ハリー・ポッター -Harry Must Die-   作:リョース

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11.闇の胎動

 

 

 

 ハリーはいま、走っていた。

 いや、正しく言えば卑劣にも妨害しながら走っていた。

 スタート地点では巨大な鳥もちによって地面に張り付けられて、むすっとした顔のクラムと大声でハリーを罵るローズマリーがいる。どちらも観客の視線が釘付けになるほど芸術的にセクシーな捕まり方をしている。

 たった今、全力で走るハリーの横を追い抜いて走り去ったセドリックが、ハリーの仕掛けた落とし穴にひっかかって長々とした悲鳴をあげながら退場した。南無三である。

 それに恐怖したフラーが一瞬動きを止めたのがいけなかった。彼女の腰にブレオが抱きつき、何らかの呪文を唱えたのかフラーはそのまま倒れ込んでしまう。

 姿勢を崩した今がチャンスだ。ハリーはブレオがこちらに気付き杖を向けてくるも、彼の腕に『武装解除呪文』を撃ち込んで杖を弾き飛ばした。

 

「うおおお、お、おおおりゃあああっ! 覚悟しろ変態(ブレオ)ーっ!」

「ひっ、卑怯者ーっ! 僕の天使ハリエットたんがこんな外道を行うわけがないーっ」

「フハハハハフハハフハフハ! 最終的に勝てれば、手段や方法なぞどうでもよかろうなのだーっ! 勝った! 死ねいブレオ!」

「ヤダバー!」

 

 空気の槍を尻に突っ込まれたブレオは、カエルの潰れたような声をあげて崩れ落ちた。横たわる彼の体を乗り越えようとして失敗。彼の腹を踏み付けてでもハリーはゴール目掛けて全力疾走を続けた。

 『身体強化』を存分に使用し、『突風魔法』の魔法式を弄り回して靴の裏からジェット噴射のように風を吐き出して更に加速する。

 五メートルほど前方で似たような魔法を行使して疾走しているソウジローに狙いを定めて、『武装解除』を撃ち込む。しかし後ろに目でもあるかのように刀杖を振るい、ソウジローは魔力反応光を弾き飛ばした。

 

「妨害レースとはよく言ったものだな。もう俺たちしか走ってないぞ」

「黙れソウジローお前はユーコの顔をしばらく見れないほど恥ずかしい目に遭わせてやるから覚悟するがいいお前の命運もここまでだ潔く散ることだなフハハンハン」

「どうしたハリー、なにがあった!?」

「ええい黙れい! ブレオが使おうとしてたのを解析して習得した魔法を喰らえっ! 『ミセルリベロ』、解きほぐせ!」

 

 前傾姿勢で高速移動していたハリーとソウジローの間で、無駄に光り輝くトリコロールカラーの魔力反応光が瞬いた。

 ソウジローがまたも刀杖で魔力反応光を断ち切ろうとするものの、刀身部分に反応光が着弾すると同時、反応光は三色の光にばらけた。三つに枝分かれしたそのうちの一筋がソウジローの胸に直撃すると、ソウジローから奇妙な声が上がる。

 その光景を見たくなかったハリーは、一気に走りづらそうになったソウジローをおいてゴールテープ目掛けて全力疾走する。

 観客席から、男子生徒の爆笑と女子生徒の黄色い悲鳴、あとユーコが日本語で何か叫んでいる声が聞こえてきた。

 ハリーにはその理由が分かっている。何故ならハリーが放った魔法は、名づけるとしたら『脱衣呪文』。縛り付けたものを開放する魔法式が組み込まれているので、ベルトや下着のゴム、はたまた衣服を縫合した糸が消え去ってあられもない姿になっているのだろう。

 高笑いしながらゴールテープを切ったハリーには、賞賛と罵声、そして笑い声が彼女の一位通過を祝ってくれたのだった。

 

 

「最低な課題だったわ」

 

 ハーマイオニーが憮然とした顔で語る。

 第五の課題の内容は、いわゆる障害物競走だった。

 ただし妨害推奨の、とんでもない競争である。

 約二マイルほどのコースに設置された障害物を何とかしながら、ライバル選手を蹴落として、誰よりも早くゴールテープをぶっちぎる。それが今回の競技内容だった。

 ここで一番風変わりなのが、この競技は元々アメリカの魔法学校で広く行われている障害物競走《LOLレース》がもとになっているのだ。この競技で点数が高くなる最大の条件は「おもしろいこと」、ただそれのみ。

 現に審査員席でも、ダンブルドアやクェンティン・ダレルが涙を浮かべてまで大笑いしていた。折角の競技だからと一切遠慮なく妨害に走ったハリーや、通常運転のブレオが高い点数を得たのもここが理由だ。

 おかげでハリーは、第四の課題で最低点を取ってしまったにも拘らず上位陣に食い込むほどの順位を見せて、現在の総合順位は前回から三つ上がって二位だ。

 第六の課題については、どうやら第二の課題と同じくノーヒントのようだ。順位が影響するようなことをダンブルドアが言っていたので、少しだけ有利に働いたかと思うと今回無茶した甲斐があるというものである。

 

「無茶というか無謀だよね」

「普通に風呂とかであたしらに会うのに、よくできるもんだよな」

 

 現在地は風呂場。

 不知火大浴場の女湯で、ユーコとローズマリーに捕まってしまった。

 ユーコはソウジローの、ローズマリーは自身の写真を回収するのに大忙しだったそうだ。突如半裸に剥かれ呆然としたイケメン男子と、白く粘々したもので身動きが取れなくなって顔を赤くする美女。写真を売りさばいて二人にブチ殺されたリー・ジョーダン曰く、高値で売れたそうだ。

 二人がハリーに迫る中、ハーマイオニーはいつの間にかサウナ室へ移動していた。どうもあっさり見捨てられたらしい。

 

「ハリー、何か言い訳はあるかな?」

「ユーコ、甘い。甘いよユーコ。世界にはたった一つ変わらない法則があるんだ」

「何が?」

 

 湯船につかったまま、ハリーは二人を見上げて言う。

 

「敗けた方が悪い!」

 

 数時間後。

 頬やら胸を散々引っ張られてダメージを受け過ぎた上にサウナに閉じ込められたハリーがようやく脱出したころ、脱衣場で待っていたのはユーコだった。

 まさか今度は尻でも狙うつもりかと戦々恐々としていたら、溜め息と共に最後の人が出るまで浴室を閉鎖できないからだと説明された。さもありなんである。

 生徒会長の仕事だから仕方ない、と言うユーコと会話して、のぼせ上った体を魔法で戻すとともに歩き始めた。どうやら彼女はダンブルドアに用事があるようで、一緒にホグワーツの城まで行ってくれることとなった。

 一人で歩くのは寂しいものだから、有り難い話だ。

 

「ところで、ダンブルドアに何の用なの?」

「ん? 悪いけど秘密。不知火とホグワーツの関係のことだからね」

 

 そう言って唇に人差し指を当てるユーコは、同性の目から見ても可愛かった。

 いまは黒いキモノを着ており、その肩には同色のハオリを羽織っている。地味ながらも、彼女の長い黒髪と合わせればまるで墨イラストのように映えるのだから不思議だ。

 しかしその服装は、ハリーに第五の課題で見た夢を思い出させる。

 吸血鬼によって吸血衝動を植え付けられた、妖怪の血が流れる少女。夢の中でソウジローが語った、ユーコの正体。シリウスはその話に信憑性がないとして、ソウジローのことを疑っていたのだ。

 ――なんだか頭の中がもやもやしてきた。

 あの後は口喧嘩になってしまい、ハリーの身を案じて譲らないシリウスと彼の思惑を知っているのに反論してしまうハリーとで、重い雰囲気になってしまったのでその場はそこで解散した。シリウスはしばらくイギリスに滞在するとのことで、また話をする機会もあるだろう。

 しかしハリーは、友人を疑いたくはなかった。

 だから――、――なんだったか。そう、だからハリーはここで問うつもりだ。直接、ユーコを問い詰める。問い詰めて――どうするんだったか。問い詰めて――とにかくその後だ。

 例え疑っていたのかと言われて嫌われてしまおうとも、上っ面で仲良くして裏では敵かもしれないという関係を続けていくのは、耐えきれないのだ。

 そう――、耐え切れないから、問い詰めるのだ。

 

「ユーコ、単刀直入に聞くけど」

「なにハリー」

「君って吸血鬼?」

 

 ハリーが脈絡もなく放った言葉に、ユーコは固まった。

 これが狙いだった。人は唐突にバレたくない秘密を指摘されたとき、なかなか冷静でいることは難しい。それも、己の正体などという決して明るみに出てはいけない秘密であった場合は、彼女のように腹黒さを持っていても例外ではないだろう。

 ユーコは見るからに動揺を残したまま、努めて普段通りにハリーへ返答する。

 

「なに? ハリーには私が君の血を吸うように見える?」

「ソウジローのは吸ってたよね?」

 

