ハリー・ポッター -Harry Must Die-   作:リョース

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3.アンブリッジ・ショック

 

 

 

 ハリーは流れる景色を汽車の窓から眺めていた。

 ホグワーツ特急のコンパートメント一室を仲間内で占領し、カートでお菓子を売り歩く魔女からいつもの分を買い取ってのんべんだらりと過ごしている。

 ロンが口元を汚したままでいるので、見かねたハーマイオニーがハンカチでそれを拭う。恥ずかしがって嫌がるロンを、ジニーが笑った。三人の姿を見ながら、ハリーは手元の写真へ目を落とす。

 十数人の人間が集まって記念写真を撮った際のモノのようだ。見覚えのある魔法使いに魔女、そして見知らぬ魔法使いと魔女も多い。写真の中から若かりし頃のシリウスがハンサムな笑みを向けてきて、その隣にいる眼鏡の男性がからかっている姿を見て、ハリーははにかんだ。

 眼鏡の青年の隣には、赤い髪の毛の女性が微笑んで立っている。ジェームズとリリー・ポッターだ。まだハリー・ポッターが生まれる前の写真で、当然ながらハリエットは毛ほども存在しなかった時代のものである。

 モリーの兄弟や闇払いたち、他にも何人かがこの写真を取った数日後や数週間後には亡くなっている。レジスタンス組織である不死鳥の騎士団団員は、その多くが闇の陣営との戦いの中で命を散らしていったのだ。

 その中で二人、見覚えはあるも知らない男女が肩を抱き合って騒ぐジェームズとシリウスを微笑ましそうに見ている。あったことはないが、その二人にはハリーの良く知る友人の特徴がところどころに散見された。

 

「久しぶりハリー。元気にしてた?」

「やあネビル。見ての通りだよ」

 

 ネビル・ロングボトム。ハリーの知る限りもっとも優しく穏やかなグリフィンドール生だ。

 この写真をもらった時、シリウスから説明を受けた。ロングボトム夫妻は、闇の魔法使いから拷問を受けて精神が崩壊してしまったのだと。いまも聖マンゴ病院で治療を受けているものの、心に関する魔法はこの二〇世紀においてもまだ未発達で回復の目途が立っていない。

 彼はよくおばあちゃんとの思い出を語ってくれるが、さもありなん、両親との新しい思い出が作れないのだ。ネビルのことをネビルと認識してもらえず、見舞いに行っても無碍にされてしまう。

 それを知った時、ハリーは胸が張り裂けそうな気分になった。自分の愛する両親から、自分の事を認めてもらえなくなったら、いったいどんな気持ちなのだろう。ハリーには知ることが出来ないし、想像することさえできなかった。

 ほがらかな笑顔を浮かべるネビルを見ていると、そんな過酷な体験があったことなど伺えない。ハリーは、彼が自ら話してくれるまでロングボトム夫妻の事は問わないことにした。自分とて、いまだに明かせない秘密を持っているのだから。

 

「ん? ……あー、ネビル? その奇妙なサボテンは……いったい?」

「ああ、これかい? これはね、ミンビュラス・ミンブルトニアっていうとても珍しい魔法植物なんだ! 叔父さんから誕生日プレゼントにもらってね、アッシリアのあたりに生えてるんだよ!」

「へー、そう……」

 

 灰色のサボテンは時々身じろぎするように動いており、ハッキリ言って不気味である。

 サボテンは葉を針のようにしていることで有名だが、これは針の代わりにおできのようなものがあちこちにできている。彼は大事そうに抱きかかえているが、ハリーとしては正直近寄りたくない代物だ。

 何かろくでもないことが起きそうな、なんというか嫌な予感がする(I have a bad feeling about this)

 

「それでね、このおできから出てくる膿が」

 

 瞬間、ハリーはコンパートメントから飛び出す。

 数々の闇の魔法使いや魔法生物たちと殺し合った経験がハリーを助けてくれた。身体の運び方、脚の動かし方、どのように床を蹴れば最速であるか。くだらないことにハリーは全力を尽くし、そして結果として彼女は危機を脱した。

 タイミングが良かったのか、はたまた悪かったのか。ネビルがミンビュなんとかのおできに触れた瞬間、ホースから水をまき散らすように勢いよく膿が飛び出して車内をたっぷり異臭まみれに包み込んだのだ。

 ドアの向こうで悲鳴と惨劇が起きているのを見ながら、ハリーは己の判断が正しかったことを確信する。親友たちは迷わず見捨てた。友情とは時に非常である。

 

「ハァイ、ハリー」

「……ん、ああ。久しぶり、チョウ」

 

 ジニーから裏切りへの恨みの言葉が吐かれているのを耳にしながらどうやって謝ろうかと考えていると、別のコンパートメントからやってきた女生徒にあいさつをされる。

 レイブンクローの六年生、チョウ・チャンだ。

 ハリーとしては、正直言ってあまり会いたくない少女である。セドリック・ディゴリーを好いていた女生徒のひとりで、おそらく最も彼の近くにいたであろう存在。別にハリーとしてはセドリックの事を異性として意識していたわけではないのでライバルというわけではないのだが、向こうはそうではなかった。そして彼が逝ってから、こうして会うのは初めてだった。

 なんとなくわかる。どこか無理をしている。

 セドリックが死んだ直後は、チョウに対して内心毒づいたりはしたものの、彼女にとって彼への愛は本物だったということなのだろう。よくわからない問題だ。

 

「えーっと、……その、休暇はどうだった?」

「ぼくがマグルの一家に世話になってるのは知ってるだろう? ご想像の通りさ」

「あー……そ、そう……」

 

 何か本題を切り出そうとしているものの、しかし言い出せない。そういった印象を受け取った。しかし彼女が何を聞きたいのかは、ハリーにはわからない。

 微妙な空気が流れ始めたその時、救世主として降臨したのは金髪の少年であった。

 

「ポッター! 頭のおかしいポッターがまた嘘をついているぞ!」

 

 通常運転のスコーピウスが、取り巻きのトロール……もといゴラップだったかクライルだったか、そんな感じの合体事故生物を連れて現れた。

 ぶーぶー唸るクライルを従えて、スコーピウスは歌うように言う。

 

「勘弁してくれよ、なんでホグワーツに来てるんだ? 復活した帝王に怯えてマグルの家に引きこもっていればいいのに! ままー、れいのあのひとがくるよー!」

「やぁスコーピウス。いい休暇を過ごせたようだね。元気みたいでよかった」

「……? きゅ、吸魂鬼に襲われて裁判を受けたんだって? よく口が回るものだよねえ」

「ぼくは思ったより有意義な夏休みを過ごすことが出来たよ。魔法史もなかなか面白い」

「んん? ……あれ。ポッター、僕の話聞いてるかい?」

 

 わざとスコーピウスの話と食い違う返事を繰り返していると、ついに混乱したスコーピウスが嫌味な顔を引っ込めて心配そうな表情を浮かべた。面白いなコイツ。

 普段なら子供っぽいなと思いスルーできるのに、どうにもイラッとしてしまって思わず大人げない態度を取ってしまった。スコーピウスたちが入ってきたコンパートメントの連結部につながるドアの前で、ドラコが苦笑いしているのが目に入る。

 クライルと顔を見合わせて首を傾げているスコーピウスの頭に手を置いて、歩み寄ってきたドラコが話しかけてきた。

 

「やぁポッター。また随分と騒がしい休暇だったようだね」

「おかげさまでね。大臣は素晴らしい人だったよ」

「だろうね。それもあと数年……いや、数ヶ月の心配かな」

 

 どうやらドラコの見立てでは、年内にはファッジが職を失うだろうとのことだった。

 何を根拠に断定したのかは定かではないが、まぁあの様子を見るに魔法省にまともな人間がいればリコール運動くらい起きるだろう。魔法大臣は独裁者ではないのだから、権力の椅子に座り続けたくとも英国魔法族が許さなければそれまでだ。

 やはりドラコはハリーと似通ったものの見方をしている。嬉しくなってにっこり笑いかければ、不機嫌そうな顔が返ってきた。可愛いものである。

 

「さてポッター、今年は忙しくなるぞ」

「……O.W.L.(ふくろう)試験だもんなぁ」

「それもあるけど……、まぁ、君も嫌でも知ることになるだろうからね」

 

