもなお余裕があるほど盛り上がっているし、脚に至ってはぱんぱんでハリーの胴くらいはあるはずだ。
そうして試合が始まった。
実戦として幾度か蹴ったり殴ったりを経験しているハリーだったが、その試合を見て驚いた。
相手は黒人の選手で、ミニトロールかと思うような体躯をしていてとても勝ち目がないと思っていたのだが、なんとダドリーが胸に放ったパンチ一発で膝をついた。一瞬会場内が騒然となった後、爆発したかのような歓声が響く。
ハリーは顎が外れた。弓を引き絞るようにして力を込められているダドリーが放ったパンチには回転が加えられていて、ハリーがリドル戦で使った《投槍呪文》くらいの威力はあるとまで思ってしまうような迫力だったのだ。
相手の黒人選手もダドリーを殴り、ダドリーも黒人選手を殴り、そうして試合が終わると、
ダドリーは英国ボクシングの頂点に立っていた。
何を言っているかわからないと思うが、ハリーにもさっぱり状況が分からなかった。
ダーズリー家はそれから一週間毎日お祝いだった。ハリーはごちそうを作るのでいっぱいいっぱいだったし、王者となったダドリーは態度がデカいくせにハリーを気遣う余裕があるし、バーノンなどハリーが料理を出すたびに抱きしめてきて鬱陶しいし、ペチュニアは涙ながらにあのダドちゃんがとハリー相手に思い出話を始めるしで、ハリーはリドルと戦った時よりも疲れていた。
そして恐怖していた。もしダドリーが癇癪を起してハリーを殴ったら、まず一撃で死ぬだろう。
たかだかマグルの少年如きに、脅威度で敗北したリドルも草葉の陰で泣いているだろうと思いながら、ようやくお祭り騒ぎの終わったダーズリー家は静かであった。
というかチャンピオンになったダドリーが、マグルからしたら一般人の少女であるハリーを大っぴらに殴れるわけがない。そして自信とプライドがついたのか、余裕が出たダドリーは性格も丸くなっていた。なるほど、キングズ・クロスまで迎えに来た車の中でハリーと普通に会話できた理由はここにあったのか。
「あづ……」
殺傷力の高いパンチの仕方をダドリーから教えてもらった後、今日はデートがあるんだ、とさわやかな笑顔で出かけて行ったダドリーを見送ってから、ハリーは暇だった。
ハーマイオニーやロンへの手紙は昨日送ったばかりで、返ってくるとしても早くて今日の夕方だ。
電話はあまり使えない。流石に居候の身で何十分も電話をするのはアレだからだ。
暑くて暇な午後、つけっぱなしのテレビの音を聞きながら、ハリーはだらけていたというわけだ。
『インコの何たら君があまりの暑さに水上スキーを覚えました! 見てくださいこの頭のおかしくなりそうな光景を! どうやったら物理法則を無視できるんでしょう、これは神秘です! まるで魔法だ! っていうか本当にマジでどうなってんだこれ?』
陽気で知られるニュースキャスターが驚く声を聴きながら、ハリーは目を閉じる。
思い出すのはホグワーツのこと。そして友人たちのことだ。
昨年は大変だった。というか入学してからずっと大変だった。
今年こそは平和でいたいものだけれど、きっと無理だろう。絶対何かに巻き込まれる。
ああ、ハーマイオニーに会いたい。ロンに会いたい。
そんなことを思っていると、中からペチュニアの声が聞こえてきた。
「あら、いやだわ……。この近くじゃない」
何のことかと思い耳を澄ませてみれば、ニュースのことだったらしい。
『脱獄犯のシリウス・ブラックは、現在プティングストリートに潜伏中と見られており、住人には注意するよう呼びかけられています。ブラックは件の爆破テロの主犯とされる人物であり、爆発物を持っている可能性もあるとして、現在付近を捜索中です』
「フン! 見ろ、あのひげ面を! どう見たって『まともじゃない』だろう。血走った目に、落ち窪んだ眼、ぎらついた目だ! 『まともじゃない』……」
バーノンの怒声を聞いて、そんなに目が気になるか? と思ったハリーはシリウス・ブラックの顔を思い出す。彼はいま世間で話題の殺人鬼であり、それが脱獄したというから英国マグル界は不安に覆われていた。
確かに、ひげもじゃで振り乱された長髪は不潔そうな印象を受ける。今どきの牢獄ではまともにヒゲも剃れないということもあるまい。つまりブラックはそういう人間なのだろう。