 ハリーが間髪入れずにそう返した途端、ユーコはわかりやすく顔を真っ赤にした。

 内心で落胆すると同時に、怒りが湧いてきた。この一年間、ずっと騙されてきたかもしれないのだ。ただ吸血鬼であることを隠したかったのならば、どれだけよかったか。

 

「み、見たの? あれを見たのか!?」

「ユーコ、おまえ……」

 

 ここまで狼狽えるのなら、シリウスの疑いは真実と見ていいのかもしれない。

 でもなんだろう、何か違和感を感じる。

 ――いや、違和感などない。だが――、

 

「ッ!」

 

 しかしその違和感も、ユーコが袂から扇子を取り出したことで霧散した。

 一瞬で考え方を切り替えて、ハリーは懐から杖を抜き放つ。

 ユーコが手に持った扇子をばっと小気味よい音を立てて開くと、ハリーはその扇子の構造を()破った。あれは杖だ。木製の骨一本一本が魔力を有した木で作られており、仰ぐ部分である扇面と、骨を留める要の部分が西洋杖でいう《杖芯》にあたる材質で造られているようだ。

 彼女の小柄な体内から、膨大な魔力が溢れだす。あれだけの量を、一瞬でここまできめ細やかに練り上げることができるのは見事の一言だ。

 とはいえ、ハリーとて早撃ちでは負けてはいない。ローズマリーには及ばないまでも、幾度かの死線を潜り抜けてきたハリーにとって、彼女より素早く魔法を撃ち込むことは不可能ではない。

 もっともそれは、彼女が狙っているのがハリーであればの話。

 

「『インペリオ』、服従せよ!」

『アリエーヌム』、逸らせ(こっちのみずはにがいぞ)!」

 

 いま狙いを定めるべきは、殺気を飛ばしてきた何者かだ。

 一瞬でハリーの背後に現れた男が、禁じられた呪文を放ってきた。

 ユーコはハリー越しにその男へ風のような変形魔力反応光を放った。まるで舞を踊っているかのような、優雅な振り方だ。こちらの杖と違って、放物線を描くように魔力反応光が飛ぶらしい。綺麗にハリーを迂回した魔力反応光は、男の放った魔力反応光を明後日の方向に逸らしながらから男の手から杖を弾き飛ばした。

 それを好機と見て、ハリーも杖先から赤い魔力反応光を射出する。しかしそれは男が無理に体を捻り、常人ではありえない動きを見せたために回避された。

 そのおかしな姿勢から男が取り落とした自身の杖を拾い上げると同時、ハリーはその場を飛びのいた。男の放った紫色の魔力反応光が地面を跳ね、ぐずぐずと土を腐らせていったことから自身の行動が正解だったと悟る。

 

「くっ、なんだこいつ」

「わからない。でもハリー、油断しちゃダメ」

「わかってる!」

 

 男はローブのフードを深くかぶっており、顔が分からない。

 しかし服装を見るに、汚れた紳士用スーツを着ているため男性であることが分かる。体格はあまりいいとは言えない。いっそ格闘戦に持ち込んだほうが有利だろう。 

 

「『インペリオ』!」

『コンキリオ』、寄せろ(あっちのみずはあまいぞ)!」

 

 男が相も変わらず服従の呪文を放つも、ユーコの放った魔法によって魔力反応光が明後日の方向へと曲がり飛んでゆく。魔法式を視てみれば、どうやら魔力反応光そのものに干渉するように組まれているらしい。

 しかし分からないのが、先ほど男の使った地面が腐った魔法だ。

 あれを受けてしまえば、死は免れえない。

 

「『フルクトゥアト・ネク・メルギトゥル』、孤独に逝け」

「『アニムス』、我に力を!」

 

 男が何やら聞いたことのない呪文を叫び、杖先に極彩色の魔力反応光を集めた。それに内包された魔法式を視たハリーは、ぎょっとして杖を振るう。『身体強化』の呪文を叫び、自身の身体に青い燐光をまとった。

 チカチカと目に刺激を与える魔力反応光が杖先から放たれる直前、全身に魔力を行き渡らせたハリーは、ユーコを抱きかかえてその場から跳んだ。身体に起伏があまりないので、滑って抱きづらい。

 

「ハリー、なにを!?」

「いいから黙ってしがみついてろ!」

 

 ユーコの叫び声に適当な返事を返し、ハリーは慌てて城近くまで走る。

 全力で気遣いなく疾走するため、ハリーが踏み抜いた地面にはくっきりとハリーの足跡が刻まれており、一歩一歩着地するごとに酷い土煙が舞う。

 襲撃者の足元、その直系二メートルほどに円状の霧が噴きだす。

 まずい、とハリーは確信した。第五の課題でも行った加速方法を思い出し、靴の裏に空気を集める。出来る限り圧縮した空気を一方向に絞って爆発させ、ハリーを弾丸に見立てた空気銃と同じ要領で、更に素早く駆ける。

 円状の霧が、前触れも音もなく大爆発を起こす。

 まるで術者自身はドームで守られているかのように影響はないが、クィディッチピッチを覆い尽くすほどの範囲の空間が、ドギツい色に包みこまれた。

 抱きかかえられている形のユーコは、つい数瞬前まで自分たちがいた地面がぐずぐずに崩れていく様を目の当たりにした。木々が一瞬にして腐り落ち、重力に従い地面に落ちた枝が乾いたメレンゲのように崩壊した。

 

「な……ッ」

 

 なんて、ろくでもない魔法。

 いったいどのような魔法式を組んだらあんな結果をもたらすのか。

 明らかな闇の魔法の行使に、ユーコは背筋がぞくりと寒くなる。

 

「ユーコ! この隙に奴を潰すぞ!」

「あっ、う、うん! 『セクィトゥル』、追走(うしろのしょうめんだあれ)!」

 

 ハリーの号令に合わせて、ユーコが扇子を振ると花びらを固めたようなデザインの円盤が二枚現れた。それらは自ら高速回転しており、ユーコの穿いているブーツの側面に装着される。『身体強化』状態のハリーが駆け出し、円盤を装備したユーコが滑るように移動する。

 高速で迫る少女二人を相手に、襲撃者は慌てることなく杖を振った。

 

「『プロテゴ・モエニウム』、高き壁よ」

 

 盾の呪文の亜種だ。

 地面が異音と共にせり上がってきたかと思えば、ハリーらと襲撃者の間に五メートルほどの壁を造りだす。それを見て拳を構えたハリーを制して、ユーコが扇子を閉じて魔力を込めはじめる。

 確かにユーコは疑わしい人物になってしまったが、しかし今は彼女を信じなければ切り抜けられそうにない。ハリーは頷くと、そのまま壁に向かって速度を上げた。

 そのままの軌道では確実に正面衝突するコース。あと数歩進めば、もう方向転換も利かなくなる。その距離まで来て、ユーコは呪文の発声と共に扇子を振るう。

 

『グラヴィス』、壁抜け(とおりゃんせ)!」

 

 ユーコが呪文を叫ぶと、ハリーの足元から多数の木がワイヤーのように飛び出して、ハリーの身体を包み込む。まるで木製の籠である。一瞬だけ視界が滑ったかのように反転して、一瞬の後には壁の向こうへと転移していた。

 木の籠がほどかれると同時、ハリーは籠の底面を蹴って飛び出すと、その勢いを利用して襲撃者のうなじに回し蹴りを叩きこんだ。超人的な身体能力を発揮することのできる『身体強化』状態で、急所を狙った本気の一撃。確実に首の骨に多大なダメージを与えた感触をしっかりと確認した。

 別段ここで相手が死のうと、ハリーにとっては知ったことはない。生きていればもうけもの、首から下が麻痺した襲撃者から無理矢理情報を抜きとればいいだけなのだ。

 地面に倒れ伏して身動きしなくなった襲撃者を見下ろしていると、ユーコが姿を現した。着物の裾を抑えて、生脚が見えないようにしている。うーん、エロい。

 

「……殺したの?」

「さあ。死んでもいいつもりでやったけど、少なくとも骨はイったし動けないと思う」

 

 余計な思考を追い払って、ハリーは杖を振るうと俯せに倒れている襲撃者を無理矢理に転がした。直接蹴って転がすと、罠を張っていた場合に対処が送れる。そのために杖を向けたままでいられるこの手法を選んだのだが、結果的にそれは正解だった。

 襲撃者が目深にかぶっていたフードがはずれ、中から出てきた顔を見たハリーは驚きと共に訝しげな声を出す。

 

「バーテミウス・クラウチ……」

「このヒト、イギリス魔法省の役人さんだよね。……どうして、こんな」

 

 バーテミウス・クラウチ。

 魔法省の中でも最も厳格な役人と言われ、第一の課題では選手たちにドラゴンのミニチュア模型を配った魔法使いだ。ハリーも、クィディッチワールドカップの時に仕事の鬼だと評されていたのを覚えている。