 そう言って言葉を切ると、いまだに頭をひねっていたスコーピウスと知恵熱を出していたトロールを連れてドラコは去って行った。

 随分と含みのある物言いだったが、いったい何の話だったのだろう。

 彼らの父親、ルシウス・マルフォイは死喰い人であった。それに関することで、何か情報を得ているのかもしれないが……、ハリーがドラコから情報を得ることは極めて難しいだろう。闇の魔術に対する防衛術の様子を見るに、戦闘面ではまだまだ負ける気はしないがこういった口八丁手八丁が必要となる問題では、ハリーは大幅に後れを取っている。

 もしドラコが口論の結果おまえを好きにすると言い出したら、ハリーには成す術がないだろう。そんなことは言い出さないだろうが、ハリーは自分もおつむの方を鍛えるべきかと悩んでしまう。

 そう、今年ハリーは五年生になる。ホグワーツにおける五年生は、普通魔法使いレベル試験、通称O.W.L.試験を受ける年。

 この試験の結果如何によって、これからの人生が左右されるくらい規模の大きな試験なのだ。毎年勉強のし過ぎでノイローゼになりマダム・ポンフリーの世話になる生徒が現れるほどである。心配にならないはずがない。

 隣でマルフォイ兄弟とのやり取りを心配そうに眺めていたチョウが、あなたならきっと大丈夫だわと励ましてくれるのが何よりもありがたかった。

 

 ホグワーツに到着すれば、不気味な馬らしき何かが引く馬車がハリーたちを待っていた。

 周囲の反応を見てみれば……やはりロンにもハーマイオニーにも見えていない。どうしたものかと思っていると、ロンが早く乗ろうと急かしてきた。どうやらハリーたちが最後発組らしい。

 残る馬車に乗りこめば、そこには既に先客が一人座っていた。

 透き通るような色素の薄い金髪に、同じく白い肌。どこかエキゾチックな雰囲気の少女である。……いや、エキゾチックに感じた理由は判明した。イヤリングが本物のカブなのだ。何考えてんだコイツ。

 

「あんたにも見えてるんだ」

「えっ」

 

 変なものを見る目で見るのは悪いかと目を逸らして馬車に乗りこめば、その瞬間見計らったかのように彼女から話しかけられてドキッとする。

 見遣れば、不思議な光を放つ目がこちらに向いていた。

 

「その骨みたいな馬。見えてるんでしょ?」

「……きみも、見えるの?」

「見えなきゃこんなこと言わないもン」

「あー……まあ、そうだね」

 

 言われてみればそうだ。

 しかし話せば話すほど不思議な子である。なんというか、つかみどころがなくて会話を続けにくい。戸惑うハリーを見かねたのか、彼女の隣に座ったジニーが紹介を始めた。

 

「その子はルーナっていうの。ルーナ・ラブグッド。私と同学年のレイブンクロー生よ」

「英知は宝なり!」

「まあ、うん。見ての通りちょっと変わった子ね。もちろん、悪い子ではないわよ」

 

 ジニーが何とも言いづらそうにしているあたり、校内でもそのような評価なのかもしれない。苦笑いするべきか大真面目に頷いておくべきか、ハリーは少し迷っているとルーナからの視線を感じる。

 何かと思えば、優しい笑みを浮かべていた。

 

「あんたはまともだよ、あれが見えてるんだもン」

「……そうかい?」

 

 いったい何が見えているんだと不気味そうな顔をするロンの脇腹を小突いておいた。

 面と向かっているだけマシだが、あそういうことをするのは失礼である。

 

「うん。ぼくだけにしか見えない存在かと思ってた」

「だいじょうぶ。あたしと同じくらいまともだよ。あたしが保障する」

「……おう、ありがとうよ」

 

 花の咲くような笑顔を浮かべて、大変ありがたくないことをルーナは言った。

 ハリーは苦笑いするべきだと判断し、頑張って自分の頬を持ち上げる。

 しかしそれは失敗して、引きつった顔になるだけだった。

 

「また諸君らの顔を見ることが出来て、わしゃ嬉しい」

 

 時は過ぎ、大広間の新学期パーティの前に恒例であるダンブルドアの挨拶が始まった。

 組み分けの儀式は終わり、特に何も問題なく終わったことにハリーは逆に違和感を感じてしまう。もっとも、組み分けの際に大騒ぎが起きたのはハリーの組み分けくらいだ。

 例年通り許可なく禁じられた森へ立ち入ることの禁止や、フィルチによる廊下での魔法使用を禁じる四六二回目の通告や、悪戯グッズ使用の禁止事項通達(ウィーズリーの双子がいる限り、無理な話だ)など、新一年生向けに大雑把な一年間の予定などを伝える。

 

「そしてすでにお気づきの方もおるじゃろうが、魔法生物飼育学のハグリッドはちと休職じゃ。数ヶ月の間、彼はホグワーツから出張しておる」

 

 一部の生徒が、特にスリザリン寮から多くの歓声があがった。

 意地悪からくるものもあるだろうが、その喜びの声は多分に彼の授業が不評だからということもある。なにせ、そう。危険なのだ。ハグリッドはいい人なのだが、彼の趣味が悪いのだ。

 

「その代わりに彼が戻ってくるまで、魔法生物飼育学はウィルヘルミーナ・グラブリー=プランク先生が担当してくれる。皆の者、彼女の言うことをよく聞くように」

 

 いつもならばハグリッドが座っている席に、一人の老魔女が居て静かに礼をしていた。

 確かあれは、ハリーたちが魔法生物飼育学を受講できるようになる前の教授である。ハグリッドには悪いが、O.W.L.試験が待ち構えている今年にまともな授業が出来るのはありがたいことだった。

 面と向かって言うつもりはないが、友達に対してあまりに失礼な気持ちを抱いたことに心中で謝罪する。でも本当のことなんだもの。

 

「そして今年も闇の魔術に対する防衛術の新しい先生を呼ぶことが出来た。ドローレス・アンブリッジ先生じゃ」

 

 毎年新任の教師がやってきて教授陣も大変だろうなと思いながら長テーブルを見てみれば、ピンク色が毒々しいカーディガンを着込んだ中年魔女が立ち上がった。

 そのあまりのセンスのなさに失笑する生徒が幾人かいる中で、ハリーは彼女の顔を見て呆然とする。あのいやらしい底意地の悪い目には、見覚えがある。

 

「ェヘン、ェヘン。ご紹介に預かり光栄ですわぁん、ダンブルドアせんせっ」

 

 ざわついていた生徒たちが、しんと静かになる。

 たしかにあのガマガエルのような見た目からこんな少女めいた声が飛び出して来れば、自身に幻覚魔法でもかけられているのかと不安になるだろう。気持ちはわかる、すごくわかる。

 ハリーはあの女が嫌いだった。細かい仕草、ばかばかしい声、似合わないくせに着込んでいるピンクのカーディガン、ガマガエルを侮辱している顔面など、何もかもが嫌悪の対象だった。

 アンブリッジは大広間中の人間が静かになったことで満足そうに微笑む。

 

「みなさんの可愛いお顔を拝見することができて、わたくしとっても嬉しく思いますわん。わたくしが新しい闇の魔術に対する防衛術の先生になる、ドローレス・アンブリッジですわ、よろしくお願いしますね。んふっふ」

 

 多くの生徒が困惑しただろう。

 小さな子供に言い聞かせるような口調なのだから、いったいこいつは何を考えているんだと思う者が大多数で、苛立ちを覚える者も少なからずいる。

 まるでアンブリッジは狙って怒らせようとしているかのような口調で、言葉をつづけた。

 

「魔法省は未成年の魔法使い及び魔女の教育については非常に重要な案件であると、以前からそう考えておりました。可愛らしいみなさんが持つべくして持って生まれた類稀なる才能は、慎重に教え、正しく導き、公正な手で磨かなければいけません。英国魔法界古来の神秘をあなたたちの子孫へと間違わない形で伝えていかなければならないと考える次第です。それら魔法という神秘なる知識は教育という気高い形によってこれからの時代を担う子供たちへと伝える必要があります。この学校に就任する歴代校長は各々革新的な制度を導入してきました。それはそう、実にそうあるべきでしょう。進歩がなければ停滞と衰退あるのみ。しかし進歩による進歩のための進歩はあってはなりません。それらは伝統に反することであり、我ら神秘を操る一族たる魔法族にとって不要であることに他なりません。暴力的な変化よりも平和で恒久的な保守を大事にすべきなのです。一方伝統ばかりを大事にしてばかりでは昨今の教育現場における腐敗と陳腐化を許すばかりであり、よって古き良き慣習のいくつかは維持したまま悪しき風習は捨て去り放棄しようではありませんか。保持すべきものは保持し、悪しきものはなんであれ切り捨て、スマートかつ身軽に、そして効率的な教育を。足並みそろえて前進しようではありませんか、伝統と法に約束された光り輝くあなたたちの未来へ」