一昔前ならば、囚人に対してはドギツい虐めがあり、鬼のような看守が魂を吸い取ろうとする勢いで殴ったり蹴ったりキスしたりしていたのかもしれない。……というのはハリーの偏見だろうか。
「いたっ」
そんなことを考えていたハリーは、顔の上に手紙が落ちてきて声を漏らした。
そのせいでペチュニアに居場所がばれて、あとで洗濯物を手伝うように言われてしまう。
唇を尖らせながら顔の上の手紙を手に取れば、マクゴナガルからのものだった。フクロウはどこに行ったのかと探してみれば、もう空の彼方だ。ずいぶんせっかちなフクロウを選んだようで。
封を破いて中身を見てみれば、三年生における課外授業の担当は、スネイプではなく新しく赴任する教師が受け持つことになったのだという内容だった。追伸にはポッターのことでしょうからさっさと宿題を終えて暇でしょう、と魔法式が書かれた紙が添えてあって大変興味深いおまけがあったのは嬉しかった。
式の構造をちらっと見るに、変身術らしきものだったので時間がかかりそうだ。夜の楽しみにとっておこう。
それに何より、今日は嫌な日なのだから。
「あっらァ~~~! ダッダー! 男前になっちゃってマァ! ニュース見たよう、最年少英国チャンピオン、おめでとう!」
「ああ、ありがとうマージおばさん。俺もこれで一人前の男になれた気がするよ」
「あっらまァ~~~! ほんとに男が上がってるじゃないのよさ! あんたも鼻高々だろうバーノン!」
「もちろんだともマージ! わしの自慢の息子だ!」
「あっらっむァァア~~~! 憎たらしいこと言っちゃってマァ! 羨ましいもんだよバーノン! ペチュニアだなんてアンタに過ぎた女を捕まえたからこんな優秀な息子が生まれてんだろう、ええ!」
あ・豚が鳴いてる。
リビングでペチュニアと料理の用意をしていたハリーは、迷いなくそう思った。
今日はペット犬のブリーダー業を営んでいる、バーノンの妹である叔母の(ハリーと彼女に血縁関係はないが、そう呼ぶよう躾けられた)マージ・ダーズリーがダーズリー家に遊びに来る日であった。会うのは実に四年ぶりである。会いたいとは思っていない。
玄関にて大声でほめられたペチュニアは上機嫌だし、ハリーに味方はいなかった。
どすどすと冗談のような足音を立ててリビングにやってきたマージは、まずペチュニアの頬に親愛のキスをして、そしてじろりとハリーを睨んだ。
「あらま。あんたまだ居たのかい。色気づいちゃってマァ! あたしの可愛いダッダーを誘惑してたりしやしないだろうね! ええ!?」
誰がするか。
それにハリーは知っている。
ヘドウィグに手紙を運ばせてからダーズリー家に帰ってきたとき、家に遊びに来ていたボクシングジムの後輩の一人とダドリーが、熱烈な――――うっ、頭が。
――――なんだったか。頭が痛くて思い出せない。何があったんだっけ。
なんだか業が深くて神を冒涜していた気がするが、思い出せないなら些細なことなのだろう。
とりあえず。世界が何度滅ぼうと何が起きようと有り得ない事だが、もしも万が一億が一、ハリーがダドリーに惚れたとしても勝ち目はない。それだけはわかる。そう、何故かわかる。
とりあえずお前は両親を泣かせないうちに更生した方がいいよ、とダドリーに届かぬ思念を向けながら、ハリーは夕食の時間をやり過ごそうとした。
マージ叔母さんは一泊してロンドンへ行くそうだ。随分と忙しい人で、ブリーダーとしては大成しておりどこに行っても人気の女傑なんだとか。
しかしハリーは、この叔母が嫌いだった。
ダドリーがハリー狩りをしていたときも、嬉々として見物していた性格の捻じ曲がった女なのだ。
おまけに蛇蝎の如くハリーを嫌っている。
はっきり言ってダーズリー一族の中で、一番ハリーが嫌いかもしれない。
「穀潰し。無視するんじゃないよ! 返事しな穀潰し!」
「……はい、マージ叔母さん」
「リッパーの飲み物はブランデー入りのミルクだ! ただのミルクなんて出してんじゃあないよ!」
ばしゃ、と犬用の容器に入れられた牛乳がハリーに振りかけられる。
濡れネズミより酷い有様である。
床が汚れたのを見て、ペチュニアが嫌そうな顔をした。
しかもこの牛乳、なんかぬるぬるしてる。というかそれを用意したのはマージ自身だ。
持参品に関してはどうしろというのか。
「何か言いたそうな目だね、ええ!?」