 そんな彼が、このような襲撃をするとは何か理由があるのだろうか。

 仮にも一学校の代表選手にしてヨーロッパ魔法界の英雄ハリー・ポッターと、こちらから招いた他国の未成年……それもその学校の生徒会長にして代表選手の身内だ。

 ハッキリ言って、彼が死喰い人である以外に彼女たちを襲う理由がない。

 

「とりあえず拘束して先生方を呼ぶしかないね……。どうしてこんなことをしたのか、」

「いや、なんでぼくたちを襲ってきたのかは分かった」

 

 クラウチの目が濁っている。明らかに正気を失っている目だ。

 ハリーは、自分とユーコを睨みつけるクラウチを見る。ハリーに首の骨にヒビが入ったり折れた経験はないが、相応の激痛が走っているだろうにその様子は全く見せない。

 ぼんやり発光している瞳と、全身に纏わりつくように漂う魔法式を視て言う。

 

「『服従の呪文』と……これは『無痛呪文』かな? この二つだけで痛みを感じない兵隊の出来上がりか、効率的で悪趣味だ」

 

 許されざる魔法、『服従の呪文』において最も重要視されるのは、当然ながらその絶対的な命令権にある。被害者がいくら嫌がろうと、どれほど拒否しようと関係ない。その体は既に術者の思いのままなのだ。

 ただ被魔法者の意思が強ければ強いほど、その解呪は容易になる。単純に強ければいいと言うものではなく、無論のこと闇の魔術に対する相性もある。その意思とは生物がもつ生存本能も含まれるとの研究結果が出ている。

 つまり、操られている最中に意識が飛ぶほどの激痛を受けると正気に戻る可能性があがるというわけだ。もちろん、そのまま死んでしまうケースがほとんどであるため、あまり意味はない。単純に苦痛を与える魔法、『磔の呪文』はその最たるものだ。

 『服従の呪文』と『磔の呪文』は、とてつもなく相性がいい。

 まず『磔の呪文』でありとあらゆる苦痛を与え、対象者の意思をくじく。そうして心が脆くなったところに『服従の呪文』をかけて、甘美な世界へいざない操り人形と変えるのだ。逆に、『服従の呪文』で操られている人間に『磔の呪文』をかけると、肉体が死なないままに苦痛を与えることで洗脳から解放することができる、といった具合にうまくできているのだ。これらを考えた人間は、よほどの外道だったに違いない。

 さて、今回その非道さはあまり問題ではない。

 問題はバーテミウス・クラウチという人物が、洗脳されているということだ。

 さらにもう一つの問題は、ユーコが疑わしいということ。

 

「ユーコ、今すぐ答えて。ユーコ、君は本当に吸血鬼なのか」

「……いやそれ、いま話すことじゃないでしょ」

「だめ。答えて。じゃないと、ぼくがこのあとどうするかが変わる」

 

 場合によっては――、そう、場合によっては殺すべきだ。

 言外にそう言ったことは伝わっているか怪しいが、ハリーの様子が尋常ではないことだけは伝わってようでユーコが冷たい汗を一筋流した。

 ハリーの出したことさらに冷たい声に、なにか合点がいったかのような声をユーコは漏らす出す。そしてアー、だのウー、だのと唸り、

 頬を染めながら言った。

 

「なにを勘違いしてるのか知らないけどね。……この前、お風呂場で私とソウジローが抱き合ってたことを言ってるんでしょう?」

「うん、それ」

 

 ハリーが断言すると、ユーコはなにやら頬を染めた。

 頻繁に落ち着きをなくし、言いづらそうにしている。

 

「えっと、だね。どうしてそれを知ってるのかとか色々言いたいことはあるけど、その、」

「続きを」

「……その、……致そうとしてました」

「…………は?」

 

 てっきり「隠していてごめんなさい」か「どこでそれを知った」くらいのことが聞こえてくるものと思ったが、どうもそんな内容の言葉ではなかったようだ。

 それどころか、この緊張した場では最も相応しくないはずの言葉が聞こえてきた。

 頭が可笑しくなったのかと思い、ハリーは奇妙な顔をする。

 しかしどうも聞き違いではないらしい。

 そして未だに理解しようとしないハリーに対し、ついに怒ったようにユーコが叫んだ。

 

「だからぁ! ソウジローに迫ってただけなの! 私だって十五歳だよ、そういうことに興味あったっていいじゃないか! ローズマリーに取られそうで不安だったんだよ!」

「え、あ、そう?」

「そうだよ! 女性としての魅力じゃ完敗だろうが! どーだよ、コレこの場で言うことか!? 迫って抱きしめた挙句「俺たちにはまだ早い」と真っ向から拒否られた私を笑えよハリー! っていうか首筋を甘噛みした事までどうして知ってるのさ!?」

「え、あー……えっとだな……」

 

 言っていいのか?

 ソウジローは確か、秘密にしてくれと言ったはずだ。

 というか、コレはどうなっている。

 ハリーはユーコが吸血鬼であると確信して、今の問いを投げた。

 それは確かだ。

 しかし吸血されたからと言って、感染しないとも教えられていたはずだ。

 だったら気にすることはない、と考えるのがいつものハリーだったはずだ。

 ユーコとのことは、ちゃんと友人と思っている。それを殺すかどうかで考えるなど……ありえないことだ。だとすれば、何故こんなことを考えていた?

 

「……あれ? どうなってるんだ……?」 

「……じゃあハリー、こっちからの問いにも答えてもらうよ」

「な、なに、ユーコ」

 

 しかし新たな問題が発生した。

 ユーコへの疑いは晴れたかもしれないが、すると今度は彼女からハリーに向けられる目が分からない。恐怖でも軽蔑でも、ましてや親愛でもない。

 あの目つきは覚えがある。

 二年生の時、大多数の生徒から向けられたあの視線。

 疑念だ。

 

「ハリー。君、さっきこの人がかけようとした魔法を、どうやって看破したの?」

「……周囲を腐らせた魔法のこと?」

「そう。全く前触れもなかったはずなのに、どうして?」

「えっ、魔法式を視てどんな魔法かを判断しただけなんだけど……」

 

 何かおかしなところがあっただろうか。

 ハリーにはわからないが、どうやらユーコには分かっているらしい。

 可愛らしい人形のような顔を歪めて、ハリーを睨みつけて言う。

 

「……()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 今度はハリーが顔をしかめる番だ。

 ユーコが言っている意味がよくわからない。

 

「なに言ってるんだユーコ。みんな魔法使うときに、杖の周りとかに出してるだろ」

「私からしたら、君こそ何言ってるのかわからないよ。生身の人間の目で魔法式が視えるわけないじゃない。ハリー、きみ別に魔眼持ちとかじゃないんでしょ」

「……そうだよ、チャームでもパイロでもないよ」

「だったら尚更おかしい。専用の魔法を使っているならともかく、特に何も持っていない人間が、魔法式を視るなんてのは絶対にありえない」

「でも……!」

 

 ユーコの言葉に、ハリーはだんだんと焦りを感じ始めた。

 魔法式など、ハリーが魔法界に関わるようになってから腐るほど視てきた。

 しかしこの四年間、それを視ることがおかしいなどと思ったことは一度もない。しかしハリーが思い出したのは、またしても二年生の時のこと。

 蛇と話せることが特別なことではないと思っていた、あの経験。

 さっと青褪めたハリーに対して、ユーコが口を開いたその時。

 

「おい! おい、二人とも! 大丈夫か!?」

 

 走りながらこちらへ叫んできたのは、クラムだった。その隣にはブレオもいる。

 

「二人とも、怪我はしていないか!」

「え。あ、お、おう。大丈夫……」

「特に問題ないよ。君たちはどうしてここに?」

 

 動揺したままのハリーと、先ほどまでと一転して冷静になったユーコ。

 肩で息をしているブレオが説明しようとするも、流石プロスポーツ選手というべきか、少し汗をかいている程度で全く息が上がっていないクラムが代わりに口を開いた。

 

「ヴぉくたちは城の中で話をしていたんだが、窓から地上で君たちがフードの男に襲われているのを見つけてね。慌ててきたというわけだ」

「そ、そのとーり……お、おんにゃのこを、みすて、る、のは、紳士じゃぬぁい」

「なるほど……ありがとうね、クラムさん。あと君はハアハア言いながら抱きついて来ようとするなぶった切るぞ」

 

 全力疾走してきたのだろう、玉のような汗を流しているブレオは、ユーコに肩を押されただけでその場に座り込んだ。

 クラムは倒れている人物がバーテミウス・クラウチであることに驚き、説明を求めてくる。ユーコが、彼が『服従の呪文』にかかっていたことなどを説明している最中、ハリーはブレオに近づいて問う。

 

「ブレオ」

「な、なんだい、ハリエットちゃん。僕は、ものすごく、疲れて、るんだけど」

「もうちょっと頑張ってくれ」

 