 

 先ほどのふざけた口調が嘘だったかのように、しっかりした言葉でアンブリッジはスピーチを締めくくる。腐っても政治家ということか、演説には力があった。

 長い台詞を一息で吐き終えたアンブリッジは、軽く咳払いしてから「ご静聴ありがと。ふふっ」と静かに告げて自分の席に戻って行った。ダンブルドアが拍手をすると、大広間からもまばらに拍手が鳴り響く。

 ほとんどの生徒がまともに聞いていなかったのだろう。ハリーとてあのいじわるそうな女が何を言いたいのか分かっておいたほうがいいと思っていたが、ついぞそれはかなわなかった。厳しい顔をしながらも一生懸命聞いていたハーマイオニーにあとで聞くしかあるまい。

 困惑したままのロンが、目の前に御馳走が湧いて出たにもかかわらずハーマイオニーに問うた。

 

「あー……、つまり今の、いまの……アングリー先生? は、何が言いたかったんだ?」

「つまり、魔法省がホグワーツに干渉してくるってこと……だと思う」

 

 ハリーとしてもよくわからなかった。アンブリッジはまるで政治家のような……いや、真実政治家だったはずだ。そのような、意味のない言葉を美辞麗句で膨らませてあたかも立派な意見を言っているかのように見せかける工夫が凝らされていた。

 骨の髄まで役人といった風のアンブリッジは、よもや考えてきた原稿をカンニングペーパーなしで読み上げたのだろうか。それだけでも驚嘆に値するが、魔法省の用意した公式見解を余すところなく覚えてすらすらと口にできるその忠誠心は、恐ろしいものがある。

 同じことを思っているのか、ハーマイオニーは眉をしかめながら、ポークチョップにかぶりついたのだった。

 

 

O.W.L.(ふくろう)! みなさん、五年生はO.W.L.試験の年です! これの結果によって将来あなた方がなれる職業の幅が広まったり狭まったりします。よって私たち教師陣は、あなた方に大量の宿題を出すでしょう。すべてはふくろうの為に」

 

 マクゴナガル先生が授業開始直後に叫んだ。

 変身術の授業は昨年と比べても密度が濃く、そしてそれは他の授業でも例外ではなかった。呪文学に薬草学は当然として、魔法薬学ではネビルが死んでしまうのでないかというほどの宿題が放出されている。魔法史ですら大量の宿題がビンズ先生の口から飛び出し、授業中を睡眠時間にあてていた生徒たちから絶望の声があがった。

 放課後には談話室のあちこちで宿題をこなす羽ペンのカリカリという声がやかましく飛び交う中、それに混じって羽ペンの持ち主である人間どもの悲鳴もいっしょに飛んでいた。

 ハリーが下級生のころは確かに五年生や七年生が死にそうな顔をしていたためどんな気持ちなのだろうと思っていたが、なるほどこんな気持ちなのかと理解してしまう。したくなかった。ロンも当時パーシーが血眼になって関わりたくなかったと言っていたが、彼もパーシーの気持ちを理解したようだ。

 

「でも僕はパーシーを許すことはない」

「……ロン」

 

 ロンの言うとおり、ウィーズリー家にはいま亀裂が入っていた。

 原因は言わずもがな、ファッジだ。魔法省に務めているアーサーはダンブルドアやハリーと親しい関係であるため、立場が非常に厳しいものになっている。ファッジによって情報が統制され、まともに仕事もままならない状況なのだという話を聞かされている。

 キングズリーやウィンバリーといった闇祓い連中は中立を貫くスタンスを見せているため、今でもファッジに重用されている。無論の事、彼らが優秀な戦闘力を持ち合わせているのもその理由の一つだろう。ヴォルデモートが復活したことは信じてはいないものの、恐怖心をあおられているためいつ暗殺の魔の手が伸びるかといった疑心暗鬼に陥っているのだとか。

 もはやいまのファッジは、一国のトップに据えるには危険人物であると言っても過言ではないのかもしれない。一番発言力のある人間が疑心暗鬼のまま国の舵を取るなど、笑えないジョーク以外の何物でもない。

 そのような状況下で、昨年までバーテミウス・クラウチ・シニアの部下として魔法省に務めていたパーシー・ウィーズリーは、今年いきなり昇進した。魔法大臣付き秘書としてだ。

 国際魔法協力部の一部員からひとっ飛びして魔法大臣の付き人になるなど、有り得ない躍進である。明らかにファッジの思惑が働いており、ウィーズリー家の内情を、ひいてはダンブルドアの思惑をスパイさせようという意思が垣間見えた。

 パーシーもまた生真面目すぎる性格から、己の父親がダンブルドアと交流を持っていることに不満を持っているらしい。ロンは言いづらそうにしていたものの、ハリーとの親交も切るようにと助言されたようだ。昨年までの彼と変わりすぎて、別人がポリジュース薬で化けているのではと思うほどの変わり様である。

 夏休みのある日、ダイアゴン横丁でパーシーと出会ったアーサーに対して「父さんは間違っている」と言って口論に発展。しまいには親子で殴り合いの大喧嘩をしてしまった。ダンブルドアに組する愚か者と、話を聞かぬ馬鹿息子の魔法使いらしからぬ格闘は、モリーが悲しみのあまり泣き崩れたことで終幕を迎えた。

 気まずそうに割れた眼鏡を直すパーシーは、ウィーズリー家の面々に向かって「ダンブルドアとは縁を切った方がいい」と忠告して去っていく。これに激怒したのはフレッドとジョージだ。ロンとジニーは困惑のあまりおろおろして怒るどころではなかったが、双子の怒りは苛烈なもので、後日糞爆弾やらさまざまなものを詰め込んだ手紙をパーシーが一人暮らしするアパートへ送りつけたのだとか。それはもはやテロである。

 ともあれ、ファッジの思惑はうまくいったと言えよう。ウィーズリー家はがたがたであり、身内の問題を解決するのに精いっぱいで騎士団の活動に専念できてはいない。

 ダンブルドアにある程度の打撃を与えているのだ。

 

「まあ、うん。とにかく宿題しよう。な、監督生どの」

「……パーシーみたいに扱うのはやめてくれ」

 

 五年生になると、各寮から男女一人ずつの監督生が選ばれる。

 夏休み明け間際になって学校から二羽のふくろうがやってきて、ロンとハーマイオニーがそれを受け取った。そう、つまりグリフィンドールの監督生はこの二人なのだ。

 ハーマイオニーが監督生になることは誰もがすでに知っていたことであり、歓び祝福こそすれ誰も驚きはしなかった。しかしロンが監督生になろうとは、本人も含めてあまりにも意外であった。モリーなどは大泣きするほど狂喜して、その日の晩御飯はとんでもなく豪勢なものになったのだった。

 フレッドとジョージは監督生など全く縁のない称号であったが、それゆえか弟がそれに選ばれたというのはあまり面白くなかったようだ。しきりに「ロンは僕らと同じ側の人間だと思っていたよ。そう、つまり罰則を受ける方さ」と失望の声を隠しもしなかったからだ。しかし愛する弟の吉報なのだ、口ではそう言っていても目が嬉しそうに笑んでいる。なんだかんだいって、二人はいいお兄ちゃんなのだ。ハリーが温かい目で双子を見つめると、照れくさそうにどこかへ逃げていったのをよく覚えている。

 談話室でいつものように勉強していると、シェーマスとディーンが連れ立ってやってきた。二人はサッカーについて議論を交わしていたが、ハリーの姿を見るとシェーマスが不機嫌そうに黙り込んでしまう。

 何かと思い、ハリーはソファから立ち上がって二人の元へ歩み寄った。

 

「どうした二人とも、ぼくの顔に何かついているのか」

「あ、ハリー。……いや、まあ、うん。可愛らしい目と鼻と口がついてる」

 