「……何でもないです、マージ叔母さん」
「あらま、へらへらと気持ち悪いね! なぁにニヤついてんだい!」
ペチュニアに許可をもらい、バーノンのブランデーをミルクに混ぜる。
これ以上床を汚されてはたまらないと思ったのか、バーノンが小声でブランデーとミルクの比率を指示してきたので、二度目の文句は来なかった。
冷え切った心に何を言われようと、大したことは無い。
ハリーが全く怒ったり泣いたりしないのがつまらないのか、マージは次にリリーとジェームズを馬鹿にすることにした。しかしそれにもハリーは動じない。いや、内心では煮えくり返っているものの、ここで自分が怒鳴る資格はないと思っているのだ。
一時期、心が死にかけていたあのとき、ハリーは両親をろくでもない人間だと本当に思っていた。
そんなことを感じていた女に、両親を貶されて怒れるような資格はない。
「ペチュニアおばさん、ぼく、ちょっとシャワー、浴びてきますね」
「え、ええ。いってきなさ」
「さっさとおし! 臭くてかなわないよ!」
ぶちぶちと頭の中で何かが切れる音がする。
ハリーはもはや隠すことなく殺気を放っているため、漏れ鍋で習得した営業スマイルのまま、目だけが全く笑っていなかった。
いつハリーが爆発して『魔のつくアレ』をやるかわからないバーノンは、怯えきった笑顔でハリーが風呂に入ることを勧めた。これ以上床を汚されるのが嫌なペチュニアも風呂を勧めた。このままではハリーがマージを殺害しかねないと気付いたダドリーは、あえてスルーした。
「オーケイ、ハリエット。落ちつくんだ。おまえは大人しい女だ。ふふふ、落ちつけッたら。そうだよ、それでいいんだ。カッとなっちゃいけない。クールに、そうクールにいようぜ。ほーら、ぼくは可愛い女の子だぞー優しいんだぞーうふふどうやって殺そうかなぁーあの女ァー」
シャワーを浴びながら精神を落ちつけるためにぶつぶつ呟いて、頭から流れる泡が胸を通って腹を滑り、バスルームの床を白く染めていく様を、ただじっと無意味に眺める。
全身を綺麗にしてからいくらか心を落ち着けたハリーは、鏡の前で自分の顔を眺める。まるで悪鬼のようだったぎらぎらした刃のような目を引っ込めて、穏やかな微笑みを浮かべる。よし完璧。まるで天使じゃないか。わっはっは。
風呂から上がったハリーは、悪魔のような顔のまま濡れた髪を乾かして自室へ戻ろうとする。
ペチュニアを初めとしてダーズリー家の面々に同情されるというとんでもない事態になりかけており、「疲れているに違いないハリーは部屋に戻った方がいいだろう」とバーノンに指示されたからだ。
「待ちな」
呼び止めたのはマージだ。
今度はいったい何をされるんだろう、と若干他人事のようにハリーは思う。
「リッパーが喰い終わった皿を綺麗にするんだよ」
「はい、マージ叔母さん」
ハリーはブルドッグ犬がべろべろ舐めた後のお皿を持ち、台所へ行こうとする。
しかしマージは、それに激怒した。
「何やってんだい! あんたの舌で舐めて綺麗にしな!」
さすがにここまできたらダーズリー家もドン引きである。
彼女が何かを言ったが、ハリーはそれを理解できなかった。
ペチュニアが狼狽しているため、何かとんでもないことを言ったのだろう。
「あんたみたいな犬以下の女が服を着てるのももったいないね。脱ぎな。裸で四つん這いになって、皿を舐めるんだ。いいね」
最初に行動したのはダドリーだ。
自分の取り皿を持って、素早くテーブルから離れてゆく。
それを見たペチュニアがダドリーについていき、バーノンがマージを宥めようとする。
しかしサディスティックな提案をしたマージはそれに取り合わない。
力尽くで無理矢理ハリーに強要させようとして、
「よし、殺す」
ハリーがキレた。
風呂上りに着たTシャツがふわりとめくれ、一本線の入った腹が見える。
足元に転がっていたダドリーのダンベルが吹き飛んで、窓に風穴を開けた。
まるで足元から吹き上げる風に吹かれてるかのように、満面の笑みを浮かべたハリーの周囲では様々な『まともじゃない』ことが巻き起こっていた。
いくら鈍いマージでも、これだけされれば異常に気付く。
何が起きているのかと周囲を見渡し、自分の腹が風船のように膨らんでいるのを見た。
確かに最近太り過ぎだったが、いったいなぜこのようにファットで脂肪な太鼓腹に……!