 ブレオが手をわきわき動かしてハリーの胸を掴もうとしてきたが、払いのける。

 揉めれば元気が出たのに、などと笑っているあたりもう問題なさそうだ。

 だったらさっさと喋ってもらおう。

 

「さっきの話だと、君らは上から見てたって事だよね」

「あ、ああ」

「ぼくら三人以外に、誰か見えなかった?」

「君と、ユーコちゃんと、そこの英国紳士だろ? その三人以外には、居なかったけど」

 

 困った。

 術者がハリーを殺すのが目的でクラウチを操ったのなら、ハリーの死を自分の目で確かめるために傍にいると踏んだのだが、どうやら外れたらしい。

 校内で殺人未遂。これは誰か先生に、いや、ダンブルドアに報告するべきだ。

 クラウチは首の骨を折ったにせよヒビを入れたにせよ、重傷には違いない。動かないとは思うが、念のために誰かが見ている必要がある。

 

「ヴぉくがひとっ走りして校長室に行ってくる」

「待て、クラム。ユーコちゃんが、オリガミバードで、連絡した方が、速いんじゃないか」

「折り紙バードって式神だよね? なら駄目だブレオ。あれは魔法式が割と攻撃的だから、きっと防護魔法に防がれて辿り着けない。ならホグワーツ生のハリーに行ってもらった方がいい」

「……わかった!」

 

 会話が終わるや否や、ハリーは自分の体に『身体強化魔法』をかけた。

 青白く発光したまま三人に向かって言う。

 

「三人とも、クラウチを見てて! そいつを操った奴が来るかもしれないから十分に用心して!」

 

 そう言い残し、ハリーは思い切り地面を蹴った。

 深い足跡を残して跳びあがったハリーは城の壁に張り付くと、杖を振るって自分の体を支え、壁を全力で駆け抜ける。その最中に、ハリーは空間の切れ目から《忍びの地図》を探す。

 しかし、いつもならばすぐに取り出せるそれが見つからない。

 ハリーは悪態をついて、壁を蹴って反対側の壁に着地。それと同時にもう一度壁を蹴って、元のいた壁の上部にある窓を蹴破って侵入した。ガラス片が飛び散り、中にいた下級生たちが驚きの悲鳴をあげる。

 構ってやる暇はない。青白い光の帯だけを残して、ハリーは校長室に向かって全力で走る。生徒たちに不気味な印象だけを残して、ハリーは校長室の前に設置されているガーゴイル像まで辿り着いた。

 息を切らして目の前に現れたハリーを見て、ガーゴイルは不愉快そうに言う。

 

『廊下は走るもんじゃないぞ』

「開けてくれ! 『レモン・キャンデー』!」

『いいや、合言葉が違うぞ。入れてやることはできん』

 

 じゃあ――なんだ?

 ダンブルドアは甘いお菓子を合言葉に設定している場合が多い。

 過去には『ドルーブルの風船ガム』やら『百味ビーンズ』も設定していたはずだ。それをどうにかして知ってぼくたちはよく――いや待て、何の話だ。今はそんな思い出話はどうでもいいはずだ、重要なのはダンブルドアを――、……そう、探すことだ!

 ハリーは適当なお菓子の名前を叫び続けたが、それは扉を開けることはかなわず別の人物を呼び出した。

 

「どうしましたポッター、そんなに叫んで! 淑女にあるまじき行いですよ!」

 

 マクゴナガル……、ミネルバ・マクゴナガル先生だ。

 彼女ならば、ダンブルドアの居場所を知っているはず。

 

「マクゴナガル先生!」

「お静かになさいポッター、減点されたいのですか!」

「そういうのいいから! いまダンブルドア先生は部屋の中にいるのか!?」

 

 あんまりなハリーの態度に、マクゴナガルも一瞬鼻白んだようだ。

 彼女の意識はしっかりとハリーの方へ向いている。そしてハリーに向かって首を振った。

 どうやら不在のようだ。それを見て、ハリーは若干八つ当たり気味の怒りを覚える。

 

「くそっ! この絶好のチャンスにどうして奴はいないんだ!」

「何度でも言いましょう、どうしたのですポッター。何がありました?」

 

 悪態を吐いたハリーにマクゴナガルが問うてくる。

 それに対して、ハリーはイラついたように答えた。

 

「バーテミウス・クラウチから襲撃を受けた!」

「落ちつきなさい、ポッター。待ちなさい」

「ああ、彼は危険だ。だから、ぼくをダンブルドアに会わせろ!」

「落ちつけと言ったのですよ、ポッター!」

 

 恐ろしい剣幕で彼女の肩を掴むハリーに対し、マクゴナガルは厳しい顔で彼女を見つめる。じっとハリーの目を見つめたまま、微塵も慌てた様子がない。

 それどころかハリーに対して落ち着くようになどと意味の分からないことを言い、肩を掴んでくるではないか。

 どうしても早くダンブルドアに会わなければならないのに、なぜ彼女は邪魔をするのだろうか。そこでハリーはマクゴナガルにも『服従の呪文』が掛けられていると判断し、肩を掴まれたまま懐から杖を抜こうとする。

 しかしマクゴナガルの動きは、それよりも余程速かった。

 既にハリーの鼻の頭にくっつくほどの距離に杖先を突きつけられ、驚いた顔のハリーにマクゴナガルは静かな声で呪文を唱える。

 

「『ケルタ・コグニーティオ』、正気に戻れ」

 

 ――、瞬間。

 目の前から杖先が離れると、ハリーの目には険しい顔のマクゴナガルが見えてきた。

 一瞬だけ、変身術の授業中になにかやらかしてしまったのかと大いに焦るものの、そもそも今は授業中ではないし、だいいち教室でもない。

 さらに言えば、いま自分は……、

 

「そ、そうだ。クラウチに襲われて……それで……」

「ええ、ポッター。今はあなたにかけられていた呪いについても問いません、先を急ぎますよ」

 

 そう言うが早いが、マクゴナガルはまるでハリーが元来た場所を知っているかのように駆けだした。老女とは思えぬ素早い脚だ。正直言って、魔法で強化していないハリーでも追いつくのがやっとと言ったところである。

 自分が呪いをかけられていた? いつの間に? いや、()()()()だ?

 先ほどまでの妙な気持ちと、今のすっきりしたような気持ち、どちらが自分だったのか。呪いをかけられていたというマクゴナガルの言が真実ならば、先ほどの自分はまさか『服従の呪文』にでもかかっていたのだろうか。いいや、そんなはずはない。ムーディにかけられた時の、あの幸福感などなかったのだから。

 ぐるぐると不可解な思考が頭の中をめぐる中、ハリーはマクゴナガルが鋭く飲んだ息の音で意識を現実に引き戻された。引き戻され、そして声を失った。

 

「……っ、あ……」

 

 血だ。

 クラウチがいた場所を中心として、生臭い鉄の液体が広がっている。

 それだけではなく、周囲にもさまざまな花が咲いている。

 木に背を預けるようにして俯いている者。

 地面に横たわって何かに手を伸ばした者。

 意識を失いながら未だ杖を構えている者。

 すべてハリーの知っている人物が、様々な場所からその赤を流して倒れている。

 

「ユっ……、ユーコ! クラム! ブレオ!」

 

 血まみれの三人のもとへ駆け寄ろうとしたハリーを、マクゴナガルが強い力で押しとどめる。抗議しようとしたハリーの口を塞いだのは彼女の手ではなく、その怒りと憂いがどろどろに入り混じった彼女の表情だった。

 

「『エピスキー・マキシマ』! 癒しの光を!」

 

 淡いオレンジ色の光がマクゴナガルの杖先から飛びだすと、シャワーのように三人に降り注いだ。暖かな魔力反応光は三人の身体から血を洗い流し、真っ青な顔色を徐々に暖かなそれに変えてゆく。

 ハリーが固唾を飲んで見守っていると、後ろからばたばたと急いでやってくる足音が聞こえてくる。マダム・ポンフリーと、ネビルにジニー、あとはハリーの知らない女子ハッフルパフ生が二人ほどだ。

 恐れ入ることに、マクゴナガルが走りながら念話で呼んでいたのだろう。生徒たちはちょうど近くにいたのだろう、マダムから手伝うよう命じられたのかもしれない。

 まず最初に意識を取り戻して激しくせき込み始めたのは、木にもたれかかっていたユーコだった。

 

「げっほ! がはっ、げほ! がふっ!」

「ユーコ! おい、大丈夫か!」

 

 喉に詰まっていたのか、赤黒い血を吐き出して咳き込むユーコの背中をさすりながらハリーは呼びかける。ユーコは一瞬ハリーの目を見たものの、そのまま気を失ってしまった。

 脈に手を当てて、とくんとくんと力強く脈打ってることを確認したハリーは、杖からふわふわの白いクッションを出して、ハッフルパフ生たちに指示を出すとその上にユーコの身体を横たえさせた。