 ディーンが気を利かせて冗談をこぼすものの、ハリーはそれを求めていない。

 少しだけ微笑んで、邪魔をしないでくれと目で伝える。やはりいまはふざけるべき時ではないと思っていたのか、気まずそうな顔をしてディーンは一歩引いた。

 シェーマスへ顔を向ければ、彼もまたあまり愉快そうな様子ではない。

 

「ママに、また学校から戻れって手紙が来た」

「えっ。何かあったのか、シェーマス」

 

 ホグワーツは全寮制だが、当然ながら身内の不幸などがあった場合は自宅へ戻ることが許されている。ペットの不幸でもそれが許されているあたり、ひょっとしたらシェーマスに悲しい出来事があったのかもしれない。

 心配になったハリーはシェーマスの肩に手を置いたが、彼はそれを忌々し気に跳ねのけた。

 

「……じつは、ハリー。きみのせいなんだ」

「はあ? つまり、どういうことさ?」

「……日刊予言者新聞だよ。ママがそれを読んで、……そう、君だけじゃなくて、あー、ダンブルドアも……そう。うん、そうだろう?」

 

 歯切れ悪く言葉を紡ぐシェーマスに、ハリーは不愉快そうな表情を浮かべる。

 つまり彼の母親は、あのでたらめなことばかり書く新聞を信じているというわけだ。

 あまり相手にしないほうがいいとハリーは思っているが、しかしこうやって親しかった友人からも言われるというのは少々こたえる。羊皮紙に羽ペンを走らせていたロンやハーマイオニーが、手を止めてこちらを見ていることに気づいた。

 荒立てるつもりはないと親友たちへアイコンタクトを送り、ハリーはシェーマスへ向き合う。

 

「まぁ、あの新聞を信じるのはやめたほうがいいとだけ忠告しておくよ」

「……な、なあ。あの日、あの夜、いったい何があったんだ? セドリック・ディゴリーのこととか……君の瞳の色だってあの件から変わっている。ダンブルドアも教師陣も、もちろんきみも、詳細に話してくれないじゃないか……」

 

 好奇心と恐怖心がない交ぜになった顔で、シェーマスは問いかける。

 なぜか、不思議とイライラしてくる。まるでハリーの心とは別の心が、本心を上塗りしているかのような感覚を覚える。つとめて冷静であろうとハリーは意識して、シェーマスへ答えた。

 

「あの日語ったことが真実だ。ヴォルデモートが復活し、彼の手にかかった。それだけだ」

「それじゃ足りないんだよ。僕もママも、みんなだって納得しない」

 

 ハリーは自分のこめかみが引きつったのを自覚した。

 これはまずいとロンが立ち上がり、こちらへ仲裁しようとしてきたが、もう遅い。

 

「聞きたいのか、シェーマス・フィネガン。人を人とも思わないやつらの手で、ぼく自身の足と、友達の命を奪われた時の話を。ぼくの上に乗るセドリックの身体が、徐々に軽くなっていく様を」

「あー……、いや。えっと……」

「ハリー、そこまでだ。行こう。シェーマス、デリバリーが……じゃなかった。デリカシーが足りないぞ。監督生の権限を乱用してやろうか?」

 

 ロンの言葉に、シェーマスは不満そうな顔をしつつも踵を返して男子寮のほうへと立ち去った。ずっとおろおろしていたディーンは、フォローしておくという意味の目配せをハリーとロンに送ってから、シェーマスの後を追っていった。

 友人が離れてしまうというのは、思ったより堪えることだ。裁判の時の様子から、ファッジはもうハリーに対して手心を加えるような慈悲は持ち合わせていないだろう。日刊予言者新聞という英国魔法族にとっての最大の情報ソースがファッジの意のままになっているのだから、ハリーとダンブルドアは彼の暴走が続く限り、頭のおかしいガキとボケジジイのままであることはまず間違いない。

 暖炉の前のソファに連れられて、ハリーはハーマイオニーの胸へ顔をうずめた。温かい紅茶を入れなおしてくれるネビルに礼を言いながら、ハリーは思う。

 いったいあとこのやりとりを、何人と、何回繰り返せばいいのだろう。

 

 次の日、談話室でハリーは不機嫌そうな顔を隠さずにロンを待っていた。

 昨晩は寝室でラベンダーが熱心に話しかけてきたのだ。シェーマスと同じやり取りを繰り返し、そして同じ答えを返した。今度はハーマイオニーが助け船を出してくれたものの、あまり効果があったようには思えない。ラベンダーは割と知りたがりだ。一年生のころからの同部屋なのだから、よく知っている。よく知っているだけに、つらい。

 掲示板で双子のウィーズリー兄弟が貼りだしたらしき掲示物を眺める。

 

『お小遣い稼ぎにぴったり! 危険なことをしたい? ならばお任せ、ウィーズリーの双子へ連絡を。短時間労働でバイト賃たんまり。骨折りはなし、たぶんね』

 

 胡乱な目でそれを眺めていると、同じくそれを隣で読んでいたハーマイオニーが躊躇なく掲示板から引っぺがした。芸の細かいことに、掲示物の文字は『表現の自由を侵害する、分からず屋の頭でっかちに天罰あれ!』に変化している。それは獅子寮監督生の手によって燃やされ灰と消えた。

 ハーマイオニーは険しい顔をして、ウィーズリーの双子に何か言ってやらねばならないと息巻く。それをハリーは否定もせず、肯定もしなかった。

 遅れてロンがやってきたのを見て、ハリーはおはようと言いかけ、そして口を閉じる。

 気まずそうにハリーを見たシェーマスが、急ぎ足ですれ違ったからだ。ロンと彼は同室であるため、毎朝こうして顔を合わせる。なかなか辛いものがある。

 さて、こうしてもいられない。

 なにせ今日は、あの曲者という言葉に失礼とさえ思えるほどに一癖も二癖もある教師、ドローレス・アンブリッジが行う闇の魔術に対する防衛術の授業があるのだ。

 気を引き締めて挑まねばなるまい。

 

「んふふっ、みなさんの可愛らしい顔がずらりと並んで、せんせ嬉しいですわん。んふふっ」

 

 気を……引き締めて……。

 

「それじゃ、杖なんてしまって。教科書を開いて、みんなで大きな声を出して読んでみましょう。んふふっ。A、B、Cの発音をしっかりとね。んふふっ、んふふっ」

 

 気が遠くなりそうだ。

 アンブリッジが教科書に指定したのは《防衛術の理論》という本で、予習として夏休みに軽く読んだときはめまいがした。この本は、十歳児以下の魔法族の子供が読む絵本のレベルである。

 ハーマイオニーが困惑していたのを覚えている。仮にもハリーたち五年生はO.W.L.試験を受ける年だというのに、こればかりは看過できない。

 ロックハートが闇の魔術に対する防衛術の授業を受け持っていた時の五年生、七年生はとてつもなくかわいそうだと当時思ったものだが、しかし今年も負けず劣らずひどいものかもしれない。

 

「えっ。どうして、杖をしまうんですか?」

「んっふ。質問は手を挙げてからですよ、ミスター・フィネガン」

 

 甘ったるい声で窘められ、シェーマスは不愉快そうな顔を隠しもせず挙手をする。

 アンブリッジはもったいつけて、教室中へなめまわすような視線を送る。他に手を挙げている生徒がいるかいないかのチェックをしています、と全身を使って表現しているかのようだった。まるでハリーたちを幼児扱いである。

 そうしてようやくアンブリッジに指名されたシェーマスは、嫌味を込めて一字一句同じ言葉で質問を繰り返した。それを聞いたアンブリッジはガマガエルそっくりな顔を醜悪に歪ませて(たぶん笑顔のつもりなのだろう)、答える。

 

「必要ないからです」

 

 ハリーは困惑した。

 

「必要ないって……練習しないと実際に使うときに困るんじゃないですか?」

「質問は手を挙げて、ミスター・ウィーズリー。んふふっふ」

 

 ふと気づけば自分の手に蜘蛛が這っていたかのような表情を浮かべて、ロンが手を挙げてから質問を繰り返す。それに対しても、アンブリッジはにっこりと微笑むだけだ。

 

「必要ないからです。あなた方が実際に闇の魔術に対する防衛術で習う魔法を使う必要など、ありません。なぜなら、この英国は魔法省の手によって恒久的な平和が約束されているからですわん」