「ま、マァァァ――――――――ジ!?」
「バァァァ――ノォォォ――――ン!?」
マージの座っていた椅子が、彼女の膨張に耐えきれずばきばきと壊れ始める。
その際に飛んで行った木片がダドリーの眉間に直撃するが、ケーキに夢中な彼は気づかなかった。
際限なく膨らんでいくマージの身体が浮き上がり、天井にぽいんとぶつかる。
慌てたバーノンがマージの手を取って引き戻そうとするものの、物理法則に真っ向から喧嘩を掛け売りした魔法現象によって全く意味がなかった。
ふよふよと浮くマージの身体は、逃げ場を求める室内の空気の流れに乗って窓の方へと流されてゆく。
リッパーはとうに逃げた。
「ハリー! 窓を閉めろ!」
バーノンが叫ぶと同時、背後で花が咲くレベルでにっこり微笑んだハリーは、窓を壁ごと吹き飛ばした。
この一連の騒ぎの間、ハリーはずっと笑顔である。道を踏み外したダドリーでさえ美しいと思ってしまうような笑顔で、満足げにマージを見送るハリーに罵声を浴びせながら、バーノンは庭へと飛び出した。
マージのブルドッグは我関せずという顔でペチュニアの踝を舐めており、ペチュニアは精神が限界突破したのか、調子っぱずれな鼻歌を歌いながらデザートを作ることで現実逃避しているようだ。
ダドリーは立ったままケーキを食べながら、空へ浮かんでいく実父と叔母を眺める。
「マァァァ――ジィィィ――――ッ! そっちに行っちゃいかァん! わしの体まで浮いてる! 『まともじゃない!』 『まともじゃない!』 こんなの『まともじゃなァァァ――――――い!』」
「らめえええええええええええ! 飛んで行っちゃらめなのおおおおおお! バァァァーノォォォン! 手を放しちゃだめだよぉぉぉ――――――っ! だめだかんねェェェ――――――――ッ!?」
「……すまん」
「てめえ」
バーノンがマージの手を放したことによって、マージの身体は際限なく空へと飛んでいく。
もはや彼女に自力で戻る術はない。
息をふーふーしようが無意味、短い手足をばたばたさせようと無価値。
なにをどうしても戻れそうにないことを、マージはその小さな脳みそで悟る。
帰ろうと思っても帰れないので。
そのうち、マージは考えることをやめた。
「すげー。マージ叔母さん、もう屋根より高いや」
「ああーっ、すっきりしたぁ。んふ、気持ちいーっ」
マージは犠牲になったのだ。
バーノンがそう結論付けて、『魔のつくアレ』をやらかした女に抗議しに戻ってくる。
どすどす足音高く家の中に舞い戻ったバーノンが見たのは、電話しながら「あ、もしもしハーマイオニー? 急にごめんねえ、今からそっち行ってもいい? あー、うん、女としてというか人として身の危険を感じてマグルに魔法かけちゃってさあ。ちょっと居たくないんだよ。あー問題ない問題ない。たぶん。んー、わかったぁ、またあとでねえ」と言っているハリーだった。
受話器を取り上げて電話機に叩きつけると、バーノンは悪鬼のような形相でハリーに迫る。
「マージを元に戻せェ! 今すぐにだ! さもなくば生まれてきたことを後悔させるぞ!」
「あ、バーノンおじさん。ぼく今からちょっと出かけてきますねー。戻るのは来年かな?」
「行かせんぞォ! 行かせんぞォ! 行かせんぞったら行かせんぞォ!」
ハリーの胸倉を掴みあげながら、バーノンが怒鳴る。