 次に息を吹き返したのはブレオだった。ひゅーひゅーと苦しげで奇妙な息をしており、ハリーが呼びかける前にマクゴナガルの指示によって、マダム・ポンフリーが出した担架にブレオの身体を乗せると、ネビルとジニーがすぐさま医務室へ連れて行くことになった。

 その直後に目覚めたのは、クラムだ。息は荒いようだが、深刻なダメージを負っているというわけではないらしい。ハリーから見ればどう見ても重傷なのだが、マダムほどの腕を持った癒者の下した診断に間違いはない。

 ハリーがクラムに肩を貸して、既に医務室へ駆け去っていったマダム・ポンフリーを追うようにゆっくりと歩き出した。

 

「クラム、何があった。君たちほどの実力者が、なぜ三人もいて……」

「ヤツだ……クラウチだ。あの役人が、ヴぉくたちを襲った……」

「……ばかな。あいつの首の骨をやったのはぼくだ、だから分かる。動けるはずがない」

「それでも動いた。現にこうしてやられてしまったんだ……」

 

 クラムが言うには、あの後ハリーが去ってすぐにクラウチは起き上がったらしい。

 魔法縄で拘束されているというのに不自然な動きで立ち上がると、まずユーコを狙って飛び掛かってきたらしい。クラムはそれを咄嗟に庇うも、予想以上に強い威力の蹴りを貰い悶絶。口の中までせり上がってきた血を吐きだしながら地面で呻いているところをもう一度踏まれ、そのまま意識を失ってしまったというのだ。

 そこから先のことは分からない。分からないが、この惨状から推測はできる。曲りなりにも代表選手であるブレオも、不知火の生徒会長であるユーコも、敵わなかったのだ。

 

「とにかく休んでくれ、クラム。君がいないと最終戦に張り合いがない」

「昼間とんでもないことをした子が、言ってくれる」

 

 軽口をたたき合い、ふたりでニヤリと笑い合う。

 クラムを医務室へ運び込んだところで、ハリーはマクゴナガルから呼ばれた。

 名残惜しいながらも、やはり先ほど自身に呪いがかけられていたという言葉は気になる。クラムと別れたハリーは医務室を出る直前、気を引き締めるために頬をパンと張って廊下で待つマクゴナガルの元へ急いだ。

 

「校長室へ……?」

「ええ、ええ。知らせを受けたダンブルドア先生がお戻りになって、あなたを待っています。さ、行きなさいポッター」

 

 マクゴナガルがガーゴイル像の前で合言葉を唱えると(まさかの『ゴキブリゴソゴソ豆板』だった)、石像のガーゴイルたちに命が拭き込まれて脇に飛び退く。

 それでも相変わらずハリーに対して訝しげな顔を向けてくるあたり、とても腹の立つ石像だ。ぼくの顔がそんなに気に入らないのか?

 

「……、」

 

 ごうん。ごうん。とゆっくり螺旋階段がせりあがってゆくのが分かる。

 ハリーはまるでワインオープナーのように回転しながら登ってゆく階段に飛び乗って、自然とエレベーターのように上階まで行くのを待つ。

 数十秒ほど揺られていると、次第に揺れが小さくなってゆく。着いたのか。

 ぼんやりとした顔で螺旋階段の残り数段をのぼり、ハリーは扉をノックしようと左手をあげる。しかしハリーの手の甲は扉を叩くことはかなわなかった。自然と、向こう側からかちゃりと静かに扉が開いてハリーを招き入れたからだ。

 

「……、ダンブルドア先生?」

 

 ハリーが静かに声をかけると、当のダンブルドアはなにやら杖を使って銀色の光をくるくるといじっていた。何かの魔法実験だろうかと考えるも、ハリーには何がなんだかさっぱりわからない。魔法式を視てみるも、銀色の光はどうやら魔法ではないようで、なにも式は見当たらなかった。

 杖先で絡め取った銀の光を、ダンブルドアはなにかラベルを貼りつけた小瓶に封じて不思議な色合いの棚に仕舞い込んだ。

 そうして、ようやくハリーの方へ顔を向ける。

 

「久しぶりじゃの、ハリー」

「……ええ。お久しぶりです、ダンブルドア先生」

 

 いつもはきらきらしていたブルーの瞳が、今日はなにやら年相応にしょぼくれた老人のように見えた。それも一瞬の事。ハリーが次に瞬いたときには、既にハリーのことを悪戯っぽく見つめる彼の顔があった。

 

「さて、ハリー。まずは君の無事を喜ぼう」

「…………、」

「ああ。あの三人なら大丈夫じゃ。医務室へ運ばれた後は、すやすやと眠っておるよ。明日にはもう飛んだり跳ねたり踊ったり走ったりできることじゃろう」

 

 ハリーはほっと胸をなでおろす。

 ダンブルドアがソファを引いて、座りなさいと言ってくれたのでお言葉に甘えた。

 テーブルの上に暖かいホットチョコレートと、さっぱりしたバタークッキーが現れた。いま完全に魔法で出てきたものだが、食べてもいいのだろうか? 口に入れた途端に魔法式が壊れて魔力に散ってしまったら、空しすぎる。

 しかし彼に勧められるままに口に入れていれば、なんとなく胸が温かくなってきたような気さえする。緊迫しながらもリラックスしているため、適度に身が引き締まった。

 

「さて、ハリー」

「はい」

「君にはいくつか話すべきことがある。過ぎたお話、今のお話、これからのお話。……これを順番に離していこうと思う。まず、もう終わってしまったことから話そう」

 

 相変わらずの言い回しだが、これは自分を気遣ってのことだとハリーは察した。 

 つまり、ストレートに言ってしまうと言葉を叩き付けるような結果をもたらす類いの話題。マクゴナガルの言ったことや、シリウスの言ったこと、さっきの光景、全てハリーにとっていい気分になるようなことではないだろう。

 だが自分のことだ、知らねばなるまい。

 ハリーのそういった考えを見抜いているのか、ダンブルドアはゆっくりと、しかしどこか憂いを含んだ瞳を伏せて話し始めた。

 

「まず、君にかけられていた呪いじゃ。あれは……そうじゃな、『錯乱の呪文』は知っているね」

「はい、呪文集の八〇七ページです」

「ミス・グレンジャーのように素晴らしい正解じゃ。さて、アレの魔法式には精神操作部位に感覚に異常をきたす命令文があることは覚えているかな。その部分を『服従の呪文』に含まれる魔法式(プログラム)に書き変えた魔法……それが、君がかけられていたモノじゃ」

 

 大変ややこしいが、糖衣の錠剤を想像したら分かりやすいだろうか。

 外側は甘い糖の殻で覆われているから、問題ないように見える。

 だが中身は、苦い薬が入っているのだ。更にその薬は、徐々に殺す遅効性の毒薬。

 そうなればコトは簡単だ。

 つまりハリーは、自覚もないままに魔法をかけられ、そして気付かぬままじわじわと自我を侵食されていた状態であったということになる。ぞっとする話だ。

 

「……でもこんな魔法、いつから……?」

「スネイプ先生の解析によれば、およそ一ヶ月間の潜伏期間を想定した魔法のようじゃ。つまり第四の課題……夢の試練の前後に仕掛けられた可能性が高い」

 

 そうすると、やはり可能性はあの夢の世界での中。

 精神世界の内側ならば、心を守る防壁を作るのは難しい。既に作った壁の内側での出来事なのだから、考えてみれば道理だ。

 つまり、やはり代表選手の誰かがハリーに仕掛けた可能性が大きいということか。

 

「これ、ハリー。あまり疑うものではない」

「でもダンブルドア先生」

「ハリーや。わしは君に、人を信じることを知ってほしい」

「……わかりました」

 

 またこれだ。

 彼の善なる心にして、そして悪い癖だ。心の奥底で、ハリーは思う。

 ダンブルドアには悪い癖がある。人を信じるという悪癖が。

 どうしてそう思ってしまうのかは、ハリーとて自分の感情を全て知っているというわけではないので分からないが、しかし今まで常に彼へ信頼を向けてきたわけではないことから、そう思ってしまうのも自然なのかもしれない。

 ハリーとダンブルドアは、あまりにも考えが違う人間だ。

 同じ人間が二人、そのうち片方はもう片方を狙って変身術で姿を変えた殺人者である、というような状況があるとする。ダンブルドアならばあらゆる手法を駆使して殺人者を見破り拿捕するが、ハリーならば気絶すればとりあえず変身は解除されるので両方とも思い切りブン殴るという手法を迷わず取る。

 しかしその本質は『狙われた人物を助けたい』という心優しきもの。同じ目的を違う手段で達成しようとするとき、人は必ず対立する。そして片方のやり方が万人にとっての是ではない場合……つまりハリーとしては、ダンブルドアのやり方が面白くないのだ。

 

「この悪質な呪いについては、既に解呪しておる。犯人にはしかるべき措置を取る必要はあるが、まぁもはや君には関係あるまいて。ハリー、次じゃ。君の今の状況を話そう」

 