「……いや、えっ? そりゃないでしょう。犯罪者に襲われたらどうするんだよ?」

「質問は手を挙げてからッ、ミスター・ウィーズリーっ。そうですね、その時は魔法省が迅速に事件を解決するでしょう。安心して襲われてくださいね、んふふふふっ」

 

 まったくお話にならない。

 闇の魔術が横行して人死にが日常であった時代をたった十数年前に経験しながら、この国の政府はまだそんな悠長なことを言っていられるのかと、驚きを通り過ぎて感心してくる。

 ロンやハーマイオニーのほかにも手が上がった。ハリーはアンブリッジの弛んだ目が、うんざりした色を浮かべたのを見逃さなかった。教師の取る態度ではない。自分は教師ではないと宣言したロックハートだって、教鞭をとっているときは挙手された生徒を鬱陶しそうに見たことなどなかった。

 

「んっんー、あなたは……あー? ミスター?」

「ディーン・トーマス」

「それで、ミスター・トーマス? あなたは何が聞きたいのかしらん?」

「あー、ロンの言う通りじゃないんですか? もし僕たちが犯罪者に襲われるとして、それは安全な方法ではないはずです」

 

 ディーンの言葉に、アンブリッジはにっこりと笑みを浮かべた。

 多分笑みだ。顔全体がくしゃっと醜く歪んだことを笑顔というのならば。

 

「あなたがこの授業中に襲われることなどありません。そうでしょう?」

「いや、ここじゃなくて外にいる時とか」

「手が挙がっていませんよ! ミスター・トーマス!」

 

 唖然としたディーンが黙り込んだのを見て微笑んだアンブリッジは、パーバティが手を挙げているのを見て、発言を許可する。

 パーバティはすかさず声を発した。

 

「パーバティ・パチルです。実際に魔法を使わないというのなら、《闇の魔術に対する防衛術》におけるO.W.L.試験では実技試験がないのですか? こう、実際に試験官がかける呪いを反対呪文で弾くとか」

「理論を十分に理解していれば、魔法が使えないなどという異常事態は起こりえません。それこそスクイブとかでない限りね。例えばそう、あなた方が教わった半獣などはまともではなかったでしょう?」

「ルーピン先生はいい教師でした! 私の苦手だった『妨害呪文』を的確に教えてくれて」

「手が挙がっていませんよ、ミス・パチル」

 

 ぴしゃりと叩き付けた言葉に、パーバティは困惑したまま黙り込んだ。

 こんなもの、もはや授業ではない。受けるだけ時間の無駄である。

 即座に立ち上がって教室を去りたい気持ちを抑えて、ハリーは頭の中で魔法式の計算に勤しむことにした。学生を経験した者ならばほとんどがやったことがあるだろう、不真面目な学生御用達のいわゆる『内職』である。

 ハロルド・ブレオが使っていた、魔力反応光を射出せずに手元に固めて剣として使っていたあの術式。あれは是非ともモノにしたい。ハロルドとはまた必ず命の奪い合いを繰り広げることになることが解っていることから、その対抗手段を編み出さなければ命に関わる。

 

「指をとんとんするのはやめましょうね、ミスター・マルフォイ? わたくしの授業が面白くないのかしらん?」

「はい先生」

 

 アンブリッジの若干苛立った声に見れば、ドラコが非常に憮然とした顔で人差し指を机にとんとん叩きつけて不満を示していた。

 向上心の塊のような彼からしてみれば、このような時間を浪費するだけの時間は腹立たしいのだろう。若干喰い気味にアンブリッジへ返答したドラコは、しかしそれをやめようとはしない。

 マルフォイ家が魔法省に大量の寄付をしているためか、アンブリッジはそれ以上ドラコの行動に対しては言及しなかった。

 

「……、」

 

 スカッとした気持ちでドラコを見ていると、視線に気付いたドラコがこちらを振り向く。

 目と目が合い、互いに小さく頷いた。通じ合った意見は、この授業に受ける価値なし。

 早いところ魔法式の計算をしたほうが有意義だと思ったハリーは、そのまま脳内で計算式を書き換えたりやり直したりといった作業へ戻ろうとする。しかし知らずして、ハリーは油断していた。アンブリッジが意地悪そうな顔で、ハリーの目の前までやってきたのだ。

 

「罰則ですミス・ポッター」

「……は?」

 

 唐突に言われた言葉に、ハリーは目を丸くする。

 確かに頭の中では魔法式を紐解いていたものの、表面上は熱心に教科書を読んでいただけのはずだ。アンブリッジが開心術士で、そしてハリーに気付かれないほどの腕前だというのならば話は別であるが……。

 

「……理由を聞いても?」

「質問は、お手手を、あげて、くださいね、ミス・ポッター? んっふ!」

 

 こいつ殺したろか。

 

「罰則理由は不純異性交遊です」

「……ん? え、あ? は?」

「ミスター・マルフォイに色目を使う視線を送りましたね? 更にその汚らしい髪の毛を揺らすことで寝室へのお誘いをかけましたね? それは風紀を乱す、ふしだらで破廉恥な、ろくでもない行為です。違反です。異端です。なので罰則です」

 

 あんまりな言いがかりの暴言に、グリフィンドール席からどよめきが起きる。スリザリン席からは冷笑も漏れ出た。ハリーは自分の頭の中で、何かが煮えたぎっていくのを理解する。

 ヴォルデモートへの憎悪でエメラルドグリーンからワインレッドへ変色してしまった瞳が、血のようなどす黒い色へ濁っていく感覚をはっきりと感じた。しかしここで怒鳴り散らしては、この女の思うがままだ。

 視界の隅で、ドラコが苦い顔をしているのが目に入った。いじめのだしにされたのだから、プライドの高い彼の事だから非常に不愉快なのだろう。

 無理矢理に感情を抑えたハリーは、無言のまま反応しないことでささやかな仕返しとする。

 満足そうにそれを眺めたアンブリッジは、妙に長い舌で自分の唇をなめあげると、若干上気した声でハリーへと通達する。

 

「罰則は週末の金曜日、わたくしの部屋で行いますわ。内容はその時のお楽しみということに……しておきますわ、ミス・ポッター? んふ。んふふっ、デュフ! フォカヌポゥ!」

 

 寮の談話室に戻ったハリーは、怒りのあまり何もできなかった。

 いま宿題などしようものなら、羊皮紙には魔法式の代わりにアンブリッジへの怨嗟が書かれていたかもしれない。ハーマイオニーがなんとか優しい言葉をかけてなだめてくれるものの、ハリーは恥ずかしいやら悔しいやらでついにはぼろぼろと涙がこぼれてしまう。

 

「なんだよ! 何なんだよあのガマガエルはッ!」

「耐えてくれてありがとうハリー。えらいわ、よく頑張ったわ」

 

 ハーマイオニーの白くやわらかい手が、ハリーの黒髪をさらさらと撫でる。

 不満のある教師などという生易しいレベルではない。あれは本気で生徒を生徒などとは思っていない、出荷される商品でも見るような冷たい目だった。かわいそうだけど明日の朝には卒業していなくなっちゃうのねって感じの!