真っ赤に熟れたトマトのような顔がハリーにキスをしてしまいそうなほどに近づけられ、
「あ、おじさんも空を飛びたいんですか? しょうがないなあバーノンくんは」
「いってらっしゃい! 体に気を付けるんだぞ!」
にこやかに送り出された。
さっさとトランクに荷物をまとめ、部屋着から外行きの服に着替えたハリーはダーズリー家を出る。
もう日は沈んでいるが、地下鉄ならまだまだ動いているだろう。
ハーマイオニーの家はロンドンにあるから、早いところ行きたい。
がらがらとトランクを転がしながら、夜のプリベット通りを歩き続ける。
「ああ、やってしまった。つい魔法を使ってしまった。でもアレは身の危険に該当するよね? するよね? あーしなかったらどうしよう。魔法省から通達がくるって話だけど、そういえば来ないな。それとも後日郵送されるのかな? あー、いや、魔法界は郵便ってあったっけ。フクロウ便だったそうだった、やばいな混乱してるな」
独り言を言いながら歩き続けると、眼前に誰か立っている。
誰だろう、と思いながら顔をあげれば、……本当に誰だろう。見知らぬ青年が三人立っていた。
大学生ほどの青年は、にやにやと笑いながらハリーの進む先を遮っている。
嫌な予感がする。
「……通してくれるかな」
「んー? だめだめ。俺らと遊びにいこうぜ」
ああ、これナンパか。
初めてそういうものに遭遇したハリーは、珍しいものを見る目で青年たちを眺める。
派手な格好だ。赤と黄色と緑の上着をそれぞれ着ているため、まるで信号機のようだ。
ナンパトリオはハリーの肩に手を置いてきたので、適当に払う。
強引に通ろうとしても、無理矢理通せんぼしたり胸に手が伸びてくるので難しい。
「……鬱陶しいな」
「あ? なんだこいつ生意気だな」
「OH、生意気ガール! 俺好みのボーイッシュで声もGOOD! 啼かせてやんぜチェケラ!」
「ジョアン、お前ほんと節操なしだな……」
盛り上がる信号機トリオとは対照的に、ハリーは冷たい目で三人を見る。
いっそここで吹き飛ばしてしまうか?
ロックハートから盗んだ、精密な忘却術もあることだし。
そうしたら英国魔法法律の、マグルに対する魔法秘匿法にも触れないだろう。
そう考えたハリーはジーンズのベルトに挟んであった杖を抜き、構えようとしたものの。
「おっと、防犯ブザー鳴らされちゃたまんねえチェケラ」
「っ、離せ!」
右腕を掴まれ、ねじりあげられてしまった。
マグルだと思って舐めていた。動きが素早い、なにかスポーツをやっているのだろう。
……まずい。力では勝てない。
「ヒューッ、顔の割に結構ムネあるぜこの子チェケラ」
「おいこの子、何歳だ? ひょっとしてローティーンなんじゃねえの」
「そりゃまずい。ジョアンはロリコンだから、この子壊されちまうぜ」
無遠慮な視線で体を見られて、思わずカッとなる。
殺してやりたい。いや殺すまではいかなくとも、蹴り上げてやりたい。もしくは潰す。
そう思って全力で抵抗を始めるものの、ジョアンと呼ばれた男に腕をねじりあげられているし、ほかの男に脚を抑えられた。がっちりと捕まえられて、全く動けない。
あれ、身体強化魔法を使ってないぼくの身体って、こんなに非力だったか?
……あれ、あれあれ。……この状況、ひょっとしなくてもマジでやばい?