 さて、ここだ。ここが重要だ。

 ダンブルドア曰く、やはり今のハリーは狙われているらしい。

 次々と起きる問題の端々に、明らかにハリーへの殺意が込められているとのことだ。

 十分に警戒するように、と締めてダンブルドアはそこで話を終えた。

 

「……それだけ?」

「今知るべきことは、それだけじゃ」

「いやいや、もっとあるでしょう! 誰々が怪しいだとか、何に気を付けるべきなのかとか!」

 

 ソファから立ち上がり、勢い込んで言うハリーに対してダンブルドアは穏やかだ。

 穏やかな顔のまま、なにも言うつもりはないとハッキリ態度で示している。

 どう言っても何をやっても、きっとダンブルドアはハリーに対して余計なことは言わないだろう。それを悟ったハリーは苦い顔をして、そのままソファへと乱暴に尻を乗せた。

 眉を下げて少し申し訳なさそうなダンブルドアの表情も、いまの苛立った気持ちのハリーではわざとそうしているようにしか見えない。頭を冷やすために、ハリーは傍のツボに入れられていたお菓子を鷲掴みにすると、勝手ながら口に放り込んだ。

 

「あ」

「何です。ちょっとくらいくださあぁあああっ!? うわっ、うああ!?」

 

 ダンブルドアの短い言葉を振り払うように、乱暴に返したハリーの言葉が悲鳴に変わる。両手で口元を覆い、痛みに耐えるもぼろぼろと涙がこぼれてくる。

 限界を感じたハリーは、ついに口の中のモノを吐き出した。ハリーの小さな口から飛び出してきたのは、オタマジャクシのような黒いグミ。ハリーが先ほど口に放り込んだのと同じものだ。その凶悪なオタマジャクシにはするどい牙が生えそろっている。ハリーが舌に噛みついた一匹を苦労して剥がしているあたり、盛大に口の中を噛まれたのだろう。

 よもやグミに反乱されることなど夢にも思わなかっただろうハリーは、転がったり壁に手を突いたりと大騒ぎし、慌てて口の中の不届き者をすべて追い出して息を整える。ギッ、と鋭い目でダンブルドアを睨みつけるものの、忘れていた悪戯が成功してしまったような楽しげな顔で笑いをこらえているクソジジイの顔を見ては、もう怒る気にもなれない。

 

「まったく……」

 

 怒りも冷め、気持ちも落ち着いたハリーはとりあえず自分が暴れてしまった後片付けに取りかかった。倒してしまった書類の塔に杖を振ってもとに戻し、吹っ飛んで行ったインク壺や羽ペンをデスクの上に戻す。乱れた服を整え、手を突いたせいで開いてしまった棚の扉をしめようとしたところで、ハリーはふと気づいた。

 銀色の水がたぷたぷと揺れる、不思議な盆が収められていたのだ。そういえばこの棚は、ハリーが入室したときにダンブルドアが小瓶をしまっていた棚だ。

 

「それはの、《憂いの篩(ペンシーブ)》という魔法具じゃ」

「《憂いの篩》……」

「人が持っている頭はとても脆い。だから忘れたい記憶、または忘れてはならない記憶、誰かに見せたい記憶があるとき、これを使うのじゃ」

 

 ハリーが水面を見つめていると、次第に銀に色がついてゆく。

 薄暗い。全体的に茶色と灰色が目立つが、これは木製の手すりと石製の床の色だ。

 真ん中に見えるのは実に悪趣味な檻。虫籠のようにもみえるが、それではあまりに鉄格子の間隔が広すぎる。鉄格子の内側にはびっしりと棘が並べられており、まるで中世に使われた悪名髙き拷問用具の《鉄の処女(アイアンメイデン)》のようである。

 その拷問器具の中に、誰かがいる。悲痛な表情で、死を恐れて酷く怯えている。

 

「……、あれは……イゴール・カルカロフ……?」

 

 檻の中で怯えて震えているのは、まさにカルカロフその人。

 今と比べると随分貧相な印象なのは、げっそりと頬がこけて目が落ち窪んでいるからだろう。栄養状態もよろしいとは思えず、顔色は土気色だ。しかし何よりもあの絶望に満ちた目の様子から、彼がディメンターの脅威にさらされていることがよくわかった。

 

「死喰い人、イゴール・カルカロフ!」

 

 裁判長らしき服装の人間が、威厳ある声で叫んだ。

 よくよく顔を見てみようとハリーが乗り出すと、ふっと足元の感覚が消えてしまう。「ウ、ワ!?」まさかと思い短い悲鳴をあげるも、身体はどんどん下へと落ちていく。重力に引っ張られる間隔のまま、ハリーは杖を懐から取り出そうとするが、それより地面に落ちる方が早い。

 身構えて衝撃に耐えようとするも、尻を襲った衝撃はクッションに腰かけた程度の柔らかいもの。傍聴席のひとつにすとんと座って衝撃でテーブルに置いてあった紅茶のカップが跳ねてハリーの手の中に納まっていざ優雅なティータイム、ミルクの量はお好みで。

 

「何これ?」

「ここは記憶の中じゃよハリー」

「いやそういうことじゃなくて今のはなんだよ今のは」

 

 いつの間にか隣に座っていたダンブルドアに問いかけるも、明確な答えは返ってこなかった。というか微笑んで言っているあたり、わかっていて適当にはぐらかしているのだろう。この老人はいつもそうだ。

 仕方なく手の中に飛び込んできた紅茶を一口飲む。ダージリンだった。

 がんがん、と木槌(ガベル)を叩き付けて傍聴人たちのざわめきを止めた裁判長の顔を見れば、なんと先ほどハリーを襲撃したバーテミウス・クラウチその人だ。

 

「死喰い人、イゴール・カルカロフ。元仲間の情報を売るとのことでここまで来させた。裏切りの準備はよろしいか。こちらには証言が有益であればあるほど、罪を軽くする用意がある」

「ヒ……、は、はい……」

 

 威圧的なクラウチの声に、カルカロフは短い悲鳴と共にか細い同意の声を漏らす。

 これはなんだろう。

 ハリーはあまり詳しくはないが、捜査に協力することで罪を軽くしようという司法取引というやつだろうか。話している内容からして、そこまで間違ってはいないだろう。

 

「ロジエール! エバン・ロジエール」

「奴は死んでいる」

「死ッ……!? ま、待ってくれ! ルックウッドだ! オーガスタス・ルックウッド! やつはスパイなんだ! 魔法省から『例のあの人』に情報を流していたんだ……ッ」

 

 クラウチは隣に座る秘書官らしき魔法使いに、今の言葉を書き写させる。

 丸眼鏡をかけた秘書官は、がりがりと羽ペンを動かすだけで何も言葉を発さなかった。クラウチは表情すら動かさず、冷徹にカルカロフを見下ろすのみ。

 そして冷ややかな声で言った。

 

「神秘部のルックウッドだな。それだけか。ではアズカバンへ戻れ」

「待ッ!? そっ、それじゃない、それだけじゃないぞ! ラムリー! ジャスパー・ラムリーは死喰い人だ! ホラ、知ってるだろう!? 魔法戦士団の副団長だァ!」

「奴は死んだ。ソーフィン・ロウルを捕まえようという作戦中に裏切り、ガブリエル・ハワードを始めとした闇祓い十七人を道連れに戦って死んでいった。よってその証言に力はない」

「しッ、死んだ……? あのラムリーまで……!?」

 

 残酷なやり取りだ、とハリーは思った。

 クラウチからすれば罪人が罪人を引っ張り出してくる美味しい状況で、カルカロフからしてみればかつての仲間を生贄にしてまで命乞いをしている。仲間意識などもはや皆無に等しいだろうが、ヴォルデモートが裏切り者を生かしておくとは思えない。

 このまま闇祓い達がヴォルデモート陣営を打倒できればそれでいい。自分はこの取引によって、多少の監視や不自由はあれど娑婆で暮らせる。一方、裏切り者と蔑み自分を狙う元お仲間達はアズカバンか死刑台によって追ってこれない。こうして捕まってしまった以上、その結果がカルカロフにとっての万々歳である。

 無論、ヴォルデモート達が勝てばカルカロフは当然ながら死よりも辛い目に遭うことは確かだ。ゆえに全力で裏切って、魔法省側に勝利してもらう必要が出てくる。全力で元の仲間を踏みつけなければならない状況を強要させている、この裁判にハリーは反吐が出る思いだった。

 効果的なのは理解できる。できるが……、今のハリーには辛すぎた。

 

「まだいる、まだ居るぞォ! 日刊預言者新聞のアラベラ・ホフマン! ブラック家に連なるアニータ・メルフリア! それにフェビアン・ウィルクスとジョナス・マルシベール!」

「その者らも全て逮捕時に死亡している。よってその証言に力はない」

 

 まるでテープレコーダーのように同じフレーズを繰り返すクラウチ。

 たった数秒のその言葉によって、カルカロフはまるでやすりで魂を削られているように悲痛な顔を深めていく。こんな酷なモノは見ていられないとハリーが思った時、カルカロフの口から恐ろしい言葉が飛び出した。