 ハリーが談話室で散々アンブリッジへの悪態を吐き出していると、その両肩に大きな手が置かれる。振り返れば苦い顔で笑っているウィーズリーの双子であった。

 

「やぁハリー、君のあまーい声が廊下にまで届いていたぜ」

「よぅハリー、ちなみに僕らも君と同類さ。金曜に罰則だ」

 

 へらへらと笑う双子のことを、ハリーはありがたく思った。

 真実がどうか知らないが、この二人ならハリーを慰めるためにわざと罰則を受けることも辞さない性格でる。感謝の気持ちをこめてハグすれば、大げさに有り難がって抱擁を返してくれる。

 ハーマイオニーから借りたハンカチで涙を拭いて、ハリーは思案する。

 あの調子では、まともな授業が出来まい。O.W.L.試験の年にあんなゲテモノを派遣するなど、ファッジもやってくれたものだ。ダンブルドアやハリーへの嫌がらせの為に、同年代すべての魔法使い魔女の人生を台無しにするとは。

 許しがたい愚行である。

 

「ほらハリー、元気出せよ。甘いもんやるよ」

「ああハリー、いつもの笑顔になってくれよ」

 

 そう言ってジョージからもらった飴玉を、礼を言って受け取る。

 包み紙を引っぺがして、期待した目でこちら見るフレッドの口の中へとぶち込んだ。

 

「グワーッ! まるで血液が沸騰してグツグツのシチューになったように暑いィッ!」

「フレッドォォォ! ちくしょうどうして気付いたんだ! ハリーめ、なんて女だ!」

「バーカ! 君たちから受け取った食べ物を素直に食べるもんか! バーカバーカ!」

 

 もだえ苦しむフレッドの顔がどんどん赤く変色していく様を見て、ハリーは自分の直感が正しかったことを確信する。顔から水蒸気を巻き上げてごろごろ転がるフレッドへ罵倒を繰り返すハリーらの姿を見て、談話室の獅子寮生たちが笑い転げる。

 ここまで計算していたかはわからないが、だいぶ気は楽になった。

 ハリーはすっきりとした顔で、フレッドとジョージへ礼を言った。

 

「ありがとう、二人のおかげですっきりしたよ!」

「そう思うなら水をくれ! 水を! フレッドの顔がマーブル模様になっちまった!」

 

 マクゴナガルと出会ったのは、その次の日であった。

 廊下でばったり出会い、紅茶でもどうかとお茶に誘われたのだ。彼女とお茶をするのは一年生の時以来であり、ハリーは喜んでマクゴナガル先生の部屋まで一緒に移動した。

 変身術についての議論を交わして、昨今の魔導理論についての講釈をもらい、何でもない世間話に花を咲かせる。マクゴナガルは厳格な魔女であるが、しかし勉強熱心な生徒にはついつい甘い顔をする性格をしている。それが己の監督するグリフィンドール寮の生徒であればなおさらだ。一番のいい例はハーマイオニーに《逆転時計(タイムターナー)》を貸与した件だろうか。

 ここ最近の話題になった時、マクゴナガルが戸棚からスコーンを取り出しながらハリーに言った。

 

「ポッター。さっそく罰則を受けるそうですね」

「うっ」

 

 おおらかでどんな悪戯でも許すスプラウト先生や、面白い悪戯なら見逃したりもするフリットウィック先生、スリザリン贔屓で他寮からばかり減点するスネイプと違い、マクゴナガル先生はたとえ自寮の生徒であれ容赦なく減点する、厳格で公正な魔女だ。

 いくらアンブリッジが奇妙奇天烈な地獄のガマガエル怪人であろうと、罰則を受けるようなことをしたハリーが悪いとお説教するのかもしれない。お茶を一緒にするくらい仲がよかろうが、先生と生徒という立場に違いはないのだ。

 

「気にしない事です」

「……へっ?」

「ですから、罰則など気にすることでもありません。気楽になさい」

 

 ぽかんとした口を開けて呆けるハリーを、マクゴナガルははしたないと言って注意する。

 見事なナツメグの絵が描かれた皿の上にスコーンが並べられ、彼女が杖を振ると色とりどりのジャムが添えられる。どうぞ、と勧められるままにハリーはスコーンを手に取り、少し迷ってイチジクジャムに付けて口へ入れる。

 どうして罰則を気にするななどという、彼女らしからぬことを言われたのか。いまだに困惑した様子のハリーを見て、紅茶カップとソーサーをテーブルへ静かに置きながら、マクゴナガル入った。

 

「ドローレス・アンブリッジの評判は聞いています。すでに三〇余の生徒へ罰則を言い渡しているようですね」

「そんなに」

「そのうちの一人が貴女です、ポッター。難しいかもしれませんが、あなたは彼女へ罰則を与える口実を作ってはなりません。彼女が何者で、誰に報告しているのか分からない貴女ではないでしょう?」

 

 ハリーは頷いた。

 ファッジへどのような情報を授けているのか、わかったものではないのだ。

 罰則を与えさせる格好の理由を作ってなるものか。

 

「そしてどのような罰則であれ、理不尽と感じる内容であればきちんと報告してください。ないとは思いたいのですが……、体罰といったことをされればの話です」

 

 マクゴナガルが真剣な顔をしてそんなことを言えば、下手な脅しより怖い。

 つまりドローレス・アンブリッジという魔女は見た目に違わず意地悪な性格をしているということになる。教授の裁量によってほとんど自由に生徒へ罰則を与えられるため、彼女の性格を考えれば、たとえ体罰であろうとためらうとは思えない。

 金曜日が恐ろしいなと考えているハリーは、さらにそれよりも胃の痛くなるイベントが木曜日に待っていることを、この時は全く知らなかった。

 

「閉心術」

 

 ねっとりとした声が、ハリーの耳をくすぐる。

 ひと気のない教室でハリーは椅子に座って、げんなりしていた。

 彼女の周りをねっとりじっくり歩くのは、脂っこい髪を撫でつけた鷲鼻の中年男性。

 最近ますます嫌味っぷりに拍車がかかったセブルス・スネイプその人だ。闇の魔術に対する防衛術の教鞭を希望して何年無視されているのだろう、こうなるとダンブルドアはわざとスネイプに対して嫌がらせをしているのではあるまいな。

 ハリーがうんざりしている顔を楽しそうに眺めながら、スネイプは言葉を紡ぐ。

 

「読んで字の如く、心を閉ざす術である。拒絶、無視、虚構、孤高、それらを強固なる鎧として心にまとい、降りかかる災厄といった艱難辛苦を耐え切り人生をより屈強なものへと変ずる……そういった運用がこの魔法の設計思想になっておる」

 

 相変わらず詩人も腹がよじれるような言い回しである。

 ハリーとしては嫌いではないが、多少わかりづらいのは仕方ないかもしれない。

 だって彼はセブルス・スネイプ。それが彼の持ち味なのだ。

 

「不愉快な思考にグリフィンドール一点減点」

「……それが開心術?」

「『先生』を付けたまえポッター、グリフィンドール一点減点」

「開心術で、す、か? 先生」

「グリフィンドール一点減点」

 

 減点すればスネイプらしいというわけではないが、もう理不尽さを通り越して感心さえする。これぞスネイプ節である。ウィーズリー兄弟や他のいたずら小僧と比べるとまだ対応に温情を感じるが、まぁこんなものだろう。

 スネイプとの課外授業はほとんど二年ぶりになる。去年はそのようなことをしている暇はなく、一昨年はルーピンがいたためその頻度はかなり少なかった。懐かしい気分になりながら、ハリーはスネイプの講釈を大人しくメモ帳に書き留める。

 

「他者を受け入れたい、理解してもらいたい、といった依存心。まぁいいだろう、こんなものだろう、という堕落した心。これらを持つ魔法族が閉心術を身に着けるのは……そう、目隠しをして魔法薬を作るようなものだ」

「……つまり、何が起きるかわからない?」

「その通りだポッター」

 

 閉心術とは、もとは魔導心理の天秤と同じく思考術のひとつであったという。

 四世紀半ばごろにローマの魔法戦士が編み出した考え方が原型で、他者へ心を許さないことで動揺を減らし心の平坦さを保つ方法。感情を参照する魔法においては極端に起伏が多いと失敗につながることが多いため、心を平坦に、凪いだ海のような静けさを手に入れる必要がある。そうして編み出されたのが閉心術だ。

 これを会得した術士は精神系の魔法攻撃への強力な耐性を得るため、戦場において相手に思考を気取らせない強力な魔法使いとして恐れられたのだという。

 しかしこの魔法も例にもれず時代の推移と共に意味が変化し、閉心術の対となる開心術が開発されてからはそれの反対呪文という見方が強くなった。むしろ元は思考術であったことを知らない者の方がほとんどだ。

 開心術は文字通り閉心術とは真逆の呪文であり、相手の心をこじ開けて記憶や感情を読み取るという最上級のピーピング魔法である。これを掛けられた場合、現代では閉心術を習得していない者では防ぐのが非常に困難である。

 

「校長はこれを会得するのが吉とお考えのようだ。闇の帝王と貴様の繋がりは、我輩もよく知っている。造られた存在であるおまえの心には、いまだ未知数の部分が多々ある。よって、帝王の仕込んだ何かがポッターめの精神を支配することがないよう……、と。そうお考えなのであろう」

「……ひょっとして、奴に肉体を乗っ取られることもあるってことですか?」

「それをさせない為の、我輩の課外授業だ」

 