ハリーがじわじわと恐怖を感じ始めた、その時。
「うぎゃあああああああああ!?」
「ほんぎゃああああああああ!?」
「人身事故チェケラアアアア!?」
信号機トリオが一斉に吹き飛んでいった。
きりもみ回転して宙高く舞い上がった三人は、本物の信号機に引っかかってぶら下がる。
どうやら気を失っているようだ。
呆然とした顔のハリーが横を見れば、鼻が何かにぶつかった。
鼻を押さえながら少し離れて見てみれば……バスだ。巨大なバスが目の前にある。
比喩ではなく冗談抜きで本当に目前。数ミリ単位でハリーの目と鼻の先で停車しているのだ。
「おーい少年。大丈夫かー?」
バスから降りてきたニキビ面の青年が、陽気に声をかけてくる。
まるで二〇世紀前半の車掌のような恰好をした彼は、まず間違いなく魔法界の関係者だろう。
そうでなければこんな時代錯誤な格好、頭がおかしいか頭が狂ってるかのどちらかだ。
「……だ、大丈夫」
「未成年だからって魔法使えねぇのは大変だなあ。そう思うだろう、アーン? ……って、なんだ。少年じゃなくてお嬢ちゃんじゃねえか」
「どいつもこいつもまず見るとこはそこか?」
パーバティが言っていた意味が分かった。
なるほど、確かにこれは大変かもしれない。
ハリーくらいの大きさでこの視線なのだから、恐らくハリーより二回りは大きい彼女の場合は相手の視線がかなりわかるのかもしれない。
そう考えて戦うことに応用できるんじゃないかな、と思ったハリーは若干手遅れだ。
「とりあえず乗りな。迷子の魔法使い魔女へのお助けヒーロー、
ナイトバスはハリーと彼女のトランクを乗せると、急発進した。
陽気な車内音楽をかき鳴らしながら、イギリスの道路という道路を爆走していく。
法定速度を鼻で笑って踏みにじるようなスピードだ。
ハリーはがたがた揺れながら、スタン・シャンパイクと名乗った青年と握手する。
「んで、お前さんお名前は?」
「ハリー・ポッター。ハリエットでもいいよ」
「ほー。有名人とおんなじ名前さね。ほっほー、いい名前だぁ」
この自己紹介をしてハリエットと呼ばれないのは慣れているが、別人と思われるのは初めてだ。
まぁいいや、と考えてハリーは座席代わりだろうベッドに座る。
無駄に疲れる日だった。
溜め息をつくと、うとうとして眠くなってくる。
一眠りしてもいいんじゃないかなと思った時、ひときわ大きくバスが揺れて停車した。
……なんだ?
「いまなんか撥ね飛ばしたな」
「えっ、人を轢いちゃったの?」
「いや、人じゃねえだろ。風船みてぇなオバンだったわ」
「…………、……ああ、そうだね。それは人じゃないね」
思いっきり心当たりがあったが、まぁ気のせいだろう。そうだろう。
ハリーは悲鳴を上げる奇妙な風船を見なかったことにして、またうとうとし始めた。
半分眠り始め、現実の音と夢の中の音がごっちゃになり始めた時に、スタンに声をかけられた。
曰く、女の子が無防備に寝ちゃいけねぇ。だそうだ。
今まで散々男の子扱いされてきたのに、ある程度胸が膨らんで見た目で見分けがつきやすいようになってからは、女の子扱いされるようになってきた。なんだかむず痒い。
しかし、そうか。色々と違ってくるんだなあ。と思って、ハリーは面倒くささにため息をついた。
数十分後。
ハリーはロンドンの漏れ鍋の前に居た。
おかしいなあ、ハーマイオニーの家にいくつもりだったのに。
行き先を聞かれたときも、確かにスタン・シャンパイクにグレンジャー家の住所を告げたはずだ。
だが現にハリーは、ここで降ろされた。
スタン曰く、魔法省の人から連絡がきてそこで降ろすようにとのことらしい。
「あーあ。お前さん、魔法使っちまったんだなぁ。ま、怒られてきな。経験談だがそんなに怒られやしねえよ。ま、ガキは怒られて成長するもんだから甘んじて受けるんだな」
そう言い残して、スタンらを乗せたナイトバスは消え去っていった。
大丈夫だと思ったんだけど駄目だったかなあ。とハリーは暗い気持ちになっていた。
仕方ないなあ、一応だけど法に触れてるしなあ。そんな呟きと共にトランクを持ち直して、はたと気づく。
また、目の前に誰かいる。
ナンパだったら今度こそ吹き飛ばそうと思って顔をあげれば。
「――――ッ!」
咄嗟に飛び退いて、反射的に杖を抜く。
心が鎧を纏って冷たくなる。目を細めて、相手を睨む。