 

「セブルス・スネイプ! 奴は闇のしもべだ!」

 

 胃を鷲掴みにされたような、奇妙な感覚がハリーを襲う。

 急いで顔をあげて見てみれば、しかしクラウチの反応は冷たい。

 もう一度スネイプの名を、はっきりとした発音で叫ぶカルカロフに対して発言したのはダンブルドアだ。「えっ?」と思い自分の隣を見れば、確かにダンブルドアがいる。淡い紫に濃い同色のラインが走ったデザインのローブ。今立ち上がって裁判長に発言の許可を得たダンブルドアは、何かしら植物の柄を刺繍した臙脂色のローブ。

 なるほど、過去のダンブルドアか。理解したからその面白そうな顔をこっちに向けないでくれ現在(イマ)ブルドア。むかつく。

 

「セブルスは無実じゃ。魔法法律執行部隊の調査によって判明しておる」

「嘘だァァァ――ッ! 奴は闇にどっぷりだ、どう見ても闇の魔術に愛されている! やつは『例のあの人』に忠誠を誓っているはずなんだァァァああああッ!」

 

 きっぱりとしたダンブルドアの否定に絶叫を返すカルカロフ。

 その眼は飛びださんばかりに見開かれて、ぎらぎらと危険な色に血走っている。六校魔法学校対抗試合がはじまる前のこと、久しぶりだと二人が抱擁を交わしているシーンはいったいなんだったのだろうか。こんな目を向けた相手と後々親しくなれるような出来事など、少なくともハリーには想像できない。

 

「では死喰い人イゴール・カルカロフを、独房に戻せ」

 

 クラウチが冷然と言い放つと、あまりのショックにカルカロフは言葉を失くした。

 彼の周囲に闇祓いらしき人物たちが集まり、杖を向ける。魔法式を視る限り、言った通りアズカバンの独房へと転移させる気なのだろう。

 何度か何かを言おうとして、ヒューヒューと声にならない掠れた音が喉からこぼれる。

 そして、転移させる最後の合図をクラウチが送ろうとした時。

 ハリーはカルカロフの口が、三日月に裂けるのを見た。

 

「いや、」

 

 ぞくりとくるような、邪悪な表情を浮かべてカルカロフは笑う。

 その異様な様子に、裁判所に居る人間が皆一様に彼のことを不気味に感じる暇も有らばこそ、カルカロフは嘲るような視線をクラウチに向ける。

 

「いや、いや、いや。まだあるぞ、まだ知っているぞ」

 

 不揃いな髭が生えた顎を撫でさすり、黄ばんだ歯が口の端から覗いた。

 裁判所中の注目を集めたカルカロフは、震えながらも声を絞り出す。

 

「……その者はベラトリックス・レストレンジ以下数名とともに、闇祓いフランク・ロングボトムと、その妻を、恐ろしい、『磔の呪文』で、拷問し! なぶり! 甚振って! そして『服従の呪文』で操り人形と変えて、ダンブルドアを謀った!」

 

 会場がどよめく。

 ダンブルドアが謀られたなどと、恐ろしいことだ。

 当時も世界最強と称されていたかは知らないが、それでも強大には違いない。

 過去のダンブルドアを見てみると、何とも言えない悲しそうな顔をしていた。

 

「やつは『磔の呪文』が上手かった! 何人の闇祓いを廃人にしてなお嘲るように笑っていたのかなんて、俺にもわからない! あんな恐ろしい奴が野放しになっているなんて、ああ、無能な魔法省は何をしているのか!」

「いい加減にしたまえ! 名を言うんだ、名を! 誰なんだ、その悪党は!」

 

 痺れを切らしたクラウチが怒鳴った。

 それを待っていたかのように、粘ついた視線がカルカロフより放たれ、その場に居た闇祓い達を怯ませる。

 手負いの獣こそが恐ろしいとは言うが、追い詰めすぎた弱者は時にこのような怪物にも劣らない形相を取る。それが、今の彼だ。

 そして不用意に追い詰めた代償を、クラウチは手痛い形で支払った。

 

「――バーテミウス・クラウチ」

 

 裁判所に短い悲鳴が上がった。

 その名はおかしなことに、裁判長と同じ名だ。

 一瞬だけ呆けたような顔をしたクラウチの顔が怒りに染まった、その最高のタイミングを見計らって、カルカロフの口からは続けて心を切り刻む刃を口から放たれる。

 

「……その、ジュニアだ」

 

 舐めるような発音が傍聴人たちの耳朶を滑ると同時に、すべての視線がひとところに集まる。裁判長バーテミウス・クラウチの隣、レンズを拭いていた丸眼鏡を取り落した細身の青年。

 臙脂色のシャツに暗赤色のネクタイ、高級そうなスーツは清潔感に溢れている。どうみても普通の青年であるが、一瞬だけその目が煉獄の憎悪に染まってカルカロフを睨みつけたのを、ハリーは見逃さなかった。

 目を見開いて、驚きのまま固まっている彼の元へ闇祓い達が殺到していく。

 抵抗する間もなく魔法で拘束された彼は、目に涙を浮かべて父親である裁判長に訴えた。

 

「おっ、お父さん! 信じてください、お父さんッ!」

 

 どよめく法廷の中、息子の悲痛な声が裂くようにクラウチへ叩き付けられる。

 闇祓い達が次々と杖から紡ぐ魔法縄が雁字搦めにしていく中、唯一味方をしてくれるであろう父親に助けを求める肉親の声。

 父とは、親とは無条件で子を助けてくれるもの。

 恐らくはそんな期待を込めた嘆きだったのだろう。

 呆然としていたクラウチは、泣きそうな息子の顔を見て、言った。

 

「……私に息子などいない」

 

 冷たく吐き捨てられた言葉に、クラウチ・ジュニアは一瞬だけ哀しげに目を見開く。

 やがて次第に沸々と怒りが湧いて出るように顔を歪ませ、唇がめくれあがる。

 そして絶叫した。

 絶望と悲哀、憤怒と憎悪を練り上げて凝縮したような、聞く者の心がささくれ立つような、怨嗟の叫び。それが長々とハリーの耳に這入り込んで、父に見捨てられた子の嘆きを聞きたくなくて、ハリーはぎゅっと目を瞑って耳を塞いだ。

 

「ハリー、ハリーや。もう大丈夫だよ」

 

 そんなダンブルドアの優しい声が聞こえると、ハリーは自然と目を見開いた。

 いつの間にか、校長室の中に戻っている。

 ハリーは知らないうちにソファに座っていたようで、隣の肘掛にはいつだったか見た不死鳥が尾を揺らしてハリーの肩に頭を預けていた。

 彼女が恐怖から解放されたのを見て取ると、小さく歌うように鳴いて止まり木へと飛んでゆく。ダンブルドアの優しい、安堵したような瞳を見てハリーは問いかける。

 

「……あのあと、クラウチ・ジュニアはどうなりましたか」

 

 ダンブルドアはハリーの隣に座ると、杖を振って暖かいレモネードを取り出した。

 それを飲むように勧められ、ハリーはマグカップを手に取ると一口すする。

 

「彼はあの後、アズカバンに収監された。心の弱い若者だったのじゃ、あれはヴォルデモート卿と確かにつながっておった」

「冤罪ではなかったんですね。……彼は、いまも?」

「いや。彼はそのひと月ほど後に獄中死しておる。看守の話では、最後まで父親の名を呼んでいたそうじゃ」

「…………」

 

 やりきれない気持ちになったハリーは、ぐいとレモネードを飲み干した。

 お代わりを注いでくれたダンブルドアに礼を言うと、彼は微笑んで言った。

 

「話の中に、ロングボトム夫妻が出てきたね」

「……じゃあ、やっぱり」

「うむ。君の学友、ネビル・ロングボトムのご両親じゃ」

 

 やはりか、と思う。

 ネビルが自分の両親について話したことはない。

 彼がいつも話すのは、恐ろしく厳格な《ばあちゃん》のことばかり。

 ハリーは彼も両親がいないのだろうか、と考えたことがあったが……、遠からずだったようだ。あのオドオドして可愛い男の子が、このような悲劇を背負っていたなんて。

 

「このことは、誰にも言わないように」

「……ええ」

「彼が、ネビル・ロングボトムが自分から言えるようになるまで、待ってあげるのじゃ。信頼されていないというわけではない。こういうのは、理屈ではないんじゃ。そう、理屈ではないのじゃ……」

 

 空しい響きを湛えたダンブルドアの声を聴きながら、ハリーはまたレモネードを煽る

。君がお酒を飲めるようになったら控えさせねばな、と笑うダンブルドアにハリーも笑みを返した。

 次にホットチョコレートを注いでもらい、甘い匂いにハリーが嬉しそうな顔をする。

 しかしふと、何かが引っ掛かったような顔をしてマグカップをテーブルに置いた。

 眉を寄せ、眉間にしわをつくる。

 はっと気が付いたかのように顔を上げたハリーは、ソファから立ち上がって一度《憂いの篩》を眺めた。その行動に片眉をあげたダンブルドアに、ハリーは言葉を投げかける。

 