 スネイプは懐から出した杖を左手でそっとなでる。

 ぱちぱちと紫の火花がはじけ、それをうっとりと眺めるスネイプは無気味であった。

 

「閉心術の体得には、実践するのが一番早い。ゆえに我輩は仕方なく、本当に仕方なく開心術をポッターめにかけることになる。なに、怪我はするまい。心をこじ開け古傷を抉り、ほんの少しの塩をすり込むだけだ」

「ちくしょうダンブルドアの野郎、覚えてろよ」

 

 そらスネイプも嬉々として教えるわ。

 にんまりと微笑む彼を見て、ハリーはこの場から走って逃げるかどうかを検討する。

 しかしその思考を見抜いたのか、スネイプは杖を振ると唯一の出入り口である木製の扉を吹き飛ばし、壁と壁の材質を手繰り寄せて新たな壁を捏ね上げた。これで完全な密室の出来上がりである。

 あらゆる意味で身の危険を感じる。

 

「では早速開始する。心配はいらん。何を見たところで、言いふらしたりはしない」

「あー、ちょっと待ってくださいスネイプ先生。これでもぼくだって乙女であるからして、見ちゃいけない記憶だって多々あると思うんですけど、そこら辺どうお考えで?」

「『レジリメンス』、開心!」

 

 スネイプが杖を構えて呪文を叫ぶ。

 質問など聞こえなかったかのようだ。ダンブルドア、ここらへんどうお考えですか。

 魔力反応光が着弾する前に防いでやろうと目を見開いて注視したものの、しかし『開心術』は魔力反応光の出ない特殊な部類に入る魔法であり、結果としてハリーはいつ自分がその魔法にかかったのかも自覚しないまま開心術を無防備に受けてしまった。

 無理矢理網膜に投影されるかのように、ハリーの記憶が脳裏を駆け巡る。

 幼いダドリーがハリーの離乳食を奪い取り、ついでとばかりに頬を引っぱたいた記憶。

 ダドリーのお下がりを着せられた上に髪を剃られて坊主頭の恥ずかしさに泣いた記憶。

 ハリー狩りに興じるダドリー軍団のせいで胃の中身を戻し、すべてをあきらめた記憶。

 バーノンやペチュニアによるジェームズとリリーの悪評を信じ、両親を憎悪した記憶。

 世界の何もかもがどうでもよくて、いつか唐突に全て滅んでしまえと願っていた記憶。

 そしてある誕生日に初めて友好的な話をして、野生へと帰って行った蛇の友達の記憶。

 氷のように冷えた心にほんの少しの温かみが戻った瞬間、ハリーは過ぎ行く記憶の中からスネイプの顔が生えてきた光景を目にする。気が付けば、風景はすでに空き教室の中へと戻っていた。

 

「っくぁあ! ……はぁっ、はぁっ、はぁ……」

「……ふん、ポッター。心を開きすぎだ」

 

 そう言って杖をくるくるもてあそぶスネイプの顔は、意外と晴れやかではなかった。

 まあ自分も吐き気がするような記憶であるため、それを覗き見たスネイプとていい気はしないだろうと結論付けてハリーは袖で額の汗をぬぐう。

 そろそろ冬になるというのに、あまりにも暑すぎる。ハリーはネクタイを緩め、ブラウスのボタンをいくつか外すことで服の中の換気を行う。あまりにも気持ち悪い。

 

「闇の帝王はハリー・ポッターの代替品(ハリエット)としてお前を造り上げる際に、自らの精神性を植え付けた。つまるところポッター、貴様の魔法的資質は当時の帝王と同等なのだ。ゆえに閉心術と開心術を得意中の得意としていたかの王のように、おまえもまた息を吸うがごとく心を閉ざす適性を持っているはずなのだ」

「でも、やったことがないんだから……、感覚は分からないですよ」

「だからそれを体験しようというのだ。『レジリメンス』!」

 

 ほとんど不意打ちである。

 今度はハリーも盾の呪文で防ごうとしたものの、それを予想していたのか事前に無言呪文で唱え終えていたスネイプによる妨害に逢い、盾の生成に失敗した。つまり、開心術の直撃である。

 アンブリッジの裁判における甲高い笑い声とダンブルドアへの嘲笑による不快感。

 アンブリッジの日常生活における奇妙奇天烈な言動と行動の奇異さによる不気味感。

 アンブリッジの生態と好んで狩りをする獲物の種類と貴重な産卵シーンのダイジェスト。

 アンブリッジの授業で罰則を言い渡す嬉々とした笑顔のハエトリグサ咲き乱れるドアップ。

 アンブリッジアンブリッジアンブリッジアンブリッジアンブリッジフィーバーだぜワァオ!

 

「待てポッター」

「はァッ! っはあ、はあ……な、なんです……?」

 

 不愉快で吐き気のする記憶の羅列が終わると、スネイプが顔中の穴という穴に苦虫を突っ込んでじっくりと歯ですりつぶしたような顔をして立っていた。

 いったい何なのか……、ぐるぐると気持ち悪い頭を押さえながら、ハリーは息を整えつつスネイプを見上げる。心底不安そうな声でこう言われ、本日の課外授業は終了した。

 

「医務室で頭を診てもらえ」

 

 

「ンフフッ! ドゥフッ! ぐふふ……」

 

 ハリーは教授の部屋に入るか入るまいか、数秒間を使って頭をフル回転させていた。

 闇の魔術に対する防衛術の教授たちは、教室の奥にある螺旋階段を上った先に個人の部屋を持つことが許されている。リーマス・ルーピン先生の時はよくお茶などのお世話になったし、昨年のムーディもといバーティ・ジュニア先生の際には恐ろしい目にもあった。そして今年、ドローレス・アンブリッジ先生の番になると、なんかドアの先からキモい鳴き声が聞こえてくるのだ。

 昨日のスネイプの言葉に従って本当に医務室へ行った方がよかったかもしれない。

 もうこれ帰っていいんじゃないかな。

 

「お入りなさい、ミス・ポッター。ンフッ」

 

 奇妙な鳴き声と共に、魔法でドアが開かれる。

 そして自動でドアが開かれた先には、ピンクの怪物が鎮座していた。

 賢者の石の試練や六校対抗試合の試練をもう一度受けた方がマシだとさえ思える状況に、ハリーは生唾を呑み込む。意を決して部屋に入れば、壁一面に猫の写真がプリントされたお皿が飾り付けられていた。魔法界製であるため当然のように動き、にゃあにゃあと鳴き声さえ発している。

 気が狂いそうだ……。

 

「さぁてミス・ポッター。罰則の、お・じ・か・ん、ですわよん。ぬっふ! じゅるり!」

 

 どこかで人生の選択肢をファンブルしてしまったかもしれない。

 がりがりと心のどこかが削られていくのを感じながら、ハリーは後ろでドアが閉まった音を聞いて絶望感に苛まれる。この部屋に呼ばれたことだけで、もう罰則としては十分であると言えよう。

 げんなりしながら、ハリーはアンブリッジに勧められるまま椅子に座った。

 

「さ、お紅茶をお飲みになって」

「は?」

「罰則だけするなんてのも、いささかつまらないでしょう? 女の子同士、お茶でもしながらJOSHIKAIしましょうっ。ぬふっふ、んひゅふふ」

 

 そう言ってアンブリッジは、既に用意しておいたらしきティーポットからカップへ紅茶を注ぐ。いいにおいがする。顔に似合わず、茶葉はかなり良いものを使っているらしい。

 しかしこう、なんといえばいいのか。あまりにも怪しすぎる。

 無理矢理な言いがかりで罰則を与え、かおかつ茶を出して和めとは是如何に。そしてアンブリッジはまずファッジの命令でホグワーツへ来ており、ファッジの欲しいものとはすなわちダンブルドアの不利になる情報である。そしてこのお茶会(ごうもん)と来たものだ。

 紅茶に何が混入されているかは、もう言わずともわかろうものだ。

 

「んじゃこちらを頂きます」

「だめよ、あなたのはこっち」

 

 わざとアンブリッジ側に置かれたティーカップへ手を伸ばしたものの、アンブリッジがハエを仕留めるカエルを思わせる動きで手前側のカップを押し付けてきた。

 はいオクスリ確定です。

 こういった展開の場合、植木鉢の中に紅茶を投げ捨てるのがお約束なのだが、アンブリッジはにやにや笑いを浮かべたままこちらを凝視して視線を外さない。

 