「ああ、ハリエット・ポッター。ようやく、ようやく見つけた……」
そう言ってくるのは、目の前の人物。
襤褸のような服を身につけ、露出した胸元には大量の刺青が彫られている。
黒髪は脂ぎっていて、何年も梳いていないのかボサボサを通り越してごわついていた。
髭は伸ばし放題で顔も黒く汚れて不潔な印象をこれでもかと突き刺してくる、三〇代の男性。
ハリーはこの男を知っていた。連日ニュースで顔が出ているのだから、さもありなん。
「……シリウス・ブラックか」
「ああ、そうだ。そうだとも……」
男が肯定する。
シリウス・ブラック。
かつて十二年前。ロンドンで、爆発物を用いて一般人十数人を殺害せしめた凶悪犯。
これの正体が魔法使いだったというのならば、アズカバンという魔法界最悪の刑務所に収監されていないとおかしいほどの人物だ。
……なるほど。脱獄したのはマグルの刑務所ではなく、そのアズカバンからか。
あまりに凶悪ゆえ、注意を促すためにマグルのニュースでも流すようにしているといったところだろう。現にニュースではそれだけの人物が殺されている。その全員がマグルだとしても十分警告には値するし、その中にはもしかすると魔法使いすら混じっているかもしれないのだ。
すると爆発物も魔法かなにかで、この男は一度に大人数を殺す術を持っているということになる。
そんな男が、いま。ハリーの目の前にいる。
ハリーは唾を飲み込んで、あえて不敵に笑う。
そして問うた。
「……殺人鬼が何の御用かな。ここにいるってことは魔法使いだね、失礼だけど杖を使わせてもらうよ」
「そうか、マグル世界でも私はそういう扱いなのか……」
「そりゃそうさ、凶悪殺人鬼なのだから」
ハリーがブラックの眉間に杖先を照準すると、殺人鬼は悲しげに微笑む。
その表情になにか違和感を感じながら、ハリーは気を引き締めた。
脱獄してきたというのなら杖は持っていないはず。現に、いまハリーに杖を向けられているというのに何も行動を起こしていない。子供だからと舐められているのなら、いっそ好都合。
襲い掛かってきた瞬間に、男として生まれてきたことを後悔させてやろう。
「で、ぼくに何の用だい。大方ヴォルデモート関連で、多分ぼくが死ぬようなことだろうけど」
自虐である。
三年目もホグワーツの生活は平穏無事にとはいかないようだ。
というかまだホグワーツに行ってないぞ。問題が起きるのが早すぎる。
「いや、さてね。君に会えたらどうしようか……私も、まだわからないんだ」
ハリーの問いに、戸惑ったような困ったような、そして迷うようにブラックは答えた。
わからない、とはどういうことだろうか。
この男が死喰い人だとするならば、ハリーを殺そうとするだろう。
闇の帝王とは関係ないただのくだらない殺人鬼だとしても、逃亡犯である自分の姿を見た女をどうするかなどわかりきっている。
さらにこの男は、ハリーの名を知っていた。
つまり、誰だかわかっていて、わざわざハリーの前へ現れたというわけだ。
なにかを言おうとして、喉に詰まったものを堪えるような顔をするブラック。
その様子にハリーは、杖を握りしめて冷や汗を流した。
「……なあ、なあハリエット。私は――」
ブラックがそう言いかけた、その時。
周囲一帯に、空気が異物に押し出される特徴的な音が響いた。
――《姿あらわし》だ。
瞬いた次の瞬間、漏れ鍋の路地裏に二人きりで対峙していたハリーとブラックの周囲は、大量の魔法使いと魔女に囲まれていた。
数はおよそ二〇人。
その全員が、杖をブラックに向けて魔力を練り終えていた。
「「『ステューピファイ!』」」
「「『ペトリフィカス・トタルス!』」」
強烈な魔力が込められた呪文が、ブラックに襲い掛かる。
身を捻り、地に伏せ、驚異的な身体能力で魔力反応光を躱したブラックは物陰に飛び込んだ。
その後を追う猛犬のように、数々の魔法が絶え間なく射出されていく。
自分の背後からも《姿あらわし》の異音が聞こえてきたことに気付いたハリーは、その場から飛び退こうとするものの、逞しい腕が襟首を掴んできて地面に引き倒されてしまう。
押し倒してきた下手人に無言で麻痺呪文を放つも、事前に身に纏っていたらしい盾の呪文で防がれてしまった。欠片も通じていない。いったいどれほど高密度の盾を張っているのだろう。