「……ダンブルドア先生」

「なんじゃね、ハリー」

「……バーテミウス・クラウチ・ジュニアを、ぼくは見たことがあります」

 

 もう片方の眉も上がった。

 ハリーの言葉は続いてゆく。

 

「夢の中です。黒髪の、健康そうな赤子と……でも普通の赤ん坊じゃない、アレは……アレはヴォルデモートだった。ぼくにはわかる、アレはアイツだった。そいつの前で、ワームテールと、誰か……誰かが親しげに話していました」

「……それで」

「その場に、彼がいました。クラウチ・ジュニアだった。いま思えば、彼だった」

 

 言い終えたハリーを相手に、ダンブルドアはひとつ頷く。

 ハリーの黒髪をくしゃりと撫で、穏やかな顔で静かに口を開いた。

 

「……他にもそのような夢を?」

「いいえ。それっきりです」

 

 彼女のその答えに、ダンブルドアは数秒だけ目を瞑って考えた。

 何を考えているのかわからないが、ハリーがそれについて考える前に彼は口を開く。

 

「ハリーや、君は優しい子に育ってくれた。先のクラウチ・ジュニアの件でも、心を痛めて見ていられないと目を背けることができる子になってくれた」

 

 噛み締めるようなその物言いに、ハリーは首を傾げた。

 まだハリーの知らない何かによってその感情が造られているのだろうが、それをハリーは知る由もない。ただ急にやさしい子だと褒められたことで、少し耳が赤くなっただけだ。

 

「君は人を信じることができるようになった。友を愛することができるようになった。……そんな君を見ていると、この老いぼれも、そろそろ前に踏み出す時なのかもしれんと思うのじゃ。年甲斐もなく、の」

 

 そう言うダンブルドアの目はきらきらと輝いていた。

 いつもの不思議なそれを見て、ハリーもにっと笑う。

 彼のやり方にどうしてか不満を感じるものの、彼自身は決して悪い人間ではないのだ。胡散臭くていまいち信用しきれないところはあれど、ハリーのことを想ってくれているのは確かなのだ。

 ハリーはそんな人間を相手に、冷たい態度で返せるようには育っていない。

 さあ行きなさい、という言葉と共に校長室から送り出されたハリーは、ここに来るときの不安な気持ちが嘘のように霧散していた。

 ソウジローの虚言、ユーコの疑惑、代表選手たちの真偽、今起こっていることの不可解さ。

 それらをすべてひっくるめても、乗り越えれば問題はないのだ。

 ハリーは腕時計の時間が外出禁止時間になりそうなのを確認すると、少し笑顔で、廊下を一気に駈けだしたのだった。

 

「待てポッター」

 

 思いっきり出鼻をくじかれた気分だ。

 何時の間にか隣に立っていたスネイプが、にやりと笑って此方へ寄ってくる。

 ああ、これはぼくをいじめる気だ。

 今年は二、三回ほどしか彼との課外授業はない。だからストレスが溜まっているのかもしれない。だからってやめてほしかった。

 

「トーナメントでよくやっているようだな、ポッター」

「……ありがとうございます」

「褒美としてグリフィンドールに五点をやろう」

 

 ハリーは苦虫をかみつぶしたような顔をした。

 スネイプもそれを分かっていたようで、にやにやとした嫌味な顔を引っ込めもしなかった。

 

「そして夜間外出によってグリフィンドールから十点の減点だ」

「……」

「水中の行動手段に《鰓昆布》を選んだことは見事だ。あの状況で選ぶ薬草の中では、もっとも最適と言える。よく思いついたな、それとも人に頼ったかね。ん?」

 

 ねちねちと嫌味を言い続けるスネイプだったが、その顔には怒りの色が見える。

 彼の怒りを買った覚えのなかったハリーは首をかしげたが、その仕草が癇に障ったようだ。胸倉を掴みかねない勢いで顔を寄せてきた。

 

「我輩としては窃盗の罪として退学にしてやりたいところだ」

「……でも、あの《鰓昆布》は……」

「おまえが取ったのではないのだろう? そのような嘘、我輩に通じるとでも思っているのか」

「嘘じゃないのに……」

 

 ハリーがふてくされたように言うと、スネイプの手が伸びて彼女の頬を掴んでくる。

 タコのような口になったハリーがむぅと唸る前で、スネイプは懐から出した小瓶を目の前で揺らした。

 

「《真実薬(ベリタセラム)》だ。あらゆる秘密を吐きだす秘薬……本来生徒への使用は禁じられているが……、つい、うっかり、ということが……あるかもしれませんな?」

 

 流石です。

 ハリーを責めるチャンスを見つければ見逃さない。

 彼のハリーいびりは年々磨きがかかっているような気がしないでもない。

 

「鰓昆布だけならまだしも……毒ツルヘビの皮にクサカゲロウまで……どうせポリジュース薬でも作っているのだろう。見つかれば、退学では済まんだろうなぁ……」

「だから、ぼくには覚えが」

「見ていろポッター! 尻尾をつかんでやるぞ!」

 

 吐き捨てるようにそう言ったスネイプは、ハリーの鼻すれすれで扉を乱暴に閉める。

 せっかくダンブルドアのおかげで少しだけ元気が出たというのに、これでは台無しだ。

 だがスネイプが文学的なのか、彼の罵倒や嫌味は少々詩的な言い回しが多い。ちょっとでもスネイプポエムを楽しめたことだけでも良しとするか。

 最後にハリーは、捨て台詞をドア越しに呟いた。

 

「あんまり細かいこと考えると禿げるぞ、もう」

「なにか。言ったかね、ポッター」

 

 扉を開けて顔半分だけ覗いたスネイプの手に杖が握られていたのを見て、ハリーは今度こそ全力で廊下を駆けだしたのだった。

 




【変更点】
・《LOLレース》。実在しません。
・クラウチ氏との戦闘発生。原作と違い洗脳が解けてません。
・スネイプの妨害フラグが消滅。クラム含め三名が重傷を負う。

【オリジナルスペル】
「ミセルリベロ、解きほぐせ」(初出・46話)
・解錠魔法の亜種。対象を締めつける拘束具を解き放つのが本来の使い道。
元々魔法界にある呪文。服を脱がすための魔法でもなく、脱衣呪文とも呼ばない。

「アリエーヌム、逸らせ」(初出・46話)
・攻撃型防御魔法。魔力反応光に干渉する魔法で、相手の魔法を弾きつつ武装解除をかける。
日本魔法界にある呪文。ユーコは歌に呪文を乗せることで威力を倍増していた。

「コンキリオ、寄せろ」(初出・46話)
・防御魔法。魔力反応光に干渉する魔法で、相手の魔法を弾きつつ盾の呪文をかける。
日本魔法界にある呪文。ユーコは歌に呪文を乗せることで威力を倍増していた。

「フルクトゥアト・ネク・メルギトゥル、孤独に逝け」(初出・46話)
・闇の魔法。術者を中心に円状の霧を噴き出し、効果範囲の物体を無差別に腐食させる。
今までの魔法界にない呪文。製作者は不明だが、アズカバン行きはまず間違いない魔法。

「セクィトゥル、追走」(初出・46話)
・走行魔法。対象と同じ速度で移動する事ができる。
日本魔法界にある呪文。相手が速ければ速いほど高い効果を得られる。

「プロテゴ・モエニウム、高き壁よ」(初出・46話)
・盾の呪文の亜種。土を高く盛り上げて、物理的な壁を作りだす。
元々魔法界にある呪文。自然の多い場所では通常の盾の呪文よりも高い効果を得られる。

「グラヴィス、壁抜け」(初出・46話)
・空間魔法。カゴAとカゴBを作りだし、Aの中身をBへと転送する魔法。
日本魔法界にある呪文。出現させたカゴBを目として、周囲の様子を見ることも可能。

「ケルタ・コグニーティオ、正気に戻れ」(初出・46話)
・解呪魔法。魔法式を崩す事で、主に精神操作系の呪いを解くことができる。
元々魔法界にある呪文。扱いに失敗すると対象が記憶を失うレベルで難しい魔法。

今回はハリーの取った意味不明な行動と思考の説明回と、呪文のバーゲンセール回。
要するにソウジローの不審な言動やユーコの真偽、代表候補制たちへの疑惑はハリーが錯乱していたということ。まだ完全に明かされていなかったりと非情に分かりづらいですが、私の力不足です。精進いたします。
ハリーの奇妙な点が明かされたり、4巻は説明が多くなると思ったけどここまで難しいだなんて。ちなみにカルカロフが売った死喰い人の中には、原作の死喰い人や原作キャラの親戚も入っています。
次回からは最後の課題が始まり、クライマックスに向けて全力でお辞儀するのだ。

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