「だめよドローレス。だめよ……まだ笑うな……し、しかし……」

 

 何やらぶつぶつ言いながら熱心にハリーを見つめてくるガマガエルがいる以上、紅茶を捨て去ることはできない。ならばどうすればいいのか。

 ハリーは悩んだ。自白剤ならまだしも、下手したら《真実薬(ベリタセラム)》などを使ってきたところでおかしくない。形だけの裁判を執り行って法律を好き勝手にいじるまでに堕ちた男の使いだ、なにをやったところで不思議ではないと思った方がいいだろう。

 アンブリッジが業を煮やしたように、苛立った声をかけてくる。

 

「あらん、どうしたのかしらミス・ポッター。よもや私の入れたお紅茶が飲めないと?」

「……別に、そういうわけでは」

「じゃあ堅苦しいことはなしですわ。お茶でも飲んで……話でもしようや……」

 

 んねっとりとした笑みを浮かべたアンブリッジに悪寒を覚えながら、ハリーは天啓を得る。

 心の中で神に感謝を述べながらハリーは左手の袖口に仕込んだ杖をローブの下で握り、無言呪文を唱える。紅茶自体に細工するのはきっと、無駄だろう。アンブリッジは奇妙奇天烈な女……たぶん女だろう……奇妙奇天烈な生物でも、魔法省の役人だ。ハリーたちがいま苦労しているO.W.L.(ふくろう)試験はもちろん、N.E.W.T.(いもり)試験においても優秀な成績を修めているはずだ。

 現に魔眼を用いて視てみれば、紅茶には何らかの呪文が走っている。こちらからの干渉を受け付けない予感がするのは、間違ってはいないだろう。

 だから取るべき手段は、これで合っているはず。

 意を決してグイイーッと紅茶を煽ったハリーは、空になった紅茶をソーサーに戻す。

 

「飲んだッ! 第五巻完!」

 

 その姿を見た瞬間、アンブリッジは満面の笑みで叫ぶ。

 はやる気持ちを抑えきれなくなった彼女は、息せき切ってハリーに問いを投げた。

 

「ダンブルドアの弱点はなんですのッ!? 彼の弱みは! 答えなさい!」

「……、」

 

 案の定だ。自白剤か、真実薬か。何にせよ生徒に使うようなものではない。

 ハリーは辟易しながら、唾をまき散らして情報を得ようとするアンブリッジを見る。

 不愉快な奴である。ハリーは気持ち悪いものを見る表情を隠しもせず、適当なことを言った。

 

「早くお答えなさい! ダンブルドアの、ファッジの敵たる者のウィークポイントは!」

「ダンブルドアは饅頭が怖い。甘いモノ全般を心底恐ろしいと思っている」

 

 アンブリッジはがりがりと羽ペンを動かし、ハリーの言ったことをメモしている。

 笑いをこらえながら、ハリーは続けて叫ばれた疑問にも答えてやることにした。

 

「具体的にッ! 彼が食べたら失神して粗相しそうなくらい嫌いな甘味はなに!」

「レモンキャンデーを見ると引きつけを起こす。あとは、そう、チョコレート系のお菓子には怯えてひっくり返ると聞いたことがある。糖尿病だからね」

 

 甲高い笑い声を漏らしながら、アンブリッジは血走った目で羊皮紙へお菓子の名前を書き連ねた。大真面目にこんなことをしているのだから、このガマガエルは救いようがない。

 たとえ紅茶に混ぜ物をしていたとしても無駄だ。

 ハリーは変身術を用いて、自分の歯をクラゲに変えたのだ。なぜそんな発想が出来たかはわからないが、同じ生物から生物への《変身》であるため、そこまで大がかりな魔法を必要としいなかったのが幸いだ。水分を吸い取ることのできるクラゲならば、紅茶を吸い出すには適役だろう。

 トロールの首を取ったような顔をしたアンブリッジを見ていると、これらの甘味を突きつけられた時のダンブルドアの顔を想像するともう笑いが止まらない。笑ってはいけないぞハリー、今はまだ駄目だ。我慢するのだ。

 そうして最後にアンブリッジは、デスクの中から一本の羽ペンを取り出してハリーへ手渡した。にんまりとした笑みで、彼女はのたまう。

 

「この隅っこにあなたのサインをちょうだい。あなたが、ダンブルドアの弱みを吐き出したと、そういう証拠にする為ですわん」

「はい先生」

 

 どうしようもないなと思いながら、ハリーはインク壺を探す。

 文明の利器たるボールペンなどと違って、羽ペンはインクを吸い出してから書く筆記用具だ。どうしたものかとアンブリッジの顔を見上げれば、彼女は悪鬼のような笑みを崩さずに言う。

 

「その羽ペンはね、インクはいらないの」

 

 まあ魔法界製ならそういうのもあるか、と思ったハリーは疑問を持たず羊皮紙へ自分の名前をサインする。赤いインクが出てきた。ハリエット・リリー・ポッター。そう綴り終えた途端、ハリーは胸に鋭い痛みを感じた。

 驚いて羽ペンを取り落すハリーを無視して、アンブリッジは大笑いしながら出かける準備をしはじめた。ゴスロリ調のローブを着込んだ彼女は、ほほえみを浮かべて言う。

 

「今日はこれで帰ってよろしいですわ、ミス・ポッター。んふふっ、にゅふ! もう悪いことをしては、いけませんよ。純血の男子へ色目を使うなど、分不相応なことです」

 

 異様な痛みだ。

 なにか精神的なものではない。物理的に痛みが走っている。

 ハリーが苦しんでいるのを見てか、アンブリッジはその昏い笑みを深く闇に染めて嗤う。

 

「その痛みを思い出すたび態度を改め……次の罰則がないことを、祈っておりますわん」

 

 そう締めくくり、アンブリッジはハリーを部屋から追い出した。

 螺旋階段を降りながら、ハリーは杖を振ってクラゲと化した自分の歯を元に戻す。紅茶を吸い込んでしまったために若干茶色くなっただろうが、そこは後でどうにでも治せる。

 ハリーは緩めたままの自分のブラウスを見て、痛みの正体に気付く。

 毎日洗濯されて清潔な白だったブラウスが、少しだけ赤く染まっている。

 

「これは……」

 

 ブラウスのボタンをはずして、肌を見てみる。

 右胸に、薄らと文字が浮かんでいた。《ハリエット・リリー・ポッター》。自分の名前だ。ハリーはこの文字に見覚えがあった。当然ながら、つい数分前に羊皮紙へ署名した……自分の書いた文字だ。

 よもやあの羽ペンは、使用者の血を吸い出して書くものだったのか。

 これはなんというかやりすぎだ。

 見る見るうちに傷が癒え、胸に刻まれた文字は跡形もなく消え去る。しかしこの拷問をこれから一年間、何度も受け続ければきっと治りも遅くなり、痕が残ることだろう。自分のスタイルにはあまり関心を持ったことはないが、乳房に自分の名前を刻んでいるような阿呆にはなりたくないし、そんな一生を送るのはごめんだ。

 

「……くそったれめ」

 

 胸を押さえ、悪態を漏らす。

 ドローレス・アンブリッジ。見た目以上に邪悪な魔法生物かもしれない。

 ハリーはガマガエルの部屋を睨み付け、苛立たしげにグリフィンドール寮への道を歩く。

 早急に何らかの対策を考える必要がある。やはりホグワーツにいる限り、厄介ごとからは逃れられそうにない。痛む胸を押さえながら、ハリーは苦々しい表情を浮かべるのだった。

 




【変更点】
・女子監督生がハーマイオニーなのは当然のこと。嫉妬はなし。
・アンブリッジの理不尽さレベルアップ。
・『閉心術』を学ぶ時期の変更。ダンブルドアの手が早い。
・罰則で刻まれる場所の変更。より屈辱的で嫌らしい場所に。

みんな大好きアンブリッジの授業です。
やる意味を感じられない授業ほど苦痛を感じるものはない……。大人になればあの時間も意味のあることだと分かるものですが、子供であるハリー達にはわからないことでしょう。しかも真実意味のない授業ですので、彼女らの不満も鰻登りである。
嗚呼、アンブリッジの挿絵を描く気力がわきませんね……。

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