魔法攻撃は無意味とみて、次に密着状態であるため杖そのものを男の目玉に突き刺そうとするも、これも防がれる。
男はハリーを自分の背中に追いやると、ブラックの方向に杖を向けたまま、ハリーの全身に盾の呪文をかけた。高密度で、何の魔法も通しそうにない異常なまでの強度の盾。
大柄な黒人である男が、ローブの上からでもわかる筋骨隆々な背中でハリーを守りながら囁いた。
「味方だ、ハリー・ポッター! 我々は
闇祓い。
それは魔法省が抱える、闇の魔術に対するエキスパートたちだ。
所属する全員が魔法戦闘に秀でており、一人一人が一騎当千の怪物たち。
なるほど、それならば確かにブラックを攻撃し、ハリーの盾になろうとするのはわかる。
その言葉を信じるかどうかは別として、今この場はハリーの敵ではないのだろうと判断する。
ブラックが物陰から飛び出た。
「くっ、そっちだ!」
「逃がすな! 『グンミフーニス』、縄よ!」
一撃で戦闘不能に至る魔法を雨あられと浴びせられながらも、前転やら宙返りやら、果てはスライディングしてブラックは一撃たりとも魔力反応光を浴びていない。
走る勢いのまま漏れ鍋の壁を駆け上がったブラックは、避難用の階段に掴まると、身を躍らせてロッククライミングのようにするりするりと上り始めた。
好機と見たのか、ハリーを守っていた自称闇祓いの黒人が目も眩むような魔法を放つも、ブラックはそれを予知していたかのような素早さで階段を蹴って跳ぶ。漏れ鍋の反対側にある建物へ、窓ガラスを割って飛び込んだブラックを見て、闇祓いの幾人かが《姿くらまし》して消える。
「ハワード、トンクスはポッターの傍で護衛! 出番だウィンバリー、暴れてこい! ボーンズ兄弟は暴れん坊をサポート! 残りは全てブラックの追跡だ! 行け、行け、逃がすんじゃないぞ!」
「了解です」
「よろしくねハリー」
「今度こそブッ潰してやんぜェ! 行くぞァ野郎どもお!」
「「ウッス!」」
ハリーはそれらの一連の流れを、茫然として見守っていた。
素晴らしい。
心に感じた思いは、ただそれだけだった。
一糸乱れぬ動きで相手を追い詰める、魔力反応光の動き。
逃げられはしたものの、悪辣なまでに逃がすまいとする数の暴力。
そして魔法の威力と精密さ。
ブラックも異常なまでの身体能力で、杖もなしにこの人数から逃げ切っている。
こんなにもクールなものを見れて、ハリーはかなり興奮していた。
ハーマイオニーが聞けば、バトルジャンキーと評して溜め息を吐くような感覚ではあるが、ハリーにとっていまの光景は本当に素晴らしいものだった。垂涎ものである。
そのためか、黒人の闇祓いが声をかけていることに気付かず、肩を叩かれてようやく意識を向けるという無様を晒してしまう。咳払いをして、話しかけてくる男を見た。
「大丈夫かね。怪我はないか」
「あ、だ、大丈夫です。ちょっと考え事を」
「随分と肝の据わったお嬢さんだ」
心配かけてしまったかもしれない。
魔法省の印が入った身分証明手帳を見せながら、黒人の男が自己紹介する。
「闇祓い局のキングズリー・シャックルボルトだ。以後宜しく、ハリー・ポッター」
「え、えと。ハリエットです。よろしくおねがいします」
目の前で行われた戦闘。
高次元の魔法と、冷めない興奮。
今年は、いや今年もか。やはり、かなり厄介なことになりそうだ。
しかしハリーの目は笑っていた。
新しいおもちゃを与えられた子供のように、輝いている。
泥のように濁った様はなりをひそめ、恋する乙女のような光が宿っていた。
その眼を見たキングズリーは、とんでもない子になるぞとハリーの将来を心配するのだった。
【変更点】
・まったく意味のないダドリーの強化。
・ハリーが美人になろうと無事は約束されている
・7月31日前に漏れ鍋へ。
・シリウスと遭遇。そして闇祓いたちと出会う。
アズカバンの囚人編です。今年こそハリーの心をアバダしましょう。
だんだんと正史からズレが生じはじめました。大本のストーリーのまま、細部が変わり始める……ここが原作と違うんだなとお楽しみ頂けたら幸いです。
お気になさっております紳士淑女の諸君のために申し上げますと、うむ。彼女のは吾輩の掌に収まるサイズと言っておきましょう。はっきり言うと、この作品のテーマはありふれたテーマ――「成長」です。
ダドリーですか。彼はもう色々な意味で道を踏み外してしまいました。